第35話 断ち切る

 ガシャン、と冷たい金属音。

 同時に開かれたドアからは酷い喧噪と雨音。

 暗い室内にまるで傷のように入り込む光。

 サトルが微かに目を開けた。


「どぉもー、アカーシャです」

 陽気なレンの声が聞こえたような気がして。

 ゆっくりと視線を扉の方へと向ける。

「……は?」

 愕然とする鷲尾の声。

「おい、返してもらおうか」


 ――オクさん

 ――オクさんの声


 剥がされるようにサトルの首から鷲尾の手が解かれ。

 急に喉から入り込んでくる酸素にサトルは咽こみながらその場に崩れ落ちた。

「マツ君! 大丈夫?!」

 ――ヒサシ、先輩

 泣き顔で己を庇うかのように傍へとしゃがみ込むヒサシの姿。

 その傍で鷲尾と対峙する奥崎の背が見えて。

 サトルは目を動かすことができなくなった。

 ――なんで

「うちのヴォーカル、返してもらおうか。鷲尾君」

 挑発するようなレンの言葉。鷲尾は周囲を睨み付けるように見据え、前にいる奥崎へと歩み寄った。

「よくまあここまで来れたもんだな、あんたらたかがバンドやってるだけでそんなこともできるのかよ? 毎度毎度頭が下がるな」

 鼻先で笑いながら鷲尾が奥崎へと話すも奥崎は無言のまま鷲尾を真っ直ぐに見つめた。

「何とか言えよ。奥崎大和」

 苛立った様子の鷲尾にサトルが座り込んだまま身を乗り出した。

「鷲尾!」

「うるせえ! お前は黙ってろ! 俺に逆らうなよ!」

 過剰なまでに声を張り上げる鷲尾。

 緊張の糸が瞬時に張り巡らされ。

 隣にいるヒサシの表情も険しく濁る。

「……ストーカーってのは大概楽にできるもんじゃねえな。ここまで来るのにこっちは全身びしょびしょだ、あと前はたまたま見つけられただけだぜ?」

 奥崎の前髪から伝う水滴が床へと落ちて。見るとレン、ヒサシも全身からアスファルトの匂いがした。

「ヒサシ、先輩」

 サトルの声にヒサシは優しげに笑った。

「来るのが遅れてごめんなさいね、怪我は? 首大丈夫?」

「うん、大丈夫……ありがとう」

「勝手に私たちが来ちゃっただけ。気にすることない」

 後方の扉が閉まる音がして。サトルがゆっくりと振り返るとそこには見慣れた靴が見えた。足元から上へと見上げるとそこには心配そうに自分を見つめる由井の姿。

「由井」

「サトル、ごめんね! 大丈夫?」

 涙に震える由井の声。

 サトルはようやく笑ってみせた。

「サトルごめんね。私何も……サトルの事何一つもわかってなかった。わかった振りしてこんな場所に連れてきて……本当にごめんなさい」

 泣きじゃくる由井がサトルへと駆け寄るとしゃがみこんで頭を深く下げた。

「いいんだ。いいんだよ、由井」

 陳腐な言葉しか出てこない、サトルはそう思いながらも傍で泣き出した由井の手を優しく包み込んだ。

 小さな、少し震えて冷え切ってしまった手。

 サトルは安堵感を胸に横にいるヒサシへと笑顔を向けた。

「でも由井なんでまた戻ってきたんだよ」

 不意に思った問いを由井へとサトルが話すと由井は顔を上げて鷲尾と対峙している奥崎の背を見つめた。

「助けを呼ばなきゃ、と思って走ってたら奥崎さんと会ったの……お話……聞いたの。サトルの気持ち大事にしてなかった。自分のことばかりだった」

 涙声の由井へとサトルは目を細めて頷いてみせる。

「そんなの、由井だけじゃねえから」

 静かに話し出すサトルの声がその場に静寂を生み出す。

「変に巻き込んじゃったな。ごめん」

「サトル……」

 声を殺して由井が目の前で泣き出す。

