第24話 不安、誰かの手を掴む事

 目の前のカップの中身はすでに空で。

 グラスには透明な滴が木製のテーブルに落ちた。

 BGMは切れることなく流れて、由井の虚ろな瞳はただ黒く、一点だけを見つめていた。テーブルの上に置かれた携帯は音沙汰もないまま。鼻先を掠めるコーヒーの香りに気づいて、ひとつ、瞬きをした。

 窓越しに見えたサトルの表情。

 自分を見て、ショックを受けているようだった。

 誰も座っていない正面の席へと顔を上げて。

 いつも来ていたこの喫茶店で一人。

 由井は呼吸をするのも忘れて二人で訪れていた頃の思い出を脳裏で巡らせる。笑い返してくれていたサトルの表情。優しげに自分を見つめていたサトルの瞳。どれもが幸せの光景。


 高校に入ってから通い詰めたライブ会場で、一際歓声を浴びていたアカーシャ。ファン一人一人が喜びに震えて。その中心で叫び続けていたヴォーカル。時折客席へと頭を下げて笑いかけていた頃のサトル。自分には届かない場所にいる人だと思っていた。触れたいと手を伸ばしてもそれは届くことはないとさえ思っていて。

 だから。

 公園で見かけた時は信じられなかった。

 寂しげに見えた彼の背中は思ったよりも小さくて。思ったよりも、穏やかな人だと思った。勇気を持って近寄って。自分の気持ちを信じて話しかけた。

 好き、と伝えて『彼女』になれた。手が、ようやく届いたと思った。一緒に喫茶店に行ったり、一緒に道を歩いたり、同じ風景を見て、隣で黙って寄り添う彼が何を考えているのかと思ったり。それでもその手はすぐ隣で触れると温かかった。ライブであんなに叫び続けていた彼が隣にいる。『彼氏』として傍で存在している。幸せだった。手が、思いが、夢のように思っていた人に届いた。

 ――届いたはずなのに。

「……やだ」

 小さく声が漏れる。瞳は瞬きを忘れて、ただテーブルを濡らした水滴を黙って見つめた。

 ――届いたと思ったのにどうして?

 脳裏に残るサトルの表情が全部嘘のように見えて。

 触れていた手は、単なる手で。

 私になんか、全然、気持ちなんかないなんて。


 由井の指先がピクリと動く。同時に携帯が着信音を鳴らして、しばらくしてから由井の手が携帯へと伸びた。携帯を開くとそこには着信番号と相手の名前。望んでいた相手からの電話ではない。由井はため息をひとつついてから携帯の通話ボタンを押した。

「……はい、由井です」

 疲れきった声。

 しばらく、黙ってから由井が小さく頷いて。

「はい、ここで待ってます。いえ、大丈夫です。ちゃんと話したいから」

 携帯を閉じてカバンへとそれを入れると店員へと声を掛けた。

「すいません、コーヒー下さい」

 由井はそれだけ言うと険しい表情で顔を歪ませたまま、また遠くを見つめるようにぼんやりとテーブルへと視線を落とした。




「暑くねえか? 部屋。ちょっと窓でも開けるか?」

 シノブの声にベッドの上に座った状態のサトルが小さく首を横に振った。そっか、と答えたシノブの声にサトルは顔を少し上げて、泣き腫らした瞳でシノブの横顔を捉えた。

「ホント、ごめん……ちょっと落ち着かなくて」

「気にすんな。疲れも溜まってるだろうしお前まだ本調子じゃねえんだよ。俺になんか気ィ遣っても何にもならねえぞ」

「……いや、でもごめん。確かに今、不安なんだ」

「不安? どうした、オックと喧嘩でもしたのか?」

 陽気な口調のシノブの声。それに答えるようにサトルが笑みを浮かべて首を横へと緩く振った。

「喧嘩はしてないよ。ただ俺が不安に思ってるのは俺が招いたことだから。神崎やオクさんのせいじゃないよ。俺の問題だ」

「俺の問題、ねぇ。……んな事言うなや」

「だって、そうなんだよ。俺が自分で考えて、自分でやって、今になってひとりで不安になってるだけなんだよ」

「前も、そうだったんだろ? お前さ」

「あ……それは」

「あのな、何でも絶対包み隠さずに話せとは言わねえ。けどな、俺でもオックでもお前が好きでお前に惚れて、それも勝手にな。……ちょっとは頼れっつうの。自分の問題だからって自分だけの殻に閉じこもってほしくねえし、またお前がああいう目に遭うのは俺は嫌だ。多分、オックもそう思ってると思う。何かあった後で心配する身にもなってみろ。好きな奴がひどい目に遭って喜ぶ奴がいるか? 助けたいと思うんだよ」

