第27話 旅行③ 復活、目撃者達の動揺

 着替えを済ませて部屋へと戻ると時刻は午後四時丁度を過ぎた頃。ホールには寄らず真っ直ぐに行き着いたこの部屋が今唯一自分が気を楽にしていられる場所。プールで使った荷物を床へと置いて、ラフなTシャツとジャージに着替えた。

 天井を見上げると見慣れない模様。

 開けられた窓からは爽快な風が室内へと涼風を運ぶ。

 まだ濡れた前髪が少し揺らいで。

 サトルはマコトのことが少し気にかかるも下手に深入りするべきじゃない、と思い直した。渡辺とつきあっているのかも、と思っていた憶測さえ違っていた。少し失礼な事を質問したかもしれないと苦い表情を浮かべて、ドア側のベッドへと腰を下ろして。――ふとカバンの奥底に沈めたままの携帯の存在が気になった。

 ――持ってこなければ良かった

 正直そうも思ったが、戒めるかのように考え直した。

 ――もう、こんなに現実から腰が引けてるなんて

 サトルは苦笑してベッドから立ち上がったと同時に鳴らされるノックの音。

「あ、……はい」

 もしかしたら同室の渡辺かもしれない。

 サトルは緊張に満ちた声で返答する。

 開けられたドアから聞こえてきたのは遠くから響くキョウイチの笑い声とレンの声で。

「運動どうだった?」

 上半身裸にジャージ姿でサトルへと話しかけてきたのは奥崎だった。濡れている髪の毛のせいか、サトルは目のやり場に困りながらも頷いた。

「途中神崎やミナミも行っただろう」

「うん、なんか水泳で勝負してたみたいだ。二人とも泳ぐの上手かったよ」

「俺ならここまで来て運動するのはごめんだな」

「……疲れるから?」

「ああ、だっる」

 面倒くさそうな顔つきで答える奥崎にサトルはようやく笑って。奥崎もつられて小さく口角に笑みを漏らした。

「そろそろ下に来いよ。レンがお前の事待ってる」

「あ、うん。……レン先輩が?」

「ああ。俺らも話あるから」

 ――……話?

 サトルは眉間に皺を寄せて難しそうな表情をするも奥崎は手を横へと二、三度ダルそうに振って。

「別に難しい話じゃねえ。ヒサシも待ってる。アカーシャの話だ」

「……わかった」

 浮かない表情はそのまま。

 サトルは一階へ下りるのが少し億劫だった。

 聞こえてくるキョウイチの声。

 多分、下には渡辺もいる。

 うまく笑えるか、自信がなかった。

「黙って俺の横にいろ」

 気持ちを察されたのか、奥崎がサトルの細い腕を取って自分へと引き寄せる。

「ナベは何考えてるのか知らねえが……下手なことはさせねえから」

「……あ、あぁ、うん。ありがと……俺がどうしてればいいのかテンパるからダメなんだよな。なんとか自分でも頑張って見る」

「別にそういう意味じゃねえ」

 冷たい口調で話す奥崎。

 サトルは少し驚いて口を閉じた。

「俺がダセぇ嫉妬なんかしたくねえ」

 ――し。

 ――……嫉妬。…………オクさんが?

 内心それはないだろうと気持ちのどこかが思いながらも、耳まで赤くなってしまったのが分かる。無表情で見つめてくる奥崎の瞳。どう思われているのだろう、耐えがたくなってサトルは思わず顔を逸らした。

 耳に届く奥崎のため息。

 それから呼吸。

「……それから」

 奥崎の腕がサトルの肩を引き寄せると同時にサトルの唇に自分の唇を重ねる。無意識に瞳を閉じるサトルの頬は赤く染まって。唇が離れて目前にいる奥崎の漆黒の瞳を久しぶりに傍で見た気がした。

