それぞれの歪みと安寧

第25話 旅行① 寄ると触ると大騒ぎ

 澱んだ曇り空に太陽の光が弱まって室内は暗がりに包まれようとしていた。携帯を開いてからすでに三十分。サトルは真剣な表情で照らし出される携帯のディスプレイを見つめたまま。


 久しぶりの曇り空だったせいか。

 今日は普段よりも過ごしやすい一日。

 軽く開けた窓から吹き付ける風が遮光カーテンを揺らす。


 つい先日まで。恋人として傍にいた人間に会うのが酷く怖い。サトルはテーブルに置いてあったペットボトルに口を付ける。別れ話をしなければいけないのに落ち着かない自分の気持ちに嫌気が差す。

「ホント……臆病だな、俺」

 遅かれ早かれ由井とは連絡を取らなければ。寮の前に由井が訪れてから一度もメールを返していない。嫌な電話の後の事で、そのまま音信不通ということもあり得るのに、それでも、何事もない様に頻繁に送られてくる由井からのメール。辟易したサトルは着信音を消音して少しばかり、己の気持ちに平穏を与えた。まるで責められているような、そんな気分に陥るから。

 それでも。もう、由井へと話をすると決めたのに、ここで連絡と取ろうとメールを打ち出して数十分。己の情けなさを秒針の音で知る。

「……曲でも聞こうかな」

 サトルは久しぶりに鞄の奥底に眠らせていたMDプレーヤーを取り出す。充電が切れていることに気付いてコードを伸ばして充電し出す。MDプレーヤーの中に入っているMDを取り出すとそこにはレンの字で書かれている赤字の英語。アカーシャのオリジナル曲が入っているMD。

「……ここにあったんだ」

 サトルは久しぶりに笑みを零した。

 探していた訳ではなかった。

 でも、酷く懐かしくて、嬉しかった。


 曲が出来上がる度。詩が綴られる度。嬉しい緊張感が高まった。ヒサシの笑顔、レンの大声。奥崎の視線。今でもリアルに思い出される。マイクを握る度、脳裏が白く、どこまでも広く感じるあの感覚。全てを捨てて、曝け出して、縛られた現実からの逃げ道のような一筋の光を浴びて。掛けられた手錠にいつだって繋がれていたいと望んだ。――大切な今を。


 手の甲へと流れ落ちる涙。


 失くしてしまったと、思った一瞬の時。声が出なくなって。過去の清算のための生贄に選ばれたのが声だとも思った。それでも。過去を捨てて、今を生きたいと思った。

 ――失くしてなんか、ない

 己の気管から響く声。失くされてなんかいない。

 ――まだ。まだ。

「……まだ、やれるよな……」

 イヤホンを耳へと当てる。流れてくる懐かしいメロディライン。――もう、一人じゃあない。サトルは無意識に鼻歌を歌い出した。体が覚えているこの曲。本当に全てにケリをつけて、またあのステージへと立つ。

 サトルはそっと未だ痣の残る喉元を愛しそうに触れた。


「どした? 痛いのか?」

 急なシノブの声にサトルは目を大きくして耳にしていたイヤホンを取る。するとドアには制服姿の疲れ切ったシノブと派手なパンク姿のマコトが笑顔でこちらへと手を振っていた。

