第23話 主観と俯瞰と謝罪

 オフホワイトを基調とした清潔な部屋。

 カーテンは緩く風に揺れて、テーブルに置いていたグラスがすっかりと汗を掻いた。窓から降り注ぐ光は熱を放って、クーラーをつけていない部屋の湿度は篭もる。

 それでもベッドへと座ったまま、由井は瞬き一つせず携帯のボタンを押し続けた。

 暑い空間。なのに、由井の体は汗一つ滲ませず、顔色も優れないまま。ただ無心に携帯を見つめた。

 止まらない指先。

 画面に表示されるのは今までにやりとりした絵文字のないサトルからの受信メール。

 素っ気無い文字の羅列。

 曖昧な返事。

 ――見れば容易にわかるじゃない

 由井はそう思うと携帯をベッドの脇へと投げ捨てた。

 上気する息。酷く冷えた自分の体に当たる太陽の熱は余計に寒気を誘う。


 昨日はこんなんじゃなかった。

 一昨日はこんなんじゃなかった。

 もっと幸せだった気がする。

 でも今はそうじゃない。

 知らなかったから。

 何も、何も。


「知らなかったんじゃない!」

 急にヒステリーを起こして由井はテーブルの上にあったグラスを床へと叩き落とした。グラスはガシャンと音を立てて粉々に割れ、フローリングの床には溶けかかった氷や水が伸びるように滑る。

 ベッドへと手を伸ばして携帯をまた手に取るとサトルの文字をまた一から見直しては小さく笑った。

「好きならこんなに素っ気ない事ないよね……好きなら……」

 そこまで言うと由井は下唇を噛み締めて、涙を流した。


 最初に好きになったのは私の方。だんだん好きになっていってくれればって思った。一分でも、一秒でも一緒にいれば、私を好きになっていってくれるんじゃないかって。サトル君も頷いてた、たくさん頷いてた、私の言葉に頷いてた。頷いていた意味は何? 同意だよね? 私の意見に同意ってことじゃなかったの? 適当に流してただけ? ただそうしとけばよかったって? ただ


『あんた、利用されたんだよ』


 由井は目を見開いてガラスの破片が散らばった床を思い切り足で踏みつけた。


 好きで、憧れて、彼女になれたらなぁって思った

 サトル君は頷いた。頷いたんだから


「……利用、とかじゃないよね。私はサトル君の彼女だもんね」

 そう言うと深呼吸して腫れた瞼を手の甲で拭った。

 それから優しげに笑みを零しながら涙で濡れてしまった携帯を綺麗に拭いてメールボタンを押す。

「昨日、あれからサトル君、連絡忘れたんだな、もう。……具合良くなってればいいなぁ」

「具合が悪いなら由井に言ってくれれば良かったのに。もう、由井はサトル君の彼女なのになぁ」

「ちゃんと言ってあげないと。サトル君、優しすぎるから由井に心配掛けたくないからってさあ」

 小さく動く唇。

 由井はボタンをまた打ち続けた。





「もう、部屋に戻るよ。オクさんありがとう」

「……そっか。戻るのは構わねえがまた神崎にケツ叩かれねえようにな」

「あ、うん。それじゃあ」

 サトルは手を振りながら奥崎の部屋のドアをゆっくりと閉めた。そろそろ夕刻。そんなことよりも、ズボンのポケットにしまっていた携帯がさっきから振動し続けていた。サトルは廊下を歩きながら携帯を開けたと同時に赤い電池切れの表示が目に入った。