「……でも」

 困ったように言葉を漏らすサトル。

 それにシノブはため息で答えた。

「『でも』じゃねえ。俺は好きな奴が血塗れになるのを見るのはもう二度と絶対嫌だな。守るったら守る。……けど俺らがそう思ってもお前が気持ち開いて話してくれねえと正直何もできねえんだよ。頼むから頼れ。嫌なら俺じゃなくてもいい。オックにだけでも頼れよ、マツ」

 ――あ

 泣きそうに顔を歪めるシノブの瞳。

 サトルは無意識に息を呑んだ。

『隠し事をしない方がいいよ。大事な人を傷つけたくないなら、ね』

 ――大事な人が傷つくのは嫌だ、そんなの俺だけじゃないのに、オクさんだって神崎だってそう思っていたのに。ああ、守るだなんてできてなかった。守ってる『つもり』で苦しめていたんだ……誰だって、大事な人が傷つく姿なんて見たくないはずなのに。

「あ? どうした?! 俺嫌な事言ったか?」

 シノブは突然焦り出してサトルの正面に移動して相手の顔を見られるようにしゃがみこんだ。

「え」

「ほら、ティッシュ! 拭け、涙」

「……ああ……ごめん」

 いつの間にか頬から流れた涙が一筋、自分の手の甲へと落ちていたのに気づいて。サトルは渡されたティッシュでゆっくりと涙を拭きながら自分の正面にいるシノブを見る。

 ひどく心配したシノブの顔。

 出会った時。

 笑顔が嫌味で自信がものすごくあって、厄介だとも思っていたシノブの存在。

 そう思っていた時期もあったのに。

 サトルは思わず吹き出して笑った。

「あ?! なんだ? おい、大丈夫かよ?!」

 少しムッとした顔になったシノブの表情。

「ごめん、なんか、俺泣き過ぎだよな。涙腺ぶっ壊れたかも」

「あー……別に泣いてもいいけどよ。お前体もまだ調子戻ってねえんだ。涙腺も大事にしろ」

「そうだな。……なんか、神崎と上月って似てると思った……」

「はぁぁ?! それは聞けねえ意見だな! なにが? 何がだよ!」

「いや、何でもない」

「なんで、あいつと俺が似てるって事になるんだよ! すげぇヤダ!」

「ごめんごめん」

 冗談じゃねえ、とぶつぶつ正面で文句を漏らすシノブ。

 サトルは静かに笑ってそれを見つめた。

「神崎」

「あ? なんだ?」

 深く呼吸をして、鳴り続けた心臓の音を抑える。

「助けて、ほしいんだ」

 弱弱しい余韻を消し去って、サトルの口がはっきりとシノブへと告げた。

 いつもと同じ室内の空気。

 シノブは涙で頬を染めたサトルの姿を見つめて。

 微かに震えている指先に気付いた。

 表情は先程よりも凛として、すっと自分へと視線を落としてくる瞳には揺るぎがないのに対して。

 正反対に震える指先が、ぴくりと動いて拳を作った。

「話せるところまででいいんだからな」

 落ち着いた口調でシノブが話しかけるとサトルはゆっくりと口角を上げて笑み、緩く首を横に振った。

「さっきの神崎の言葉、身に染みた。今まで俺は自分のことばかり考えてたんだよ。自分ではちゃんとやってきたって思ってたけど、俺はみんなに失礼な事をした。自分の問題だって、誰かが巻き込まれて傷つくのも嫌だったし、悲惨な自分の中学校時代とか、知られたくなかった気持ちもあるんだ。全部俺の都合。心配してくれていたみんなの気持ちなんて、多分考えてもいなかった」