「……あ、お帰り」

「アッツー……そんなに気温は高くねえがこのドンヨリ感。ちょっと歩くだけでこの汗だぜ」

 シノブはネクタイを解きながら部屋へと入る。

「単にカンちゃんが汗っかきってことなんじゃないの? マッちゃん! 久しぶり。お邪魔していいかな?」

 陽気なマコトの口調。

 サトルは未だ驚いた様子で何度も頷き、MDプレーヤーをカバンへと仕舞う。

「でも、珍しいね。マコトがここに遊びに来るなんて」

「なんか、用事があるみてぇなんだが部屋に着いたら話すって……おい、サルいいからもう言えよ。こちとらお前と違って忙しいんだ」

 制服をハンガーにかけながらシノブがマコトを睨むも、マコトは小さく笑って。赤と黒のチェックのカバンから一枚のチラシを取り出した。

「あ? なんだそりゃ」

「……チラシ?」

 サトルとシノブが不思議そうにそのチラシを見つめた。

 自信に満ち溢れたマコトの態度。

 シノブの目つきがきつくなる。

「そんなに睨まないでよ、カンちゃん。俺は好意で来たんだから」

「だからなんだよ。早く言え」

 マコトの身長には似合わない大きい手がシノブとサトルの手を取った。

「夏休み、旅行に行こうよ! みんなで」

「はぁ?!」

 シノブの声が部屋中に響いた。




 久しぶりに乗った特急電車の車窓から流れる風は咽せ返るほどの緑の香りを運んだ。流れていく新鮮な景色。

電線伝いのカラスも飛び立って、遠くには堂々たる夏の入道雲。太陽の姿がなくても田畑の緑が一層光を放った。

 呆然と少し口を開けたままサトルは電車の中で知らない土地の空気を浴びた。

「こら、サトル君」

 向かいに座っていたヒサシの声にサトルは現実世界へと呼び戻されて思わず息を飲む。

「あ、ヒサシさん……」

「口、開いてたわよ。ヴォーカリストが喉を壊しちゃったら大変よ。鼻呼吸する癖をつけなきゃ」

「あ、はぁ……」

 小学校の頃によく担任に注意されたことを思い出した。

 昔から少し口を開けているのが癖で、だらしなくみえると何度も言われた。それでも直そうとは思ったことはなくて、今でも無意識のうちに口を開けてしまう。サトルは開いていた口を閉じて頷いた。

「ジュース持ってきたのよ。飲む?」

「あ、はい。いただきます」

 困ったように笑って、サトルが自分の隣で漫画本を読み耽る奥崎へと目をやった。無表情のまま本を読む奥崎の姿が異様に見えて少し首を傾げる。

「ヒサシ俺も飲みたい」

「あ、はいはい。キョウイチの分もあるわよ」

 ヒサシの隣で駄々をこねるように話すキョウイチはサトルと目が合うと静かに笑って見せた。

「どう? 今日の俺の格好。優等生っぽくない? ちゃんと下級生に見えるように自分でセレクトしてきたんだ」

 白のシャツから覗く銀のアクセサリーを除いて全身清潔そうな服装。サトルは小さく頷いてヒサシから手渡されたペットボトルのお茶を受け取った。

「似合ってるよ。そういう格好もするんだね、キョウイチ君は」

「松崎先輩、俺下級生だよ? もっと先輩としての威厳を持って会話してくれてもいいのに」

「あ、ごめん」

「ほら、謝る。まぁ、それが松崎先輩なんだろうけど」

「あ……うん」

 キョウイチは呆れた口調で話すもすぐに笑って傍にいるヒサシへと抱きつくようにくっついた。その笑顔は無邪気だ。

「こら、キョウイチあまりベタベタするもんじゃないでしょ? ご、ごめんね? マツ君」

「いえ……大丈夫、です」

 サトルは二人の様子にまた困ったように笑った。

 本を読んでいた奥崎が本を閉じると向かいに座る二人へと目を向けて鼻先で笑う。

「……その様子だと付き合ってるのか? 二人は」

 単刀直入というべきか、ストレートに意見を述べる奥崎にヒサシは驚いて横に座るキョウイチを諌めるように見つめた。

「いえ、そういう関係ではないわよ。もう、キョウイチ誤解されるってば」

「あ、ヒド。俺のこと拒絶かよ。俺は別に誤解されても構わないけど」

「困らせないでよ、おじさんを」

「それって困るって事?」

 ムキになって話し出すキョウイチ。そんな状況にサトルは困ったように二人を見つめるも急に奥崎の腕がサトルの肩を抱く。

「疲れたか」

「え、いや、全然」

「疲れたような顔してる」

「……そ?」

 強く打ち付ける鼓動の音。

 サトルは顔を真っ赤にして目のやり場に困った。

 奥崎はそんなサトルの反応に少し笑ってゆっくりとサトルの肩から手を引いた。

「久しぶりの休養だ。今日ぐらい気、楽にしろ」

「……うん」


 あれから。

 マコトの誘いを受けて、サトルは一度はそれどころではないと思い、断った。が。メンバー全員が参加する事になり、サトルも必然的に参加することになった。他にシノブやそれから今向かいに座っているキョウイチ。それから計画を立てたマコトと渡辺も一緒だ。


 カバンに詰め込まれた荷物。

 その中に一緒に入っている携帯電話。

 サトルはふと自分のカバンへと目を向けた。

 出発する前の日。

 由井へとようやくメールを送った。


 話があるから数日後会う時間を決めたい

 学校の合宿があるからその後こっちから連絡する


 なんとも事務的なメール。それでもそのメールを作成するのに一時間をかけた。相手を傷つけない上手い言葉なんて結局見つけられないまま、由井へと送信して、それから。――携帯電話の電源は落としたまま。