「昨日、充電してねえからか……。電話、かな」

 ――多分、由井から

 そう思うと胸の奥底が小さく疼いた。

 考え出すと止まらなくなる罪悪感。

 優しいし、可愛い由井の笑顔が瞼の裏に写る。

 普通なら。

 常識的に男と女が付き合うのは自然で、当たり前で、そうするべきとも思う。

 由井はいい子だ。

 自分がもし、由井と先に出会っていたら。

 奥崎と近づいていなかったら。


「いや、……そういう考えが愚問だよな……」

 サトルはため息混じりに言いながら何度か瞬きを繰り返した。


 初めて、人を好きになった。

 気持ちはもう、自分が誰を求めているか。

 誰といたいか。

 誰と会いたいと思うか。

 常識を無視してとっくの昔に決めている。

 揺るぎのない覚悟のような想い。

 離れると寂しいと感じる。

 会えると嬉しいと感じる。

 肌から、髪の毛から。

 多分、きっと全てに。

 嫌な音を立てる自分の心臓さえも、もう。

 奥崎を中心に動き出している。


「……話を、しなきゃダメだな」


 部屋に戻ったらきちんと考えてみよう

 それから夜にでもオクさんに話そう

 サトルは携帯をまたポケットへとしまうと自室へと駆け足で戻った。部屋に戻るとシノブの姿はなく、締めっきりのカーテンにふと目をやった。

「なんだ、神崎いないのか……」

 食堂にもう先に行ったのかな、と思いながら部屋へと上がるといそいそとポケットから携帯を取り出してベッド脇の充電器に繋いだ。ピピッと電子音を鳴らして携帯のランプが赤く灯る。

 静かな室内はいつもの匂いと少し違って、外気の熱が籠もっているように感じた。最近は暑い日が続いていた。そんなことを考える余裕なんかなかったな、と苦笑してサトルが穏やかな表情で俯く。

 思ったよりも部屋は広く見えて。

 一年過ごしたこの部屋も、目が慣れた光景のひとつ。

 少し前はもうこの場所から逃れてしまいたいとさえ思っていたのに、嘘のような心変わり。

「俺も単純だよな……」

 言いながらベッドに腰を掛けて着ていた上着を脱ぎ捨てた。地味なジャケット。アカーシャの活動をしていた時だとメンバーに怒られるような服装だ。

 そう思っただけの筈が、ふと空いた時間に頭が飲み込まれていく。

 ――声が出なくなって、もう自分にはみんなの傍にいる価値なんかないと思った。傍にいる資格すらない。ここにいる理由もない。ここにいていいのかわからない。尋ねて、無言で返される想像をして独りで怯えて。一人で、たった一人で勝手に想像して不安に駆られて。傷つけられるなら傷付けられる前に逃げ出してしまいたいだなんて。傷をつけてくるのならこっちから傷つけてやるとまで思って。それだけ人を信用していなかった。全ては自分可愛さのため。


 空いた隙間に、少し前の、素直な後悔。

 その影から本当の恐怖がずるりと顔を出す。


『お前が大嫌いだ』


 今も耳に残る鷲尾の声。

 甦る校庭のグラウンド。

 白い光。暑かったはずなのに熱を失った季節。過ぎた季節。同級生の笑顔。死んでいく自分の気持ち。何事にも動じなく、石の様に頑なになっていく自分の気持ち。ただ日々を過ごしている錯覚。辛かったことを辛いとも思えず。楽しいことも感じられず。ただただ毎日が退屈で。こうやって生きていって死んでいくのだと確信していたあの頃。卒業式の道。変化のない自分の部屋。使いもしない飾りのようなオーディオ。ただ耳に入るのは誰の声でもなく、嫌な音を立て続ける心臓の音。

 生きている音。血流の嫌な音。生きとし生けるものが死を迎えるまで同じ数だけの心音を刻むのなら。気が遠くなるほどの未来に吐き気がするほど眩暈がした。何の変化もない、こんな場所でまだ生きていかなきゃいけない。なら、いっそのこと。死んでしまいたいとさえ思っていた。心臓が、心臓の音が大嫌いだった。嫌がらせを受けて、心臓が高鳴るのならもっと高鳴れば死に近づけるとさえ考えて。

 鷲尾の言葉に安堵した時期さえあったのに。

 今は。


 ピピピピ、と携帯のメール受信音が鳴り出して。

 サトルは現実に引き戻された。

 いつの間にか考え込んでしまっていた。

 思い出したかのように指先がピクリと反応を示す。

「ビ、ビックリした……」

 充電器を取り付けたまま、サトルは携帯を自分へと引き寄せてすぐにメールを確認するためボタンを操作した。

 『メール受信13件』

 いままでこんなに大量のメールが届いた経験がなく、サトルは躊躇しながら受信したメールを開いた。差出人は全て、由井。サトルは小さく口を開いて少し気まずそうに下唇を舐めた。昨日倒れてから一度も連絡をしていなかったことを後悔して重い指先がメールを開く。

