第271話麗と大旦那の宗教論議

旅行話で盛り上がった詩織と葵は、フレンチのコースの昼食後、明日の葵祭での再会を約して、お屋敷を去った。


その後、リビングでお茶を飲みながら、大旦那や五月を交えての雑談となる。


大旦那は笑う。

「おもろいなあ、バスツアーか」

「大原?」

「それと鎌倉から横浜・・・ええ気晴らしや」


五月も目を細める。

「九条家は大原にも縁が深いですし」

「鎌倉と横浜にも、縁があります」


茜は麗の手を握る。

「麗ちゃんが話をすると、みんな乗ってくる」

「興味津々や」


麗は、そう言われても、まだ実感がないので黙っている。

そして、それ以上に気にかかっているのは、明日の葵祭で顔を合わせる寺社のお偉いさんの人たち。

ただ、顔見せをするだけならいいけれど、下手に宗教問答をけしかけられても、それは不安。

宗教の専門家連中に中途半端な答えをするのも恥ずかしいし、「不勉強です、わかりません」と答えるのも、恥ずかしいと思う。


そんな麗の表情が気になったのか、大旦那が麗に尋ねた。

「なあ、麗、麗は読書好きや、それはようわかっとる」

「その中で、例えば宗教の解説本を読んだことはあるか?」

「内輪やから、遠慮せんと、そのまま言ってかまわん」


麗は、素直に答えた。

「はい、仏教でいえば、法華経、浄土三部経、維摩経、禅の公案集」

「歎異抄とか、一遍上人の本も」

「それと申し訳ありません、道元の正法眼蔵は巻数が多くて読み切れていなくて」

「キリスト教で言えば、旧約、新約は一通り目を通した程度」

「コーランは岩波文庫程度で」


大旦那は満足そうに頷く。

「まあ、それくらい読んであれば大丈夫やろ、麗なら慎重やし、下手な答えはしない」

五月は目を丸くする。

「さすがや・・・そこまで読む若い人もおらん」

茜も驚く。

「いつか麗ちゃん、悟りを開く?」


麗は、少し考えて応えた。

「ここだから言うけれど・・・」

「例えば、難行苦行ってあるけれど、何の意味があるのかなと」


大旦那も、「ふむ」と腕を組む。

「確かに叡山では千日山を歩くなんて、難行があるな」

「やり通せば、名誉ある立場になる」


麗は、また慎重な言い方。

「その人だけは悟りを得て、素晴らしいかもしれない」

「しかし、それが、他の人に、何の利益があるのか」

「大乗仏教の根本は、利他、と思うけれど」


大旦那は、深く頷く。

「その修行者自身が偉くなったとして、苦しむ他人を救わなければ、意味がない」

「その考えで行けば、よほど、行基さんの橋を架けるとか、病院を作るほうが、よほど他人のためになる」

「それと、往々にして、難行苦行をやり遂げた人は、それに満足してしまって、また他人からの賞賛やらに囲まれてしまって、それで終わってしまう」


麗は首を傾げた。

「難行苦行も修行の一環であって、修行の手段、自己鍛錬の手段に過ぎない」

「ところが、それが目的化してしまって、達成すれば、それで終わり」

「それが、何人の人の心を救うのか、よくわからなくて」


五月も、話に引き込まれた。

「オリンピックの優勝選手とか、トライアスロンとかの優勝者は確かに尊敬できるけれど、それが見ている自分に何の実益があるのか、みたいな話やね」


茜は麗に尋ねた。

「ほな、麗ちゃんは、仏様とか神様って、どう思ってるん?」


大旦那も、興味深そうな顔で麗を見た。

「何でも言うてかまわん」

「こういう話は好きや」


麗の顔は、紅潮することもなく、いつもの冷静な顔になっている。

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