第33話 擦れ違い軋む慕情

 握られた手の先に見える煌びやかな明かりの数々が雨に濡れてアスファルトに映る。極彩色を放つ地面に落ちているチラシ。客引きのために道路に立つボーイの安い笑顔と、冷え切った由井の手。今まさにあの夜へと帰っていくような錯覚に全身から血が抜けていくようで、呼吸を繰り返すこの体がやけに重く感じた。

 通りを歩く人々の足音も雨に濡れて。

 手にしていた携帯から滴が落ちる。

「サトル」

 心配そうに自分の顔を覗き込む由井の頬は赤く染まっていて。サトルはそれへと答えることができなかった。笑顔を作れないまま、先を歩く鷲尾の後をついて歩く。

 道を真っ直ぐに進んでから路地へと入り、鉄筋の階段を無言で昇っていく鷲尾。見上げると灰色の四角い空から落ちてくる雨が額を濡らして。由井のヒールが音を立てて階段を上る。階段の手すりへと手をかけて足を運ぶ己の脳裏へ走馬灯のように駆け巡る危険信号。

「松崎、コッチ」

 陽気な鷲尾の声が耳に届いて。

 サトルは由井と手を繋いだまま冷たい階段を上り続けた。温度を失った肌の奥。

 奥崎の存在を欲した。




 連なる階段を上ると鷲尾が嫌味を含んだ笑みを浮かべて。黒いドアを開けた。開かれたドアの奥から聞こえてくるBGMの爆音。赤いライト。幾つも並ぶテーブル。奥に見えるカウンターにはボトルが数多く並ぶ。鏡張りの壁。

 微かに香るタバコの香り。

 立ち込める湿気を含んだ空気。

 赤い絨毯が敷き詰められた床にこびりついた汚れ。

 慣れない匂いにサトルは顔を顰めるも先に中へと入った由井は珍しげに周囲を見回していた。見えるところには鷲尾の姿は、ない。

「由井」

 サトルの手が強く由井を自分へと引き寄せると由井は顔を瞬時に赤らめた。

「どうしたの? サトル」

「あまり、離れないで」

「ちょっと緊張するよね、こういうところ。私も初めて」

「じゃなくて」

 強い口調で制すサトルに由井の体がびくつく。

 不安に歪む由井の表情に気が咎めるも笑みが作れない。

 ただ握る手だけが強さを増した。

「どうしたの? サトル」

「……いいから。早く帰ろう」

「仲、もしかして悪かった? 鷲尾さんと」

「…………」

 ――なんて言ったら、いい?

 嫌な汗が全身に纏わりついて止まらない。

「ごめん、手に汗かいてるよな。気持ち悪いだろ」

「全然大丈夫だよ。ホントにどうしたの? さっきから怖い顔してるよ」

「……ごめん」

 掠れていく声。喉を締め付けられるような感覚にサトルが生唾を飲み込んだ。


 急に視界に現れた白い布に驚いて咄嗟に腕でそれを受け止めた。柔らかい感触に目を開いたまま、真っ直ぐに前を向くとそこには鷲尾が笑顔で立っていた。渡された物がバスタオルであることにようやく気づいて。