「キョウイチとはもう関係ねえから」

 いくぞ、と奥崎の言葉が続く。

 ――完全に見破られている歯痒さだったり、不安に思っている事を見抜かれた恥ずかしさだったり。

 サトルは自分の手を引いて先を歩く奥崎の大きな背中をマトモに見ることすらできなかった。


 日増しに募る、己の感情。

 止め方なんて、知らない。



「アカーシャ再始動します」


 凛としたヒサシの声がホールに響いた。

 サトルの心臓は強く音を鳴らして。

 隣に座る奥崎へと顔を向けた。

 静かに笑む奥崎の表情。

 話はどうやら本当らしいとサトルは確信を抱いて、再度自分の正面に座るヒサシ、レンへと顔を上げた。

「学校からの許可も下りた。この夏中にアカーシャ始動だ。まずは初心に戻って小さいハコからスタートする予定。いいな? マツ君」

 強い口調のレン。サトルは未だ冷めやらない興奮に心を震わせながら、ゆっくりと頷いた。嬉しさで胸の奥がざわめく。

「喉の方はどうかしら? 私はまだ心配なのよね」

「いえ、大丈夫です」

 言葉が考えるよりも先に走る。

 ――歌いたい

 ――以前のように叫んで

 ――あの場所に戻りたい

 サトルは思わず笑顔になった。

 そんなサトルの反応にメンバーの三人は驚きながらも安堵のため息を吐いた。

「……なら、よかったわ。ホント」

「いらねえ心配だったみたいだな。それにしてもよかった」

 レンとヒサシが口々に安堵の声を漏らす様にサトルはうまく状況が掴めず隣の奥崎へと振り返る。と、当の奥崎も小さく息を吐いて、先ほどよりも深い笑顔をサトルへと向けていた。

「あんな事件の後だったからな。もうアカーシャの活動再開は無理かと思ってたのが正直なところだ。もしお前がもう再開するのが無理なら、アカーシャは止めよう、ってな。話を以前からしてたんだ」

「そ」

 ヒサシが奥崎の言葉に強く頷いた。

「ヴォーカルの代わりなんざねえんだよ。今のアカーシャは俺らだからこそなんだぞ。ちっとは自覚しろ。マツ君」

 ぶっきらぼうにレンが言う。見せる下手な笑み。

 サトルは思わず顔を両手で覆った。

「どうした? 俺なんかまずい事言ったか?」

 サトルの様子にレンが声を荒らげて不安そうに話すも奥崎は緩く首を横に振った。

「サトル」

 静かに自分の名を呼ばれる。

「ごめん、どうすればいいのかわかんねえ。……すごく嬉しい」

 勝手に出てくる涙。

 こんなにも、歌を歌いたいと思っていたなんて。

 そんな気持ちからも、全部の気持ちからも

 逃げてしまいたいだなんて思って。俺は、バカだ。

 自分の気持ちすら知れなかった。

 もう、自分の声を失いたくない。失ったりは、しない。

 歌いたい。叫んで、またあの場所へ自分の足で立って

 自分の全てをかけて。


「歌うよ。ていうか、歌いたい」

 強い、芯のあるサトルの声。

「マツ君、ありがとうね」

 本当に嬉しそうなヒサシの笑み。

 サトルは柔らかく笑うことができた。




 渡辺とマコトが用意した夕食を全員で食べて。

 それからは各自好きなようにホールで過ごしていた。キョウイチとマコトは大型テレビの前に陣取って格闘系ゲームをしている。レンと奥崎の姿はなく、シノブとミナミはテーブルでオセロ。聞こえる会話からするとまた何かしらを賭けているよう。

