第32話 決意と辛さ、開く深淵の口

 暫く走って、それから速度を落とす。

 知った肺を汚す空気。

 鼻をつく、人間と排気ガスの匂い。

 遠くから、そして近くから聞こえる雑音。

 汚れた階段を駆け上がり、見えたのは肩までの巻き髪。

 目に浮かぶ笑顔が目の前でまた微笑む。

「お帰りなさい、サトル」

 嬉しそうな彼女の声。

 人込みの中からじっと自分へと向けられる視線。

「由井」

「傘、降ってきたから買ったんだ。新宿まで来るの久しぶり」

 向けられる笑顔。

 ――笑わないでくれよ

 サトルは静かに笑んで自分の腕へと絡まる細く冷たい由井の手を見つめた。


「ここのパスタ美味しいって友達も言っててね。今度サトルと来たいって思ってたんだ」

「そうか」

「美味しいでしょ? ピザも頼もうか?」

「いや、食べてきたから俺はいいよ。由井頼みたかったら食べなよ」

「ううん。じゃあいらない。食後のコーヒー、もうもらおうか」

「……そうだな」

 普段よりも流暢に話し続ける由井の笑顔は耐えることなく続く。サトルは笑顔を作ることさえ限界に覚え、皿に残ったパスタをフォークの先で弄る。

 JR新宿駅東口から歩いて十分。

 地下へと伸びる階段を下りた場所にその店はあった。

 壁はレンガが敷き詰められ、テーブルには赤い蝋燭。

 天井にはオレンジの光を放つ簡素なシャンデリア。

 白いテーブルクロスには花の刺繍。

 店員の明るい声。

 正面に座る由井の様子にサトルは思わずため息を吐いた。

「大体旅行に行くなら一言言ってほしかったな。ずっと連絡ないんだもん」

「悪い、急だったから」

「アカーシャのみんなで行って来たの?」

「ああ」

「仲、良いのね。みんな」

 ふふ、と由井が柔らかく笑う。

 以前なら自然と受け取れていた彼女の笑顔すら重く感じ、サトルはため息混じりに笑みを零した。

「疲れてるのね、サトル」

 その時ようやく、由井の自分への呼び方が変わっていた事に気付いたが、静かに頷いた。

「昨日、ちゃんと寝れなかったから」

「そっかぁ。由井も行きたかったな」

「……うん」

 言葉に、詰まる

 サトルは落ち着かない自分の手を見つめた。

「由井」

 言わなきゃ、ダメだ。

「なに?」

 言わなきゃ

「ちゃんと、話したいと……」

「別れないって私言ったよ?」

 サトルはゆっくりと顔を上げるも由井の笑顔は揺らぐこともなくそこにある。

 ――でも、……ダメだ。

「ごめん、これ以上は……無理なんだ。俺は由井と別れる」

「それは奥崎さんがいるから?」

 思いもしなかった言葉にサトルは目を見開く。

「…………え?」

 やっと出たのは気弱な、か細い声だった。

「私聞いちゃったんだ。サトルと奥崎さんすごく仲が良いんだって。この前一緒に行ったライブの日。……倒れたサトルを連れて行ったのって奥崎さんだよね? あの日私ずっと心配でライブハウスの前で待ってたんだよ。なのにサトル、連絡もくれなかったから……少し寂しかった。その時にね、親切な人から声を掛けられて、教えて貰ったの。それからずっと苦しんだよ、私。でも、それでもやっぱりサトルのこと好きだから、私は諦めたくなかったの」

 ――誰から、どこまで? 一体何を聞いたのか、「仲が良い」程度の話で苦しんだ、なんて言うだろうか。混乱する頭の整理は付かなくて、打ち始めた心臓の音が酷いけれど、由井の言葉は止まらない。

「サトルの事、奥崎さんに渡したくなんかない。だっておかしいもん。男の人に何でとられなきゃいけないの? 私は女で、サトルは男でしょ? 普通じゃないよ。普通じゃない!」

 徐々に激昂する由井の言葉で何を聞いたのかは察した。その声に、マコトの問いが重なる。

 ――男でも?

