第22話 雨降って彼方此方固まる

 寮へと戻って。

 真っ直ぐに二人で奥崎の部屋へと入った。

 奥崎はサトルの鞄を取るとすぐにそれを床へと投げ捨てて、そのままサトルの手を取り、バスルームへと向かった。サトルも抵抗することもなく奥崎の後を歩く。ガタンと少々乱暴にバスルームのドアを開くと奥崎はサトルを壁へと押し付けた。空気が、この意味を知っているかのようで、サトルは顔を赤らませて俯きがちに奥崎へと視線を向けた。

「サトル……」

 ――オク、さん

 異様に響く奥崎の声。

 サトルは奥崎の顔をじっと見つめたまま。

 目を逸らしてはいけないと思った。

 また、目を逸らしたら離れてしまうのかもしれない。

 ――それは、もう嫌だ

 サトルは浅く呼吸を吐いた。

「オク、さん」

「ん?」

 無表情な、いつも見る奥崎の顔。

 サトルは震える足でしっかりとその場に立った。

「愛してるよ。ずっと……ずっと助けてほしかった…………でも俺は、ちゃんとオクさんにとっくの昔に助けられてたのに。全然わかってなくて……、オクさんのことも皆のことも守りたかったのに、男の癖に弱ぇし……全然ダメで。本当にごめん……! それでも、あんたが好き……好きだ」

 続く泣き声。

 奥崎がそっとサトルの頭を撫でた。

「……当たり前、だな。……ちゃんと助けてやる」

「もう、離れるなよ、サトル」

 奥崎がシャワーの蛇口を捻る。

 勢いよく二人の頭上からシャワーが流れた。

 奥崎の長い指先がサトルの体を自分へと引き寄せ。

 サトルの濡れた顔が奥崎の顔を見つめる。

 流れるシャワーの下。

 唇を重ねる。


 周囲から隠すように流れ出る水の中。

 サトルは奥崎が傍にいることを確かめた。


 硬く、瞳を閉じた奥で。






 暗かった室内に清浄な青色が満ちる。

 カーテンから零れる青い光。

 それと共に訪れた鳥の囀り。

 未だに脈打つ心臓の音はいつになく穏やかで。

 サトルはゆっくりと瞳を開けた。

 時刻は午前五時頃。

 いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 体を起こそうと身を捩る。

 と、酷く重い痛みに顔を顰め、軽く頭を擡げる。

「……っ」

 自分の呼吸が、部屋の静寂に飲み込まれて。

 生きることに憂鬱さしか感じなかった、朝の訪れが。

 とても静かだという事を知った。

 思っていたよりも、朝は美しいものだ。


 ベッドの軋む音。

 サトルは隣にいる奥崎へと目を向ける。

 と。

 奥崎は瞳を開けた状態でサトルを見つめていた。

 サトルはそれに驚いて思わず声を上げる。

「あ! ……オクさん……おはよ」

「もう、起きたのか。まだ寝とけよ」

「……う、うん」

 サトルはすぐに奥崎から目を離してまた。

 体を布団の中へと戻した。

 静寂の中に聞こえる鳥の鳴き声。

 さっきよりも鼓動が大きくなって。

 サトルは身を小さくした。

 隣にいる奥崎に伝わってしまうのが、嫌だった。

「……ごめん、いつの間にか寝たみたいで……」

「気にするな。別に構わねえ」

「……マジ、ごめん」


 衣擦れの音。

 それから。

 奥崎の腕がサトルの身を自分へと引き寄せて背中から緩く抱きしめる。その状況にサトルは恥ずかしさのあまり思わず足を曲げた。と同時に腰の奥へと重くのしかかるような痛みが走り、無意識に舌打ちをした。何も言わずその様子をじっと見つめる奥崎があやす様にサトルを軽く撫でる。

「……痛ぇか?」

「ぇ、……あ、ちょっと?」

「レンの話によれば、熱が出るらしいぜ。今日は安静にしてろ」

「……え? レン先輩も……?!」

 サトルは奥崎の話に驚きを隠せず、目を見開いた。

 奥崎はそれに笑って首を緩く横に振り。

「いや、お前……タキのことだろ。こっち向けるか」

「ぁ、……うん」

 ゆっくりと身を捩りながらサトルは奥崎へと体を向けた。布団の中で顕わに見える奥崎の胸元。サトルは焦点が合わず、奥崎の口元を見つめた。

「どうせお前の事だからこの状況に耐えられねえんだろ、サトル」

「……そりゃあ、オクさんだってそうじゃねえの?」

「俺は満足だけどな。お前と違って」

「それって俺がなんか満足してないみたいな言い方じゃんか」

「……じゃあ満足だったか?」

「…………ぁ」

「俺は満足だった。……ようやくお前の声も聞けて……。マジで心配したし責任感じた。お前をヴォーカルに引っ張ったせいだとか……守ってやれなかったとか……色々反省した。まだまだ俺もガキだ」

