第26話 旅行② 渡辺の奇行に惑う

 磨かれた鉛色のドアノブを回す。

 サトルは酷く落ち込んだ様子でドアを引いた。

 目に入ってくる室内は広く綺麗に掃除が行き届いていて、観葉植物が入ってすぐ右へと置かれていた。その横には備え付けのクローゼット。床にはベージュの絨毯が敷き詰められている。部屋の右奥にセミダブルベッドが二台。凝った照明も置かれていてベッドに面して幅の広い化粧台の鏡に大きな窓から入る光が反射していた。眩しいほど眼光を刺激する強い光にサトルは目を細めながら室内へと入った。

 裸足の状態で上がった絨毯の感触が少し気持ちいい。

サトルはクローゼットを開けずに持っていた荷物をその前へと置いて、すぐ傍にあるベッドへと腰を下ろした。

 ギシリとベッドの軋む音。

 緑と黄色を基調としたクラシック調のカーテン。


 今晩はここで夜を過ごすことになる。ここで。あの人と。サトルは嫌そうな顔を浮かべながら小さく鼻を鳴らした。


 レン先輩やヒサシ先輩はやっぱり気を遣うから嫌だ。キョウイチ君とは和解できたとは思うけどやっぱり居づらい。マコトは、寝かせてくれなさそうだし、ミナミは苦手、嫌われているような気がする。できるなら神崎かオクさんがいい。じゃなきゃ一人がいい、ていうか一人がいい、一人なら絶対気が楽だ、誰に気兼ねすることもない、平穏に穏やかに過ごせるのは確実だ。こんな高級そうな場所で一人。本当のバカンスだ、旅の良さが分かるかもしれない、いいきっかけと思えるかもしれない、来て良かった、と。――だから、一人がいい。

 じゃなかったらオクさんか神崎にしてください神様

 どうか

 どうか渡辺カズキだけは勘弁して


「……って俺が神様にお願いしたからかな……? そのせいな気がする……」


 とことんついてない、とサトルは思った。

 折角の旅行。

 なのに一晩同じ部屋を使用するのが一番避けたいと思っていた渡辺だなんて。悪夢のような旅行になってしまったようなものだ。できるだけ、部屋にはいないようにするべきだとか寝る時だけこの部屋を使用するようにしようとか必死にこの状況から逃れるために勝手に頭が策を練り始めた。

 渡辺とは同じクラスメイトなのにロクに口も利いたことがない。まさかこんな状況が訪れるとも考えたことがなかった。修学旅行に行ったとしても絶対に同じ班にはならない。多分、自分と違う、違いすぎる。格好や背丈はもちろん、考え、感情、生きる土俵の全てが違う。

 何度か。

 学校の外で渡辺を見たことはある。

 その度に彼から受ける印象は酷く自分が落ち込む原因になるような仕草だったりした。

 何故か小さく笑われたり、何故か首を傾げられたり。

 何故か低い声で脅されるような言葉を聞かされたり。

 それにヤクザとかそういうこと聞いてしまうとああやっぱりと思ってしまうのが正直な気持ち。見た目、態度が怖い人は苦手。巻き込まれるのも関わるのもどうしていいのかもわからないし。できるなら勘弁してほしい。 それに。

 あみだくじで決まった部屋割りはサトルの不安を煽いでいないと言えば嘘になる結果だった。


 サトルと渡辺

 レンとマコト

 シノブとミナミ

 ヒサシは一人部屋

 そして

 奥崎とキョウイチが同室という組み合わせだった。


 くじの結果が出た瞬時、硬直した自分とキョウイチ。

 奥崎は平然とした様子でため息一つ付くと決められた部屋へと入って行った。キョウイチは気まずそうに自分を見てそれから作り笑いでへらりとひとつ笑って。

「大丈夫だって!」

 その言葉を思い出して。サトルは一層不安を募らせた。以前に奥崎へとべったりだったキョウイチの事を忘れたわけじゃない。どちらかというとお似合いだとさえ思ったこともある。疑うわけでもない。ただ、嫌だった。