 静かに、淡々と語るサトル。シノブはそれを聞いていて居た堪れない思いが沸々と湧き上がるのを感じた。

 ――んなこと

 ――んなことねえよ

「そんなに自分を責めるな。そんなことねえ。お前は自分で一生懸命考えて頑張ったんだろうが。ちょっとは自分を誉めてやれよ」

「……神崎は、やっぱり真っ直ぐだ。敵わねえな」

「お、俺のこと誉めるんじゃなくてお前を誉めてやれ。どんな形でもお前はあの時、みんなを巻き込みたくなくて守ろうとしてた気持ちがあるじゃねえか。そのために一人で立ち向かった。充分、頑張っただろ?」

「……頑張った、のかは分からないけどな。でもあの事件は今までの俺への罰みたいなもんだと思ったんだ」

「罰?!」

 妙な事を話すサトルの言葉にシノブは片眉を上げてサトルの顔を覗き込んだ。先程とは違って落ち着いた、穏やかな表情を浮かべるサトル。優しげにシノブの顔を見つめながらゆっくりと口を開いた。

「中学校の頃、俺、随分とイジメみたいなもんに合ってきたんだよ。なんとなく想像つくだろ? 俺の性格だし」

「あ……? 想像つかねえって言ったら嘘だけど、……必ずしもお前みたいな奴がイジメに合うとは限らねえだろうが」

「そうだな、変な事言った。ごめん」

「謝るなっつー」

「でもごめん」

 と。

 ドアをノックする音。シノブがドアへと視線を向けてため息混じりに立ち上がりながらサトルの頭を優しく数回叩いた。

「はい、誰だ?」

 ダルそうに声を出しながらドアを開けるシノブ。

 部屋からの光に当てられて姿を現したのは、奥崎だった。シノブは一瞬、息を吸い込むも小さく何度か頷いてドアを全開に開いた。

「マツに会いに来たのか?」

「……込み入った話をしているなら後からにする。大した用事じゃねえから」

「いや、確かに話はしてる最中だけど、お前も上がれ」

「は……?」

「は、じゃねえ。いいから上がれよ。マツ! オック来たぞ」

 シノブの声にサトルは目を大きくして躊躇するも何度か頷いてドアへと顔を上げた。そこには都合悪そうにドアから室内へと上げる奥崎の姿。シノブは笑みを浮かべたまま鼻から息を吐いて音を立ててドアを閉めた。

「タイミング悪かったか、俺」

 奥崎が無表情のまま立ち尽くしてシノブへと問うと、シノブは怪訝そうな表情を浮かべて奥崎の肩を強く叩いた。

「はぁ? タイミングって何のタイミングだ? 逆に良い機会じゃねえかよ。お前もマツの話聞けよ。もう体も交わした仲だろうが。ちゃんと気持ちも理解しあえっつうんだ」

 陽気な口調で奥崎へと説教するシノブ。サトルはベッドに座ったまま、申し訳なさそうに見つめた。

「おい、オック。お前マツの事ちゃんと守るんだろ? 今度こそ」

「……当たり前だ。もうあんな目に合わせる気はねえ」

「なら、タイミング良かったんだよ。マツの気持ち、ちゃんと聞けよ」

「……ああ。分かった。ゴリラ」

「お前さらっとゴリラっていうんじゃねえ!!」

 一瞬で流れた二人の間のいつもの空気。

 サトルはぎこちなかった自分の態度が緩和され、そんな二人のやり取りに少し笑みを零した。

「……俺がいても、都合悪くねえ、か? サトル」

 無表情のまま、奥崎がサトルへと問う。

 サトルは何度か瞬きして、それから強い意志で頷いた。

「自分のこと話すのって緊張するモンなんだな……」

 サトルはその言葉を言うと深呼吸をして軽く俯いた。

 が、すぐに姿勢を正して二人へと笑みを浮かべる。

「緊張して当たり前だ。俺だって緊張するぜ? そういう時」

 意外なシノブの意見。奥崎もシノブの意見に多少驚きを見せるも小さく笑みを浮かべてからサトルへと視線を向け。

「俺もだ」

 と、呟くように話す。サトルはそっか、と小さく答えてから少し黙り。それから自分の頼りなさ気な手の甲を見つめながら口を開いた。


 中学校入学。

 その頃のクラスメイトに鷲尾がいた。

 鷲尾とは席も近く、何度か一緒に遊びにも行く程仲が良かった時期があった。仲が良かったからこそ同じ陸上部へと入部してそれなりに楽しい部活だった。ゲームを貸し合ったり、街へ出て遊んだり。

