第29話 旅行⑤ 報告、事後、来訪者

「あ」

 低い奥崎の声と同時に溶けかけのアイスがぼたりと舗装された道へと落ちた。

 奥崎は小さく笑って、都合悪そうに自分の横を歩くサトルの手を握り締める。

「まあ、それでここまで走ってきたってわけな。あまり突拍子もねえ話だったから動揺した」

「……あ、うん、ごめん」

 渡辺とのことをゆっくりと事細かに説明したサトルの手は震えていたけれど、当の奥崎は気にも留めない様子で欠伸をしてからサトルの隣を平然と歩いた。

「酒の数が足りねえと思って少し下の店に買いに行って来たんだわ」

「そうだったんだ……」

 想像していた予感が見事に外れてサトルは呆気にとられた様な表情のままぎこちなく笑う。

「ったく、……ナベも仕方ねえ奴」

 鼻先で笑いながら奥崎が言うも、サトルはどんな反応をすればいいのか悩んだ。渡されたアイスを一口食べて、それから握られた手へとふと視線を落とす。

 しっかりと握られた、手。

 サトルは気恥ずかしくなって、空を仰ぐ。

 一面に彩られる、星。

 サトルは上を見上げたまま、ふと立ち止まった。

「……オクさん、空すごいな……」

「あ? おい、お前アイス溶けるぞ」

「う、うん……」

 サトルの視線の先。

 ようやく奥崎も空を見上げて。

「まぁ綺麗だよな。学校に戻ったら見れねえ」

「だよな、すげえな」

「お前家族で旅行とかあんまり経験ねえのか?」

「あ、うん。俺親戚もみんな近くだから、都内から出た記憶があんまり」

 自然に笑みが零れるサトルの様。

 奥崎は安堵したかのように息を吐いて。

 サトルの肩を自分へと引き寄せた。

「おい、顔」

「ん? え……え! ここで?」

 奥崎の顔が異様に近いことに気づいてサトルは思わず顔を逸らした。が、奥崎の手がサトルの顎を捕らえて意地の悪い笑みが浮かぶ。

「誰も来ねえよ」

「は……恥ずかしいじゃんか」

「別にお前が恥ずかしがるのは俺は一向にかまわねえよ」

「オ……オクさん」

「大概俺も気分悪いっつうの」

 奥崎の言葉にサトルの鼓動が早鐘のように打ち付ける。

 ――聞こえてしまう

 サトルはそう思いながらも自分の口元をなぞる奥崎の指先に逆らわず。ただ、真っ直ぐに見つめた。

「いやか」

「いやじゃ、ない……」

 気弱な己の声。

 ふと奥崎の唇が触れた気がして。

 サトルは目を閉じた。


 急に耳を裂くようなクラクションの音。

 強い二つの光が現れて。

 サトルは目を見開いた。

 見ると一台の車がこちらを照らして停車している。

 サトルは動揺して、未だに自分の顎を捕らえている奥崎の手を意味もなく握ってから身を離した。怪訝そうな奥崎の瞳は細く、車の方を睨みつけているようだった。

 車のドアが開いて、そこから現れたのは全身ジャージ姿で深く帽子を被ったシギの姿。陽気にこちらへと手を振って駆け足で近づく。

「よー、久しぶり。別荘ってこっちでいいんだよな?」

「ああ、この道ずっと真っ直ぐですよ」

 平然とした態度で話す奥崎。急な相手にサトルは驚いたまま、深くシギへと一礼する。シギは人懐こい笑顔を浮かべて車へとまた戻り、運転席側のドアを叩いているようだった。

「シギ先輩も、来る予定だったんだな……」

「あ、言ってなかったか。コウジの車だろ」

「コ……コウジ先輩?」

 ――苦手

 思わず、サトルの顔が曇る。

 奥崎は小さく笑うも、深くため息をついて。

「とりあえずオアズケ、だな」

 と、呟く。サトルは握ったままの手に気づいてすぐさま手を解き。

「ご、ごめん」

 と一言奥崎へと謝る。奥崎は小さく笑んでサトルのアイスを奪うと口を大きく開いてその場で食べ尽くした。

「おい、乗れよ。別荘まで一緒に行こうぜ」

 遠くから聞こえるシギの声。

 奥崎の深く続くため息。

 サトルはまたシギへと頭を下げた。




 強く香る香水の香り。

 ゆっくりと車は停車して。

 開いたドアからサトルは解放された気分で外へと出た。

 空気がおいしい、と初めて心の底から思えたかもしれない。

 何度か瞬きを繰り返し、満天の星を意味もなく見上げた。

 車内でどういう会話をしていたのか、あまりの緊張で覚えていない。陽気な口調で話しかけるシギへもどんな返答をしたのかさえ。広々とした黒の乗用車だったけれど、あまりにも息が詰まりそうだった。