 時計を見ると午後七時。サトルは風呂に入ってこようと座っていたソファから立ち上がった。

「マっちゃん、どこ行くの? お風呂?」

 コントローラーを手に、自分へと背中を向けたまま急に声をかけてきたマコトへとサトルは一瞬どきりとするも声の様子から普段と変わりない明るい口調に安心して。

「ああ、風呂入ってくるよ。ちょっと汗かいた」

「そっか。いってらっしゃい」

「ああ」

 終始こちらへと背中を向けたまま画面上の敵をなぎ倒していくマコトの細い背を見つめながらサトルは返答し、ホールを後にした。


 ボタンを連打する音がホールに充満する。画面に浮かぶ勝利の赤文字。隣にいるキョウイチも釘付けになって興奮しながら見つめている。

「すっげー! マコ先輩強ぇ!!」

 湧き上がる興奮交じりの歓声。

 マコトは小さく笑ってから。

 もうサトルが去った場所へと振り返った。


 耳を劈くシノブの声。

「おい! ちょっと待て!」

「待てって今度は俺の番でしょ? まぁまぁゴリラ君落ち着いてよ」

「落ち着いてられるか! この勝負負けるわけにいかねえんだよ!」

「あは、単なるゲームにそんなに熱くなれるなんて感心するね。でもあんまり怒るとゴリラからキングコングになっちゃうよ?」

「ふざけんなよこの糞オカマ!!」

 負けじと怒鳴るシノブ。

 その台詞にピアノの椅子へと座っていたヒサシが一瞬反応を示した。




 一階ホールから奥へと通じる廊下を歩いていくと浴室。外はもう薄暗くなりかけて、サトルは真新しい建物の匂いを感じながら浴室へと入った。四畳位の脱衣所には洗面台。人は誰もおらず、サトルは持ってきた替えの衣類を籠の中へと入れる。

「ほんと、……ちょっとした旅館だよな」

 周囲を見渡しながらサトルが呟いた。

 時刻はもう夜だというのに未だ汗ばんだ体。昼頃入ったプールのせいか、髪がいつもより痛んでいるように感じた。

 ――さっさと入ってオクさんの所へ行こう

 サトルはそう思って着ていた服を全て籠へと入れると正面に設置されている鏡に映った己の姿へと目を向けた。


 高校二年生になって。

 少し背が伸びた。

 髪は以前よりも伸びて、今では肩に少し触れる程。

 それから。

 首へと未だに痛々しく残る、痣。

 前よりは薄くなった気がするも、色はまだ生々しい。


 そっと指先が首をなぞる。


 この場所がまだ自分にとって馴染んでいないせいか。

 遠い過去の出来事のようにサトルは感じた。

 それでもこの首に残る痣の痕は痛みはもうないのに、未だにそこへと刻まれているかのように存在していて。

 必然的に顔が歪んでしまう。


『アカーシャ再始動します』


 耳に残る声。思い返すだけで興奮する。――早く、もっと早く時間が流れてしまえばいい。あの、自分の戻りたい場所へと早く辿り着いてしまえばいい――脳内に綴られる、祈りのような思い。ここから帰れば現実が待っている。アカーシャという場所へ辿り着く前にしなければならない事が。――由井の自分を観察するあの眼差し。


 サトルは深く息を吐いてタオルを一枚手に持つと浴室のドアをスライドさせて入った。

 浴室に入ると、むせ返る程の檜の香り。右の壁へと設置されている三人分の洗い場と、それからその向かいへとある浴槽は檜風呂だ。上がる蒸気が視界を混濁させ、窓から薄く月が傷のように夜の空に浮かぶ。

 サトルはタオルを手前の洗い場へと置いて、シャワーを手に持った。何も考えず、体を湯で流し、設置されているボディソープで体をいつも通り洗い流す。そのまま洗髪して顔を洗う。慣れてしまったいつも通りの洗い方。前髪から滴るお湯が邪魔で長めの前髪を両手で後方へと流すと一息ついた。気持ちがいいな、とぼんやり思っているのも束の間。