 興奮した由井の顔に、何故か気持ちが落ち着きを取り戻す。

 その問いの答えになら、迷う事は、ない。

 鳴り続ける心臓の音の意味だ。

 昔は死にたいと願っているのに生きている証しのようだと思っていた。大嫌いで堪らなかった。でも、今は、違う。好きだから胸を打つ。会いたいと思うから、触れたいと思うから、愛したいと思うから、心臓が強く自分を打ちつける。それ以外に、鳴る必要はないのだと、場に不釣り合いに心が凪いだ。

「それでも。普通じゃなくても」

「それでも俺は由井と別れるよ」

 真っ直ぐに由井を見つめてサトルは言った。


 運ばれたコーヒーは冷めて。

 由井の笑みが消えてから数分。

 サトルは横に置いていた荷物を手に持つと席を立った。

「もう、帰るの?」

「ああ、みんなが心配するから」

「ちょっと待ってよ。このままじゃなんか……悔しいな」

「ごめん。これ以上一緒にいても、俺は由井のこと傷つけるだけだ」

「……そんなことないから。少し付き合ってよ。これで最後で構わないから」

「できない。俺は由井のこと傷つけた。ただ一人になりたくなくて、そんな理由で由井のくれた気持ち踏み潰したようなものだって思ってる。これ以上一緒にいても由井には俺は、……謝ることしかできない」

「最後だよ。最後のわがままだから。お願い」

 静かに話す由井の表情に笑みが浮かぶ。

 サトルは手にしていた重い荷物を床へと戻した。

「ありがとう」

 涙声の由井の様子。

 サトルはゆっくりと首を横に振った。




「あー重てぇ……」

「持ってあげようか? ゴリラ君。意外と腕力ないんだね」

「うるせえよ。悪かったな、ゴリラのくせに腕力なくてよ。俺は頭脳派なんだ。なんでもできる風紀委員長様と違うんでね」

「意地悪な言い方だなぁ。だからタクシーで帰ろうって言ったのに」

「てめえと二人でタクるのはごめんだな。つうか金が勿体ねえ」

「へぇ。おまけに貧乏性か。俺たち本当に息が合わないね」

「……貧乏性なんじゃなくて貧乏なんだよ、俺は。つうか雨最悪。もうビショビショじゃねえか」

「風邪ひくんじゃない? 俺が風邪ひいたらゴリラ君のせいだから」

「なんで俺のせいになるんだよ、タコ」

「せっかく付き合ってあげてるのにその言い草ないんじゃない? 少しは俺に楽に接しなよ」

「嫌だ」

「警戒心旺盛だね、君は」

 アスファルトに打つ雨は白い波紋を作ると消えて。

 舗装された脇道に流れる水の流れ。

 濡れた前髪は額へと張り付いて気持ちが悪い。

 シノブは眉間に皺を寄せたまま指先を真っ赤にして重い荷物を手に寮へと歩く。その隣を並んで進むミナミの表情は曇ることなくシノブはそんなミナミに舌打ちを駅についてから数回繰り返していた。

 雨に濡れてひどい有様に見える自分と対照的に前髪に滴る水さえも邪魔に感じさせないミナミの容姿。

 そんなミナミの視線が自分へと向けられて。

 シノブは咄嗟に嫌そうな顔を作る。

「……松崎君が心配?」

 今、全く考えてもいなかった事に気付いてシノブは小さく唸ってから不機嫌そうにあぁ、と声を漏らした。

「一緒についていきたかったんでしょ、ゴリラ君のことだから」

「だったらなんだよ。友達のこと心配して悪いか?」

「いいや、自然な行いじゃない? 以前のようなことがあったから気が気じゃないかと思ってね」

「それはな。てかオックがついてけばよかったのに」

 大分前に駅前で別れたアカーシャのメンバー達と平然と話していた奥崎の様子を思い出して、愚痴のように不満を述べるシノブへとミナミがくすりと小さく笑った。

「……んだよ。なにかおかしいか?」

「いいや。別におかしくないよ。でも君は過保護だね」

「はぁ?」

 威嚇のようにミナミへと声を上げるシノブ。それでもミナミは涼しげな顔でシノブへと横目で見つめた。

「彼女と別れる気なんでしょ? 松崎君」

「ああ、そうだろうな」

「だったらやっぱり一人で行かなきゃね」

「……どうしてそう思うんだよ」

「人の事傷つけて、それへと謝罪する。当たり前のようで難しいことだけど……そんな時に他人の力を借りるのは間違いだと思わない? 傷つけてしまったんなら同等に自分も傷つかなきゃ、ね。人の気持ちを拭うには何かしらの代償が必要だよ」