「へぇ、結構な別荘じゃん。な、コージ」

「うん。さ、行こうか。入り口はここでいいのかな」

 珍しく眼鏡をかけているコウジの様にサトルは今更になって気付いた。記憶に残っていたコウジはライブの印象が強い。長いと思っていた髪の毛もバッサリと短くなっていて。以前よりも大人びて見えた。

「久しぶりだね、マツ君」

「あ、……はい。お久しぶりです」

「まだ緊張してる? 相変わらずだね」

「はぁ、……すいません」

 綺麗な横顔が微かに笑みを漏らす。

 その表情が知った顔よりも随分柔らかく見えて。

 サトルは思わず目を丸くした。

 夜が深くなった庭園は違った表情を見せる。

 満天の星空と一人ぼっちの月。

 隣に並んで歩く奥崎の横顔を見る。

 もっと手の届かない場所で生きている人だと思っていた。でも。今肩を並べて歩くことに以前よりも抵抗が少なくなった。幸せを感じてしまう己の心。この瞬間が切れるのが逆に不安を掻き立てた。


 玄関から中へ入ってすぐ、シギが大声を出した。

 その声に反応してか、ホールから走ってくる音。

「あら! 早かったわねー! 待ってたわよ、シギ! 良かった! うちの子達連れてきてくれてありがとう! 探してたのよ!」

「え、お前ら迷子だったの? んじゃ良かったな! ヒサシも相変わらずじゃね? 口調も変わらねえなぁ!」

 嬉しそうに話し出す二人。

 その声に反応して次々に階段や一階の奥から人が集まってくる。シノブは久しぶりに目の当たりにするコウジの変貌に大声で反応し、ミナミが呆れ顔にそれを見つめていたり。二階から下りて来たレンにはどこか元気が感じられなかった。奥から歩いてきた渡辺はダルそうに頭を下げて。キョウイチは緊張した面持ちでコウジとシギに手を振った。

「とりあえず荷物ここに置かせてもらうわ。つーか腹減ったな、なんかねえ?」

 背伸びしながらシギがホールへと足を運んで、周囲を見渡す。納得した笑みで辺りへと小さく頷いた。

「あ、確か夕食の残りが冷蔵庫にあります。ちょっと待ってて下さい、用意するから」

 サトルがシギの元へと歩いて伝える。

「あんがと」

 シギの気持ちのいい位の明るい口調。

 サトルは思わず笑みを漏らした。

 場に残されたコウジは周囲を見回して初対面になる渡辺へと頭を紳士的に下げる。

「今回は場を提供してくれてありがとう。いい別荘だね。来て良かったよ」

「……どうも。一応広間にもう準備はできてる」

 事務的に話す渡辺。他意はないようで、コウジの置いた荷物を軽々と持ち上げると二階へと上がる。

「コウジも随分と疲れたでしょ? ありがとうね」

 労いの言葉を吐くヒサシ。

 コウジは小さく笑ってから首を緩く横に振り、ホールへと歩き出す。吹き抜けになったホールのソファへと座るとまた辺りを見渡して、掛けていた眼鏡を外すとヒサシへと顔を向ける。