 サトルは電車に揺られながら俯いて、暗い影を落とした。

「気にするな。遅かれ早かれ終わる」

 察したかのような奥崎の声。

 サトルはゆっくりと隣で瞳を閉じている奥崎を愛しそうに見つめた。

「あ、うん……」

「そんなに見んな。穴空く」

「あ、ごめん……」

 サトルの謝罪に笑顔で応える奥崎。

 そんな笑顔につられてサトルも優しげに笑みを零した。

「おい、カップル、ダメ絶対」

 後頭部から怒声の混じったレンの声が聞こえてサトルは思わず見上げた。そこには身をこちらへと乗り出したレンとシノブの姿。その表情は怖いほどの笑顔だった。

「愛し合いてぇなら人がいないところでな。じゃなきゃ精神衛生上良くねえからそこんとこよろしく」

 続くシノブの声。

 奥崎はまた鼻先で笑って。

 ゆっくりとシノブを見上げた。

「そっちも糞ガキみたいに身乗り出して座ってるんじゃねえ。精神衛生上っつうのはあんた等に対してって事か?」

 喧嘩を売るような奥崎の発言。

 シノブとレンは目を大きくして自分たちの真下で笑う奥崎を力一杯睨みつけた。

「はぁぁ?! 別にそういう意味合いじゃねえ! 世間様っつうのは無視できねえ存在なんだ。周囲のこともちゃんと考えて乗車しろ! このホモが!」

 ホモが、と叫んだ時点で自分も完全にアウトだというのにさも常識人ぶった言い回しで偉そうにシノブがふんぞり返る。

「はいはい、考慮しとく。うぜえゴリラ様だ。なぁ? サトル」

「え……な、何で俺に話振るんだよ」

 急な言葉にサトルは躊躇しながら奥崎を見つめる。奥崎はまた笑って、向かいにいたヒサシもキョウイチも思わず噴き出した。

「こ! この大仏野郎! ちょっとカッコイイって周囲から言われすぎていい気になってんじゃねえのか?!」

「オック! マツが困ってるじゃねえかぁ!」

 二人同時に怒り出し、尚更ヒサシとキョウイチの笑い声が高まる。

「オ……オクさん!」

「だから気にすんな、サトル」

 周囲の笑い声。サトルも思わず困ったように笑って。レンとシノブも不貞腐れた表情を浮かべながらも少しずつ笑顔が漏れた。

「んもーみんな中学生じゃないんだから。こっちまで笑っちゃうからやめてよ」

 マコトの困ったような口調。その傍らにはじっと目を閉じて眠っている渡辺の姿があった。黒一色の服装に身を包み、オールバックのヘアスタイルは乱れることもない。サトルは渡辺の姿を目で捉えると急に不安な表情をした。