 同じ部屋へと入っていく二人を見つめて。

 居た堪れない気持ちが生まれたのは事実だった。

 ――オクさん、俺は最低だ。たかが部屋割り。でもこんなに嫌だ。

「……嫉妬、かなぁ……俺。……ダセぇ」

 サトルは悶々と考えながら室内の光景に眼球をゆっくりと動かした。

 よく見ると出入り口ドアからすぐの場所に白いドアがもう一つ。サトルはベッドから立ち上がりそのドアを開けた。音もなく開いたその場所は一流ホテルのような洗面台・トイレ・それから猫足バスタブの前には綺麗な柄のバスマットが置かれ、横にはシャワーブースがある。

清潔に施された白のタオル類も二人分用意されて、サトルは静かにドアを閉めた。

「そこトイレ」

 背後からの低い声にサトルは思わず驚きの声を漏らした。

「ぅわっ……あ、……ごめ」

 間。

「…………別に」

 首を傾げて自分から顔を反らす黒髪オールバックの男。

 今日の同室相手である渡辺カズキの手にある黒いタバコからゆらりと煙が周囲へと流れた。

 微かに香るチョコレートのような甘い香り。サトルは申し訳なさそうに白いドアから離れると意味もなく自分の荷物を置いた場所へと歩いた。用もないのに荷物を開ける。何か、この場をやり過ごすモノがないか。サトルは荷物の中へと手を忍ばせた。指先に当たる硬質の感触。

 ――携帯電話。

「…………」

 瞬時脳裏に浮かぶ嫌な想像図にサトルはまた下唇を噛み締めた。未だに目の奥へと焼きついた寮を見上げる由井の瞳。知らない顔。サトルは手を止めてしゃがみこんだまま後頭部を無意識に指先で掻いた。

 ふ、と。

 突如、視界が暗くなったことに気付いてサトルはその体勢のまま後方へと振り返るとそこには自分の背中すぐ傍で自分を見下すようにタバコを咥える渡辺の姿。

 サトルは目を丸くしたまま自分を見つめたまま微動だにしない渡辺を怯えるような目で見つめた。

「あ……どうかした?」

「……いいや。下、行くぞ」

 強引に強い力で右脇を掬い上げるように引っ張られる。

 サトルはよろけそうになりながらも必死で立ち上がるが思わず、立ち上がった反動で渡辺の胸元へと埋まるようにぶつかってしまった。

 ――しまった、殺される

 瞬時に顔面蒼白になりながらサトルはすぐさま渡辺から身を離して謝罪した。

「ごめん渡辺、わざとじゃねえから!」

「……あ? 別にわざととか、思ってねえ……」

 蛇のような切れ長の目つきがサトルを一層見下すように睨む。全身から吹き出る汗。

「し……下だったよな。わかった。降りる」

 サトルはぎこちなく笑みを作りながら渡辺へと背を向けてドアノブへと手をかけた。

「!!」

 ぐっと背中から抱きしめられるように渡辺の腕がサトルの体に絡みついた。ドアノブを握っていたサトルの手が外れて。耳元へと届く相手の呼吸に畏怖さえ感じた。

「……俺も行く」

「……あ、はい」

 渡辺の腕が自分の体を解いて。次には右手首を強引に掴まれた。ドアノブを回す、渡辺の手。混乱する脳裏。サトルは上手く働かない思考に動揺しながらも渡辺に引っ張られるように一階へと向かう。手首から染み入るように伝わってくる渡辺の熱。握られた圧力のせいか一階に着いた頃には顔が少し歪んだ。自分よりも身長のある相手の歩幅にサトルは半ば引き摺られるように歩いたが当の渡辺は平然としたまま。手首を離す気配もなく、サトルは捕らえられてしまった自分の手首へと視線を落とした。

「おーようやく来たな……って、なんで手ぇ繋いでんだ」

 シノブの声色が途中落ちて、不思議そうな顔でサトルと渡辺を見つめた。それでも渡辺は手を離そうとはせず、ダルそうに欠伸をひとつ。サトルは秒針と共に心労を重ねて、苦笑いが固まってしまっていた。

 一階ホールはエアコンが効いていて、ピアノ横に置かれた観葉植物が微かに葉を揺らす。ホール中央から渡辺が急に歩き出し、必然的にサトルの体も動き出す。目を動かしてホール内を見渡すも自分と渡辺を不思議な瞳で見つめるシノブと読書のため、眼鏡をかけているミナミがソファに座って優雅にアイスティーを飲んでいる。

 それから。

 それから。

 ――オクさんは?

