自分の傷・誰かの傷

第31話 必要な感情の整理と、行動

 帰りの電車は来た時に比べると異様な程静かだった。

 いつもは騒がしい面子も疲れたのかそれぞれ静かに車窓からの風を受けながら眠る。朝から吐きそうだと喚いていたシノブも今は口を開けて寝ているのが見えて、サトルは声を出さずに笑んだ。行きが一緒だったマコトは今回の別荘の主である渡辺と共に別荘へと残り、朝早くからコウジとシギは自家用車で帰った。

 朝から清々しくみんなに挨拶を交わしていたシギが、サトルは羨ましかった。自分にとっては朝は苦手な時間で、それは今もそうだ。起き上がるとこれから起きるだろう一日の嫌な出来事への妄想が膨らんで憂鬱になって、具合が悪くなれば良いなんて望んでしまう。迎えた朝日はいつだって精神的に参る。

 サトルはぼんやりと帰りの風景を見つめた。

 隣に座る奥崎も目を閉じて。

 ただ電車の車輪の音が耳に入った。

 遠くまで見える山々。

 広がる緑の光景に線を引くように走る道路。

 穏やかに眠る全員を乗せて、――慣れたあの場所へ戻る。アカーシャ復活ライブはすぐにでも、という話だった。またあの頃へと戻っていけているような感覚が戻って、サトルの表情は穏やかになった。

 急に、長い足を広げて眠るレンの姿が目に入る。タキの事をずっと聞けずにいた後悔が込み上げた。タキの前では常に機嫌が悪そうだった印象が強いけれど、しっかりした面を持っていることに気付いた。明るく振る舞っているし、タキの名前も口にしているなら……お互い納得ずくで離れているのだろうか。けれどどこか寂しげに見える気もして、聞きそびれているのか、聞けずにいるのか。外国に行った、と聞いたけれど、それが自分が入院中の事だったのかその後の事なのかさえ分からない程自分の事ばかりだった不甲斐無さを感じる。

 タキの、真っ直ぐな言葉を思い出す。

 マコトの、「兄貴みたいな事」という言葉を思い出す。

 『好きな人には、ちゃんと』

 耳に返ってくる声に、携帯の事を思い出した。

 この一泊二日の旅行時。

 一度も開かなかった携帯。

 サトルは座席の横に置いていたカバンの奥へと手を入れて携帯を掴んだ。電源を入れると着信ありを示す、グリーンの点滅に躊躇せず、冷静に画面を見る。表示される、着信、メールは膨大な数で、充電を示す表示も残り少なくなっていて。――覚悟はしていたつもりだけれど。サトルの表情が曇った。それでも、一息吐いて顔を上げる。外から吹き付ける風には、自然の香りがする。


 こんな光景は知らなかった。

 知っていたのは乱雑に切り取られた空だった。

 今はもっと世界を知ることができた。

 一緒にいたい人も。

 たくさんの優しい人たちも。

 自分の居場所も。


 もう一度。心を決めて、サトルはひとつひとつ、メールを開いては次々と送られていた文章を読む。瞳は懸命に文章を追いかけては時折揺らぐ。全部読み終わって、サトルは大きくため息をついた。目を上げる。

 車両には疲れて眠る、大事な人たち。

 サトルは思ったよりも落ち着いていられたことに安堵して、それから隣で眠る奥崎を見つめた。

 見ているだけで、幸せだと思える。

 心が、こうして選んでしまった。

 ――だから。胸を張りたい。もっとちゃんと、あんたに相応しい人間になって。隣を歩いて行く。

 勝手に溢れる意味も知らない涙。

 それを指で落としてから、サトルは携帯の返信メールを開いてゆっくりと言葉を打ち込んでいく。


 遠くで待つ、自分が傷つけた人へと。




 いくつもの景色と長いトンネルを抜ける。

 風の匂いが変わって、車窓から見える空が狭く感じた。

 むき出しになった汚れたコンクリート。

 血管のように伸びる電線。

 軋む車輪が音を立てる。

「もう都内に入ったか?」

 シノブの声にサトルは窓から目を離さないまま首を横に振った。

「ううん、後もう少しで都内だよ。まだ着かないから寝てなよ、神崎。顔色悪い」

「別に、寝起きだからだろ。お前こそ疲れたんじゃねえのか? 暗い顔しやがって」

「そうかな」

「そうだ。俺にはわかるんだぞ、一年も同じ部屋で寝起きしてんだからな」

 唇を尖らせるシノブにサトルは不思議そうな表情を浮かべるも、そうか、と小さく呟いてから、今にも降り出しそうに濁った空を見上げる。あれほど晴れていた空はいつのまにか色を変え、心さえ重く覆っていくような空。