 入学してからロクに口も利いた事もない同級生。

 入学当時、奥崎と同様に近寄りがたい存在ではあったが渡辺に関しては今もそれは継続中だ。そんな渡辺が今回の旅行を提案したと言うのだから正直驚いた。

「おい、マコ。場所はまだまだ先なのか?」

 シノブの問いにマコトは首を傾げて少し唸り、隣で眠る渡辺へと顔を向けた。

「うーん……ちょっとわかんない」

 マコトの返答にレンとシノブは脱力して、それからマコトを軽く睨みつけた。

「わからないって……計画したのお前だろ?」

「場所知ってるのはカズなんだよ。俺は一回しか行った事なくて、それは車だったし……カズの家の別荘だからカズに聞かないと……でも今寝てるし……」

「起こして聞いてみればいいんじゃないの? 佐田先輩」

 陽気な悪意のないキョウイチの問いかけ。それにマコトは異常なまでに反応を示して首を横に振った。

「お、起こすなんてできないよ! ただでさえカズ、寝起きめちゃくちゃ悪いのに……」

「あ? 寝起き悪いって……なんだマコ。お前渡辺と一緒に寝たことあんのかよ?」

 レンが意地悪そうな口調でマコトへと問いかけるもマコトは視線を敢えて逸らして首を再度強く振る。

「そんなんじゃねえけど! ただ機嫌が悪そうだな~って思ったんだよ」

「お前らデキてんのか!? いつの間にだ! 寮内で変なことするんじゃねえぞ! サル!」

「カッ……! カンちゃんに言われたくないよ! それに俺ら男だぞ!? んな訳ねえじゃん!!」

 必死に言い訳を繰り返すマコトをサトルは遠巻きに困惑した表情で見つめた。

「じゃあなんで寝起きめちゃくちゃ悪いって知ってたの? 佐田先輩。それって寝てなきゃ知らない事じゃん。な? ヒサ」

「え?! あ……まぁ、そうかしらね?」

 話を振られてヒサシも困ったように笑顔で誤魔化す。

「たまたまだよ! 俺とカズはなんともねえってば!」

「へぇ」

 マコトの言葉に奥崎が納得を示すように頷くも徐々にマコトの顔が赤くなっていく。

「あーもう! 別にどうでもいいだろ! 俺の事に首つっこんでくるなよ! アカーシャ!」

 マコトの大声に周囲は急に笑い出して。

 サトルはその中で一人、困惑を増した。

「なんだよ! もう! 折角カウゼルの俺が敵対するアカーシャのみんなを招待してやったっていうのに! マッちゃん! なんとか言ってよ!」

 ――え、俺?

 サトルは驚愕の表情をするも小さく唸った。一気に額に汗が吹き出て、周囲の熱気に軽く眩暈までする。

「あ……」

 自分の声が異様に浮いて聞こえた。

「プ……プライベートなことだから、な……」

 サトルの精一杯の言葉。

 しかしマコトはその言葉に更に顔を赤く染めた。

「そうだよね。プライベートなことだもんね。な? ヒサ」

 陽気なキョウイチの声。

「そ、そうよね~。付き合っていようとなかろうとマコトの私生活まで私たちが土足で踏み込むことはないわ。今回は招待してくださったんだもの。感謝しなくちゃ」

「俺もそれに賛同」

「俺も」

 次々に続くレンやシノブの言葉。

「マ……マッちゃんー……」

 マコトは顔を赤くしながらも頭を抱える思いで泣きそうな声を出した。

 車窓からの風は勢いを増す。

 渡辺がマコトへと寝返りを打った。




 約二時間。

 電車に揺られて辿りついた場所は木々の香りに満ちていた。大空に大輪の太陽。夏の雰囲気を嫌でも知らせる程の蝉の鳴き声。点々と立つ、古ぼけた電信柱。むせ返る緑の香り。暑い日差し。

「っあー重てぇ……」

 電車から降りたシノブの荷物は誰よりも一際大きく、不思議そうにサトルがシノブへと目を留めた。ほんの一泊二日の旅行なのにまるで家出してきたかのような大きな紺のカバン。また一声かけながらシノブが辛そうな表情でカバンを肩へと担いだ。

「神崎」

 思わず、声をかけてしまうサトル。シノブは辛そうな表情そのままで自分のまん前にいるサトルへと一層眉間に皺を寄せた。

「あ? どうした? 電車酔いか?」

 二言目にはサトルの心配をするシノブ。

「違うよ」

「じゃあどうしたんだよ。さっさと先行け。みんなもう歩いてんぞ」

 シノブが顎で指し示した方向を振り向くとすでに電車を降りたメンバーは周囲を見渡しながら思い思いに改札へと向かって歩き出していた。焦りを感じるもサトルは再度シノブへと目を向けて口を開く。

「荷物、すごい量だからさ。重いなら俺のカバンに半分移せよ。それだと大変だろ」

「大丈夫だって。夏休み明け試験あるからな。俺は忙しいんだよ、遊んでばっかりじゃあ脳が鈍るだろが」

「でも、折角の旅行だぜ? 今日一日位なら別に鈍らねえと思うけど。神崎頭良いし」

 サトルの発言にシノブは少し目を見開くも失笑して腹の底まで自然の空気を吸い込んだ。

「あのな、俺は元々頭がいいんじゃねえんだ。天才児なわけでもねえし大して特技があるわけでもねえ。この前のテストでもあと2点落としてたらミナミのヤツに負けてた。常に努力しないと俺は成果が出せねえ人間なんだよ」

 頭の中の先入観がサトルの中で揺らいだ。いつも自信満々で人の上に立つことが多くて、勉強することが好きなんだとシノブの事を思い込んでいた。あまりに意外な、己の考えにないシノブの言葉にサトルは正直驚いた。そんなサトルの様子にシノブは小さく笑みを見せて重い荷物を担ぎ直すと先へと歩き出した。