サトルは動揺しながらも頷いた。

「それで拭けって。バスタオルはいくらでもあるから気にするなよ。風邪ひくぞ」

「あ、ありがとう」

 由井が声を上げて鷲尾へと礼を言うとサトルの受け取ったバスタオルを手にする。

「さ、サトル。本当に風邪ひいちゃうから。拭いてあげる」

「……いや、大丈夫。由井が拭きな」

 由井の手からバスタオルを再度取り、すっかり濡れてしまった由井の頭へとバスタオルをかけた。嬉しそうに笑む由井の表情は先程よりも穏やかだ。

 奥にあるカウンターに鷲尾が足を組んで座ると開いている隣の席を叩く。

「今日は誰もいねえんだ。いいからこっち来いよ」

「いや、今日はもう帰るよ。用事があるんだ」

 鷲尾へと歩みだそうとする由井を制してサトルが即答で返す。一瞬眉を顰める鷲尾の様子にサトルは奥歯をかみ締めるもふと緩んだ表情を見せる鷲尾に瞳孔を開いた。

「まぁまぁそう言うなよ。以前のことをちゃんと俺も謝りたいと思って来るように由井ちゃんに頼んだんだ」

「サトル……」

 弱気な声を漏らす由井。

 サトルはゆっくりと下唇を舐めた。

「ここは俺が世話になってる人の店でさ。あれから俺は学校退学になって……まぁ色々と俺にもあったんだ。お前とのこともちゃんとここで清算したい。頼むから座れよ」

 終始穏やかに笑む鷲尾の表情が一層深まった。

 香るアルコールとタバコの匂い。

 喉の奥がきつく痛みを滲ませた。

「由井」

 掠れた深い、声に由井が不安げにサトルの顔を見つめた。いつに増して青いサトルの顔色。握っている手が汗ばみ、冷えて由井へと伝わる。見たことのない、サトルの異変に眉を顰めて。由井の指先が微かに震えた。