 そこにはいつも通りの絵文字の含まれた可愛らしい文章。内容は全て短いものであったが心配している様子だ。

「……悪いこと、したな」

 再度悩まされる罪悪感を胸の奥で抱きながらメールを返信しようとボタンを操作したと同時。携帯のランプが水色に灯って、由井からの着信を操作したボタンが繋いだ。サトルは小さく声をあげるも繋がった携帯を耳に当てる。

「もしもし」

『あ! サトル君?! よかったぁ……』

 涙声の相手。サトルは申し訳無さ気に口元に笑みを作って頭をゆっくりと下げた。

「ごめん、すぐに連絡すればよかったんだろうけどこんな時間になっちゃって」

『いいんだよ、声聞けただけで由井は嬉しいから』

「マジ、ごめんな。折角ライブに誘ってくれたのに」

『ううん、気にしないでよ。もう、具合大丈夫なの?』

「え、ああ。もう平気。そんなに心配しなくていい。全然大丈夫だから」

『そっか。でも心配だよ。倒れたんだから、サトル君』

「あ……単なる貧血だから」

『貧血ならちゃんとご飯食べなきゃ。サトル君男の人にしてはちょっと痩せ過ぎだもんね』

「あ、あぁそうかもな。でも大丈夫だって」

『……うん、よかった。今まで寝てたの?』

「え? あ、あぁ。まぁ、ね」

 ライブ後の事にサトルは少々動揺する。

 咄嗟に声が強張ってしまった。

 緊張して、携帯を握っている手に汗をかいた。

『そう。寮で寝てたの? 病院とかには行かなかったの?』

「あ、いや。うちの寮、保健医の先生いるから見て貰った」

『そっかぁ。保健の先生、常駐してくれてるの? 女子はそうじゃないんだよ、便利だなぁ』

「ああ、まぁね」

『……でも昨日倒れたのに奥崎さん、サトル君の事病院に連れて行かなかったんだね』

「……え?」

 サトルの口調が曇る。

 いつになく低く聞こえる由井の声。

 戸惑いを必死に隠しながらサトルが声を漏らした。

「いや、別に病院に行くまでもなかったからさ」

『由井ならサトル君が嫌がっても病院に連れて行くよ。心配だもん』

「あの後、大丈夫になったから行かなかったんだよ。別にオクさんのせいじゃ」

『じゃあ何ですぐに連絡くれなかったの? 由井、ずっと待ってたんだよ。電話もメールも出来ない状況だったから今やっと連絡取れたんじゃないの?』

「……それはごめん。俺が悪い」

 初めて荒らげる由井の声を耳にしてサトルは謝罪した。

『あ、ごめんなさい。由井……なんか嫌な女だね。サトル君具合悪かったのに連絡くれなかったって騒いで……』

「由井が悪いわけじゃない。俺が悪いんだよ」

 ――傷をつけているだろう

 サトルは自責の念に重くなっていく頭を下に下げながら話した。

「連絡を入れなかったのは誰のせいでもない。俺のせいだから。本当に悪かった」

『いいんだよ。サトル君。勝手に不安になってごめんなさい』

「謝るなって。不安になるのは……わかるよ。マジごめん」

『……ううん』

 理解を示してくれた相手の声にサトルは少し安堵して一度咳払いをすると息を吸った。

「あ、俺そろそろ……」

『そうだ。サトル君が忘れないようにちゃんと言っておくね?』

 会話を終了しようと話し出したサトルの声を遮るように、由井の声が聞こえてきた。サトルは話すのを止めて突然の言葉に目を丸くした。

「なに?」

『これからはちゃんと由井にも頼って? じゃないと由井、信頼されてないのかなぁって思うからさ』

「あ……あぁ。解った。ありがとう」

『だって、由井はサトル君の彼女でしょ?』

 サトルは話そうとした言葉を喉の奥に飲み込んでそのまま黙ってしまった。言葉が、次の言葉が出てこない。サトルは目を泳がせたまま、その場にゆっくりと立ち上がった。

『……じゃあ、あとからまたメールするね』

 切れる電話。

 考えるのも嫌な――直感だけがあった。


 携帯を持っていた手が力なくだらりと下がる。

 いつの間にか暗くなった室内。サトルは焦りを全身で感じながら嫌な音を鳴らし出す心臓の音に苛立った。

 ――由井の様子がおかしい。

