第56話高橋麻央の誘い

麗は翌朝7時、いつもの目覚まし時計の喧しい音で目を覚ました。

ただし、今日は土曜日、明日は日曜、講義はない。

予定では、妹の蘭が泊まりに来る予定であったけれど、ドタキャンとなったので、しようと思っていた掃除も不要、実に気楽な朝になった。


「珈琲ぐらいは飲むかな」

食が極端に細い麗も、水分補給は大切と思うようで、それは欠かさない。

いつもより丁寧に珈琲豆を挽き、フレンチプレスにて、淹れる。


「ホンジュラス豆は、なかなかコクもある、腹も落ち着く」

実際は、カロリーは無いけれど、ホンジュラス豆特有のコクで満腹感を得る。

そのため、朝食などは無い。

もっとも、冷蔵庫にも、食器戸棚にも、「食べる物」など、何も無い。


その麗は、珈琲を飲みながら、かのカエサルの名作「ガリア戦記」を読み始める。


「実に翻訳は固いけれど、原文そのものに、すごく深みがある」

「さすが、稀代の名将カエサル、文筆も半端ではない」

「誰かが、透徹していて、しかも品格あふれると言っていたけれど、実にその通り」

「愛欲の文ではない、だからすっきりとしているのか」

「もともとは、ローマの元老院と市民にあてた報告書なのだから、そうなるのか」

「それにしても、引きづけつけられる文章だなあ、2000年の時を超えて・・・」


麗のスマホが鳴ったのは、午前9時を過ぎたところ。

電話をかけてきたのは、高橋麻央だった。

「今日は休みのはず」と思い、麗はシブシブと電話に出る。


「はい、麗です、おはようございます」

高橋麻央は明るい声

「ごめんね、麗君、お休み中に」

麗は、実に面倒そうな低めの声。

「はい、何でしょうか」

高橋麻央は途端に慎重な言い方に変わる。

「あのね、もし、予定がなかったら、急なんだけど、お願いしたいことがあるの」


麗は、電話に出たことを後悔した。

麗としては、いつもの通り、「あっさり却下」をしたいけれど、相手は自分が講義を受けている大学講師、なかなか「あっさりと却下」などは、難しい。

麗は、それでも考えた。

「あの・・・もう少し、具体的なことをお聞かせ願いたいのですが」

その具体的なこと次第では、却下の糸口もつかめると思ったのである。


高橋麻央の声に、少し明るさが戻った。

「えーっとね、今度ね、本を出すの」

「それでね、源氏の本なんだけれど、誤字・脱字の添削をして欲しいなあと」


麗は、また戸惑った。

「先生、そういうのは出版社の担当者に任せるべきなのでは?」

「僕は、まだ大学一年生で、素人です」


しかし、高橋麻央は引かない。

「うーん・・・そうしたいんだけどね、この間、その出版社の編集の女の子と喧嘩したの」

「何しろね、ネチネチとうるさいのよ、たいして源氏の知識もないくせにね」

「よほど、麗君とのほうが、やる気が出るかなあと思ったの」


麗は、ため息をつく。

「うーん・・・そう言われましても・・・」


高橋麻央は、また麗を誘う。

「もし、麗君がOKしてくたら、それなりの報酬は出します」

「送り迎えもします」


それでも麗がためらっていると、麗が忘れていたことを言う。

「もしね、週末に近所で、お買い物でもして、三井さんに見つかったら危険でしょ?」

「何するかわからない人だよ、それもあるの」


麗は、本当に驚いた。

昼になるか、夜になるか、決めてはいないけれど、食べるものを近所のコンビニで買おうと思っていたから。

そして、三井芳香に見つかることを恐れれば、週末は一歩も外に出られないことになる。

麗としては、さすがに二日間、珈琲だけでは、さすがに辛いと思うのである。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る