「サトル……どう、したの? 具合悪い?」

 緩く首を横へと振るサトル。

 それでもサトルの表情は硬く、ただ真っ直ぐとカウンターに座りこちらへと笑顔を向けている鷲尾へと向けられる。

 一層歪むように笑みを込める鷲尾の顔。

 由井はゾッとして鷲尾から咄嗟に視線を反らした。

 ――……なに? ……怖い

 サトルの手を握る由井の手に力が込められる。

「……悪いけど、先に帰っててもらってもいいかな……? 由井」

「え……?」

 ――ダメ、それはきっとダメだ

 由井が直感を声に出す前に鷲尾が喉元を鳴らして笑う。

「賢明な意見じゃん、松崎。由井ちゃん、帰りなよ」

「で……でも」

 困惑する由井の声。

 カウンターのグラスが音を立てて置かれる。

 脅しのような威圧する音に由井の身が震え出す。

「ちょ……と待って……? 鷲尾さん今日なんか変だよ……。いつもそうじゃなかったのにどうかした、の」

 震えてしまう、声。

 由井は渇く喉へと唾を飲み込んだ。

 傍にいるサトルの険しい表情。

「あー、実は俺ら喧嘩してるんだわ、な。松崎」

「サトル」

 尋常に感じられない鷲尾の笑顔が酷く恐ろしくて。

 由井はサトルへと顔を見上げるもサトルの表情に笑みはない。ただゆっくりと鷲尾の意見に頷いて、それから握っていた手が解かれていく。

「由井、帰ってくれ。頼むから、な……?」

 宥めるようなサトルの声。

 ようやく自分へと向けられたサトルの瞳は揺れているように見えて。覚え始めた罪悪感は瞬時に由井の全身に広がった。

「ダメだよ、置いていけないよ。ごめん……サトルこんなつもりじゃ」

「わかってるから。由井のせいだと思ってない。お願いだから帰ってくれ」

「……私、今日はまだサトルの彼女でしょ……? 一緒に……」

「由井……! 頼むからっ」

 泣きそうな声で言い放たれたサトルの言葉に、由井は口を噤んで、サトルを不安げに見つめるしかできなかった。

「由井ちゃん」

 陽気な鷲尾の声。

 由井の瞳が鷲尾へと向けられる。

 その表情は笑みだったが、明らかに質を変えていた。

「彼女、なんだろ? なら彼氏の言う事素直に聞きなよ。可愛くねえ女だなぁ」

 後半強く威嚇するように語気を荒らげて笑われる。

 由井の瞳が大きく見開かれる。

 動揺してしまう身を必死に押さえて。

 それでも瞳は居場所を探すように泳ぐ。

「……って思われちゃうよ?」

 白い歯を覗かせて笑う鷲尾の笑み。

 思わず、瞳が熱くなって。

 由井が顔を伏せるとそれを隠すようにサトルの腕が自分を包んだ。

「ちゃんと……連絡するから。悪かった」

 初めて、抱きしめられたその腕は少し震えていて。

 由井はいつの間にか泣いてしまっていた己の頬の涙を掌で拭った。

 体が離れて引かれた手の先には先程出てきたドア。勝手口に使われているそのドアは壁紙が張られていて、端が破けていて。重ねられた掌は雨に濡れたせいか冷たくて。アルコールとタバコの混じった匂いを押す様にアスファルトの匂いが鼻先を掠めて。

 外の景色と同じように汚れた場所で。


「ごめんな由井、ありがとう、気をつけてな」

「サトル!」


 閉じられたドアの音が虚しく雨へと飲まれて。

 階下から聞こえてくる群衆のざわめきと排気ガスを含んだ雨の香り。

 むき出しの鉄筋に流れ落ちる滴。

 煌びやかなネオンライト。

 ――なんて所に、連れてきてしまったのだろう

 由井は泣きじゃくり、汚れた鉄筋の階段に座り込む。

 ドアは叩いても、押しても引いても。

 びくりとも動かない。

 濡れていく全身。

 酷い罪悪感と後悔。

「わ、私……」

 呆然としたまま立ち上がり足は階段を下り出す。

 頭上から降ってくる雨の向こうは混沌とした灰色一色。

 涙が混じった自分の手から。

 サトルのぬくもりだけが綺麗に消えたような気がして。

 ――なにも、できなかった。彼女なのに。好きとか言って、別れたくないとかいって、おかしいとかいって、その癖何一つ!


「……ごめんなんて、なんで言うの……? サトル……」


 歌舞伎町の片隅。

 ぐしゃぐしゃの泣き顔。

 走り出す足。

 ――なんとかしなきゃ。誰か、

 切れていく息。

 そんなことよりも。

 由井はそう思って新宿駅へと向かって走り出す。

 交番でもなんでもいい

 誰かに助けを求めなきゃ

 誰か

 誰か!


 人込み。

 群を成して見える傘の数々。

 鈍く走る右手首。

「キャ!」

 由井の姿が人込みに消えた。



「お前も飲めば? なんか。気にすることねえからさ」

「別に、いい。話が、あるんだろ」

「さっさと話して終わらせたいってこと、な」

 笑顔はそのまま。

 鷲尾の指先がグラスの口を撫でた。

「……由井とは、どこで知り合ったんだよ」

「由井ちゃん? ああ、ついこの前、かな。どっかのライブハウスだよ」

「由井から聞いたのか。俺と付き合ってるって」

「いいや、見てて思った」

 グラスの中身を全部飲み干して。

 鷲尾が席を立つとカウンターへと入る。

 バタン、と冷蔵庫の閉まる音。

 それから氷。

 目の前に出された烏龍茶。

 サトルは視線だけ動かして。

 それへは手をつけないで、ただ指定された場所へと座ったまま。

「お前いつからだったっけ? そんな顔すること多くなったの」

「……何が?」

 鷲尾の言葉にサトルがようやく鷲尾へと顔を上げた。

 流し目で自分を見つめながら缶ビールを煽る鷲尾の姿。

 それから線を引くように鷲尾の口が笑みを作った。

「中学の頃さ、お前が俺の目の前からいなくなってから随分思い出すことが多かったんだ」

「そう」

「初めて会った時、たまたま席が近くて話しするようになってよ」

「そう、だったっけな」

 ――なにが、言いたいんだ……?