 ガラと音を立てて浴室へと誰かが入ってきた。

 サトルは少し躊躇しながらもドアへと振り返るとそこには腰にタオルを巻いて自分を睨むように見つめる渡辺の姿があった。

 ――――わ、渡辺カズキ

 サトルは思わず拒否を示すかのように顔を背けた。

 ――でも。声……かけた方がいいよな

 都合悪いと思いながらも小さく笑みを作って自分の横へと座る無言の渡辺へと顔を向けた。

「渡辺……夕食ありがとう。美味かった」

「あ? ……あぁ」

 素っ気無い返答。サトルは数秒のやり取りでひどく疲れ、その場から逃げるように浴槽へと向かった。

 ――やっぱり苦手だなって、思ってしまう自分が嫌だな……

 奥崎との事を振り返る。確かに最初は渡辺と似た印象だったが、奥崎とはちょっとした話ができただけでも一歩近づけた様な気がした。が、渡辺とは会話にならない印象。自分のコミュニケーション能力の無さを痛感することが多い。

 それに、渡辺が自分へと迫ってくるああいう時。あれが正直わからない。ふざけている様にはあまり見えない。でも拒むのは友達じゃないってことなのか。逆に拒否しても構わないのか。でも拒否したら相手が傷つくんじゃないのか。

 色々な意見が自分の頭の中を駆け巡る。

 ――わ、わかんねえ……

 そうこう思っていると。

 浴槽のお湯が流れ落ちる音に現実へと引き戻された。

 隣には渡辺が自分とは顔を合わせず湯に浸かる。

 再び訪れる緊張。

 サトルは口を開く勇気が中々出ない。

 すっかり自己嫌悪に陥った。


「髪」

「……え?」

 渡辺の突然の言葉にサトルが申し訳なさ気に再度問う。

「髪、伸びたな」

「あ、あぁ……入院してたし……。そういえば、もう半年位髪切ってねえかも」

 ひ弱な己の口調。

 それでも渡辺の言葉は続く。

「短い方が似合ってる」

「あ……そうかな? じゃあ東京戻ったら髪切りに行くかな」

「その方が可愛い」

 可愛い。

 脳内で復唱してみる。その意味。

 考えても、さっぱり分からない。

 サトルは相手に気づかれないように首を傾げる。と急に右腕を掴まれて驚きのあまりサトルは渡辺へと顔を上げた。

「おい、まだ付き合ってんのか」

「へ……?」

 思い返される由井との事。

 喫茶店でマコトと渡辺に会った時の情景が戻ってくる。

「え……あ、うん。でも、もう別れるよ」

「だろうな」

 悪態ついた渡辺の笑みに、サトルは内心強い嫌悪感を抱くも顔には出さずにただ黙った。

「お前、あの女のこと好きじゃねえもんな」

「……そう、だったと思うよ」

 急に責められているような気分になってサトルは掴まれた右腕を気にしながらも答える。まともに渡辺の顔を見られない。

「じゃあ、奥崎とは付き合ってんのか」

「……え……」

 ひどく動揺する様が右腕から渡辺に通じてしまうような気がして、サトルは顔を背けて無意識に誤魔化そうと二、三度咳き込んだ。

「あ、ええと……」

 ――なんて言ったらいいんだろう。オクさんからは、何も聞いてないのかな……、だとしたら自分が勝手に渡辺にそう言っていいのだろうか。

 マコトは、自分の友達だという自覚があるから話せたけれど。サトルは下唇を噛んで考え出した。

「もしそうなら奥崎が羨ましいがな」

 笑みを含んだ渡辺の口調。

 と、そんな余裕すら失わせるほどの強い力が自分へと降りかかる。引っ張られた右腕に走る鋭い痛み。同時に両肩の自由を束縛される程の渡辺の強い力。目の前に渡辺の首筋が見える。抱きしめられる体勢を取られて、ひどく動揺を示した。

「ちょっ! ちょっとタンマ!」

「ヤダ」

 ――一体なんなんだよ!