 必死になってホールを見渡すも他のメンバーの姿はない。

 引き摺られて連れてこられた場所はホールから少し奥へと入り込んだ場所。そこにはキッチンがあった。人が使った気配のない程、そのキッチンは清潔で黒を基調にされたシックな作りだった。渡辺はキッチンへと入り、立ち止まるとすぐ横にいるサトルへと見下すような視線を落とした。鋭い眼光がサトルの恐怖心を煽る。

 何度も瞬きをして、背けたい瞳を意識して渡辺から目を逸らさないようにした。

「……何飲む。サトル」

 突然の呼び捨てにサトルは躊躇しながらも問われたことに対して飲みたいわけでもないのに小声でアイスコーヒーと短く答えた。少し声が上擦った気がする。情けない気持ちが全身に充満した。

「そうか」

 渡辺はようやくサトルの手首を解放して、キッチン後方にある真っ赤な冷蔵庫を開いた。そこから流れてくる冷気。サトルは居心地悪そうにその冷気を肌の表面で感じた。汚れひとつないグラスに乱暴な手つきで氷が入れられる。

 ――なにか、なにか話さなきゃ……クラスメイトだし、もう一年も一緒のクラスだったし。俺はもう二年生なわけだし、し、親睦を、深めればいいんだろう?

 サトルは意を決して渡辺の横にいたまま懸命に会話を脳内で反復した。

「あ、あのさ」

「……あ?」

 静かな低い口調が少し怒っているようにも聞こえた。

 が、サトルは怯まず会話を続けた。

「そのグラスすげぇ綺麗だな。つーか高そう」

 他愛のない、いたって面白味もない会話。

 それでもそれがサトルの一生懸命だった。

 無情にもアイスコーヒーが注がれる音が耳について。サトルは笑顔を凍りつかせたまま渡辺からの返答を待った。

「…………バカラ?」

「……え?」

「だからこのグラスだろ。確か、貰いもんだ。バカラのグラス? だったんじゃねえか」

「ば、バカラって……」

 ――マジ金持ちなんだな

 サトルは返って来た返答に一瞬息を飲んだ。

 やっぱり一般人とは違う。

 乱暴に氷を入れたグラスがバカラ。

 そもそもそんなグラスに触れたこともサトルにはない。

「俺、初めて見るかもしれねえ」

「……そうか」

 少しずつ。それでも会話を自分へと返してくる渡辺が少し平気になった気がして、息を吐いた時。グラスがガシャンと派手な音を立ててサトルの瞳孔が開かれた。

 見ると渡辺の手からみるみる血が洗い場へと流れていく。

「ちょ……ちょい待って!」

 サトルが思わず声を出す。

 渡辺は無表情のまま流れる血を眺めているようだった。

 ――ええと、流水

 サトルは咄嗟に渡辺の手を取って水道の水を出す。

「おい、大丈夫かー?! なんか割れただろが!」

 ホールから聞こえるシノブの声。

 サトルはすぐに声を張り上げて大丈夫だと告げた。

 切れた傷口を流水で洗い流す。

 サトルは洗い場にゆらゆらと弧を描いては排水溝へと飲み込まれていく血液を眺めた。散らばったバカラのグラスが視界に入るけれど、人間が先だ。

 サトルはふと視線に気付いて上へと見上げると渡辺が目を細めて自分をじっと睨みつけていることに気付いた。

「あっ……ごめん! 俺勝手に動いて……」

 余計な事をした?

 それとも勝手に水を出したからか?

 渡辺の手に触ったから?