「…………かもしれねえけど」

 同席しないまでもせめて、近くで待っていてやるとか、色々フォローする方法はあるのでは、と煮え切らない己の頭にシノブはそのまま言葉を濁した。

 ――助けてやりたいこの手はいつだってあるのに

 ――それも自分の自己満足のためか

 シノブは深く、長いため息をついてからまだ先の長い道路を睨み付けた。

「あー……遠! マジ風邪引く!」

「それは良くないね。なら俺の部屋に来て一緒にお風呂でもどう?」

「なんでお前と風呂だよ! バカか!」

「え? 俺の部屋特別待遇だから風呂広いんだよ? 寮に戻ってもまだこの時間じゃ大浴場は入れないんじゃない?」

「てめえと入るくらいなら死ぬ! 俺は死ぬことを選ぶ! つうか逆に一緒にあいつ等とタクシー乗れば良かったぜ。失敗した」

「変にプライド高いからじゃない? 自分ルールに縛られてもこうやって損する場合もあるんだよ」

「いちいちうるせえなぁお前! さっさと歩けよ! あとこれ持て!」

「はいはい」

 視界を邪魔立てするように掠め続ける雨。

 耳へと聞こえる雨音。

 ――事件の日を彷彿とさせるかのような冷たい雨。

 シノブの胸騒ぎは沈黙を拒否した。

「やっぱ風呂貸せ、ミナミ! 俺は風邪なんかひいてられねえんだよ」

「いいよ。仕方ないなぁ」

「どっちだよ!」

 優雅に笑うミナミへと調子を狂わせながら進む足は更に速度を上げる。胸に湧いた不安から逃れるように。




「サトルの好きな人ってやっぱり奥崎さんなの?」

 煌びやかな赤い照明が対照的なアスファルトの汚れた黒色と雨に反射して。あまりにも現実を帯びたこの新宿の街を歩く足が痛み出す。手を握られたその指先はやけに冷え切って。

 サトルは由井の問いに答えられず、ただ歩を進めた。

 雨音と雑音が入り混じった音が耳に響いて、見上げる空はどこまでも澱んだ闇。降り続ける雨に瞳を細めて呆然と顔を上げたままで。引かれた腕へと視線を向けると穏やかに笑む由井の顔があった。

「ごめん、意地悪な質問だったよね。私って嫌な女なんだなぁ……」

 後悔の響く由井の言葉。

 そんな由井の小さな姿にサトルは胸の奥を締め付けられた気分になって握っていた手を強く握り返した。

「ごめん、由井のせいじゃねえから」

「……優しくないよね、私。サトルのせいじゃないよ。どんな理由でも好きな人が幸せなら納得すればいいのに、……私全然子供だね」

「いいや……本当に、ごめん」

 手を握ることしか、できない。

 握り返してくる由井の手。

 小さいその手が微かに震えている事にサトルは気付いて、ようやく由井へと目を向けた。由井の大きな瞳が自分を心配そうに見つめるサトルの視線に気付いてゆっくりと笑う。

「寒くない? サトル」

 由井の問いへと首を横に振る。

 一層笑みを浮かべる由井。

「サトルがライブやってた時って私は一ファンだったんだけど、すごくカッコイイって思った」

「……そっか」

「うん、ホント。本当ならこうやって隣で並んで歩いていることだって奇跡だよね。ホント……」

「奇跡、とかじゃねえから」

「私にとっては奇跡なんだよ。公園で座っているサトル見つけた時すごい興奮したの覚えてる。声かけるのもすぐできなかったし。何日かしてからだったから」

「……だったんだ。知らなかった」

「うん。初めて言ったもん。あのステージに立ってた人とこうやって隣で今並んでるなんて……少し前の私なら、想像もしてなかったから」

「そっか」

「今は。……今はまだ私、……彼女だよね?」

 不安げな表情を浮かべる由井の揺らぐ瞳。

 サトルは罪悪感を抱くも少し目を逸らしてからゆっくりと頷いた。

「ホント……ごめん。由井」

「……ううん。本当にありがとう」

 止まらない雨音。

 あの一件が脳裏を過ぎる。

 都会の澱んだ空気と見知らぬ人間と肩をぶつけ合いながら歩くこの先の道と。傷つけてしまったこの小さな手の感触と。気持ちのどこかで奥崎に早く会いたいと望む己の気持ちが酷く汚れているような気がして。