「雨降るかな……」

「ああ、こりゃ降るかもな。つか全員寝すぎだろ? オックもぐっすりじゃねえか」

「ヒサシ先輩車借りて皆で機材運びとか、昨日のために、練習もしてきてたみたい。俺は幸せだなー……、って。……本当に思ったよ」

「お前、死ぬわけでもあるまいし! んな遺言みたいなことを口にするもんじゃねえぞ? 縁起でもねえ」

「昔からマイナス思考なんだよ、俺は。てか、ありがとな、神崎も」

「あ?」

 素っ頓狂なシノブの声に奥崎が小さく唸った。

「神崎も知ってたんだろ? ライブの準備とかしてたの」

「俺は黙ってろって言われたからそれに従ったまでだ。別に手伝いしたわけでもねえし……礼はあいつ等に言え。俺に言ったって何にもならねえぞ」

「言いたいから言っただけ。……俺はすごく支えられてるって実感したよ」

「ふ、ふぅん。なら、良かった……」

 シノブの頬が徐々に紅潮していくもサトルは穏やかに笑んで、また小さく頭を下げた。

「あのさ。神崎は俺が最初、声が出なくて歌えない、って泣いたの見てるから、ずっとそれを覚えててくれたんだと思う……けどさ。俺は結構すぐに声が出せないなら自分が痛々しいから周りはきっと優しく接してくれるとか、その方がいいとか思ったんだ。嫌な状況だったのに、楽なメリット詰め込んで、そのままオクさんに寄りかかろうとしてたと思う、情けねえけど」

「マツ……」

「でもオクさんに距離を置こうって言われて。それが嫌で嫌で、こんなに傷ついたのに、どうして俺が捨てられなきゃいけないのか、って思ってた。凄い、憎かったと思う。オクさんが好きで、立ち向かったのに、オクさんは俺が声が出なきゃいらないんだ、とかさ。そう思ったのは、オクさんにも、言ったけど」

 情けなさそうに、自嘲気味に笑うサトルの告白に、神崎は黙って頷く。

「……あの、事件の時な。鷲尾の先輩が俺の事殴りながら、俺の声で狂った、って言ったんだ。その時は全然訳が分からなかっただけだけど、事件の後……多分何度も夢に見て。お前の声で狂った、って何度も何度も事件を繰り返して夢に見るうちに、じゃあ、俺の声で狂ったから、こんな目に遭ってるのも全部俺の声のせいなんだ、って思った。だから声が出なくなればいいとか、俺はきっと思ったんだよ。傷つきたくないから。必死に助けてくれたみんなの、オクさんのことすら頭にないとか……今思えばバカだったと思うよ。後悔してる」

「……あんな目に遭ったんだ。そう思ったって不思議じゃねえだろうが。監禁されて暴行うけて、助けすらなくて、お前は不安で仕方なかったんだよ。そんな夢見てんのも、夢なんか自分で止めようねえし、じゃあ出しません、つって声が出なくなるもんでもねえだろ。それにそれ、事件からずっと寝てた間の事だろ。起きた時にはもう出なかったんだから。俺らが助けに来た事を夢に見ろよ! って怒るのか? そんな都合良くいくかよ……お前が何を後悔すんだ、バカ」

「神崎は俺に優しすぎだよ、いつも。俺も仕方ないんだ、って思ってたよ。でもそんなんじゃなかったんだと思う。だって、結局オクさんが離れるんだ、声が出ないから離れるんだ、じゃあもういいとか思ってたらそのうち出たんだよ、急に。都合良すぎじゃん……、あの時はふて腐れて別に声とか今更もうどうでもいいとか思ってたのも、それで神崎と喧嘩になったのも、本当に恥ずかしいよ……」

 そういえば声が出るなり別にどうでもいいとか関係ないとか言い出してそれはもう大喧嘩になった、とシノブは思い出して少し笑う。

「しかしお前はお前に冷たすぎだと思うぜ? 逆に声が出なくなったのも出たのも自然な流れだったんだなと俺は納得したわ。それから俺はお前には特別優しいんだ。あん時はお前をオックから取ってやる気だったしな!」