 サトルは正解が分からないまま興奮気味に謝罪した。

 と、視界に入ったのは怪我をしていない渡辺の指先。

 その指先はゆっくりとサトルの顎をなぞる様に触れた。

 妙な違和感にサトルは眉を顰める。

「わ……渡辺?」

「……可愛いんだけど」

「……は……はぁ?」

「お礼」

 指先がサトルの顔を完全に捕らえた。

 ぐい、と強引に顔を上へと向けられ驚いたサトルの表情へと渡辺の顔が近づく。

「っ!!」

 思わず、息を飲んだ。

 と。

 ふと急に自分の視界が暗くなって、口を誰かに後方から塞がれた。サトルは立て続けに起こる驚きに半ばパニックを起こしかけた。体が抵抗しようと少し浮いた足がバタついた。

「おい渡辺、何の冗談だ」

 目を覚ます、耳元から聞こえた声。

 サトルは瞬きを忘れてただ目を見開いた。

 後方から自分を抱きかかえるように口を塞いだのが奥崎だと知ってサトルは急に顔を赤らめた。

「あ? お礼」

「そういうお礼はてめえのだけにしろ。……ったく、ヒトのもんに手をつけんじゃねえ」

 珍しくぶつぶつと文句を並べる奥崎。

「おい、大丈夫かサトル」

 何気ない口調の奥崎の問いかけ。

 サトルは無意識に深く息を吐いた。

「う、うん……」

 嘘だ。……大丈夫、全然、大丈夫、なんかじゃ、ねえよ、全然平気じゃねえ、すげ、すげえ、緊張した――……

 奥崎の手がゆっくりと自分から解けて、サトルは真っ赤になってしまった顔を見せまいと意味もなくキッチンの奥へと歩いた。

「折角のグラスが粉々だな。俺が片付けるからオクさん渡辺の手当てしてやってくれよ」

 やたら流暢に言葉が回る。サトルは相手の返答が聞こえる前に床へと散らばる破片をしゃがんで拾い出した。

「ああ、分かった。……ナベ、救急箱とかねえのか」

「あ? ……確かそこの戸棚だったか……」

「来い、手当てしてやる」

 了解する渡辺のダルそうな声。水の止まる音。去って行く渡辺の足。ホールの向こうから聞こえてくるシノブとミナミの討論。二階から響くマコトの声。キッチンの中にいるせいか、妙な閉塞感を抱きながら、サトルはドクドクと止まらない自分の五月蝿い鼓動に何度も深呼吸した。

 ――抱きしめられて嬉しく思うなんて

「……俺、ホント重症かも……」

 未だ熱い顔。

 顔は当分上げられない、とサトルは悶々としながらグラスの破片を拾い続けた。


「あれ? どうしたの! 怪我してんじゃん!」

 マコトが血相を変えてソファに座る渡辺に駆け寄った。渡辺は怪我をした左手を見つめたまま無表情に座っていたがマコトの登場に顔を少しだけ上げて頷いた。

「大した傷じゃねえ。もう手当てし終わった」

 救急箱を片付けながら奥崎が話すとマコトは安堵して渡辺の隣に腰深く座り込んだ。

「よかった。もう冷や冷やさせるなっつうの! あれ? マっちゃんは?」

 陽気なマコトの声がホールに響く。その声に応えるかのようにサトルがキッチンからホールへと戻ってマコトへと手を振った。顔は未だ赤く、少し俯いた状態でマコトの元へと歩いた。

「あ……飲み物飲んでた」

「そっか。ここまで来るのも大変だしな~。マっちゃんまだ暑いんじゃねえの? 顔真っ赤だぜ?」

「え、あ……あぁ。ちょっとまだ暑い、かも」

「じゃあ俺がまたなんか作ってきてやるよ。アイスコーヒーでいい?」

「あ、うん」

 サトルは立ったまま自分の居場所を目で探して、渡辺の向かいのソファへと座った。

「カズは?」

「……同じ」

「わかった」

 マコトはすぐに立ち上がりキッチンへと走り去った。奥崎は戸棚へと救急箱を戻し、横目でサトルを見つめるもサトルは黙って俯いたまま座り込んでいた。しん、とその場に訪れる沈黙。急に後方からシノブとミナミの会話が耳へと届いた。