 鷲尾はサトルの隣にいて、サトルも鷲尾の隣にいる。

 それが当たり前のような日常。

 ずっと続くものだとも思っていた。

 けれど、一年の冬を過ぎた頃、その関係性の雲行きが怪しくなった。鷲尾の様子がどこかぎこちなくて日、一日ごとに距離感が生まれた。サトルにとってもその距離感は気分のいいものではなかったけれど、いつもと違う鷲尾の状態にどうやって声をかければいいのか悩んだ。

 そうしている間に中学二年生になり、距離が出来てしまった分、その空いてしまった穴を塞ぐかのようにサトルは走ることに没頭した。その成果が出たのかいくつかの大会で入賞し、滅多に来ない部活のコーチも、自分の親も周囲の友達も喜んだ。

 走るのが、好きだと思った。

 けれどもある日を境に鷲尾が自分へと当たるようになっていく。気に掛かるちょっとした一言が敵意だと認識するまでに時間は掛からなかった。言動や行動はエスカレートして、周囲の人間に悪意やイジメは感染するものだという事を知った。つい昨日まで話していた友人が今日は敵、鷲尾は歪んだ笑みで自分へとイジメを続ける首謀者。

 その内、心臓の音に気付き出した。

 その心音は激しく体の奥底を打ちつけて何度も吐き気を誘発させた。

「体が死にたがってるんだと、思った」

 淡々と語るサトルの言葉にシノブと奥崎が顔を同時に顰めた。

「何で、だよ」

 シノブの問いにサトルは変わらぬ様子でまた淡々とした事務的な口調で話し出す。

「昔に何かの本で読んだんだ。地球上で生まれた生物のほとんどは生まれてから死ぬまで、同じ心音の数を鳴らして死ぬ。……なんか自然にそう思えたんだ。あの時は。中学校に通ってて、急に心臓の音が耳へと届くと死のう、死のうと体が動き出してるような感覚だった。……今思えば、死にたかったからそう思ったんだと思う」

「死にたいって……」

 ショックを受けたように弱るシノブの声。

「……あの頃と今を比べればもう、地獄みたいだったかもな。でもあの頃はあの地獄が死ぬまでずっと永遠に続くんだと勝手に信じ込んでて、この先もずっとこうやって毎日理解できなくなっていく日常を繰り返して生きなきゃいけないのが嫌だった。……でもそのうち、不思議と痛みも胸が痛いのも慣れたのかな……治まったんだ」

「治まった……?」

 静かに問う奥崎。

 サトルは一度、頷いた。

「多分、慣れだと思うんだけど……。殴られても平気になってきたり、嫌だと思ってた気持ちが消えたんだ。ただ毎日これが日常で楽しいことも何もない日々の繰り返しを黙って過ぎるのを待ってるような気分だった。その頃はもう三年に入ってたから鷲尾ともほとんど会話はしてない、と思う。変に思うけど、あんまり覚えてないんだ」