 昨日から今日にかけて、何かがあったのだろうか。

 額から流れる汗が頬を伝っていく違和感に気付いて。

 サトルは顔を少し上にあげた。

 酷く蒸すこの部屋。

「……換気、しよう」

 気のせいかもしれない。

 暑すぎて、思考がぼやけているのかもしれない。

 サトルはそう思いながら動かないカーテンを横に引いて、窓を少し開けた。

 開かれた窓から見える寮前の道路。

 明かりの灯る街灯。

 犬を連れて散歩する住人の姿。

 視線を下へと下げていくとサトルは瞳を大きくして窓からすぐに離れた。

 寮前の壁付近。

 携帯を握ってこちらを見つめていた由井の姿。

 笑顔ではなく、無表情にじっと見つめていた表情。

 早鐘のように鳴り出す心臓の音。

 サトルは呼吸を荒らげた。





 乱暴にドアを叩く音。奥崎は小さく唸りながら自室のドアをゆっくりと開けた。

「よ、オク。ちょっと中に入れろや」

 陽気な口調のレン。オクは怪訝そうな表情をするもドアを少し押して扉を大きく開ける。にっこりと機嫌良さ気に笑うレン。お邪魔しますと間延びした声を出しながら中へと入る。

 珍しい客が来たもんだ、と奥崎は思いながらも音を立てないようにドアを閉めて部屋へと進むレンの後ろを歩いた。

「相変わらず広いな、個室。しかし……色気も何もねえ部屋だな」

「こんな所まで来て……なんか用か? 生徒会長」

「別に会長として来たんじゃねえよ、バカ。最近アカーシャも行動してねえからお前ら元気かなと思って顔出してやったまでだ」

 そう言うとレンはソファへと腰を深く下ろして首の関節を鳴らした。

「俺は元気だ。マツも問題ねえ。そういうあんたはどうなんだよ」

「ああ、俺は相変わらず大変だ。生徒会も運営せにゃならんし。なんていっても生徒会長様だからな」

「そうだよな。ご苦労な事だ。会長様」

「……まぁ、マツ君も元気なら良かったぜ。最近とか遊んだりしたのか?」

「いや、別に。ただ付き合うことにした」

「…………いいのかよ、んな事俺に言って」

「言ったら不味かったか?」

「んな事ねえけど。なんだ、その告白とか、したのか?」

「あ? 特にはしてねえ、か……? でも付き合う」

 淡々と語る奥崎の様子にレンは口を大きく開いたままついには深くため息を吐いた。

「もっと、なんつうか、秘密にしておくとかそういう考慮がお前にはねえのか?」

「話す相手は選んで俺も話してるつもりだけどな」

「あっそ……信頼されている、と前向きに取っておく」

 レンは呆れ顔を浮かべながらも穏やかに笑んだ。

 奥崎は見据えるようにその笑みを受け止めて、レンの隣へと自分も腰を下ろして足を組む。

「長ぇ足」

 皮肉めいたレンの言葉。

「どうも」

 無表情のまま答える奥崎。

 レンは小さく舌打ちをした。

「そういえば、もう行ったつってたな」

 不意に聞こえた奥崎の問いにレンが目を丸くした。

「あぁ? なにが?」

「タキ。もう行ったんだろ。イギリス」

「……あぁ」

 レンは視線を少し下へと落としてゆっくりと口を噤んだ。寂しげに揺れるレンの瞳。奥崎は黙ったまま、レンの横顔を見つめた。

「ああ、……いつの話してんだよ、とっくにいねえよ」

 最初聞いたときのような妙に強がる風でもなく。

 落ち着いた、穏やかな言葉。

 小さく響く呼吸の音。

「……お見送り、には行ったのか」

「はぁ? んな真似するかよ。この俺が」

「後悔してねえのか?」

「…………俺は後悔してる位がちょうどいいんだって。お前とマツ君なら大丈夫かもしれねえな。俺たちは……俺は、ダメだっつうのがよく解った。一緒にいる奴を苦しめて、それでも俺はこの性格直らねえんだよ。苦しんでるの解ってんのに手伸ばすのがカッコ悪い、ダセェって考えて最後の最後まで優しくなんかなれない。……そういう人間は一人でいるのが丁度いいだろうが。それこそうちの副会長にもタキの件でこっぴどくやられたけど、まあ、出る口もねえわ。お互い忘れた方がマシだろ。一生モンの傷はアイツにつけられねえよ。これ以上はな」