「君も読書でもしたらどうだい? こんな落ち着いた場所でする読書はまたいつもと違うものだよ」

「俺はあまり本とか好きじゃねえんだよ。あー……暇だから勉強でもするかな」

「勉強?」

「ああ、こんな場所だから格別なんだろうが。なら勉強も格別だろ?」

「……え。待って待って。勉強道具もないのにどうやってするの? もしかしてさっきのは嘘でやっぱり勉強道具持ってきてるの?」

「ん、んなわけねえだろうが! ただ言ってみただけだ!」

 サトルは俯いたままシノブの言い訳を聞いて、先程駅構内でのシノブとの会話を思い出し。 

 ――意地張らないでやりたいようにやればいいのに、神崎、結構変なプライド持ってるよな、とサトルは無意識に口元に笑みを作った。

 どこからか吹き付けるクーラーの冷風。

 ふと、視線に気づいてサトルが顔を上げると。

 自分のことを凝視している渡辺の存在に気づいた。

 びくりと体が勝手に動揺を示す。

 それでも渡辺は何一つ変わらぬ顔で黙ってサトルを見つめたまま。動きもひとつもなく、サトルは耐えられなくなって先に目を逸らした。

 ――どうしてればいいんだよ

 サトルは内心焦りながらも考えていると隣のソファが深く沈んだように感じて横へと顔を向けた。

「……あ」

 安堵にも似たため息交じりの声が漏れる。

「疲れてるのか」

 穏やかな奥崎の声。

 サトルはゆっくりと首を横に振った。

 自然に顔から笑顔が漏れる。

「……ナベ。あんまりサトルの事睨むな。人見知りが激しいサトルには耐えられねえだろうが」

 向かいに座る渡辺は表情一つ変えないが、ゆっくりと奥崎へと顔を向けた。

「……別に睨んでねえ。見てるだけだ」

「だったらあまり見るな。人を凝視するなんざ珍しい」

「……好みだから」

「は……」

 呆れたような奥崎の声。

 ――こ……好み? 好みって何が?

 サトルは渡辺の話す意味が分からず眉間に皺を寄せた。

 奥崎は深くため息をついて何度か咳払いをした。

「生憎サトルは俺やお前みたいな人種が苦手なんだよ。それにただでさえお前の面は怖い」

「……ふん。てめぇに言われたくねえ」

 渡辺が悪意に満ちた笑みで奥崎へと威嚇を示す。

 隣に座るサトルが小さく息を呑んだ。

 当の奥崎は小さく笑ってそれもそうだ、と呟く。

「そういや会長やヒサシ先輩は?」

 突然後方から話しかけてくるシノブへとサトルが振り返るも困ったように顔を歪めた。

「あ……部屋じゃねえかな。下には来てねえから」

「そっか。さっき、お前は怪我とかしてねえのか?」

「俺は大丈夫。渡辺だけ」

「そっか。気をつけろよ。せっかくの旅行で怪我なんてすんなよ」

「ああ」

 優しいシノブの気遣いがやけにいつもよりも嬉しく感じた。サトルは隣に座る奥崎の肩を軽く数回叩くと奥崎がサトルへと顔を向けた。

「オクさん、他のみんなは?」

「……あー……もう少ししたら来んだろ。気にしなくてもどうせここに集まる」

「そっか……」

 ホールから見える二階の廊下を見上げる。

 見える範囲には誰もいない二階からはまるで人の気配が感じられず、サトルは落ち着かない表情で見上げたまま、ただぼんやりと見つめた。


 それから昼が過ぎてもレンやキョウイチ、ヒサシは一階には現れず。一緒にホールにいたマコトが子犬のように人懐こい笑顔でサトルの右腕に絡まった。

「ねえ! マッちゃん、プール行かない? ここ室内プールもあるんだって」

 特に断る理由もなく、隣に座って雑誌を眺めていた奥崎へと視線を向けると静かな笑みを返されサトルは重い腰を上げた。すっかり汗をかいてしまったグラスに残った氷がカランと音を立てたが、ソファに横になっている渡辺は静かに瞳を閉じたまま。

「溺れるなよ」

 嫌味を込めた奥崎の言葉にマコトが負けじと舌を出し、身長に比べると大きいマコトの手がサトルの腕を捕らえた。すぐに引っ張られて、ホールを一緒に後にする。

 いつの間にか、静かに勉学に励むシノブ。

 特にからかう事も無く読書に耽るミナミ。

 目の前を流れる光景にサトルは目を奪われながらも自分より小さいマコトの背中を見つめたまま歩を進めた。


 事前に言われていた水泳道具一式を入れた黒いカバンを持ってマコトの後を付いて歩く。

 窓越しに見える青空がやたら澄んで見えて、サトルは飛び交うカラスに目を留めた。空を飛ぶカラス、なんて、自分の住む街でも見る景色なのにまるで違う気がした。本物の空。真の青色を泳ぐ漆黒のカラスは空を切るように飛ぶ。

