僕と彼女と幸福論

温木みすず

第1話

 日曜の昼下がり、眠気を誘う落ち着いた声が画面の中から聞こえてくる。白髪交じりの髪を七対三に分けた初老のアナウンサーがこちらにお辞儀をした。普段なら流してしまうような番組を、今日に限っては妙に気になって、チャンネルもそのまま彼の動向を見守る。

「では、本日議論に参加して下さる皆さんです」

 アナウンサーの伸ばした腕の先に、カメラが動いていく。丸いテーブルに座る五人が映し出された。老若男女で、統一性は感じられない。テーブルの真ん中には、『幸福とは』と書かれた垂れ幕が仰々しげに掲げられている。

「今回のテーマは幸福です」

 垂れ幕に寄ったカメラから画面が切り替わり、アナウンサーをまた映す。

「街の皆さんの考えを聞かせてください。そして、是非、テレビの前の皆さんもご自分の考えを持って、ご家族やご友人と議論してください」

 専門家ではなく一般人同士で議論することがこの番組の売りらしい。アナウンサーのその一声だけで、特に進行や台本等はなく、本当に素人に投げっぱなしのようだ。これを考えたディレクターは相当頭が良いのかもしれない。来週にも違う番組をしていそうである。

 それでも街角議論なる番組に参加しようという意思を持つ五人であるので、催促せずとも口を開き、早くも白熱した話し合いを繰り広げている。

「幸福でありたいという信念が、その人に幸福をもたらすのです」

「それは些か漠然としすぎではないですか?」

「私は、現実的に三大欲求が満たされていることですかね。つまり、睡眠欲、食欲、性欲が満たされた状態。これが幸福です」

「そうですね。けどまあ、欲っていうのはもっとたくさんありますし、知識欲とか、承認欲求とか。全てが満たされればあるいは」

「私は、難しいことは分かりませんが、結婚をして子供を作り、家族となることが幸せです。私が実際にそうですから」

「それはあまりに、短絡的な考え方ではないですか?」

「結婚したって不幸な人はいます。現に離婚している人は多いじゃないですか。一概には言えないですね」

「まあ、結婚が悪いわけではないですが、やはり、幸福とは安定でしょう。経済的な安定。立場的な安定。精神的な安定。これらが揃えば未来は安泰です」

「私は一番に精神の自立をあげます。いくら安定を求めても、その安定が外的要因で突然崩れることはあります。自分の力でどうしようもない時、精神の自立があればその逆境でさえ、乗り越えることができます」

「確かに、そうすればアスリートのように負けでさえ自身の糧となり、幸福を勝ち得るのですね」

「いや、そんな大それたことではなく、今ある小さな幸せを知ることが出来れば、それでいいと思います。皆生きている、それだけで奇跡。つまり、幸せです」

「そうですね。私も自分で満たされていると感じれば幸せだと思います」

「それは、『幸福とは』という議題に対する答えにならないのでは?」

「じゃあ、あなたはどうお考えですか?」

「正直、こんなことをいくら言い合っていても、幸福なんて人それぞれなんだから、この議論自体が無意味なのではないですか?」

 よくある議論番組同様、明確な答えを出さずして、意見がまとまりきらずに放送時間が終了した。議論自体に意味がないと否定することも、知らない意見を知り幸福への道筋が見えたと肯定することも、自分に置き換えて考えることに意味があると代替え案を出すことも僕にはできなかった。誰の言葉も共感することはできなかった。

「あなたは幸福をどこに見いだしますか?」

 アナウンサーが最後にカメラに向けて問いかけた言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。

 今、僕は幸せなのだろうか。その疑問の答えをずっと探している。


「千崎忠くん」と先生に呼ばれれば、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、「はい」と答えるような子供だった。

 家族は父と母の二人だけで、子供の頃、それ以外の大人は皆同じ顔に見えた。一人っ子で近所に同じくらいの年の子供はいなかったが、学校に通うようになってしまえば自然と友人は出来たほうで、別段寂しかったという思い出はない。

 小学校に通うようになると、決まって塩見翔也が隣にいた。彼は先生に呼ばれると「はいっ!」と手を上げて、元気に答えるような子供で、休み時間になると何人かが彼を囲んでいた。僕が教室の隅で本を読み、その世界に浸っているところを、あの囲いをどう抜け出したのか、塩見が邪魔をしてくるのがパターンだった。性格はまるで正反対だったが、それでも何故か一緒にいた。

