第2話

 家を出る二時間前に目覚ましをかけ、アラームが鳴る二分前に起きられると調子がいい。寝転んだまま腕を頭の上にあげ、指の先までぐーっと伸ばす。その状態で数秒間息を止めてから、手足を弛緩すると何とも言いがたい脱力感が全身を駆ける。ベッドから起き上がって、昨日アイロンを掛ておいた糊のきいたワイシャツを手に取り袖を通すと、カーテンで締め切った窓からジージーと蝉の声が聞こえてきた。

 まだ六月だというのに、随分と早く地上に出てしまったようだ。最近は夏日のように三十度近くまで気温が上がるので、勘違いしてしまっても仕方ないだろう。しかし、命の猶予の短い彼からしたらたまったものではない。

 鏡を見て髪を撫で付け、ネクタイを調整する。なかなか上手く決まらない。まあこんなもんかと早々に諦め、階段を下りると母さんが台所に向かっていた。

「おはよう」

 降りてきた音で気付いたのか、フライパンの中で器用に卵を巻きながら声をかけてくる。辛党の父さんがいくら文句を言っても、甘党の母さんは甘い卵焼きを作り続けている。これだけは譲れないらしい。

「おはよう」

 リビングの机の上に常備された小型テレビからは朝のニュース番組が流れている。幼いころは、父さんがテレビを見ながら食事をすることを酷く嫌っていたため、食事中に天気を見ることも叶わなかった。しかし、今ではむしろ催促する側で、テレビのリモコンを常に手の届く範囲に置いている。年を取りルールが寛容になるにつれ丸みを帯びていく父さんに昔ほどの脅威を感じない。

 目の前に映る女性アナウンサーが天気を伝えている。

「今日も午後から雨だね」

 偏頭痛持ちは、気候が変わりやすいこの季節が苦手だ。母さんが額に手を当てている姿をよく見かける。

「今日はお母さん遅くなるから、適当にごはん食べといてね」

「分かった。傘持って行きなよ」

「そうね。忘れないようにしないと」

 今週も傘マークがずらりと並んでいる。しばらくは太陽を拝めないようだ。

「また暫くお洗濯を外に干せないのね」

 すぐにこの嘆きが聞き入れられることはなく、もう暫く湿っぽい少し鼻を刺す臭いが服やタオルからするのだろう。ガチャッと玄関の開く音がした後、父さんが新聞を片手に現れる。

「おはよう。洗濯回しといたから」

「おはようございます。いつもありがとう」

「おはよう」

 父さんは、家事をそれなりにこなす質だ。率先的に家事をするわけではないが、気付くと手伝っていることが多い。勤勉で質素を形にしたような人間だ。

「今日は遅くなりますので、お父さんも夕ご飯を適当に食べてね」

「わかった」

 母さんが同じように伝達事項を伝え、それに返事すると、徐にこちらを向いて、いつもの一言を掛けてくる。

「お前、最近仕事どうだ?」

「別に普通だけど」

「そうか」

 父さんは、たまに僕の仕事の動向を気にする。そして、どんな返事をしようと決まって「そうか」とだけ答える。どんなに長い言葉を返したとしてもだ。何時しか僕の返事も決まり文句になっていて、業務連絡より簡潔である。チラリと父さんを見るとすでに興味は新聞に移ったようだ。

「できたよ」

 母さんが皿に卵焼きとウインナーを盛る。白米と味噌汁、最後にヨーグルトも並べて食べ始める。母さんは和洋折衷が得意だ。

「あ! かわいい。私の時もこんなだったらよかったのにー」

 急に母さんがテレビの画面を指差す。『現代の結婚式に迫る』という主旨のコーナーで、モデルの女性と芸人がウェディングドレスを試着している。ジューンブライド。そういえばそんな言葉も流行っていた。六月の花嫁は幸せになれる。迷信もいいとこだろう。

「結婚式ってやっぱいいわよね」

 一人だけで盛り上がり、「いいなー。いいなー」と食事もせず、食い入るように見ている。僕と父さんは無反応を決め込む。

「忠は最近どうなの?」

 母さんは、頻繁に僕の恋愛沙汰を気にする。その時、父さんが新聞の文字を追いながらも、聞き耳を立てているのも知っている。その証拠に、目が新聞の同じ場所を何回もなぞっている。内容はまるで頭に入っていないだろう。