 待ち構える階段。

 一段一段、シノブが階段を上っていく。

 サトルもそんなシノブの後方を付いて歩いた。

「そう……だよな。神崎はずっと努力してきたもんな。なんか俺勘違いしてた」

「理解してくれれば上等だ。天才肌なのは俺じゃなくてミナミ。俺は報われにくい努力型だ」

 声を張り上げながら休むことなく歩くシノブ。

 サトルはそんなシノブの背中がいつもと違って見えた。


 小さな無人の駅から降りて渡辺が躊躇なく歩き出す。マコトはそんな渡辺へと声をかけながら後方を駆けて行った。サトルや奥崎を含めた残りの全員もそちらへと向かって歩き出す。

 サトルの目の前を歩くヒサシとキョウイチ。はしゃいで懸命に話しかけているキョウイチの手が何度もヒサシの腕へとぶつかっていた。いつも女口調で話すヒサシの背中。

 ――高校の時よりも、背が伸びたんだな

 サトルはそう思った。


 駅から歩いて二十分弱。

 舗装された道から外れて林の中へと歩き出した頃。

 いつの間にか息が上がっていることにサトルは気付いた。

 ――ただ歩いているだけなのに。

 夏は本当に体力を消耗する。まだ、林の木々が作り出した自然の影は自分たちの住む街の影とは違って静けさと涼しさが混合した。

「気持ちがいいのか」

 奥崎の言葉。

 サトルは無意識に深呼吸した自分が恥ずかしくなった。

「みんなーもう着くよー! もう少しだから頑張ってー」

 陽気なマコトの声。

 その声に周囲からは安堵のため息が漏れた。

 肌に焼きつく夏の太陽。

 今日は熱帯夜になりそうだ、とレンが舌打ちをひとつ、落とした。


 渡辺が指差した先。

 白く高い塀に囲まれた洋風な作りの建物が現れた。

 隣に立っていたマコトも呆然と上を見上げ、口を開ける。後方にいる全員も目を真ん丸くして立ち尽くし、シノブがぶつぶつと何かを話した。

「オックといい、どんだけ坊ちゃんだよ? この冷徹男……」

 冷徹男とは渡辺の事らしい。隣で聞いていたサトルが苦笑いを浮かべながらシノブを横目で見つめるもその反対にいる奥崎がダルそうに欠伸を零した。

 一度、一度だけ。

 奥崎の別荘へ行った事がある。

 周囲の目を奪うほどの洋風な豪邸が現れても心一つ動かない奥崎の態度。サトルは納得しながらまたまん前に聳え立つ建物へと目をやった。黒と白を基調とした大きな建物が立派な塀に囲まれて。周囲の自然さえも自分の知る世界にはないような手の届かない場所のように感じた。

 チチ、と小鳥の囀り。

 細波の様に風を伝える緑の音。

 清浄な空気。

 サトルはマコトと同じように建物を見上げて、少し口を開いた。渡辺が草を踏みしめながら建物を囲む塀へと歩き出し、マコトもその後ろを懸命について行った。

「カズ、カズんちは金持ちだよな。俺ちょっと感動」

「……ヤクザ風情の別荘だ。あんまり期待するな」

 ぼそりと低い声で渡辺がマコトへと言い放つ。

 マコトはうん、と怖じ気づいた様子で反応を示した。


 塀の周囲を少し歩いて。

 全員の目に門が現れた。

「建物もすごいけど……門も立派ね。テレビに出てくるセレブ宅みたいだわ」

 ヒサシが感心しながら話すとキョウイチも未だ口を開けたまま門を見つめた。

「そういえば事務所の人たちとかいないの? カズ。それとも勝手に入っていいの?」

 マコトが上機嫌そうに渡辺へと問うもそれはあっさりとスルーされて渡辺が門へと近づいた。門の横へと設置されたインターホンを押す。綺麗な鐘の音が鳴り響く。

 が。

 誰からも返答はなく、渡辺は門の前でただ黙って待った。周囲の人間たちは無反応な返答に少々動揺するも、逆に平然としている渡辺に躊躇を覚えた。

 痺れを切らしてレンが渡辺へと話しかける。

「おい、誰もなにも返事ねえけど……俺らまだ中に入れねえのか?」

 渡辺はその問いにも表情一つ変えずゆっくりと首を横へと振った。

「先客が来てるはずだ」

 ただそれだけを伝えて門へと背を凭れると渡辺はタバコへと火をつけた。ゆらりと青空へと昇る白煙が雲と混じって。サトルはあまりにもタバコの似合う渡辺の姿に目を留めたまま、微動だにしなかった。

 渡辺を凝視したまま動かないサトルに気付いてか、渡辺の傍らにいたマコトが顔を顰めてから少し笑んで。

「ちょ、ちょっとカズ。こういう場所ではあんまり吸わない方がいいと思うぜ? な?」

「……あ?」

 姿勢はそのままに、自分へと意見を述べてきたマコトを渡辺の視線が威嚇を放った。

 ――怖い、やっぱり怖すぎる。ていうか。ヤクザ風情とか事務所とか、……なに?

