生きる場所

第36話 「ごめんなさい」

 漆黒の闇に蠢く星。寂しそうな月。

 都会よりいくらか澄んだこの街の空気は湿気を帯びて、肌へと纏わりついた。


 ――帰ってきた。帰って来られた。


 そう思う間もなく乱暴に無言のまま手を引かれて。

 脱ぎ散らかした靴は寮の玄関に散乱したまま。

 奥崎は気にも留めず、サトルの手から手を離さない。

「オクさん?!」

 サトルの声にも無言のまま階段を上り、自分の部屋へと迷いもなく進む。ひどく動揺したサトルは何も言えず、ただ手を引かれるがままに奥崎の後を引きずられるように進んで。開けられたドアの向こうは知った奥崎の部屋。暗く、何も見えない場所に背中を押されて入る。


 ――怒ってる、よな


 ドアが音をけたたましく立てて閉じ、掴まれていた手首を急に引っ張られる。進む室内。カーテンは開け開かれたままでそこからは街灯の明かりが漏れる。

 香る、香水の香りが鼻先を掠めて。

 サトルはベッドへと全身を投げ出された。

「うぁっ!」

 あまりに乱暴な奥崎の行動にサトルは薄暗がりの中、慣れない目で懸命に奥崎の影を探す。

 ぎし、とベッドの撓る音。

 鳴り出す、鼓動の早鐘。

「オ、クさん?」

 不安げにサトルが声を漏らした。

 己の顎へと滑る奥崎の指先。

 それから。

 深く重ねられる口付けにサトルはきつく目を閉じた。

 いつもよりも乱暴に感じる奥崎のキスにサトルの体は反応を示して。小さく吐息が漏れる。

「……っ」

 ようやく離れた口元を奥崎の舌先がなぞるように舐める。

「怒って……る、んだろ……?」

「ああ、当たり前だ」

 目の前に揺らぐ大きな影。

 ようやく目が慣れ始めて。

 奥崎の表情が月明かりに照らされて見え始める。

「てめえは本当に極上のバカだ。学習機能っつうモンがついてねえのか」

「……ごめん。でも」

「由井と話しする位なら一人でやらなきゃとでも思ってたか」

「うん……」

 あまりにも情けない己の返答にサトルの表情に罪悪感が満ちる。耳へと入る奥崎のため息交じりの笑み。都合の悪さにサトルは横へと向いて静かに呼吸を繰り返した。

「……でも、……ありがとう」

「何が?」

「来てくれて、嬉しかった」

「……当然だな」

 穏やかな口調に戻った奥崎にサトルは少し安堵して。

 小さく頷いた。

「おい」

「? 何?」

「抱かせろ」

 奥崎の発言にサトルの顔が紅潮する間もなく、長い手がサトルの胸元を這い出す。

「ちょ……! ちょっと待って!」

「なんだ、気分じゃねえか」

「そういうんじゃねえけど……嫌じゃねえけど」

「抱きてぇ」

 上体を起こしてはっきりとそう口にする奥崎の言葉が強く頭に響く。サトルは奥崎のシルエットを見つめたまま。生唾を飲み込んだ。

「悪いが俺も人の子だ。お前が危険に晒されれば嫌でも不安になるんだよ」

 予想もしていなかった意外な言葉にサトルは黙ったまま面食らった。奥崎が不安に駆られる等、想像したこともない。

 それでもその言葉に嘘など感じられず。

 サトルはひどく後悔した。

「……俺、本当にごめん……」

「ああ、全くだな。少しはこっちの身にもなれ。お前がまたひどい目に遭うとかマジ勘弁だ。心臓がいくつあっても足りねえな」

 小さく笑って話す奥崎の声。

 サトルはゆっくりと身を起こして。

 緊張でうまく動かない指先を奥崎へと伸ばした。

 届いたその指先で奥崎の服を自分へと引っ張る。

「なんだよ」

 平然とした様子の奥崎の声。

 ――……どう言えばいいんだろう

 緊張で口の中が乾いていく感覚。

 小さくサトルは咳払いをしてから口を開いた。


「抱いて欲しい、オクさんに」


 五月蝿い心臓の音が指先を通して奥崎へと伝わってしまいそうで、それでもそっと握ったこの指先を動かすことさえもできず。俯いたままサトルは口を閉ざす。


 長い、長すぎる沈黙が続く。


 サトルは肥大していく不安に恥を感じながらも奥崎の顔を見上げるもその表情がよく見えない。

「……あの……何か、せめてコメントとか……」

「あ、悪ぃ」

 思い出したかのように話し出す奥崎の態度にサトルは拍子抜けして深くため息をつく。

 紅潮してしまった顔は中々元に戻る気配すらない。

 汗ばんだ肌すら熱を持ったまま。

 ――とんでもねえこと、口にした

 少しむくれて、サトルは上体を起こしたまま再度ため息をついた。

「いやなんつうか、……正直照れたな」

 ――……は?

「照れたって、オクさんが?」

「あ? ああ。……言われたことねえかもしれねえ……」

「あ、そう……か……」

 自分で告げた事が再度脳裏でリピートし出す。

 サトルは顔から火が出るほど恥を感じてそのままベッドへと倒れこんだ。


 ――死にたくねえけど

 ――今は

 ――このまま消えたい


 そう思いながら両腕で顔を見られないように覆い隠す。

「おい、ちゃんと顔見せろ」

「嫌だよ、すっげえ恥ずかしい」

「? いつだってヤる時お前恥ずかしがってるじゃねえか」

「じゃなくて! ……って……俺だってあんな事……初めて人に言ったんだよ」

「もう一回言えよ、サトル」

「は……? ヤダよ、ヤダ!」

「つーか思い出した。鷲尾のヤツ、最後の最後にお前に抱きつきやがって……。おい、キスとかされたのか?」

「え? なんでそんなこと聞くんだよ」

 ――言えば大分されたけれど、それを言うなら渡辺の件もそうで、……どれもこれも嫌でしかなかった。

 そう思っていると奥崎の腕がサトルの体を自分へと引き寄せて抱きしめる。強く鳴り響く心臓の音。

「前も言ったが俺はな、嫉妬しやすいんだよ」

 そう言ってそっと落とされる口付け。

 漏れる吐息と軋むベッドの音。


 寂しげな月明かりに揺らぐ星。

 そこに雲はひとつもなく。

 雨はようやく上がった。


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