 だから。

 中学を卒業して。

 自分の進路は中学校から離れた場所を望み。

 誰にも自分の進路を教えたりしなかった。

 黙って時間が流れるのを過ぎて。

 卒業したら、少しは楽になるんじゃないか。

 そんな憂鬱な思考しか脳裏には残っていない。

 サトルはそう言って下唇を噛み締めた。

「……話してて情けねえけど……今にして思えば、ちゃんとけじめなんて何一つつけてねえんだよ。俺。男のくせに」

「あ? ケジメなんかつける必要もねえだろうが。あんな奴らによ」

 反論するシノブ。

 それでもサトルは静かにシノブを見つめた。

「俺、殴られても嫌な事されても、嫌だとか止めてほしいとか伝えもしなかったんだよ。ただなんでこうなってしまったのかばかり考えて。その内慣れてどうでも良くなったんだ。やりたかったらやればいい、俺は知らない、お前らの事も全員いらないって。自分の嫌だと思う気持ちも全部どうでも良くなった。感じちゃダメだと思った。怖がってしまったらまた心臓が嫌な音を立てるから。不安になると体が死のうとするから。心臓の音を聞くとイライラするんだ。五月蝿くて嫌なんだ。死のうとしてるなら今すぐに死ねたら楽になれるのにって何度も思った。でも、……あの事件の時、思ったんだ。俺はもう死にたくないんだよ。死にたいなんて口先ばかりの逃げ道みたいな言い訳で、今は死にたくなんかないんだよ。今はあの頃とは違う。生きて、アカーシャのメンバーとして歌いたいと思ってるんだ。歌ってると救われた気持ちになれる。心臓の音をかき消してくれるあの空間も体から自分の全てを叫び出せるような感覚も失いたくない。……だから、今度はちゃんとケジメをつけたいんだ」

「ケジメ……?」

 奥崎がサトルへと視線を落とす。強く頷くサトルの様子に奥崎は少し開いていた口を閉じた。

「由井とちゃんと向き合って話そうと思うんだ。まずはそれから始めようと思って」

「由井ちゃんってマツの彼女だろ? 別れるって事か? ……まぁお前にはもうオックがいるわけだしな……」

「いや、別れ話の前に、ちょっと気になることがあって。……この前のライブの後から、由井の様子がおかしいんだ」

「おかしい……? どうかしたのか」

 無表情のまま奥崎がサトルへと視線を向けるもサトルは少し首を回してから奥崎へと見上げた。

「元々は明るくて優しいし、本当に可愛い子だよ、由井は。なんだけど、あれから口調とか…………うん。さっきも寮の前に立ってて……、何の連絡も無かったのにこの部屋を外から見てて。目が合ったんだけど……異質な感じがしたんだ」

「……あぁ?! ストーカーかよ!」

 驚いたようなシノブの一言に奥崎が瞬時に眉間へと皺を寄せた。

「……ストーカー……?」

 脳裏に浮かぶあの事件の男たちの顔。

 耳について離れない雨音。

 嫌な、笑顔の群れに奥崎は険しい表情でシノブの横へと胡坐をかいて座り直した。

「でも、あれだろ? お前の同級生とか、あの変なイッちゃった男とか……警察沙汰でもう大丈夫じゃねえのかよ」

 シノブの苛立った口調。反応したかのようにサトルの指先が怯えたようにビクリと動く。じっとりと背中へとかいていく汗。

 サトルは視線を泳がせるもすぐに目を固く閉じた。

 由井と行ったライブ会場で見たあの人影。

 知った、指先。

 急に首を絞められたような感覚に襲われて。

 声が。

 また。

「サトル」

 現実に引き戻され、サトルは上体をすぐに上げて奥崎の顔を見つめた。

「あ……」

 不安と安堵が入り混じった声がサトルの口から漏れた。

「あいつらはここにはいねえ。大丈夫だ。それとも怖いなら手、握っててやるか? 俺が」

 皮肉な笑みを浮かべて自分へと手を差し伸べてくる奥崎。サトルは小さく笑って、奥崎の横に座るシノブへと視線を投げた。シノブは引きつった笑みで奥崎を横目で睨みつけ。

「流石にそういうのは、二人っきりの時にしやがれ下さい。こちとら失恋したばかりだっつうの。少しは気を遣え! この大仏が」

「ああ、そうだったな。お前は本当に素敵な恋敵様だ」

「あぁ? それは誉めてんのか? 貶してるのか?!」

「好きに取れよ」

「……ったく……ホント何考えてるのかわかんねえ奴だな……マツ! お前こいつのどこがいいんだ!?」

「え……? よくわかんねえ、かも」

 急に振られた話にサトルは困惑しながら答えた。シノブはイライラした状態のまま何度もため息をついては舌打ちを繰り返すもその内腕を組んで黙った。


「今日はありがとう」

 すでに外の景色は失われて窓から覗くのは連なる街灯、それから月ひとつ。未だに昼間の熱を持つ廊下でサトルは奥崎へと軽く頭を下げた。奥崎は無表情のまま、サトルの頭を軽く叩く。