 思考が黙っていてもマイナスへと落ちていく。

 サトルはすぐさま渡辺から視線を逸らして背中を向けた。鼻先にゆらりと風に流された煙に顔を向けると、苛立ちながらタバコを吸うレン。そして飲み物を飲んで一息つくヒサシの満足そうな笑顔が目に入った。

 どこからか再び聞こえ始めた蝉の鳴き声。

 そよぐ、風の音。シノブの舌打ち。

 サトルは居心地の悪さを感じながら、隣に立つ奥崎もが煙草を吸う姿を困った顔で見つめた。

 と、門の中から人の気配を感じてサトルは瞬きを何度か繰り返した。短くなったタバコを地へと落として、靴の底で磨り潰す渡辺が背を預けていた門から少し離れた。

 重々しい音を立てて門がゆっくりと開いていく。

「遅ぇ」

 冷たい渡辺の口調。

 すると中から知った笑い声がサトルの耳に届いて、はっと後方にいるシノブへと振り返った。手に重たそうなカバンを持ったシノブは眉間に深い皺を寄せて門へと睨みつけるように視線を注いでいた。

「お疲れ様、待ってたよ」

 紺の浴衣姿で爽やかに届く挨拶。

「……げ……」

 シノブは全開に嫌そうな表情を浮かべた。

「ゴリラ君その荷物重たそうだね? 俺が手伝おうか?」

 極上なミナミの笑顔。

 シノブは迷いもなく、真っ直ぐにミナミの笑顔を睨みつけた。


 門を潜り抜けるとごつごつとした自然の石で舗装された玄関までの道があり、少し進んでいくと真新しく見える屋敷が眼前に立ちはだかる。

 大きな木々のざわめきが涼しい風を運んできて。

 サトルは思わず少し口を開けたまま空を見上げた。

 さっきとはまた違った空の景色。

 整えられた庭園には赤い花が咲き誇り、どこを見ても目新しい光景ばかりでサトルは息をするのさえ忘れそうになった。

 サトルの後方を付いて行くキョウイチ、レン、ヒサシは時折奇声を発しながら興奮した様子で絶え間ない笑顔。ただ一人、シノブだけは不機嫌そうに一番後方を歩いて。サトルは声をかけようかどうか悩んだ。