「大丈夫よ、由井ちゃん。由井ちゃんはここまで案内してくれたじゃない。感謝するわ」

 宥める様なヒサシの口調。


 俺は、結局解ってなかったんだ


 サトルはそう小さく呟いてから目の前で鷲尾の前に立ち尽くす奥崎の背を見つめた。

 大きな、何度も見てきた背中。

 この人が苦手だった。

 この人と話せて嬉しかった。

 この人の言葉が嬉しかった。

 この人に会いたいと思っていた。

 この人を守ろうと思った時もあった。

 自分勝手な己のせいで。

 この人を憎く思ったこともあった。

 この人に抱かれたことも。

 この人に愛された日も。

 この人に。

 この人に。


 伝う涙が熱く。

 手の甲へと雫を落とす。


「オク、さん」

 震える、声。

 微かに見えた奥崎の横顔。

「お前は何一つ、わかっちゃいねえな」

「……うん」

「自分一人で解決しようなんざ金輪際止めだ」

「……うん」

「離れるなよ、何度も言わせるな」

「……うん」

 ――顔が、上げられない

 次々に流れる涙の数にサトルは顔をぐしゃぐしゃに歪めた。胸の奥から鳴り止まない鼓動は熱を持って全身に響く。この音を嫌悪していた過去。でも今はひどく愛しい、音。

「ごめん……」

「それも聞き飽きた。帰ったら説教な、お前」

 見上げた先。

 皮肉を込めた奥崎の笑みが見えて。

 サトルは深く頷いた。

 サトルが頷くのを確認して奥崎は鷲尾に向き直る。

「……あんたとはちゃんと話すべきだと思ってて、ずっと調べさせてもらったわ」

 言いながら奥崎は手にしたタバコに火を点け、吐き捨てるように白煙を薄暗い店内へと吹き付ける。

 目の前で睨み付けている鷲尾の表情は険しいまま。

 蛇の瞳が鈍い光を放つ。

「へぇ、あんた俺のストーカーしてたのか。それで? 何かわかったのかよ。俺のことが」

「まぁぼちぼち、な。楽なことじゃねえな、ホント」

 面倒くさそうに奥崎が濡れた前髪を後方へと指で梳く。カウンターに寄りかかったレンが余裕な笑みを浮かべながら椅子を引くと腰を下ろした。

「それで? どうしようってんだよ、奥崎」

 挑発的な態度を見せる鷲尾の視線がきつく奥崎を睨み返す。奥崎は深くタバコの煙を吸い込むと再度吐き出し、一歩前へと鷲尾へ歩み寄る。

「……退学後、ここ場所で面倒見てもらってる身で……ここの店がその面倒見てくれてるやつのモンで……? えー……まあ別にそんなことはどうでもいいか」

「何が言いてえんだよ、苛つかせるな」

「そんなに怒るなよ。短気なんだな、お前」

 淡々と語る奥崎の言葉ひとつひとつに反応するように鷲尾の苛立ちが増幅しているように見えて。

 サトルがゆっくりと立ち上がる。

「で? 気になることでもわかったかよ」

「……あぁ、だからまぁぼちぼち」

「言ってみろよ、奥崎」

 濁った煙が店内に横へと尾を引く。

 泣きじゃくっていた由井も涙を止めて。

 対峙する二人へとその視線が注がれる。

 聞こえてくるレンの咳払い。

 由井を庇う様に傍へとしゃがんでいるヒサシ。

 ダルそうに立ち、吸っていたタバコを遠慮もなく床へと落として足で踏み潰すと奥崎が上体を鷲尾へと屈めて。

「そんなにサトルが好きか、お前」

 奥崎の視線が鷲尾へとようやく向けられて。

 鷲尾が静かに口を開いた。

「……それが解ってんなら上等だな。話早ぇわ」

 鼻先で笑いながら鷲尾が嫌な笑みを浮かべた。

「俺と松崎はお前が知らねえ時から一緒にいた仲だ。後から出てきた奴がごちゃごちゃ言ってねえでさっさとここから出て行け。目障りだ」