「大丈夫なのか」

 静かな落ち着いた口調の奥崎の声。

 サトルは躊躇しながらもゆっくりと頷いた。

「……大丈夫だよ。もう同じことが起きないように俺もちゃんとする」

「そう言うなら、……信じるけどよ」

 今一つ、納得のいかない様子の奥崎へとサトルは不安げな瞳を向けるも生唾を飲み込んだ。

「……あの」

「なんだ」

「俺、ちゃんと頑張るから。自分で蒔いた種でもあるし……それに、またあの頃みたいに歌いたいんだ」

 迷いなく真っ直ぐに自分を見つめてくる奥崎の視線。

 サトルは内心躊躇いながらも必死に声を出す。

「だから……だからっていうか……あの、情けなくて申し訳ねえんだけど」

「辛くなったら、助けを求めてもいいか、な……」

 震えるようなサトルの姿。

 奥崎は小さく笑みを零して、サトルの肩へと手を伸ばす。肩へと置かれた奥崎の手の温もりにサトルはゆっくりと瞳で奥崎の手を捉えてから。奥崎へと視線を流すと笑っている相手の表情に気付いた。

「当たり前だな」

 そう話す久しぶりに見た去年の夏祭りの時のような奥崎の笑みに急に泣きたくなった。


 この人が

 この人が好きだ

 傍に

 傍にいたい


「おい、泣くのかよ」

 半笑いで自分を宥める奥崎。

 サトルは小さくごめん、と呟いた。




 うだるような暑さ。

 シノブは項垂れた表情で生徒会室へと入る。

 誰もいない場所に舌打ちをひとつ。

「エアコン入ってねえのかよ……ありえねえ」

 ドアを乱暴に閉めると、閉め切られていた窓を次々と全開にする。ベージュ色のカーテンがゆらりと動き出し、熱を含んだ風が緩やかに入り込んでくる。

 額の汗が少し冷えて。

 シノブはネクタイを緩めながら目を細めた。

「お。お疲れ」

 急に背後から張り上げられる声。シノブは驚愕して目を大きく見開いてすぐ振り返るとそこには自分へと手を振るレンの姿があった。

「あ、お疲れ様です」

 疲れたような声を出して、シノブも挨拶を交わすとレンは怪訝そうな顔をしながらシノブへと近づいた。

「なんか元気ねえなぁ。大丈夫か? 今日も楽しく生徒会活動だ。頑張ってくれよ」

「あー……まぁ、頑張ります。つーかそろそろ夏休みだっつうのにエアコン入ってねえんですけど」

「今日は登校してくる生徒の数が少ねえからな。まぁ仕方ねえってことだ」

 陽気な口調でシノブへと返答するレン。さっさと席へと着いて机の上へと乱雑に置かれている書類にレンが目を通す。シノブはそれを黙って目で追うだけで、疲れた表情が抜けないでいた。

「あ、そういえば神崎。これ」

「え。……あ、はい?」

「ちょいこれ見てくれよ」

「……あぁ」

 レンから封筒を渡されてシノブは渋々受け取ると中身を取り出す。

 出てきたのは何枚かの写真。

 シノブはその数枚へと目を向けると片眉を上げた。

 それから写真から目を逸らして自分を笑って見つめているレンへと顔を上げた。

「これって」

「ああ、あのマツ君の同級生だった子、だろ」

「……あ、あぁ、だと思います。でもこの写真って」

「ヒサシさんが隠し撮りしたヤツ。念のため、調べておいた」

「……調べた……」

 シノブは再度写真へと視線を落としてレンの言葉を反復した。

 見覚えのある、男の姿。

 サトルの友人で執拗にサトルへと恨みを抱いていた同級生の鷲尾。黒のパーカー姿で道を歩いていく姿が撮られていた。――気に入らない、表情。

 シノブは無意識に表情を曇らせた。

「まぁ……一度ヘマしちまったからな。またお前に怒られるのも癪だし」

「……いや怒らねえよ、もう……」

「アカーシャは活動再開する。どっちにしろストーカーは排除すべきだろ」

「……あぁ」

 話すだけ話すとレンはまた山積みになった書類へと手を伸ばして次々に目を通していく。シノブは手にした写真からレンへと視線を移して。それから少し嫌味な笑みを歪めて笑った。

「そうですね。排除すべきだと俺も思います」

 いつの間にか吹き飛んでいた汗と熱。

 揺れるカーテン。

 シノブは少し穏やかな気持ちになった。

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