 以前に会った時よりも穏やかな鷲尾の様子にサトルは指先が落ち着かない。

「お前、今よりガキみたいな顔してたし、声ももっと高かったよな。俺も身長随分伸びたし……出会ってから時間はちゃんと経ったんだな。陸上部に入るかどうか決めた時もお前すんごい悩んでたしな……」

「……ああ、そうだったな」

「お前昔っからはっきりしないヤツでさ。陸上部決める時だってきっかり一週間かかったしな」

「俺の性格だろ……」

 ――早く、ここから出たい

 身を置いたこともないこんな場所。

 どんなに時間を費やしたってきっと落ち着かない。

 間が持たない。命の保証すらないと感じる相手の昔話に気が遠くなりそうだった。サトルは目の前に出された烏龍茶へと手を伸ばした。冷えたグラス。

「それからやっぱり陸上部にするって決めて」

 ――ああ、それは。まだ大丈夫だった頃の話だ。

「俺もそうするって言ったら、お前無理しなくてもいいのにとか言ってて。でもなんかほっとした顔してて。……犬みてえだなって思った」

 赤いライトに照らされた鷲尾のピアスが鈍く光る。

「いつも犬みてえに人の周りにいて。……いつだってお前、俺の傍で笑ったりしてたじゃん?」

「……昔、はな」

 痛みを覚えていく喉元。

 サトルの指先が喉へと触れる。

 観察するように見つめる鷲尾の瞳。

「喉……まだ痛ぇのか」

「さぁ、風邪でもひいたのかも、な」

「嘘つけよ」

 鼻先で笑う声が聞こえて。

 サトルが重い頭を一層低くした。

「俺のせいだってはっきり言えば? まさかお前の声が出なくなるとは思ってもなかったけどな」

 己の瞳孔が開いたまま。

 ただ見慣れないカウンターの真紅色が見えて。

 奥歯が強く噛み締める。

「俺のせいだったら、嬉しい」

「……どういう、意味だよ」

 声が震える。

 腹の底からこんなに苛立つ事があるなんて。

 サトルは強い視線で鷲尾を睨みつける。

 平然とそれを受け止め、一層笑みを深める鷲尾の表情がふと、穏やかになって。リングをつけた指先がサトルの顔へと伸びた。

「俺も答えが出るまで、随分時間食ったんだ」

 脅しを含んだような掠れた鷲尾の声。

 同時に掴まれた首。

 サトルの喉がひゅ、と音を立てた。

 見えるのは目を閉じている鷲尾の睫毛。

 それから眉の横へと開けられた二つのボディピアス。

 強い香水の匂い。


 それから知らない、唇の感触。


 サトルは瞳を大きく見開いて。


 固く目を瞑った。


「っ!!」


 両手で鷲尾の両肩を払い除けようと押し続けるもビクリともしない。口付けは更に深さを増して。歯列を割って入ってきた舌の感触にサトルの口から声が漏れた。

「っぃ……!!」

 ようやく離れた鷲尾の表情は冷淡に映し出されて。

 サトルはいつの間にか席から落ちて床へと座り込んでいた。鷲尾はその姿をじっと見てから、目を逸らして吐き捨てるように話し出す。

「お前も知ってる通り、昔から俺は女尽きたこともねえし、切れた女の尻を追うなんてしたこともねえ。だからなんでお前をこんなにも憎く思ったのか、お前が離れていった事が許せなかったか分かんなかったんだよ。単に俺はお前に対しての敗北感やら劣等感やらが憎さの原因だって思ってた。周りがずっとそんな事ばっか言ってたし、お前が俺を『そっち側』って思ったならそうなんだろみてえな感じにな。でもこの前の事件以来さ……お前の事血達磨にしたリュウ先輩覚えてるだろ?」

 サトルは話される言葉に理解が追いつかず、ただ困惑して俯いたまま。唇に残った感触に呼吸を繰り返した。

「……お前が殺され掛けて、ざまあみろって思う反面、リュウ先輩がすげえ羨ましいと思った。お前が死ねば、解放されるとか思っちまうこの感情がなんなのかずっと……考えてた」