 怒りにも似た逆上する感情でサトルは睨むように渡辺を見上げるが、当の渡辺は余裕にも自分を見下ろして笑みを浮かべている。

「さっき」

「は?!」

 渡辺の声に反発するような強い口調がサトルの口から漏れる。

「さっき好みだって言ったのは本当。可愛いし素直だし、ついでに健気だし」

「マジ理想」

 渡辺の声が耳の奥を刺激する。

 耳たぶへと立てられた歯。

 サトルの体がびくりと反応を示した。

「ほら、可愛い」

「やめろよ!」

「いい声だって聞いてはいたが、そうだな。……いい声だと俺も思う」

「ふざけてねえで離してくれよ、渡辺!」

 ふと、渡辺の視線が自分から離れる。

 その口元が獲物を捕らえたようにゆっくりと笑みを含んだ。

 即座に自分へと落とされる瞳。

 その奥で不安げな情けない己の姿が映っている。

「奥崎と付き合ってねえなら俺と付き合うか」

「……な、なに言ってんだよ!? わた……」

 無理矢理に唇で塞がれた口。

「っんんっ!!」

 嫌がる自分の頭を押さえつけてくる渡辺の手の力は強く、サトルは身を捩る。ようやく吸えた呼吸にサトルは必死で渡辺から離れて浴槽から上がろうとすると。

 ガタンと乱暴にスライド式のドアが閉まった。

 ――誰かがいた?!

 サトルは血の気が引けていくのを感じながら逃げるように浴室から出た。脱衣所には誰もおらず、ただ換気のために作動しているファンの音だけがそこには存在していた。いつの間にか息を切らしている自分。

 浴室からは湯の流れる音。

 どうやら渡辺が体を洗っているようだった。

 口元に残る相手の感触。

 サトルは混乱しそうになる頭に苛立ちながら、そっと震えてしまった手で口元を何度も拭った。

 ――どうすればいいんだよ

 ――今の、どうすればよかったんだ?!

 ただ頭の中でリピートされる問題。

 手の震えが中々、消えない。


 歩行が気持ちに急かされて徐々にスピードを上げていく。ひどく動揺してしまったこのざわつきと赤く染まった顔が憎たらしいとサトルは思った。怒りにも似た湧き上がる感情の波が己の瞳孔を刺激する。窓へとふと映った自分の情けない様にサトルは未だに濡れた髪の毛を怒り任せに掻き立てた。

「……なんなんだよ、……情けねぇったらねえ……」

 深く吐き出されるため息。口元に残る強引な相手の口付けの温い、感触が消えない気がして、手の甲でサトルは自分の口元を繰り返し拭った。

「さっきの……」

 ――誰だったんだろうか

 急に押し寄せてくる疑問と不安。

 確かに。

 確かに見られたんだろう。

 だから相手は逃げ出した。

 じゃなきゃ走って去って行くわけがない。

「オクさん……」

 誰かに見られたなら。その事がオクさんの耳に入ったら。――嫌だ。誤解、されたくない!