「ところで、うちのお姫様はどこに行ったかな」

「お姫様?」

「そ、小さい小猿みたいなお姫様」

「ああ、マコトね! そういえばさっきから姿見えないわね……お風呂かしら?」

 ヒサシも同時に見渡すもマコトの姿が見えない。首を傾げてシノブたちへと視線を向けるもマコトの姿はなかった。

「準備はできたの?」

 コウジの問いにヒサシが強く頷く。

「うん、バッチリよ。今日一番のサプライズですものね! シギにも付き合ってもらって悪いわ~すごく嬉しいけどね」

「ああ、シギが来たいって言ったからね。俺らカウゼルよりもアカーシャの方が好きみたいだよ」

「あら、いいのかしら。でもシギ高校卒業して……結局大学進まなかったのね。ちょっと残念」

「やりたいことがあるらしいからシギは。今は修行中の身だからね。でも短大には行ってるよ」

「修行? へ? まさかお坊さんとかじゃないわよね」

「あは、そんな神聖なものだったらもう無理だよ。服飾関係らしいけど」

「……へぇー! そうなの?! 初めて聞いたわ」

 ふぅん、と何度も感心しながらキッチンを向いて立つシギをヒサシの羨望が捉える。

 シギは皿に盛り付けされたおかずを指先で物色しながら笑顔でサトルに話しかける。

「松崎、最近学校どうよ。事件からお前ちゃんと立ち直ったか?」

 みんなが濁して聞いてくる質問を真っ直ぐにぶつけて来るシギ。全然悪意を感じず、それが自然体なんだろう、とサトルは思った。変に気を遣う、とかではないストレートな配慮。不思議とサトルは気が楽になったような気がした。

「あ、はい。大体は……」

「大体? じゃあもう全然大丈夫ってわけじゃねえんだな。喉の方はもう大丈夫なのか?」

「はい、喉は全然」

「よかった。俺結構お前のファンなんだから頑張ってほしいわけ。お、これもうめぇ。お前も食った?」

「食べました」

「そっか」

 そう言うとシギは口の中に数口食べ物を頬張って、皿を軽々と持ちながらコウジの方へと向かって歩いていった。

 ――ファン。

 そういわれた言葉が自然に嬉しくてサトルは照れる表情を誰にも見せないように冷蔵庫へと顔を向けた。

「おい」

 突然の真横からの声。

 サトルは思わず心臓を打って、軽くショックを受ける。

 驚愕の表情をいつの間にか横にいる奥崎へと見せて。

 奥崎が眉間に皺を寄せた。

「なんだ、そんなにビックリするな」

「ご、ごめん……」

 軽く具合が悪く感じるもキッチンに立って手を洗い出す奥崎の様子。自分も二年に入って、結構背が伸びたはずなのに。それでも全然奥崎には届かない。自分よりも大きい手足。大人びた横顔は以前より落ち着いたように見えて。

「? どうした?」

「え」

「え、じゃなくて」

 少し困ったように笑う奥崎の顔。

 サトルは無意識に奥崎の背中へと手を重ねていて。

 その状態にすぐさま自分の手を奥崎の背中から振り下ろした。

「ご、ごめん! オクさん、マジ、ごめん」

「……別にそんな謝らなくていいけど。積極的なのも嫌いじゃねえ」

 悪態ついた奥崎の笑み。サトルはのぼせそうになる頭を誤魔化そうと意味もなく冷蔵庫を開けた。流れる水の音。冷蔵庫から自分へと伝わる冷気。それでも熱は、おさまるところを知らない。


「コウジ遅い!」

 二階から階段を早足で降りてくるマコトの声がホールへと響いて。一斉に全員の視線が満面の笑みで走って、コウジへと飛びつくマコトへと向けられた。

 あまりにも大胆な行動にサトルも面食らって。

 奥崎が小さくため息をついた。

 一気に騒がしくなるホール。

 無邪気にコウジへと抱きつくマコトへと微笑を湛えるコウジ。

「どうしたの? マコト。もしかして寂しかった?」

「違うし! 周りのメンツ見れば分かるだろ? 敵陣にひとりいたようなもんだったんだからな。さっさと来いっつうの!」

「ごめんごめん、ちょっと俺たちにも用事があったからさ」

「俺たち?」

 不思議そうな表情を浮かべるマコト。視線はすぐにコウジの正面のソファへ。そこには夕飯の残りを口の中へと頬張りながら屈託ない笑みを浮かべているシギの姿にマコトの笑顔が一層深くなる。

「シギ先輩! うそー! 来てくれたんだ!」

「当たり前。俺アカーシャのファンだかんな」

 悪戯に満ちるシギの顔。マコトはシギの言葉にショックを受けた様を披露するもすぐに腹を抱えて笑う。いつもよりもテンションが高いマコトの様子に後方でオセロをミナミと打つシノブも面食らっていた。

