第37話 「ありがとう」と、残す笑顔
雲の流れが速く見えて。
サトルは寮前の道路からゆっくりと空を仰いだ。
太陽の姿はどこにもないが夏の匂いが今日は一層強いようで。湿気を帯びて、紫外線が露出された肌へと容赦なく焼き付ける。
予後を心配する親に何くれとなく理由を付けて殆ど帰省しなかった夏休みも最終へと近づいて。
同じくほぼ帰省しなかった同室のシノブは予定されている行事準備のためにまた生徒会で、珍しくぶつぶつと文句を言いながらも朝から制服姿で学校へと出掛けて行った。
サトルも朝早くから起きて。
約束の場へと向かう。
つま先は怯えていない。
それよりもあの日から一週間経って会う彼女に早く礼を言いたくて駆け足で道路を渡った。
寂れた公園の入り口はあの時のままで。
少し息の切れた体を屈めてサトルはゆっくりと深呼吸をした。
額から流れる玉の汗を腕で拭うと人の気配がして。
見上げたブランコに座る由井の姿があった。
陽気にこちらへと手を振る由井へと駆け足で寄り、サトルも小さく笑顔を見せた。
「待たせてごめん」
「ううん、待ってないから大丈夫」
「今日も暑いな」
「うん、ホント。日焼けしちゃいそう。この前日焼け止めクリーム買ったんだけどあまり効かなくて。ちょっと心配」
「そっか」
公園内のベンチへと二人で並んで腰掛けて。
サトルは出会った頃のことを反復して思い返していた。
一人で堪らなく辛かったあの日々は今は思い出しても痛みはない。
風に揺れるブランコが錆びた音を立てる。
「……今日はサトル、謝らないでね。謝らなきゃいけないのは私なんだから。謝られたら立場ないって言うか」
「あ、……うん。善処するよ」
「ホント、優しすぎるよね。ライブの時とは別人みたい」
「……そんなに変わりねえと思うけど……」
「全然違うよ! ね、今度さ、機会があったらまたライブハウス行かない?」
「え?」
思いもしなかった由井の提案にサトルは動揺するもしばし悩む。その様子に由井は小さく笑って、口元に手を添えた。
「今度は二人でじゃなくて、みんなで」
「みんな……?」
「うん。この前ヒサシさんが私のこと送ってくれてね。その時色んなバンドの話で盛り上がったの。それで今ちょっと良いバンドあってね。ガンヒルダってバンド。知ってる?」
「ガンヒルダ……? あ、名前知ってるかも」
「そ! そのガンヒルダを観に行きたいねーって話になったの。行こうよ。歌うのも大事だけど偵察を兼ねて他のバンドの曲を聴くのも良い刺激になると思うな、由井は」
「いいよ、わかった」
「ね、私たち、……友達でやっていけるよね?」
由井の笑顔を浮かべた問い。
サトルは少々面食らうもゆっくりと頷いて見せた。
「あの、……鷲尾さんの時ね。奥崎さんと話、したんだ。私」
「オク、さんと?」
「うん」
真剣な眼差しがサトルを捉える。
サトルは由井の覇気に圧されるも小さくそうか、と呟いて続く由井の話に耳を傾けた。
「あの店から出て、助け呼ばなきゃって思っててね。警察、とかその位しか思いつかなくて走ってたら、奥崎さんに会ったんだ。奥崎さん、雨に濡れてもかっこいいね、って今なら思えるんだけど会った瞬間はちょっと嫌だったな」
「嫌?」
「うん。サトルが、好きな人だったから。絶対渡したくなかったから。一発目に、あんたはサトルを好きで鷲尾を知らないでいたのか、って驚かれて……鷲尾さんとサトルの間にあった過去の話とか、サトルが高校に入ってから鷲尾さんに暴力振るわれて声が出なくなってアカーシャが活動休止してた事とか……私に教えてくれた。彼女だっていうなら彼氏の事最低限理解した方が良いって言われて……私、なんでアカーシャライブしないのかな、とかその位しか思って無くて……何もサトルの事解ってなかったんだなぁってすごく悲しかったし、悔しかったし、自分が嫌になった。好きだって言いながら、自分が誰にサトルを引き合わせたのかも知らなかった自分が許せなくなって。……それに、奥崎さんには敵わないと思った」