 全部終わりに、と、自分の首を絞める鷲尾の姿が眼裏に蘇って、今も消えずに残る痣をサトルは俯いたまま無意識に指で辿った。

「中学の時、お前は俺の傍で笑って部活も一緒にやって。俺はあの日常がずっと続くと思ってた。部活の連中がお前に対して中傷やら文句やら言うようになって。それから庇おうとした俺をお前が、いらないって切り捨てた。それから部活の連中どころか、俺の事すら避けるようになったお前が本当に腹から憎くなって……結果あんな毎日だ」

 サトルにとっては――今にも死にたがっていた毎日だ。

「進学先は勝手に都立だと思ってたのに俺らの学校にお前は居なくて。……探した、マジで。俺はもう、陸上はやらなかったし正直、元の部活の奴らは俺に引いてたのも知ってた。……それから。新しい仲間と笑ってるお前を見つけて何でか、憎いだけじゃすまなくなって。他で笑ってるお前が大嫌いだと思った。……俺を見て怯えるお前が、大嫌いだ、と思った」

 言いながら鷲尾はサトルから離れてカウンターに入り、手荒に氷と酒をグラスに入れて呷った。サトルは目を上げて鷲尾を見る。合ったその目が嫌に笑んで。

「お前間違ってるよ、松崎。お前の居場所はココだろ。アカーシャとか由井とかそういう場所じゃねえし間違っても奥崎でもねえ。だから今度は迎えに来てやったんだよ、お前の本来の居場所に。お前の居場所はいつだって。……俺の隣だろうが」

 カウンターの扉が音を立てて開く。

 自分へと近づいてくる鷲尾の靴音。

 サトルは驚愕したまま。

 ただ目の前で立ちはだかる鷲尾を見つめる。

「お前は誰にもやらねえ」

 伸ばされた手。

 サトルの喉元に掛けられる圧力。

 苦しげに顔を歪めて。

 視線の先の鷲尾が笑う。

「奥崎が出させた声なら、俺がお前の声を潰してやるよ。ちゃんとこの手でな」




 厚く黒い雲が立ち込めた空の下へと線を描いて稲光が青白く鮮明に見えた。その直後からの雨はまるで滝のようで。濡れて流れる水のカーテンからシノブは確かめるように空を見つめた。

 カバンに入れたまま鳴らない携帯。なにかがいつもと違うような気がしてならなくなった。これが嫌な胸騒ぎってやつだろうと、シノブは重い頭に被せていた白いバスタオルを手に取り外す。

「嫌な天気だね、雷まで落ちるなんて」

 すっかり暗くなった空は沈黙を守ることはない。

 景色すら水が塞いで。

 シノブは落ち着かない様子で窓から離れると壁越しに置いていた己のカバンへと向かって歩く。

 ――マツ、やっぱなんか、あったんじゃ

 掛けられたミナミの声に返事も返さない口とは裏腹に頭の声は尽きず、シノブはカバンの傍へとしゃがみこむと奥へとしまっていた携帯を取り出す。

「誰かに電話でもするの?」

「……あぁ」

 ミナミの問いへ適当に口が相槌を打つ。携帯を開くとディスプレイのライトがやけに瞳孔を刺激して、思っていたより室内は暗い事に気付く。画面にはメールも電話も来た様子はなく、余計に不安が溢れるようで。