 ――知らない、景色だな

 サトルはそう思った。流れる雲の形も、四角ではない青い空も世界の広さを漠然と伝えてくる。

「マッちゃーん? どしたの?」

 いつの間にか先を歩いていたマコト。サトルは立ち止まっていた足をまた動かしだした。

「ここのプール、綺麗だし。何ていったって貸し切り状態なのが格別なんだって」

 本当に嬉しそうに言いながら服を脱ぎ出すマコト。サトルはマコトへと背を向けた状態で上に着ていたTシャツを脱いだ。さっさと着替えを進めるマコトは陽気に鼻歌を歌う。着替えを出来るだけ急いで終わらせ、サトルが振り返るとマコトがにこやかに笑みを浮かべた。

「マッちゃんって色白いね。俺マジ小猿色じゃん」

「そうかな、陸上やってた時は焼けてたんだけど」

 自分の体をマジマジと見ながら話しかけてくるマコトにサトルは苦笑を漏らす。そんな上手く笑えない自分に対してでもマコトの笑みは無垢で、サトルはすぐに視線を逸らした。

「さ、行こう!」

 日焼けしたマコトの肌がやけに健康に見えてサトルは小さく己の色白さにため息を漏らすも、先を行くマコトの後を付いて行った。

 急に響いて聞こえるマコトの声。

 プールサイドへと出て、上を見上げれば天井は高く四隅には観葉植物、白椅子、テーブル。それから僅かな波紋が走るプールの水は息を呑むほど静寂していてサトルは見慣れない室内プールを何度も見渡した。白で統一された室内には誰もおらず、黙ってしまえば水の音さえ響いてきそうな様子だ。

「……すごいな」

 思わず、口が言葉を発して。サトルの言葉にマコトが自信満々で頷いた。

「だろ~? ここに来たら泳がなきゃもったいないよね」

「マコト、前にも来た事あるのか?」

 ふと浮かんだ疑問を述べるサトル。

 マコトは急に無垢な笑顔を強張らせて視線を泳がせた。

「え、あ、うん。まぁ、前にね。カズに招待してもらってさ。一回」

「? ……そっか」

 どこか急に歯切れ悪く不自然に見えるマコトの様子にサトルは少し表情を曇らせるも、すぐにまた無邪気に笑って見せるマコトの笑顔につられて自分も笑う。

「じゃあ俺先に泳ぐ! お先~」

 マコトはそういうと手にしていたバスタオルを白イスへとかけるとすぐさま準備運動もせずにプールへと足から飛び込んだ。上がる水しぶきが窓から静かに差し込む熱のない光に照らされて光った。目を細めてそれを見つめるサトル。泳ぎ出すマコトを見て、少し笑ってからサトルもプールに足を下ろした。


 息を切るように瞬時に肺へと空気を飲んで、広がる水の世界をゴーグル越しに見る。自分の周りを流れていく泡、少し青く反射する自分の肌。呼吸。そして白い天井。耳へと聞こえてくる水しぶき。圧迫音。隣のレーンで泳ぐマコトの体が見えた。水を蹴る手、足の筋肉。たまに、圧迫音から流れ込んでくる水の音。サトルは一呼吸してグッと近づいた壁へとターンした。

 遠くまで澄んで見える水色の世界。

 耳を塞ぐ静寂にも似た水の中。

 己の心臓の音さえ吸い取られているように感じた。

 ゆっくりと瞳を閉じてサトルは泳ぐのを止め、ただ水に浮かび身を委ねる。


 冷めた、青い世界だ。


 脳裏を走馬灯のように嫌な過去が掠めていく。

 耳に響く鷲尾の声。

 それから目に焼きついた由井の瞳。

 携帯越しの声。

 これから解決しなければいけない数々。

 酷く胸の奥が疼く思い。

 けれど。

 水の中はいい、とサトルは思った。

 嫌いな音を水が吸収し続ける。

 地上で生きる自分はまるで酸素を求める魚のように必死にもがいては心臓の音に気持ちを酷く落とす。その全ての音を消し去った場所。――白く掻き消す爆音とライトとは、対照的でいて、似ている、場所。

 ――気持ちが、いい

 サトルはうっすらと瞳を開けて、その場に立ち上がった。急に耳へと雑音のように入る水の音。横を見るとがむしゃらに泳ぎ続けるマコトが向こう側でターンするのが見えて、再度サトルも泳ぎ始めた。


 プールサイドへと上がって。

 サトルは髪から滴る水を切るように後方へと指で長い前髪を流す。少し切れた息。隣のマコトの荒い呼吸。それでもマコトは爽快に笑って自分へと愛嬌を振りまく。少し余裕のないサトルは必死に呼吸を繰り返して、それからようやく笑った。