「おいサル。お前テンション高すぎ。つうか声大きすぎ」

「うっさいな、カンちゃん。またどうせナンちゃんに負けてるんでしょ? 八つ当たりしてくるなよな~」

 ナンちゃんとはマコトにとってのミナミの愛称。口元を尖らせて話すマコトに対してシノブは今にも怒りが爆発しそうな勢いだ。その手をミナミが制す。

「そうだよゴリラ君。八つ当たりなら当事者である俺にすべき事。他人に当たるのはちょっと……ね」

 歪んだ含み笑い。シノブはわなわなと体を震わせて、すぐさまイスから立ち上がるとサトルや奥崎のいるキッチンへと向かった。

 怒りに満ちた顔が自分へと近づいて。サトルは瞬時焦りを感じるもゆっくりと笑みを作った。悪い癖、そう思うも表情は無意識に意味のない笑みを作る。

 人へと容赦ない鋭い瞳。

 その瞳は真っ直ぐにサトルではなく、サトルの横にいる奥崎へと向けられる。

 平然としたままそれを受け止める奥崎。

 微塵とも動揺がない。


 遠い場所から聞こえてくる話し声。

 キッチンにいるせいか、とても閉塞感を抱くサトルは突っ立ったまま。

 ダルそうに奥崎の掌が己の頭を掻いた。

「なんだ、ゴリラ様。今度はこっちにとばっちりか」

「じゃねえよ。水くれ、水」

 いつもよりトーンの低いシノブの声。サトルは無言のまま冷蔵庫を開け、透明なグラスへと水を注ぐ。水音が一層静けさを作り上げて。緊張した面持ちでサトルがシノブへとグラスを差し出すと短く礼の言葉を述べて。

 シノブが一気にグラスの水を飲み干した。

「ったく、マコトのヤツ……イラっとすんな」

 ――ミナミにじゃなくて

 ――マコトに苛立ったのか

 サトルは意外なシノブの言葉に少々驚くも奥崎は再度小さくため息をついた。

「気持ちはわかるが今日は勘弁してやれ。人には色々事情がある」

「かもしれねえがな、今日のあいつなんか変だぞ? ここに着いてから変に落ち込んだり、そう思ってたら急にテンション高いしよ。あいつの気分にいちいち合わせてられるか!」

「ただ素直じゃねえだけだろ。屈折してるんだよ、あの猿は」

「ふぅん。あー! しかもミナミに中々勝てねえし、厄日だ……マジもうきつい……」

 珍しくも弱音を漏らすシノブにサトルは小さく口を開けた。

「え、神崎でも負ける時ってあるんだな。ちょっと意外」

「バカ、言ったろ? 俺はめちゃくちゃ努力型なんだよ……ミナミとは相性が悪ぃ」

「それでもやっぱり神崎はすげえよ。努力ったって早々人にできることじゃねえし……そういう所尊敬する」

「……お前俺の事大物に見すぎだぜ? なぁ、オック」

「ああ、全くだな」

 照れ隠しに話しかけるシノブへと即答で賛同する奥崎。シノブは口元を笑みで引きつらせながら奥崎へと顔を近づける。

「てめえに言われるとホントマジムカつくな。マツ、お前こんなヤツのどこがいいんだよ」

「ムカつく理由がわからねえ。お前の意見に俺は賛成しただけだ。それにその問いは愚問だな。全てがいいからサトルは俺に足をひら……」

「ちょ! ちょっと!!」

 淡々と事務的に話す奥崎の口元へとサトルとシノブが焦りながら手で覆おうとする。

 鼻先で笑いながら会話を中断する奥崎。

 サトルはすでに顔が紅潮したまま。

 シノブも不機嫌ながらも笑みを零す。


 派手に騒いでいる向こうへと視線を反らす。

 先には愛らしい笑みを振りまいているマコトの手がコウジの腕を捕らえていて。

 その様子を後方から腕を組んで無表情に見据える渡辺の姿。

 サトルの中に焦燥感がざわついた。

「気にすんな」

 静かに自分の耳元へと告げてくる奥崎の声。

「……うん」

 ――気になるけれど、自分は関わらない方が良いんだろうと思うしか、ない

 サトルはそう思いながら奥崎へと頷いて見せた。普段、学校にいて自分と顔を合わせたことのない渡辺がしてきた行為。あまりにも唐突で面食らった。

 けれどここへ来るまであれほど一緒にいた二人が故意的に離れているのが目に見て分かる。

 必死なまでに声高らかに笑みを現すマコト。

 遠くに見える渡辺の姿。

 どこか、悲しげに見えた。

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