 ただ、塩見が感じていることを同じように感じることが、時々難しかった。塩見が楽しそうに笑う時、僕はその笑顔を眺めていた。彼が笑えよと悪戯に僕の頬を引っ張ることもあったが、楽しいという意味が分からなかった。

 僕の中には感情と呼べるものがほとんどなかった。


 小学生低学年の頃、学校には皆給食を食べに来ているようなもので、その内容がその日のコンディションを大きく左右した。ハンバーグや焼きそばは人気が高く、それらがでる日は朝からその話題で持ち切りだった。休み時間の度に「給食まであと何時間だね」と何度も時計を確認しながら、友人と話をした。極めつけには、その日の配膳係には下手にでて、如何にして自分の取り分を増やすかに注視した。

 逆に、最も不人気なグリンピースごはん(炊いた米にグリンピースがごろごろと大量に混ぜられ、絶妙な塩気がきいたごはん)がでる日は、朝から教室には暗雲が立ち込め、給食についての無駄口は一切叩かず、いや、むしろ口に出すことさえ恐れていた。給食時には葬式の参列者のように配膳係の前にただ静かに並んだ。

 しかし、その日だけ限定で輝ける子もいた。グリンピースごはんが好きな子(クラスに一人いるかいないかの割合)は、クラスのほとんどから話しかけられ、大層もてはやされて一日の優越に浸っていた。

献立を記入した用紙は、誰でも見やすいクラスの真ん中に常に張られていた。僕のクラスには一週間の献立を把握している強者まで出てくる始末だった。

 それくらい給食は、学校生活の中で重要な立ち位置にあった。

 

 その日は確か、焼きそばとクロワッサンのメニューの日だったはすだ。皆が見落としていたコーヒー牛乳の文字を献立に見つけた生徒のおかげもあってか、朝から教室はいつも以上に活気に満ち溢れていた。通常、半数以上がうとうとと瞼が落ちる体育の後の国語でさえ、皆難なくこなしていた。先生が感心するくらいの集中力があった。

「次、給食だ。楽しみ、楽しみ」

 授業終了の十分前、クラス一番のお調子者の塩見翔也がみんなの気持ちを代弁した。そこから伝染するように楽しみの波がクラス全体に広がっていく。皆がうきうきしているのが肌に伝わってきた。

「なあ。楽しみだよな」

 生憎、僕の席は彼の隣で、話し相手にロックオンされてしまった。あと十分間とはいえ、まだ授業中で僕の苦手な国語ときていた。先生がこちらをチラリと確認したのが目の端に映る。塩見を見ると同意を疑わない目でこちらの答えを待っていた。

「ああ、うん。楽しみだよ」

 黙っていても彼からの熱望の眼差しが消えることはないので、出来るだけ波風たたないように小さな声で答えた。僕の安易な発言は、塩見の眉をキッと上げてしまった。

「なんだよ、それ」

 彼の声は思いの外大きくて、クラス全体の視線が集まった。いくつもの目が一斉に塩見を見て、それから僕を見た。

「お前いつもそうだよな。大人ぶりやがって!」

 指差して塩見は言い切り、怒った顔のまま少し止まって僕の反応を伺った。

「千埼くん、塩見くん。どうしたの?」

 先生がこちらに来ようとしているのが見えた。

 しかし、塩見に指差された僕はエンストした車みたいに固まって、うんともすんとも反応しなかった。その時、壁に張り付く小汚ないガムのように、腹の背中側のところに引っ付いて縮こまっている何かを感じた。

 僕の反応に余計腹が立ったのか、彼は何かもっと大きな声で僕に言い寄った。すると、背中側に引っ付いていた何かは壁から離れ腹の中で暴れだし、ピンポン玉のように至る所にぶつかった。それが飛び出してきそうで、腹を両手で押さえた。

 そこからの記憶は曖昧で、その後、先生に「けんかの理由は何?」と聞かれ、途方に暮れたことだけ覚えている。何かがいることに気づいた僕は、腹の中ばかり気になっていて、家に帰って母さんに「腹を開いて見せてくれ」と言って困らせた。

 それに『大人ぶっている』の意味が分からなかった僕には、塩見の言葉は全くと言っていいほど響いていなかった。彼との記憶はそこで途切れ、その後彼が出てくることはない。今思えば、僕が彼と同じものを感じられないことが、彼を苛立たせたのだろう。

 僕の身体の中にいる『何か』は球体であることが多く、だいたい臍の辺りにいる。場合によっては、細かい粒になったり、液体のようになったり、はたまた風のように実体のない力になったりもする。『何か』は常に僕に何かを訴えるように動く。それだけは分かるが、それ以外は分からない。

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