「ね、ねぇ」

 息を切らしながら話すマコトの声。

 サトルはマコトへと顔を向けて首を少し傾げた。

「なに?」

「あ……あのさ」

 妙に緊張した物言いのマコトにサトルにも緊張が走った。

「……どうかしたか?」

「マッちゃんってさ、……オクさんと付き合ってんだよね?」

 突然の言葉に反応してか、サトルは動揺を隠し切れず、顔に昇る血を抑える事ができなかった。

「え……何、突然」

「付き合ってるんだよね?」

 自分の方を見ずに確認を取ってくるマコト。サトルは羞恥心を内心感じながらも困ったように言葉を濁らせた。

「……う、ん」

「オクさんのこと、好き?」

 続くマコトの問いに、サトルは観念したかのように頷く。それを見てマコトが納得を示すと自分の顔を水で濡らした。

「じゃあ、由井ちゃんとは、別れるんだね」

「別れるよ」

「それはオクさんが好きだから?」

「……そうだな。うん」

 自分に言い聞かせるようにサトルは慎重に声を出す。

「いいの?」

 念を押すような、強い口調で自分へと質問を繰り返すマコトの瞳がサトルと合う。サトルは強いマコトの視線に気圧されて一瞬息を呑むも、視線を逸らさなかった。

「本当にいいの? 常識では在り得ない恋愛だよ? 何も生まないし、結ばれる事だって出来ない。それでも由井ちゃんと別れてオクさんと一緒にいるの?」

 ――うん

 勝手に心が返答する。迷う隙がない程、ただ一つ自分の中で確立してある強い意志。

「……俺は、あの人以外考えられない。多分、会ってからずっと」

 サトルの言葉にマコトが一瞬驚いたような瞳で見つめてくるもゆっくりと笑みを作って。

「そっかー。わかった。なら、俺は二人の事応援するよ。友達だし。好きだし。や、変な意味じゃねえから!」

「わかってるよ」

 笑って否定の手を振るマコトへと笑いかけるサトル。


 ふとした疑問がサトルの頭に浮かぶ。

 以前、偶然出会った喫茶店。

 マコトの恋人はと由井に問われて。

 自分だと、告げてきた渡辺。


 サトルは覗き込むようにマコトの顔を見つめる。

「え? なんかした?」

 きょとんとした顔でマコトが問う。

「……マコトは渡辺と、付き合ってるのか?」

「な! 何言ってんだよ! マッちゃん!」

 ――あ、違うのか。オクさんが、マコトも協力がどうとか言ってたし、それがあの時なら、勘違いか

「あ、ごめん。変なこと聞いたな」

 サトルはすぐに謝罪をするも当のマコトの顔がみるみる赤く染まっていく。天井から落ちた水滴がプールの水へと波紋を生む。

「俺は……俺は。なんか、……よく分からねえ、から」

 言葉を濁すマコト。サトルはいつもと違うマコトの様子に正直目を丸くした。


「いやー素敵なプール日和だね! 元気に泳いでいるかな? サル君たち」

 緊張の糸が勝手に打ち切られ、サトルとマコトが驚きの表情で声のする方へと振り返った。そこには水着に着替えたミナミと不貞腐れた様子のシノブがこちらへと向かって歩いてきた。

 ――サル君、て俺たちのことか

 サトルはようやく納得して近づいてくる二人へと頭を少し下げた。目に映るシノブがいつもよりも毅然として見えて。滅多に見られない風紀委員長と生徒会役員のツーショットがやたらと威厳に満ちて見えた。

「どした?」

「いや、あ、……二人も泳ぎに来たのか」

 急にシノブに話しかけられてサトルは言葉を濁しながらも返答する。それへと反応を返すシノブの表情は硬く、横目で隣にいるミナミを睨み付けた。

「ああ、この面倒くせえ男が泳ぎにいこうってうるせえからな。仕方なく付き合ってやることにしたんだよ」

「だって不健康だと思わないかい? こんなバカンスを過ごす場所で勉学に勤しむなんてよっぽど頭の悪い人間のする行為だよ。ゴリラ君の放つそのクソ真面目な行動が風紀を乱す。折角来たんだ。普段はしまいっぱなしにしているこの天使の羽を伸ばさなきゃね」