「……あんたからそういう言葉が出るのも驚きだけどな」

「バカ。俺も一応人間なんだよ。それに神崎も、アレだろ……お前らが付き合うって事は」

「そうだな。あいつも失恋ゴリラだ」

 自分へと優しげに笑いかけてくるレン。

 奥崎も口元を歪ませて笑みで返した。

「まぁ、タキもマツ君のことは心配してたからな。良かった。あ? でもマツ君確か彼女できたんじゃねぇの?」

「……あ、そうだったな。忘れてた」

「はぁ?! お前そういう事って普通忘れねえぞ?!」

 疑問に即答した奥崎の言葉にレンは声を荒らげて話す。それでも奥崎はいつも通りの無表情で黙る。

「……ったく、付き合うことにしたってマツ君に二股でもかけさせるつもりかよ。そんな器用じゃねえだろうが」

「そうだな」

「そうだなって……お前と話してると疲れるぜ。……まあ、夏にはアカーシャ活動再開できそうだな。ヒサシ先輩も大学落ち着いてきたってこの前メール来てたし。一応お前から言っとけ」

「ああ」

 奥崎が静かに頷く。

 レンはまたひとつため息をついて。

「……またマツ君の件で困ったことになったらいつでも来いよ。俺も出来る限り動くから」

 そう言ってレンがソファから立ち上がると早々に出入り口へと向かって歩いていく。奥崎は重い腰を上げてそのレンの後方を歩いて、あぁ、と小さく声を漏らした。

「……たまには弾けよ。腕、鈍るぞ」

 からかう様な口調と笑みを浮かべてレンが片手でダルそうに手を振りながらドアを閉めた。

 遠ざかっていく足音。

 奥崎は小さく唸って。

「……サトルのトコにでも行ってくるか」

 奥崎は顔を上げてドアノブへと手を掛けた。




 夕食時の学食は混雑していて暑い季節が近づいてきたせいか、室内の熱気が肌にじっとりと汗をかかせる。

 耳に入る食器の音、話し声。

 なのにサトルは黙ったまま青い顔でまだ手をつけていない食事を呆然と眺めた。思考が停止してしまったような頭の白い感覚。熱気さえも感じられず、話し声すら遥か遠くから響いて聞こえて来るようだった。世界が遮断されたかのように、周囲の明るさに比べたらサトルの存在は異質。黒目は動くことなくじっと見えていない何かを見ているようだった。

 目の奥に蘇る光景。

 それはあまりにも冷たい表情を浮かべる由井の姿。

 瞳はまっすぐにこちらへと向けられて、まるで全てを知られているような気がした。気持ちの中に充満する重い不安感。責められているような心理。由井の瞳はサトルはどこかで知った人間の瞳だった。

 ――鷲尾

 自分を責め立て、憎しみにも近い執念を滾らせたあの冷たい瞳。いつも傍にいて笑っていた由井とは明らかに違う様子。

 ――どうして

 サトルは背中にじっとりと汗を浮かばせたまま脳裏に残った由井の顔を思い返していた。そしてそのまま周囲の喧噪をよそにサトルの頭は再度、思考の中に没入していく。


 傷をつけている。自分がもう元には戻れなくて、誰も傍にはいなくて、でも誰かに傍にいてほしくて。自分のことを好きだと言ってくれた由井の存在に甘えた。一人じゃなくなればそれでよかった、そうなれば寂しさも半分になると思った。歌が歌えなくても誰かの傍にいれば一人じゃないと、距離を置こうと言ったオクさんを憎んだ。どうしても許せなかった、好きだから。好きだから過去を清算しようと動いたのに、報われない気持ちに子供のように腹が立って、何も知らない由井が傍にいれば忘れられるとさえ思った。


 ――いや、違うだろ

 サトルは拳を作って力を込めた。


 そうじゃない。自分が誰かと一緒にいる、それでオクさんを傷つけたかったんだ。距離を置こうと言ったオクさんに後悔させたかった、傷つけたくなっていた。傷つけばきっと理解してくれるとさえ思った。そんな傲慢な気持ちで俺は由井を巻き込んだ、責められて当然のことをしたんだ、なのに、俺は