「どうって? 何もないけど」

「そうなのー?」

 語尾が上り、やや訝しげにこちらを見る。いくら否定しても、必ず疑うのを忘れない。

「そろそろいい年なんだから。三十になったでしょ。それにお母さんね、あなたには本当幸せになってほしいのよ。結婚して家族を持って」

 そのまま、母さんの結婚講座が始まる。母さんはこの手の話がかなり得意で、一度始まるとしばらく止まらない。

「そういうものだから。お父さんもそう思うでしょ」

 時々賛同を強要しながら講座は続いていく。父さんは優等生よろしく一言一言に頷き、反応を返している。しかし、一見真面目に聞いているようだが、先程とは打って変わって目は確実に新聞の文字を追っている。

 主題であるはずの僕は蚊帳の外だ。『何か』が少し浮いて腹のなかをぐるぐると回りだす。

「――だから、幸せになってほしいの」

 一際、母さんの声が大きくなり更に力が込められて、父の頭の上下運動も少し大きくなる。

「本当、幸せになってね。孫を早くみたいわ」

母さんはにこにこと音が出そうなくらい、嬉しそうに笑う。ふと、「結婚の決めては?」と聞いた僕に「笑顔が可愛いから」ともごもご言っていた父さんを思い出す。

 母さんは幸せになってほしいと僕に事あるごとに言った。もちろん、その言葉に他意はない。本当にそう想ってくれていることは充分伝わっている。けれど、耳から身体の中に入ってくるその一言は、まるで獲物を締め付ける大蛇のように、ゆっくりと確実に僕の息の根を止めようとしていく。

 呼吸が上手く出来なくなり途方に暮れる僕は、今までの事を思い出し、その人生が本当に幸せではなかったのか考える。親が子の幸せを願うというのはおかしなことではないが、どうしてもこの一言は僕を殺したいようだ。

 『何か』が思考のまどろみの中で訴える。それは喉から今にも零れそうになるが、口からは何も出てこなかった。


「それじゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 外に踏み出し見上げた空は、雲が隙間なく埋まり白く塗りつぶされている。じっと見ると意外に眩しく、自然と目が細くなった。今のところ雨の気配はない。電車の発車時刻三十分前であることを腕時計で確認してから駅へと向かう。歩き出してすぐ、昨日より蒸し暑いことに気づく。

「ふう、暑い」

 思わず口に出た言葉で、さらに暑さが増した。ジャケットの内側に入れておいたハンカチで額を拭うと、じっとりとした感触がそれ越しに伝わり、思わず顔をしかめる。まとわりつような空気が、息苦しさを感じさせ、ただでさえ遅い僕の歩みを更に遅くする。

「あつっ」

口に出してはいけないと思いながらも止まらない。鼻呼吸ではままならなくなり、口を大きく開けて生温い空気を吸い込み、代わりに不平不満を吐く。

 暑さに挫けながら、それでもめげずに目的地に向かって歩いていると、急に右脇腹に何かがぶつかる。すれ違ったサラリーマンの角ばった鞄が当たったようだった。確信できないのは、その人が僕に一瞥もくれず歩いていき、もう片手で摘まめるくらい遠くにいるからだ。

『何か』がモヤモヤと灰色の気体になり、腹から頭めがけて侵略を始める。道行く人々は一心不乱に目的地に向かって、迷うことなく前に進んでいく。僕だけ足並みが揃っていない。周りとは見えない壁で隔離されているようだ。灰色の気体から灰色の雨になって身体中に『何か』が降り注ぐ。

 どうせならと更に歩みを遅くしてみると、どんどんと周りに抜かれていき、時より覗き込んできて精神状態を確認する人までいる。僕の歩みは周囲を困惑させるようだ。それでも歩みを崩さず、ゆっくりと足を進める。

 ふと、前を見ると、僕と同じように世間の流れから外れて歩く女性が、目に留まる。黒いスーツを着て、黒い大きな鞄を重たそうに持つ就職活動生の様相が新鮮味を持たせている。彼女は目的地に磁石があって反発しているかのように、左右に目線を流しながら、なかなか前に進まない。しばらくの間、彼女の動きを目で追う。しかし、歩みの遅い僕は彼女に追いつくことはなく、彼女は彼女の歩みで駅に吸い込まれていった。一足遅れて駅に着くも彼女の姿はどこにもない。


 大学卒業以来席を置いている会社は、一部上場企業でそれなりに成績も良く、業界で知らない人はいないほどの規模らしい。断定できないのは、社長がよくそんなことを言っているが、僕の給料が入社当初からあまり変わっていないからだ。しかし、入社七年目と入社したてで何か変わったことがあるのかと問われれば、答えに窮するだろう。文句は言えないはずだ。