 ミナミの語る時のちょっとした仕草がやけに目に残りながらサトルは小さく頷いた。うるせえ、と一言漏らすシノブは準備運動をし始めて。

「やりゃあいんだろうが。とことん泳いでやるっつうの。ったく……面倒くせえな」

 屈伸してから、プールサイドを大幅な足取りで歩き出すシノブ。ミナミはそんなシノブへと小さく笑って。

「面倒くさいのが好きなくせに。……ねぇ?」

 サトルへと冷淡な目配せをしながらミナミはシノブの後方を歩き出した。目の前を滑っていったそのあまりに整った容貌にサトルは瞬時息を呑むが、驚いている間もなく今度はシノブの怒声が劈く。

「おい、折角の水泳だ。ここは賭けでもしようじゃねえか!」

 シノブへとミナミは肩を竦めていいよ、と答えた。

 反対にプールから上がったサトルとマコトは無言のまま白イスへと腰をかける。珍しく、あれから一言も話さないマコトに違和感を抱きながら濡れた肢体をバスタオルで拭く。

「…………マコト」

「あ、さっきの忘れて? 俺なんか変な事言ったな~。アハハ」

 乾いた笑い声に、サトルは余計に不安になった。


 プールからは水しぶきの音と共にあの二人の姿が水の中へと消えた。綺麗な姿勢で二人とも泳ぎだし、サトルはその様子をただ目で追いながらも頭の中ではマコトの事が気になった。

「俺は」

 思わず言葉が口をついた。

「俺は間違ってるのかもしれないよな」

「……え?」

 サトルの言葉に、どこか消沈した様子のマコトがようやくサトルへと顔を向けた。

「オクさんとの恋愛。冷静に考えればそうだよ。先もない、結婚できるわけでもない。由井と付き合った方が健全で常識的には正しい、マコトの言う通り。ただ、……俺は多分知らねえ内にこれ、って選んじゃったんだよな。オクさんじゃないと俺は好きって感情が全然動かない。ホモだとかそういう自覚は全然ないけど」

「マっちゃん……」

「だから由井とはちゃんと別れる。好きな人はもう決まってるから。それに、俺は自分のことだけを考えて由井と付き合う選択をしたんだ。声も出なくなって歌も歌えなくなってオクさんも失って、一人になりたくなかったんだ。寂しくて仕方なかったから。でも俺の選んだ行動は人を傷つける行為だ。だから……ちゃんと由井とは話をして償うつもりだよ」

「そこまでしても、オクさんがいいの?」

「うん。そもそも逃げ出した程嫌な事にも、あの人がいたから立ち向かおうと思えたと思う。俺は正直弱いし、ずるい。自分が傷つきたくないから、皆傷付けてさ。でも、このままじゃ嫌でさ。あの人の隣で自信を持って自分の足で立っていられるようになりたい。……だから……本当は嫌だけど、正直臆病だから怖いけど。またみんなとライブやりたいし、あの場所に自分の足で戻るために、由井との事はがんばろうと思ったんだ」

 神妙な顔でサトルを見つめるマコトはサトルの話を聞き終えると小さくため息をついた。

「マっちゃんも、兄貴みたいなこと言うんだな。オクさんが好きなんだな」

 そう言うといつもの笑顔をのぞかせて、それからイスから立ち上がった。

「俺、先行く。夕飯、カズと作る約束したからさ」

「あ、そっか。手伝おうか?」

「ううん。大丈夫。……マっちゃん頑張ってな。やっぱ歌もすげえけど尊敬するよ、今のマっちゃん。カウゼルとしてはアカーシャ復活って心から待てない立場だけどさ。……でも俺はマっちゃんの事やっぱ好きだよ。絶対大丈夫だよ! あのオクさんだっているんだしさ!」

「あ、……ん、うん」

 マコトの言葉に照れくさそうにサトルが顔を赤らめるとマコトは軽く手を振ってその場を後にした。

 未だ泳ぐ二人の姿。どうやらシノブに勝ち目は無さそうだ。


 サトルは熱のない、ただまぶしい光に目を細めて。

 自分で話した内容に、多少自己嫌悪に陥った。

 恥ずかしいことを言った

 他人に明かした己の気持ち。

 何も知らずにプール内で叫び声をあげるシノブの声。

 サトルはその様子に小さく笑った。

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