 今は、由井へと己の瞳を向ける。

 小さく、笑う由井の姿。

 独りだと知った時に自分へと声をかけてくれた。

 時が違えば。

 場所が違えば。

 何かが少しずれていれば。

 なんの後ろめたさも感じず、由井の手をこのまま握り締めていた未来があったのかもしれないとさえ。

 サトルは思った。




 ネオンの色が徐々に煌びやかさを増して。

 曲がり角に居座るホームレス。

 看板を持って退屈そうに虚ろな目をした男の姿。

 流行のスタイルに身を包んで我が物顔で進む女の群。

 スーツ姿の男が緩く笑っている姿。

 初めて遅い時間に足を踏み入れた新宿歌舞伎町。

 想像したよりももっと現実味を帯びた欲を感じた。

 自分の手を引いて歩いていく由井の足は迷うことなく先へと歩く。

「由井、戻らないか? ちょっとこういうところ……」

「いや?」

 ふいに瞼の奥に甦る由井のあの寮を見つめる冷たい視線が鮮やかに映った。被る目の前の表情にサトルは息を飲むもすぐさま笑みを浮かべる由井に何かが崩された。

「少し休もうよ。サトル」

「……え? どこで?」

「いいから」

 雨のように冷たく耳へと残る由井の声。

 サトルは胸苦しさに周囲へと視線を向けるも他人へ無関心な瞳が数多くこの街には存在していた。

「ちょっと悪い。携帯鳴ってるから」

「サトル」

 不満げな由井の声へと意識的に反応せず鳴ってもいない携帯を取り出し開いて、耳へと当てようとする。

「サトル!」

 怒声の入る由井の声。

 ふいに掴まれる己の腕。

 携帯が濡れたアスファルトへと滑り落ちる。

 急に雨音を増して体へと打ち付ける雨。


 掴んだ腕は女のものではない。


 視線を上らせる。

 目が眩む程のデジャヴ。


「…………っ!」

「松崎、久しぶり」

 以前よりも髪の伸びた知った顔。

 耳には数多くのピアス。

 染めた髪。

 鈍い光を放つ瞳の色はあれ以来変わっていない。

「鷲尾さん」

 不機嫌そうな由井の声。

 サトルの頭の芯が一気に冷える。

 思考は想像を繰り返し、動揺する瞳が由井を直視することを避けて。

 ただ掴まれた腕に痛みを滲ませる。

「遅ぇから迎えに来ただけだって。別に松崎と由井ちゃんの邪魔しようと思って来たわけじゃないよ。偶然」

 笑う鷲尾からは知らない香水の匂いがきつくする。

 由井は深いため息をつくも納得したように頷く。

「由井……?」

「鷲尾さんがね、色々と慰めてくれたりしてくれたんだ。サトルと同級生って聞いて最初ビックリしたけどね。鷲尾さんもサトルに会いたいって言ってたから……急に無理に連れてきてごめんね」

「由井ちゃんが謝ることじゃないって。俺が悪かったよ。偶然二人が歩いてるの見えたからさ。松崎も悪かったな」

「……ぃ、いや……」

 ――雨のせいか、状況のせいか、……眩暈がする

 サトルは体の全てから熱が失われていくような。

 そんな感覚に襲われた。

 雨に打たれた携帯を由井が拾って。

 サトルへと差し出す。

 サトルは沈黙したままの携帯へと視線を向けて、暫くしてからそれを受け取った。

「……腕、離せよ」

 ひどく低い声が出て。

 同時に希薄な笑い声を上げる鷲尾。

「悪い悪い、そんなに怒るなって。ホントお前昔からおこりんぼうだよな」

「……携帯かけてくる」

 腕を解放されて。

 携帯を開く。

 微かに震えている己の指先。

 サトルは何度も唾を飲み込んだ。

「サトル? 顔が真っ青だけど……大丈夫?」

「……大丈夫だ」

 無理に作る笑顔すら引きつりそうで。

 サトルはメール一覧を開きながら由井へと懸命に笑む。

「なんか……ごめん……」

 申し訳なさそうに謝る由井。

 ――反応を返さなきゃ

 そう思うも震えの増す指先にサトルは舌打ちをした。

 リアルに肌で覚えているあの出来事。

 またリピートされる恐怖。

 サトルは携帯のボタンを操作しながら奥崎へとメールを送ろうとする。

 ――せめて場所だけでも

「おい、今は由井ちゃんのことちゃんと考えてやれよ。松崎」

 真剣な仮面を被った鷲尾の声。

 サトルはゆっくりと鷲尾へと振り返るとそこには極上の卑屈な笑みがあった。

「話、しようぜ。顔色も悪い」

 鷲尾から差し伸べられる掌。

 数個の鉛色の指輪。

 知っているその掌。

 由井がそっとサトルの手を引いた。

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