 サトルは顔を上げてまた速度を上げて歩き出す。

 定まらない眼球は奥崎の姿を探すも目に捉えられない。

「……ど、どこだろう?」

 ホール。ホールに行ってみよう、とサトルはそのまま、真っ直ぐにホールへと駆け足で向かった。

 外の庭に設置された街灯はほのかに明かりを灯している。それを横目にすると時折鮮明に映し出される己の姿。サトルは一層不安を募らせた。


「お? マツ! どーした?」

急に声をかけられて勢いよく後方へと振り返ると、風呂道具を手にしたシノブが呑気な顔で自分を見つめていた。

「か……神崎」

「どした? なんかひでぇ顔だな、お前」

「え……あ、あぁ……あの」

「ん? なんだぁ?」

「オ、オクさん知らねぇ?」

「オック? オックはー……さっき飲み物買って来るとか話してたのを聞いた気がすんな?」

「そ、外に出たって事か?」

「あ、まぁ、だろうな。どうしたんだよ、ホント。なんかあったのか?」

 情けない自分へと深い心配を向けるシノブの目。本気で心配しているシノブの顔をサトルは知っている。さっきまでざわついていた胸の奥の不安が落ち着きだした。

「いいや、なんでもねえよ。なにもねえから。大丈夫、悪い。神崎が心配するようなことは何一つねえからさ」

 切れていた息を落ち着かせようと焼けた喉に唾を無理やり飲み込む。自然に表情が和らいでいく。サトルはシノブへとようやく笑った。

「……なんかあんならちゃんと言えよ。言っておくが俺はお前がすごく心配なんだからな。あんまり無茶とかすんな。こっちの心労も考えた上で動けよ!」

 人差し指がすっと自分へと向けられてサトルは穏やかな表情のまま頷いた。

「……ホント俺って神崎に頼りすぎだよな。なんかちょっと落ち着いた」

「あ? やっぱなんかあったんだろうが。なんだ? 言えよちゃんと」

「ホント大したことじゃねえって。これから俺ちょっと外行って来る」

「お前髪の毛ビショビショじゃねえか! そんな状態で外出たら夏とはいえ風邪ひくぞ! 折角の旅行なんだぞ、体壊したら意味ねえだろうが」

「大丈夫だって。ありがとな、神崎」

 サトルはシノブの肩を軽く叩くとホールから玄関へと走り去った。シノブは止める間もなく、去って行くサトルの背を見つめたまま軽く鼻先で息を吐く。

「……まさかマツがあのオックを追いかけるような日が来るなんざ、入学当初夢にも思わなかったっつーの」

 開けられた玄関から吹き付けて届く夏の風。

 シノブは片目を細くしていつもの嫌味くさい笑みを浮かべた。


「やっぱ学校周辺から行くか。先輩は大学からちょっと遠いだろうけど……」

「私は大丈夫よ、車あるし。それよりもレン、あなた生徒会長でしょ? そんな暇とか作れるの? 私それがちょっと心配よ」

「その辺は大丈夫だって。神崎にも頼むつもりだしな」

「ならよかった。じゃあ予定通り、夏休み中に活動再開で……曲の方はどうしようか」

「そうだよなー……まずマツ君の状態が以前と比べてどうか、だよな」

「でも楽しみね。マツ君もああいう気持ちでいてくれていたなんて。私ちょっと嬉しくなっちゃった」

 緩んだ笑みを浮かべるヒサシをレンが呆れた視線で見つめる。

「……先輩さー……その口調、気に入っちゃったわけ?」

 ぐんなりしたレンの口調。

 ヒサシは片眉を上げてレンを横目で見つめ返す。

「……なによ。なんか文句?」

「そして顔、膨らまされてもなぁ……」

「ほっておいてちょうだい」

 ふい、と頬を膨らませて顔を背けるヒサシの仕草。

 レンは難しい表情を浮かべながら手にしている一枚の紙へと目を落とした。気まずい、嫌な重い空気が静けさを呼ぶ。

 レンは頭を指先で軽く掻いた。

「……あんたさ、」

「何?」

 話を切り出すレン。

 ヒサシはレンへと顔を向けないまま声を返す。

「……初めてあんたに会った時、マジかっこいいって俺は思ったんだけどなー……」

 レンはそう言いながら徐にベッドへと横になった。

 ヒサシは少し目線を落としてからため息をついて静かに口を開いた。