 シノブの表情を失った顔が暗闇に鮮明に映し出された。

「そんなに心配?」

 ソファの撓る音。シノブは携帯から目を離し、ソファへと座るミナミへと振り向く。暗がりに浮かぶ立体的な影。顔がよく見えず、シノブが眉間に皺を寄せて目を細めた。

「……つーか部屋暗くねぇか? 目、悪くするから明かり点けろよ。もう夜になる」

「いいんじゃない? このままでも」

 冷淡に響くミナミの声。シノブは都合悪そうにその場に座り込むも暫くしてから舌打ちを繰り返した。

「…………心配、するのは当たり前だろ。大事な……」

「大事な? 大事な何?」

「怒ってんのか? てめえ。やけに機嫌悪そうじゃねえか」

「あ、怒ってるのに気付けた?」

 ミナミの掠れた笑みが耳に届いて。

 シノブの顔が嫌そうに引きつる。

「性格悪ぃな、てめえ」

「そうかな、そういう君も神経図太いんじゃない?」

「あ?」

「俺は君の事を好きだと言ったんだよ。嫉妬しないわけがなくない? なのに怒ってるのか? ……ってねぇ」

「嫉妬って……今はそういう話じゃねえだろ。以前の事があるんだ、お前だって分かるだろうが? マツのことやっぱり引き止めておけば良かった、あいつやっぱ電車で変だった。……また後悔するとか、冗談じゃねえ……」

 苛立ったシノブの声が雨音に馴染む。

「さっぱり、わからないね。分かったとしてもそれへと関与するつもりもないよ。関係がないからね」

 涼しげな声がはっきりとそう告げて。

 シノブの口元が片側引きつり出す。

「おい……てめえ俺と喧嘩してえのか? スキとかキライとかそういうんじゃなくてマツが」

「ああ、君のマツ君の事件でしょ、知ってるよ。友人にリンチされておまけに声すら失ってしまった天才ヴォーカリストの事件。……それがどうかしたの?」

「どうかしたのって随分、他人事みたいに言うじゃねえか……」

「他人事だよ、立派なね。しかもその根に君は入りたがってる。大概厄介な問題だよ、俺にとっては」

「もういい。お前と喧嘩してる場合じゃねえ。俺は新宿に向かう。邪魔したな」

 バスタオルを首から外して床へと置くとミナミへと背を向けた。


 空から、鮮やかな雷鳴。


 背中へとかかる重圧。

 部屋へと入り込む青白い光の乱反射ではっきりと見えた自分の手を握るミナミの細く長い指先。耳元にかかるミナミの吐息。シノブは後方へと抱き寄せられて目を見開いたまま。硬直が5秒。それから続く紅潮が長い時間。

「お、おいっ……!」

「行かせてしまって後悔するなんて、俺はごめんだな」

 いつも明け透けに聞こえる声の、いつになく低いトーンがシノブの耳の奥の奥へと刺激を与える。

「松崎の所にそんなに行きたいの? 奥崎がいるのに」

「オ……オックなんざ当てにできるかよ! 前の時だって俺はなにも知らねえで、何もできなかった自分に嫌気が差してんだ。だから今度は」

「駄目」

 響く雷鳴が部屋を揺らしたような気がして。

 シノブの体の重心が収まらないような。

 そんな、眩暈。

 歪む影。

 外の音さえも遮断するような雨音。

 まるで密室に閉じ込められたような圧迫感。

「だ、ダメって……おま……」

 急に走る鼓動の音。

 シノブはミナミの手を振り解くことすらなく。

 ただ壁に映る己とミナミの重なる影を目で追って。

「悪いけど、行かせない」

 ――……あ

 振り返った先の表情に痛んだ、胸元。

 顎を捉える指先。

 未だ濡れているミナミの髪。

 己の腰を抱きしめるミナミの腕。

 誘導される口付け。

 シノブは受け入れたがる己に混乱した。

 逆らえず、逆らいたいとも思わなかった。

 振り返った先のミナミが、泣いているように見えた。

 ――今こいつを置いて、出てく事なんて、

 絡め取られる手。

 動くことさえ出来ない足。

 息することさえ。


 頭の片隅に揺れるサトルの張り詰めた表情。


 薄れていくその映像にシノブは微かに目を開けた。

 目の前に見える長い睫毛。

 己の体を確かめるように這うミナミの指先。

 シノブはゆっくりと背を反らした。

 まるで熱を奪われるような、この雨の日。

 ミナミが泣いたりするからだ――と。

 思いながら。

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