「そう、だったんだ」
改めて聞かされる由井の話にサトルは指先を少し動かした。
「あーこの人には敵わないなぁって。私の負けだと思ったよ。同性愛じゃん、とかそういう理由で勝てると思ってた自分が恥ずかしいと思ったよ。女だから、とか男だからとかじゃなくてサトルはサトルだからだし奥崎さんは奥崎さんだから、なんだよね。私はちゃんとわかってなかった。きっと頭のどこかでアカーシャのヴォーカルさんと付き合うんだーって夢見てたとことかあったんだよ、きっと」
ベンチから立ち上がり由井がサトルの正面に立つ。
その表情は出会った頃と同じ愛らしい笑顔だ。
「サトル」
「何?」
「彼女にしてくれて、ありがとね」
寒かったあの頃とは違う、凪いだ景色。
それから。
吹き付けた熱気を帯びた風に由井の髪が揺れる。
「由井、俺こそ」
「謝らないでって私が言ったんだからちゃんと守ってね。今日これから花火大会あって友達と待ち合わせしてるの。私、もう行くね」
シャーベット色のスカートが緩く動き、由井が小さく笑う。
「バイバーイ」
陽気に振られる手。
サトルもつられて手を振り返す。
そんなサトルの様子に由井は安堵して。
背を向けると公園の外へと駆けていった。
晴天が世界を包む。
雲の流れが向きを変えた。
「あ、……あったあった、……」
埃まみれの本棚の奥から分厚い一冊の卒業アルバムを手に取る。鷲尾は咥えていたタバコを一先ず灰皿へと置き、その場に胡坐をかくとアルバムを開く。暑い日差しは開けられた窓から容易に入り込み、室温を上昇させ続ける。一枚、一枚と開いていくその写真には幼かった自分と知った面子。
――それから浮かない顔をした黒髪のサトルの姿。
「……シケた面してやがる」
喉元で少し笑ってから。
次のページへと捲り、ふと目に留まった写真には一年始めの陸上部の一場面。大きな写真ではない。笑っている自分と、いつもの困った笑みを浮かべているサトルの姿。場所はどこかなんてもう――忘れてしまった。
ただ、隣に並んで笑って過ごしていた事実がこんなところに残されていた。
瞬きしない鷲尾の瞳から大粒の涙が写真へと落ちる。
『俺、写真とか苦手なんだよ』
『慣れだって慣れ! 笑えよ』
ああ
あの頃は
いつだって
――笑ってほしかった
「……もう、笑えるだろが。松崎」
タバコはいつの間にか灰皿の中で転がっていた。
家の通りから聞こえてくる近所の中学生の声。
こんなくそ暑いのに。
つるんで、笑いあっている。
痛みすらなかったあの頃へと戻る術はもう何もない。
壊せるものなら壊してくれと。
きっとずっと気持ちのどこかで願っていた。
「あー……タバコもったいねえな……」
ひとつ、舌打ちをしてからアルバムを閉じ、用意したダンボールへと入れる。自室へと聞こえてくる母親の声。鷲尾はため息をつきながら頭を容赦ない勢いで掻き上げ。
「あともうちょいで終わるって。終わったら教える」
自室の襖を開けて続く階段の下へと叫ぶ。
積み上げられたダンボールの数々。鷲尾はしゃがみこみ、ダンボール上で用意していた郵送用の紙にまだ覚え切れていない住所を久しぶりに持つボールペンで書く。
ふと、ベッド上に放り出されたカメラ、それから歌うサトルの写真へと目を留める。
ゆっくりと立ち上がり、写真を荒らす。
一枚、また一枚。
「…………あった」
――嬉しそうに笑う、サトルの写真。
『楽しかった』
同時に耳に返るサトルの声。
思い出される最後の笑顔。
笑顔ひとつ位
俺の手元に残したって
バチは当たらねえだろ
松崎
鷲尾は写真を一枚手に取り、鼻歌交じりにまた元の場所へと戻ると伝票へと字を書き殴る。
外の景色が橙へと染まりだす。
空色を侵食する太陽の熱。
埃を被った時計の秒針は止まらない。
どこからか、乾いた花火の音が届く。
夏の終わりを知らせるように。
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