「鷲尾……っ」

「黙ってろ松崎、てめえは口出ししてくるんじゃねえ。いちいち逆らうなって言ってんだろうが」

 サトルが声を上げるも鷲尾はそれへと一喝して奥崎から目を離さない。憎悪と苛立ちを込めて正面の相手を睨む。

「そうやってサトルに暴行繰り返してきたって訳、な……やっぱりお前には渡せねえよ、悪いが」

「てめえが俺に意見してくるな。うるせえ!」

「だからそんなに怒るなよ。喧嘩しにきたんじゃねえ」

「喧嘩になってまたバンド活動できなくなったら嫌だからか? てめえの都合なんざ俺には関係ねえな」

「……あー……? まぁそれはこっちの都合だけどな。あんたには関係ねえ事だ。だけどサトルにとっては大事な場所なんだよ」

「松崎の場所はそこじゃねえ。離れようとするなら足を圧し折るまでだ。歌いたいならまた声を出させなくすればいいだけだ。こっちはこれ以上惨めな思いなんかうんざりだ!」

 吐き出すように大声を上げて鷲尾が叫ぶ。

 後方に位置していたレンが苛立った表情で口を開こうとするも奥崎の視線に気づいて口を再度閉ざす。

「言い分は解った。が、尚更てめえには渡せねえな。サトルはモノじゃねえ。痛いとか苦しいとか感じるんだよ。てめえと同じ人間だからな」

 奥崎の言葉に鷲尾の口が閉ざされる。

 ため息混じりに奥崎がひとつ欠伸をしてから。

 乱暴に濡れた頭を掻きだす。

「俺らの知り合いで一人、こいつもサトルの事が好きでな」

 突如話し出す奥崎の話にサトルが瞬きを繰り返した。椅子へと腰掛けていたレンも不思議そうに奥崎を見つめ。少々唸ってから奥崎がまた話し出した。

「そいつは自分の満足ってヤツを知らねえのか……サトルの幸せばかりを願ってて、気持ちがどんなに届かなくても多分ずっとこいつの幸福を望むだろうし、己の幸福の前にサトルが笑っててほしいと当たり前に感じて思って……それでこっちがうまくそれができねえとめちゃめちゃキレてくるゴリラ野郎でな」

「……はぁ?! だからなんだよ」

 苛立った鷲尾の声がサトルの神経に触れる。

 も、奥崎は中断せず、話を進める。

「俺はそのゴリラの期待にも気持ちにも応えねえとダメなんでね。……確かにあんたの愛し方もひとつの愛し方だと思うぜ。逃げられたくないから足を圧し折る、な。まぁ、そういうのが好きってヤツもいんじゃね。否定はしねえよ。ただサトルは無理だ。あんたの愛し方じゃこいつはまた死にたいとかほざく」

「俺に意見するなよ奥崎。松崎のことは俺は一番見てきた。逃げようとさえしなけりゃ俺はこいつを殴ったりなんざしねえ。もうここまで来たんだ。今更なかったことにできるかよ」

「無かった事にしたいのはそっちじゃねえの? ……あんたじゃ無理だってあんたが分かってねえとは思えねえし……逃げなきゃ殴らねえって、逃げようとしたから今首締めてたんだろ。それしかやり方分かんねえから、サトルより、誰より何より今、……もうお前が終わらせたいんじゃねえの?」

 鷲尾の表情が瞬時固まるもすぐさま怒気を含んだ呼吸を漏らして奥崎の襟を捕らえる。サトルとヒサシの体が同時に反応するも奥崎は平然とした様子で鷲尾から目を離さずただ見つめたまま。

「サトルはひどく、人間ができてねえ。初対面のヤツにはすぐに怯えるし顔色を窺うのはもう癖ついてるし、臆病な癖に変に頑固だし……誰かに頼るって事すら知らねえ。だから逃げてみたり犠牲になったりするヤツだ。どんなにこっちが頼れと言っても頼り方が解らないバカだろうし……それでもこいつは自分の足で進んで生きたいと思ってやがる」