「どうかしたのかい? カリスマ鬱病君」

 現実へと一気に引き戻され、サトルは青い顔のまま目を見開いていつの間にか隣に座る風紀委員長、ミナミの姿を捉えた。驚きのあまり、声を漏らす。

「……あ、いや」

「どうかしたのかい? 今日はみんな大好きなとんかつ定食でしょ? それとも肉が嫌いなのかな? ベジタリアン、とか?」

「そういう、わけじゃ……」

「ずいぶんと暗い顔をしてる。風紀の乱れはそういう暗いところから始まるものなんだよ? 君が心配だなぁ」

「あ……はぁ」

 静かに彫刻のような美しい顔が笑みを作る。

 サトルはミナミから目を逸らしてようやく箸を握った。

「そういえば、もう声は大丈夫なのかな」

「あ、それは大丈夫」

「そう、なら良かった。カリスマと呼ばれる人間は敵も多いからね。俺も一時期ストーカーに狙われて大変だった時があるんだよ」

「……そ、そうなんだ」

「うん。君もずいぶんと嫌な体験をしちゃったよね」

「まぁ……」

 確かに良い経験ではない。サトルはあの頃の記憶が脳裏を掠めて、眉間に皺を寄せた。

「……守ろうと思っていてもその人が心を開いてくれないと助けたくても助けられない。それはとても歯がゆいことだよ。自分が迷惑をかけまいと、良かれと思って動いたことだとしてもそれを周囲はただ指を咥えて見てることしかできなくなる。カリスマ君は大事な人にそうされたらどう思うかな」

「……え」

 理解に苦しいミナミの言い回しにサトルは動揺しながらも箸を持ったまま考え始めた。

 ――大事な人。自分にとって大事な人が窮地に追いやられている時に自分が何もできない状況。

 ――それは嫌だ

 サトルは胸の奥でそう思い、視線をミナミへと向けた。

「それは、……嫌だな。大事な人が大変な時になにもできないだなんて。何より隠し事をされているのが嫌だ」

 そこまで口にしてから。

 サトルは何かに気づいた。

「……あ」

 無意識に声が漏れる。

 ミナミはゆっくりと笑んでサトルの頭へと手を置いた。

 それから子供をあやすように優しくなでて。

「どっちにしても、もう隠し事をしない方がいいよ。大事な人を傷つけたくないなら、ね」

「……あぁ」

「そういえば、……さっき寮の前に女子高生がいたけれど。あれってカリスマ君の彼女だったよね?」

 ドクン、と心臓が不穏な音を立てた。

「……し、知らない」

 勝手に口が言葉を話す。

 隣にいるミナミの表情は変わらず自分を見つめたまま。

 少ししてからミナミが小さく息を吐いて。

「そう」

 と優しげに反応する。

 おぼつかない瞳。

 笑顔を作ることさえできない。

 サトルは熱くなっていく瞳を押さえつけるように片手で顔を覆った。

「……あれ、泣かせちゃったかな?」

 ミナミの言葉にサトルが首を横に振る。ただ、何かを話そうとすれば涙が出てきてしまいそうだった。――全ては自分の逃げ出したい気持ちが招いたこと、そんなこともうわかっているのに。また自分は逃げ出そうとしているのか、自分にとって都合の悪いことから。鷲尾から、それから、由井から――サトルの閉じた瞳に涙が薄い線を引いた。

「おいコラァァァァ! ミナミィィ!」

 学食の扉の方からシノブの大きい怒声が響いて。

 生徒全員の視線が一気に怒りの形相でミナミを睨み付けるシノブへと注がれた。荒々しい息を吐きながらミナミとサトルの座る窓際の席までズカズカと歩く。

「あ、やぁ。生徒会副会長ゴリラ君。御機嫌よう」

「御機嫌よう、じゃねえ!! 何、マツのこと泣かせてるんだ?!」

「別に泣かせてやろうと思ってお話していたんじゃないよ」

「じゃあ何でマツが泣いてるんだよ!? 風紀委員がイジメやってもいいのか?!」

「ひどいなぁ、イジメだなんて」

 そう言ってミナミが喉元でクス、と笑って見せた。その笑顔はシノブの怒りをさらに煽り、シノブは目を大きく開いてミナミを見下すように真正面から見つめた。

「ち、違うんだよ。神崎。風紀委員長のせいじゃねえから」

 サトルはようやく涙を堪えて、落ち着いた口調で怒り狂うシノブへと声をかける。

「現に、お前泣きそうなツラしてんじゃねえか!」

「それは……俺が」

 そこまで言うとサトルは急に黙って周囲へと視線を向けた。学食全員の視線がこちらへと集中している。シノブはそれに気づいているのか、いないのか、まだ怒りを顕わにしたまま自分へと睨み付けていた。