「サトル」

 突然の奥崎の声にサトルはシノブから視線を逸らして隣を歩く奥崎へと顔を向けた。

「あ、何?」

「渡辺の実家はお前の不安通り、ヤクザだけどな、気にしなくて良い。旅行中ここにいるのは俺らだけだって渡辺が言ってた」

「……あ、分かった。別に、不安になってはねえけど……」

「ふぅん。じゃあ俺の勘が外れたんだろうな」

「……ちょっとは、疑問には思ったけど……不安にはなってねえ」

 微妙に気を張ってしまった自分に情けなさを感じながらもサトルは引っ込みがつかず、奥崎から顔を背けた。

 聞こえてくる奥崎の小さな笑い声。

 わかった、と奥崎が答えた。

「それにしても電車でここまで良く来れたねぇ。感心するよ」

 見慣れないが、着慣れた様子の浴衣。優しげに言いながら上月ミナミが優雅に笑んでみせた。圧倒してくる独特な空気。サトルは半ば緊張しながら荷物を片手に後を付いて歩く。

 別荘の玄関は洋風な黒一色のドアで開くと鈴の音が高い音を立てた。


 揺れる淡い緑の遮光カーテン。

 玄関に添えられた花。

 大理石の床。

 玄関を抜けると天井の高いホール。

 規則的に並べられた椅子の数々。

 白の長テーブルには飾られた赤い花。

 頭上で微かに揺れる黒のシャンデリア。

 キョウイチがそれを指差して感嘆の息を吐いた。


 ホールへと全員入ると次々と床へと倒れこむように座り出し、サトルも傍にあった椅子へと手をかけてぎこちなく手で引いた。

 額には汗。天井から吹き付ける冷風に目を細めた。

「あー気持ちいいー」

 ダルそうにキョウイチが床に寝そべって両手を広げた。まさに大の字状態。せっかくの清潔感ある服装も台無しで。それを見て、サトルは小さく笑った。

 確かに暑い。

 ベランダに出られる大きな窓から見える新緑の木々。照り付ける太陽も都会のそれとは違ってもっと和やかだ。周囲から漏れるため息声。

「ほら」

「あ、ありがとう」

 奥崎から白いタオルを渡されて、サトルは動揺しながらそれを受け取った。相変わらずの無表情だが、どことなく何時もより穏やかに見える奥崎。サトルは少し気持ちが躍った。

「みんなお疲れ様でした! 一階に風呂とかキッチンとかあって二階がそれぞれの寝室になるみたいだから先に荷物置いてきた方がいいと思うよ。部屋はどこでも好きに自由に使ってくれて構わないってカズも言ってるから。気にしないで好きにしてください」

 全員ダルそうに片手を挙げてマコトの言葉に応える。

 座ったばかりだったが、サトルはもう一度重い腰を上げて先に二階へと向かって歩くレンたちの後を付いて行こうとした。

「ゴリラ君、会えて嬉しいよ。二年に上がってからお互い忙しかったものだからロクに口も利いてなかったじゃない? あ、談話室で少し」

 手に持った荷物を肩へと担いで、シノブが立ち上がったと同時、ミナミが爽やかに話しかけた。疲れた顔が引きつるシノブは喋るミナミを目顔で制し、相手が口を閉じるとゆっくり笑顔を作ってみせた。

「ああそうだな。おかげでお互い平和だったじゃねえか。こっちはなにも問題なかったぜ。お前も元気かよ、オンナオトコ」

「ん? なんか機嫌が悪いね、ゴリラ君。暑いの苦手なの?」

「別に。夏は暑いもんだろ。そして冬は寒いと決まってるんだ。季節は一年で四回巡る。苦手なんざ言ってられるか」

「そう。あ、俺と同じ部屋使わない? 結構カズキの別荘の部屋、広いんだよ」

「なんでここまで来ててめえと夜寝る時まで面突き合わせなきゃならねえんだよ。結構だ。断る」

「あ、……まだ怒ってるの?」

 ミナミが何かに気付いて伺うような視線でシノブの顔を見つめた。シノブは一層に眉間の皺を深めて自分へと視線を差すミナミを睨みつけた。

「あ? なにがだよ」

「なにがって、こんな所で言ってほしいの? 君も随分と物好きだな。ゴリラ君」

「はぁぁ?!」

 喧嘩を売る姿勢でシノブが自分より背の高いミナミへと下から睨みを利かせた。その態度を受け流すかのように笑顔で応えるミナミはやれやれ、と呆れたように呟くとシノブの左耳へと顔を近づける。

「キスされたこと、まだ根に持ってるの?」

 極上なまでに甘く掠れたミナミの声色。シノブは背筋に急にものすごい速度で走りぬける悪寒に思わず顔を顰めてから顔を赤くして息を思い切り吸った。

「ふざけんな!! 俺にとってはもうなかったことになった出来事だ。いちいち掘り返してくるな! ボケが!」

「あは、早いね。記憶操作。器用なゴリラだね」

「だからゴリラって言うなよ!!」

 苛立ったシノブの口調。

 サトルは中々二階へと続く階段を上れず、シノブの様子を緊張した面持ちで見つめた。

「そんなにゴリラが嫌いになっちゃったのかな?」

「元々好きじゃねえ。てめえが変なあだ名で俺の事呼ぶからマコトとかが真似するじゃねえか!」

「親しみが湧いて良いと思うけど……あ、やっぱり重たそうだね。貸して」

「別にいらねえって! 俺に構うなっつうの!」

「でも重たそうだよ? ゴリラ君の腕、カバンの紐のせいか赤くなってるし。俺なら体力もあるから気にしなくてもいいよ」

「おいって!」

 ミナミは勝手にシノブから荷物を取り上げると自分の肩でシノブのカバンを担いだ。

「わ……結構重いね。何が入ってるのかな?」

「だからお前には無理だっつー……」

「参考書とかみたいな重さだね。まさかゴリラ君ここまで来て勉強とかしないよね? ホント辞典とか入ってるんじゃないの?」

 何気ない口調で話すミナミ。

 が、瞬時にシノブの耳が真っ赤に染まって。

 首を横へと振った。

「別に勉強道具じゃあねえよ! 単なる下着類だ」

「えー? 下着ってこんなに重いの?」

「俺のは重いんだよ!」

 怒り口調のシノブに対して、終始穏やかなミナミ。

 二人の会話を耳にしながらサトルたちは今日の寝床になる二階へと歩いた。


 ホールから木製の階段を二階へと上がる。二階の吹き抜けからは広いホールが一望できて、サトルは黙って目を落とした。大理石の床に敷かれた白い絨毯。そのホールへと面した窓際に漆黒のグランドピアノ。窓からは手入れの行き届いた南国調の庭が見えた。天井へと目を向ければホールの真上から空の光景が目に入り静かに日の光が降り注ぐ。