 不貞腐れたシノブの口調にサトルは笑顔で頷く。

「……あんなに歌を歌うことが好きだと感じたのは、もしかしたら昨日が初めてだったのかもしれない」

「じゃあ、良かったじゃねえか。分かって」

「本当、そうだよな。神崎は今回の旅行楽しかった?」

「楽しかったような……お前の歌、聞けたし。でも……後は疲れた、な」

 ぐったりした口調で返すシノブにサトルが静かに笑った。聞こえてくる誰かの寝息。轟音を立てて耳を刺激しながら疾走するトンネル内。

「神崎」

「あ?」

 トーンの落ちたサトルの声にシノブが瞬時、眉間に皺を寄せた。

「俺、頑張るよ」

 静かなサトルの声にシノブは懸命に耳を傾けて聞き取れた言葉に満面の笑みを浮かべて頷いた。

「おう、応援するっつうの。でも無茶すんなよ」

「うん。ちゃんと自分で立って後悔ないように動くよ」

「おう」

 優しげに笑むシノブの顔。


 サトルたちを乗せた電車が見知った駅を通過する。

 知った文字。駅構内。錆びた標識。

 見覚えのあるようなサラリーマンの列。

 すり抜けるように光景が目の奥を通り抜けて。

 電車は終点の新宿駅へと進む。

 内ポケットの中で震え続ける携帯。

 サトルは目を閉じて、静かに呼吸を繰り返した。

 あの嫌な音を立てる心臓の音を体に響かせるために。




 見慣れたどこまでも続く高層ビル。

 永遠に続くような都市。

 線路横の太いケーブル。

「もうここまで来ちゃったんだ。早いね」

 キョウイチの喜々とした声と隣で眠そうに頷くヒサシ。レンも外へと視線を動かし、小さくため息をついた。

「帰りっつうのはやっぱ早いもんだな。あっという間だ」

 嫌そうにワックスで整えていた髪を指先で崩した。

「楽しかったから余計に早く感じるのかもしれませんね。少し、天気も悪いみたいだし」

 サトルが残念そうにレンへと話しかけると、レンは緩く笑みを含んだ。

「ま、それでも楽しかったんならよかった。帰ったら忙しくなるしな。マツ君もまた前みたいに練習するからな」

「はい、頑張ります」

 サトルの返答にようやく目が覚めたのかヒサシも嬉しそうに微笑む。

「もう新しく二、三曲は用意してるのよ。楽しみだわ。またマツ君とライブできるのね」

「最近結構良いバンドも出てきてるし今度みんなで見に行くか。良い刺激になる」

「はい」

 ヒサシとレンの言葉にサトルは照れながらも笑顔を浮かべた。揺れる座席と少し響く車輪の音。横から伸びる腕がサトルの肩を抱く。

「寝てた」

「疲れてるかと思って起こさなかったんだ。ホント今回はありがとう」

「礼なら渡辺とマコトに言ってやれ。場所を提供してくれたのはあいつ等だからな」

 鮮明に蘇るマコトの不安げな表情。

 渡辺のキス。

 サトルは瞬時に表情を曇らせるも小さく息を吐いた。

「……うん。今度学校で会ったら礼を言うよ」

「でも松崎先輩いいなー今回みたいなサプライズ。俺がヴォーカルの時はなかった。贔屓じゃん」

「そういう言い方しないで、キョウイチ。あんただって今度別の友達とバンド組むんでしょ?」

「仕方なくだよ。アカーシャほど上手いわけじゃないし、今回はヘルプで入るだけだし。カウゼルのコウジが駆けつけて来たりとか……なんかずるいよな」

 不貞腐れた様子のキョウイチにヒサシは苦笑いをする。


 窓の外の景色はどこまでも続く厚い雲。

 遂に車窓に流れ出した雨。

 自分を運ぶ電車内の空気はどこか澱んで。

 サトルの目に入った新宿の標識。

 電車が悲鳴を上げるようにスピードを落とし出した。

 新宿から在来線に乗り換えるため荷物を持ってホームに降りた一同はそれぞれに固まった体を伸ばしたり、欠伸をしたりしながら移動を始める。

 その背中を少しの間見詰めてから、サトルは口を開く。


「俺は、ここで降りるから」


 サトルはそう言うと足元に置いていた荷物を手に取って乗り換えではない改札に足を向ける。突然の行動にシノブが不穏な表情を浮かべて咄嗟にサトルの肩をひいた。

「ちょ、っと待て。マツ。急にどうしたんだよ。寮まで一緒に行くんじゃねえのか?」

「先輩」

 キョウイチも思わず声を上げるもサトルはゆっくりと笑みを作った。

「彼女から新宿で待ってるってメール来てたんだ。……ちゃんとしたいから、行ってくるよ」

「でも突然じゃん! 変な心配かもしれないけど、さぁ」

 整ったキョウイチの顔が瞬時歪む。

 サトルは自分の肩を掴むシノブの手を見つめてからゆっくりとシノブへと顔を上げる。

「後悔しないように、動きたいんだ。ちゃんと連絡はする」

「どうしてもか」

 背後から聞こえる奥崎の、問い。

 サトルは振り返ることなくゆっくりと頷く。

「行ってくる」

 サトルはその場から走って改札を出てそのまま人込みへと駆け込んだ。

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