「…………ちょっと、部屋に戻ろう」

「あ? 何でだよ?」

 喧嘩腰のシノブの口調。それでもサトルは不快な顔を浮かべたまま立ち上がり、シノブの傍まで行くと乱暴にシノブの腕を掴んで食堂の出口へと向かって引っ張った。

「ってててて! なにすんだ! マツ!」

「いいからこっち来いって! もう!」

 歩いていく自分たちの方向へと全員の瞳も動く。

 サトルは耳たぶを赤く染めたままだったが、振り返り、椅子に座って自分たちへと優しい笑みを浮かべるミナミへと顔を向けた。

 それから軽く頭を下げて。

 またギャアギャアと怒り続けるシノブを引っ張って自室へと向かいだした。

 廊下の隅々にまで響き渡るシノブの怒声。

 サトルはそれでもシノブの腕を捕らえたまま部屋へと向かって歩く。

「ったく! まだミナミと話が済んでねえっつうの! マツ、腕離せ!!」

「いいから。ミナミは全然関係ねえから! ちょっと、話があるんだよお前に」

「あぁ? なんだよ!」

「それは部屋に戻ってから話す。静かにしようぜ」

「ったく! マジあの男女……気に入らねぇな!」

「わかったから」

 足早に部屋へと戻り、ドアをサトルが乱暴に開けると放り込むようにシノブの体を自室の中へと引っ張った。それからすぐにドアを閉めて鍵をかけた。そんなサトルの様子にシノブは急に静かになって瞳を大きく見開いた。

「ど……どうしたんだよ。おい……」

 心配そうな様子でサトルへと手を伸ばすシノブ。

 サトルはドアに寄りかかったまま俯いて、黙り込んでいた。太陽の光はオレンジ色に輝いて、カーテンから少し部屋へと差し込むように線を敷いた。


 むせ返るような熱気。

 それでも頭のどこかはまだ冷えたまま。


 サトルは中学校のグランドの熱を思い出した。


 鷲尾がいた頃の時代も、そして今も。体から熱を感じられなくなって、生きているのか、死んでいるのかさえわからなくて、それでも頭は勝手にごちゃごちゃと言葉を並べてはそれを繰り返す、今みたいに。

 楽しいことも楽しいと感じられず、苦しいことも苦しいと解らず、自分の立っている場所がどこかさえも危うくてこんな状態が続くのならば、早く、心臓が警鐘のように早鐘を打ちつけて死んでしまえれば、もし、死ぬのであれば、快くそれを迎え入れたいと思っていた時期がある。

 でも、死んでしまいたかった頃も、死んでしまいたいと願っても心のどこかはそれが怖くて。自分が声を失った事に対しても、奥崎にも、由井にも、巻き込んで恨んで憎んで。嫌で嫌で嫌で。どこかで自分は助かりたくて。嫌なことから逃げる足は残っていて。

 そのためなら、人を犠牲にしていることさえ見ないで済ませたいとさえ思ったんだ。それが、大事な人でも。


 頬を濡らしていく一筋の涙。

 シノブは驚きのあまりサトルの手を取った。

「お、おい……どうしたんだよ……本当に。喧嘩、でもオックとしたのかよ?」

 強く首を横に振る。

「じゃあ、やっぱ……ミナミなんじゃ、ねえのか?」

「ちが……ごめん」

「ごめんて……別にお前が謝る必要なんかねえぞ?」

 そんな

 そんな訳ない

「そんな訳ねえんだ……ホント……ホントごめん……ごめんっ……っ」

 立っていられずシノブに手を掴まれたままサトルはその場に座り込んで泣き出した。

「おい……どうしちまったんだよ……大丈夫か?」

「ホント……本当にごめん」

 悲痛に胸の奥に届くサトルの泣き声にシノブが顔を苦しげに歪めた。それからそっとサトルの体を抱き寄せて背中をゆっくりと上下に摩る。

「……あーその別に好きとか……そんなん狙っての行動じゃねえからな。ちょっとは安心しろよ、マツ」

 ひどく優しいシノブの声。サトルは勝手に熱く流れていく涙を止めることができなかった。

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