「人は変わるものなのよ、レン」

「にしても、変わりすぎだろ」

「かもね」

 ふふ、とヒサシの笑う声。

 レンも小さく下手な笑みを零す。

 と。

 バン、とけたたましく音を立ててドアが開く。

 レンとヒサシは突如開いたドアへと驚いた表情で見つめた。そこには息を切らし、紅潮した顔で二人をじっと見つめるキョウイチの姿。

「ど……」

「どうしたの……? キョウイチ」

 気が抜けたような問いかけが二人から同時に漏れるもキョウイチは急いでドアを閉めて二人へと向かって歩いた。

「やばい……やばいってマジで……」

「あ? なんかしたのかよ?」

「どうしちゃったのよ、珍しいわね。あなたがそんなに興奮して」

「だってあんなの見て冷静でいろって無理だっつうの! すごかったんだからな!」

「だから何がすごかったんだよ! つうかうるせえ!」

 叫ぶキョウイチへとレンが苛立った表情で怒りだす。

 ヒサシは両者を困ったような表情で見つめてソファから立ち上がるとキョウイチの傍へと歩いた。

「とにかく落ち着いて。ね? キョウイチ」

「ヒ、ヒサー!」

 キョウイチは半泣き状態でヒサシへと抱きつき、ヒサシは驚きながらもヒサシの背中をゆっくりと擦った。

「おい! 抱きついてんじゃねえよ! 居辛いだろうがぁぁぁ!」

 虚しく響くレンの声。ヒサシは己の胸元で嘘泣きを続けるキョウイチへと視線を落としてため息を長く吐いた。


「だから! マツ先輩とあの、ほら、あ! 渡辺先輩が風呂場でチューしてたんだってば!!」

 ソファへとヒサシ、レン、キョウイチはテーブルを挟んで座り、キョウイチの小声の叫びに残り二人が瞳を大きく見開いた。

「おめぇ嘘付くんじゃねえぞ?! 歯ぁ食いしばれ!」

 徐に立ち上がるレン。ヒサシが驚いた表情のままキョウイチへと拳を向けるレンの腕を捕らえた。

「ちょっと待って待って! いくらキョウイチでもそんな嘘つかないわよ!」

「いや、俺は覚えてるんだぜ? こいつはなぁ、マツ君がヴォーカルになった頃凄い敵意持ってたんだからな! 今回だってオクと同室だろうが! いい気味だと思って更に追い討ちかけてるかもしれねえだろうがぁぁぁあ!」

「わ! ヒデー! 俺そんなこと思ってねえよ! レン先輩、タキ先輩が転校しちゃったから性格悪化したんじゃねえのー?!」

 身を縮めながらもキョウイチも負けじとレンを睨みつけて口を返す。キョウイチの言葉に身を震わせて怒り狂うレンの足がテーブルへと上がる。今にもキョウイチに飛びかかる体勢にヒサシが慌ててレンを背後から捕らえる。

「おい! キョウイチ!! 言ってはならねえ名前を言ったなー! タキは今関係ねえだろうがぁぁあ! 人の弱みをホイホイ口にするんじゃねえぞ! だからお前はオクに捨てられるんだよ!」

「ちょっ……! ちょっとぉぉぉお! レン先輩だって同じこと言ったじゃん! 今! 俺だって今日オクと同じ部屋だから気が重たいんだよ! それなのにその口ってねえよ! タキ先輩の名前出したくらいでなんでこんなにきつい目に遭わなきゃならねえんだよ! 大体レン先輩がみんながイチャイチャするのが嫌だから部屋割りするとか言い出したんでしょ!? だからマツ先輩と渡辺さんだっけ?! あのヤクザみたいな人がチューすることになったんじゃん!」

「んだと! この化粧魔がぁぁあ! 俺のせいにするんじゃねえよ!」

「じゃあ誰のせいなんだよ!」


「うるせえ!」


 ヒサシの腹の底からの怒鳴り声。

 キョウイチとレンの表情が瞬時に固まって部屋へと静寂が戻る。それからヒサシの口元からストレスを含んだため息。レンはテーブルから降りて、乱暴に音を立ててソファへと座り直した。

「……ごめん、ヒサ……」

 口を尖らせて謝るキョウイチ。ヒサシは再度ため息を吐くも、レンの背中を数回叩いた。

「レン、そんなにキョウイチを目の敵にしないであげて。以前はどうあれ、キョウイチはもうマツ君のこと悪く思ってないのよ。タキの話を出したキョウイチも悪いけど、目を瞑ってあげて? ね」