 ――頼られない事は、信頼されない事だと思っていた。

 鷲尾は、酷く顔を歪める。

「だから俺はこいつの脚や手を折ったりはしねえ」

「自分の足で歩きたいなら歩けばいい」

「自分の手で何かを掴みたいなら掴めばいい」

「サトルの望むように俺はしてやる」

「どんなにこっちが割食っても」

「それで面倒事が起きても」

「こいつの望むようにやらせる」

「歌を歌いたいと言ってきた」

「だから歌うためのあの場所はもう失くさせねえ」

 奥崎は一つ溜息を吐いた。

「……あんたがどんなにサトルの事が好きでも俺にも譲れねえ。食い下がるならとことん話すまでだ」

 淡々と語る奥崎の背中は微動だにしない。

 襟を掴んでいた鷲尾の腕は微かに震えているも、ゆっくりとそこから指が外される。

 静寂する店内。

 レンが椅子から立ち上がるとゆっくりとサトルの横へと歩いた。

「あんまり心配させんな、マツ君。俺らがまた神崎にどやされるだろうが。知ってる? あいつめちゃくちゃ言うんだよ?」

 曖昧な笑みを浮かべてレンがサトルの肩を数回叩く。

 すみません、と小さく声を出して謝るもサトルはただじっと黙っている鷲尾が不安で見つめた。


 頭を擡げて。

 鷲尾が小さくため息をつく。


「松崎」

 呼ばれた名前。

 サトルは鷲尾から目を離さず、ただ見つめた。

「……俺が嫌い、か?」

 問われた言葉。

 その声があまりに脆弱すぎて。

 サトルは胸の奥できつくしまっていく何かに痛みを感じた。

「……嫌い、じゃねえ、よ」

「じゃあ、……俺が怖いか……?」

 サトルの返答へとすぐにまた問いで返す鷲尾の視線は遠く、別の場所を見つめているようだった。

 目の前が揺らぐもサトルは静かに口をまた開いて。

 微かに震える口元が声を発した。

「一緒にいた頃は、毎日が楽しかったよ……本当に。鷲尾がいてくれて、本当に楽しかった」

 和らぐ、表情に小さく笑みを浮かばせて話すサトルを鷲尾の目が捉えて。

 瞳孔がその笑顔を焼きつかせた。

 瞬時鷲尾の視線はサトルから逸らされ、シミだらけの床へと落とされる。

「それから、暴力が始まってから……は」

「怖い思いさせて、悪かったな」

 ライターの点く音。

 それから吐き出される呼吸音。

 似た、心臓の音。

 話す言葉を遮る様に謝罪を述べた鷲尾の顔がうまく見えず、サトルはいつか捨ててしまった何かに込み上げてくる思いに奥歯をかみ締めて。

 強く首を横に振った。


「さっさと出て行ってくれ。俺の用事は終わった」

 咥えタバコで鷲尾がそこから背を向けて奥に設置されている長椅子へと腰掛けた。

 煙は空気を帯びて光の中でその形を露わにする。

 サトルは涙を止められず、何度も手の甲で拭う。


「……帰りましょ。マツ君」

 優しい、ヒサシの声。

 歩き出すレンの足音。

 自分の前へと立つ、奥崎の視線。

「……このバカ」

 吐き捨てられたその言葉にサトルは顔を歪めた。

「由井ちゃん、寒くない?」

「あ、大丈夫です」

 ヒサシの声に由井が礼儀正しく頭を下げて。

 大きな、熱い奥崎の手がサトルの手首を握った。

 知った、肌の感触。

 サトルの足がようやく扉へと一歩歩みだした。


 ふ、と背中へと掛かる重圧と自分の体へと掛けられた長い腕。きつい香水の香り。背中から抱きしめてきた鷲尾の呼吸が耳へと届いて、サトルが大きく目を開いた。


「愛してた」


 その声が酷く歪んだ涙声に聞こえて。

 振り返ろうとするも解かれた腕に背中を強く押されて。

 開かれた扉の外へと足が出た。

「じゃあな」

 冷たい、鷲尾の言葉。

 音を立てて閉じられた扉を滑る視界で。

 スローのように残った鷲尾の冷たい横顔。

 それが泣いているのを。

 サトルの目はしっかりと理解した。


 それから、おぼつかない足は動き出す。

 知らない場所を進む意気地のないつま先は、

 自分の意志でその場から歩き出した。

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