 社風としては、部署に関係なく意見が言いやすく、皆気さくである。気さく、アットホームという言葉は会社に対して使うと、急に胡散臭さを醸し出し、どちらかと言うと悪いイメージへいってしまうので表現が難しいのだが、どこの会社でもイメージなど大抵そうだろう。それに、気さくさと馴れ馴れしさは紙一重で、どうとられるかは相手次第だ。結局、入ってみなければ内情は知れない。

 六つある部署の中で総務部は僕にとって鬼門である。あの人たちは、いつ仕事をしているのかと思うくらい話好きであり、口を閉じている所を見たことがない。もしかしたら簡易的な会議なのかもしれないが、他部署からおしゃべり部と言われているくらいだからそうなのだろう。

 総務部は会社一階入り口の近くにあるため、絶対にその前を通らなければ、自分の机へ行けない。僕が通ると決まって近藤朱美が駆け寄ってくる。彼女は三年前入社した際、研修を受け持った人物でその後も慕ってくれている。それは構わないのだが、それを遠巻きに見ている仲間内の視線が居たたまれない。近藤さんの話が終わると、他の人が僕を品定めしているかのように近づく。女性は往々に話好きであるという偏見を決定づける人たちである。生返事を返しながら、最終的に「時間なんで、すいません」と言ってその場から逃げるのが精いっぱいだ。

 そこからエレベーターを通りすぎ階段へ向かう。配属部署は五階だが、運動のためにと階段で毎朝登っていく。それもあってか、席に着くときには何か重要な業務をこなしたかのような充実感すらある。自分の席に座りパソコンの電源を入れ、深呼吸をしてから少し乱れた息を整える。パソコンが立ち上がるまでの間、机の上にある連絡事項をざっと確認する。今日のメモは二枚だ。


『課長より、今後のことで話がありますので、本日十三時に第三作戦会議室に来て下さい。仕事上、都合がつかない場合は早急連絡を』


『総務部より、六月十四日に発注を受けました部品が六月二十六日に入荷します。ご確認下さい』


 誰でも簡単に使えるアプリケーションや社内伝達用のチャットソフトが導入されている昨今でも、アナログ派がやはり一定数いる。書くことを否定するつもりはないが、相手の机まで持っていかなければならないことは、効率が悪く時代に即していないと思ってしまう。ついた画面に目を向けると、豆電球のマークがチカチカと通知を知らせている。チャットを開くと全社員に宛てた知らせがきていた。


『歓迎会のお知らせ 皆様お疲れ様です。四月に十五名、そして中途半端な時期ではありますが今回六名の新しい仲間が入社しました。つきましては、歓迎会を開きたいと考えております。日時は追って連絡します。よろしくお願い致します』


 最近、採用人数が増加傾向にあり、さらに、働き方改革うんぬんで社内コミュニケーションをやたら取り入れだしたようだ。本来あるべき姿をとろうという取り組みだろうが、どうしてなかなかやりにくい。これまでで慣れてしまった僕は、また更新作業に追われてしまう。

「皆さん。少し手を止めて注目してください」

 聞きなれた甲高い声が部署全体に響く。パソコンから目をあげると、主任が黒いスーツを着た女性と並んで立ち、几帳面そうに眼鏡を上げる。

「今日から中途採用で入社した方です。配属は販売部になります。じゃあ、軽く、挨拶お願いします」

 軽くを強調してその場を彼女に譲る。主任は以前入社した男性が挨拶周りの時、それぞれの部署で三十分近く話したせいで定時にあがれなかったことをまだ根に持っているらしい。娘の誕生日だったから当然と言えば当然か。

 紹介された女性は促され半歩前に出て、軽く頭を下げる。

「渡辺香織と申します。何かとご迷惑をかけてしまうかと思いますが、精一杯頑張っていきます。どうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します」

 パラパラと不揃いな拍手が部屋に響く。特に主任から他の知らせがないと分かると、皆パソコンに目を戻し作業を再開する。しかし、何故だか僕は暫く渡辺さんを見ていた。

 緊張しているのか、笑顔がぎこちない。『何か』がグッと収縮して、腹の丁度真ん中に浮いている。それからだんだん熱を帯びていき身体まで熱くする。

 主任が何か説明しているのを、彼女は熱心に聞いている。しばらくすると、他の部署にも挨拶をしに行くようで、主任の後をついて出て行った。そこまで見送ってからパソコンに向き直る。


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