「……おぅ」

 低く返答するレン。

 どこか、拗ねているようにも見える。

「キョウイチもレンの心情を察してあげてちょうだい。誰かがいなくなって、気にしない人なんていないわよ。もっと人の気持ち考えて動かないと」

「…………ごめん」

 素直に謝るキョウイチの態度にレンはどこか気に入らない様子だったが黙ったまま。

「それにしてもマツ君大丈夫かしら? まさかあの渡辺君とねぇ……」

「お前そのまま逃げちゃったのかよ?」

 レンの問いかけにキョウイチは都合悪そうに頷く。

「だって、ビックリしちゃったし……俺はマツ先輩とオクがもう付き合ってるもんだと思ってたし、オクには言えないよ。でも今日一晩同じ部屋だぜ? どうしよう……」

「まぁ、ビックリするわよね。私てっきり渡辺君はマコトと付き合ってると思ってたから……違ったのね」

「あ? マコト?」

 素っ頓狂な声を出すレンにキョウイチが怪訝そうな顔をする。

「俺もそう思ってたよ? あの二人ここにも以前来たことあるみたいじゃん? よっぽど仲良いか、それかそういう関係なのかな~って思ってた。下級生の俺が言うのもなんだけど、マコト先輩可愛いじゃん。下手すりゃ女子より可愛いもん」

「……俺は渡辺はオクと仲良い、ぐらいにしか思ってなかったな」

 レンが足を組み直して話すとヒサシが頷く。

「そうね、やっぱりクラスメイトだから仲良いのね。なんとなくオクと渡辺君、似てるしね」

「ちょっと止めてよ! オクはね、間違っても渡辺先輩と、ってことはないと思うよ?」

 興奮し気味のキョウイチの意見にレンの表情が瞬時に険しくキョウイチを睨みつける。

「お前な、気持ち悪いものを想像させるんじゃねえよ。オクと渡辺が付き合うとかそういう意味で言ってるんじゃねえ! お前仲の良い男はみんな付き合ってるとでも思ってんのか?! そんな腐ったお前の基準で人を見るんじゃねえよ!」

「別に腐ってねえよ! そうやって渡辺って人が誰でも彼でもキスするキス魔だとすればオクだって知ってるはずでしょ?! そんな彼と友達してるって在り得ないじゃん!」

「じゃあ何か? どっちがどっちに突っ込むんだよ! 想像してみろ! スキとか愛してるとかいうのか! こええわ! ジャンル極道か! ハイレベル過ぎるわ!」

「言って自分がやたら詳しいじゃん!」

「言っとくが俺の兄弟他3人全員女だぞ! 一人二人どうかしてんのがいんだよ!」

「ちょっと、二人とも何の話してるのよ! 喧嘩はもう止めなさいってば! キョウイチ、ところでマツ君は?」

 間に入ったヒサシの疲労感が漂う問いかけにキョウイチが目を丸くした。

「え……あ、わかんねえけど」

「まさか、最後までってことはないわよね……」

「やめてよ、不安になってくるじゃん?」

 強張るキョウイチの顔。

 ヒサシも心配してソファから立ち上がった。

 レンは足を組んだまま。

 じっと何か考えている様子で表情は真剣だった。

「一応、忍びないけど風呂にでも様子を……ってレン、どうかしたの?」

 ヒサシが言いながら席を立つとキョウイチもヒサシの傍へと寄っていくが、座ったままのレンへとヒサシが目を向ける。レンは思い立ったように立ち上がると、二人より先にドアを乱暴に開く。

「お前ら風呂行くんだろ?」

「え、えぇ」

 動揺するヒサシ。

 レンはそんな二人に構わずドアから出て。

「俺、ちょいマコトのトコに行って来るから。じゃあ後でな」

 そう言い残すとさっさとレンはその場から離れて行った。

「どうかしたのかしら……? レン」

「ヒサ、俺らは早く風呂場行こう。マジ心配だから」

「そうね」

 二人は駆け足で一階へ続く階段を下りて行った。

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