「……金持ちってすげ……」

 思わずサトルが呟いた。

「どーする? 部屋割り。やっぱジャンケンか」

 レンが赤い絨毯の敷かれた床へと荷物を置くと全員へと声を荒々しくかけた。

「え? 誰とでもいいんじゃないの? 折角の旅行ですもの」

 穏やかな口調でヒサシが意見を述べるもその意見はレンの鋭い目つきの下、即下げられた。

「旅行といういい機会だからこそ親睦を深めるんじゃねえか」

「え。誰か仲悪いの??」

 レンの突然の気合いに気圧されてヒサシが困ったように声を漏らすが誰も反論する者も居らず、その場は突如沈黙した。気まずいムード。サトルは落ち着かない表情で周囲を見回してすぐに俯いた。

「あ、あのさ! 気楽に決めてもいいんじゃない!? 単なる寝床じゃん」

 場の空気を変えようとマコトが元気に声を張り上げた。サトルもその流れに乗ろうと顔を上げるもレンの厳しい表情がマコトに注がれているのを見て眼球をまた赤い絨毯へと落とした。

「……単なる寝床? バカ!」

 一喝されてマコトが眉を顰めるもあまりに大きいレンの声に黙ってしまった。奥崎が深々と呆れたようなため息を吐く。そのため息が気に障って、レンの鋭い眼光が次は奥崎へと注がれる。

「なんだ? 文句か? オク」

「いや……」

「じゃあため息なんかついてんじゃねえよ」

 喧嘩腰なレンの態度。

 サトルは内心落ち着かなくて、下唇を軽く噛んだ。

「でも部屋割りしなくても大体普段いる人と組むんじゃない? ほっといても勝手にみんな好きに部屋を決めるわよ、レン」

 宥めるようなヒサシの声。それへと強くキョウイチも頷くもレンは鼻先で笑うとヒサシと奥崎へと歩み寄った。

「……今日はみんなで旅行だ。いつもいる奴と部屋割り? 勝手に旅行に行く時は好きにしやがれ。でもな。俺は寝てる時にてめえらの喘ぎ声なんざ聞・き・た・く・ね・え」

「ちょ……ちょっと。誰がそんなことするのよ、みんな常識くらいあるってば。もう……レン心配しすぎよ?」

 顔を引きつらせながらもヒサシの必死のフォローが続く。奥崎は無表情のままレンを見つめてゆっくりと肩を竦めた。

「……なんだ、オク。その態度は」

 食らいつくような辛辣なレンの表情。

 少し間を置いて。

「ここではやらねえ」

 告げた奥崎の声に、レンが怒るよりも先に後方にいたシノブが音を立てて重い荷物を下ろした。深いため息がその場を払拭するように流れる。

「……じゃあアミダでどーすか? 一発で決まるし誰も文句ないでしょ」

 面倒くせえな、とブツブツ言いながらもシノブは荷物から紙とペンを出すと躊躇もなくアミダくじを作成し出す。

「器用だね、ゴリラ君。しかも準備もいい。流石生徒会役員様だね」

「うるせえなミナミ。俺に話しかけるな」

「でも字は汚いね」

「だからうるせえっつってんだろうがぁ!」

 ペンであみだくじを作成しながら、隣から覗き込んでくるミナミにものすごい形相でキレるシノブ。

「あ、あのレン先輩」

 弱々しいサトルの声にレンがキツイ表情を瞬時に和らげた。

「あ? なんだ、マツ君」

「あ、大した質問じゃねんだけど……今決めてる部屋割りって二人部屋ってことです、か?」

「そうだな。さっき部屋覗いたら一つの部屋にベッド二つ。要は二人部屋って事だろ」

「そう、ですか。でも今日九人ですよね、全員で。じゃあ一人は一人部屋ってことですよね」

「まぁ、そういう計算になるな。一人になったヤツはまぁ残念賞みたいなもんだな」

「……そう、ですね」

 口角からゆっくりと深い笑みを作るサトル。

 ――一人部屋になりたい……

 内心、強くそう望みながらクジを作成するシノブの背中をサトルは念を込めるように見つめた。

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