「……声……でもそれは全然オクさんのせいじゃないよ。俺が自分で勝手に決めたことだし……」

「責任ぐらい、感じさせろよ。でも、もうぐちゃぐちゃ考えるのは止める」

 奥崎の腕がサトルを自分へと強く引き寄せた。

「もう止める」

 サトルは戸惑いながらも奥崎の肌に触れて酷く安堵した。額に落とされるキス。サトルはそれに応えるように奥崎の鎖骨へと軽くキスを返す。

「……もう、離れないよ。俺も」

「当たり前だな」

 そう言ってサトルの頭を軽く叩く奥崎の大きい手。

 サトルは目を細めて久しぶりの安らぎに身を寄せた。

 日差しは徐々に白い光を帯び始めて。

 奥崎が眩しそうに目を細めた。




 ドンドンドン、と荒々しく出入り口のドアがノックされる。サトルは手にコーヒーカップを持ったまま奥崎へと目をやった。時刻は午後一時頃。

「誰だ? ちょっと待ってろ」

「……ああ」

 奥崎が面倒くさそうにソファから重い腰を上げて出入り口へと向かった。一人取り残されたサトルはテーブルの上にコーヒーカップを置くと部屋の中へと視線を流した。以前来た時と変わらない室内。酷く落ち着く匂い。同じ寮内でも個室はやっぱり広いなぁ、と感心しながら窓際へと足を運んだ。掛けられている遮光カーテンを指でずらして外の風景を見渡す。


 真っ青な空にあちこちに浮かぶ白い雲。

 遠くに微かに見える山々は群青色に見えて。


 もう、随分と遠くを見ることを忘れていたな、とサトルは思った。自分の過去や内面に捉われて四季が変わったことにも何も感じず過ごした日々。心はこんなにも開放的に、自由に、感じることができるものだった。

 サトルは静かに笑んだ。


 周囲の景色から視線を下へとずらすと寮前の道路。

 寮の周りに植えられた桜の木々の枝には赤い蕾がちらほらとある。

「……桜……」

 その桜の木の先。

 サトルは思わず後ずさりした。

 道路からこちらを真っ直ぐと見つめる男の影。

「……あ……?」

 酷く不安な声が漏れた。

 すぐに視線を逸らして。

 嫌な音を鳴らす心臓の音に意識を集中した。


 気の、せいかもしれない

 まだ、あの頃の事が怖いから

 きっと

 見間違いだ


 恐る恐るサトルはまだ道路へと視線を向ける。

 そこにはもう誰もおらず、犬を散歩する女性が一人、向こうへと歩いていった。

「……やっぱり」

 サトルは遮光カーテンをきちんと閉めて振り返る。


 とそこには。

 仁王立ちして自分を睨みつける制服姿のシノブがいた。

 サトルは驚愕して口を小さく開けた。

「よお、マツ。心配したぞ、このタコ」

「ご……ごめん」

 きつく自分を睨むシノブの瞳。

 サトルは思わず、引きつった笑みを浮かべた。

「か、神崎、おはよう」

「おはよう? おはようって時間はもうとっくに過ぎたはずですがねぇ」

「う……うん」

 シノブの目つきが更に細くサトルの顔を突き刺すように睨み付ける。サトルは硬直した笑みのまま一歩、また一歩と後方へと足を引いた。シノブは音がしそうな程怒気を含んだ息を吐き出し、サトルは身を竦めてシノブから視線を逸らした。

「朝帰りしてごめんなさいだろうが! どれだけ心配したと思ってんだ?! このバカマツが! お前のせいでこっちは寝不足だっつうの! 言え! ちゃんとごめんなさいって!」

「え? ごめんなさいって、俺別に朝帰りしてないぜ……? ちゃんと昨日の内に寮に戻って……」

「はぁ? あぁ? 自分の部屋に帰ってこなかったじゃねえか! お前いつも関係ない時にごめんなさいって言うくせに何で今言わねえんだよ! ちゃんと謝れ! マツ!」

「……お、怒るなよ、神崎。悪かった」

「悪かったじゃねえー! ごめんなさいだ!」

 サトルの言葉に触発されてか、シノブの怒りが徐々に上り詰める。怒りを顕わにするシノブへと軽く背を向けた状態でサトルは不服そうに表情を変えて。

「なんか、ヤダ。納得いかねえし」

 その一言でシノブの怒りが頂点に達した。

 体はみるみると震え出し、一歩サトルへと足を進めた。

「マ、……マツーーー! そこに正座しろ!! 今日は許さねえぞ、お前の事! 早く座れ!!」

「……な、なんだよ」

「い・い・か・ら・す・わ・れ! おすわり!!!」

 大声でサトルへと命令するシノブの額には血管が浮き出ていて。サトルは困惑しながらシノブの後ろから現れた奥崎へと目を向けた。奥崎は軽く呆れたようなため息をついてから少し笑んで。目の前に立つシノブの肩を軽く数回叩いた。

「おい、神崎」

「うるせえ、オック! 今は止めるな! こいつはちっとも解っちゃいねえ! 甘やかすな!」

「そんなに怒るなよ、謝りたくてもそれじゃ謝れなくなるだろうが」

「お前さっきの聞いたか?! ごめんなさいって言え! って言ったらこいつ、嫌だって言うんだぜ?! 普段オモクソごめんなさいって謝るくせに! 一度マツとは喧嘩するべきだと思った! だからてめえは止めんじゃねえ!!」

「……マツが心配だからここまで聞きに来たんだろうが……神崎」

 奥崎の言葉にサトルはきょとんと瞳を丸くして目の前で怒るシノブへと視線を動かした。シノブの顔は急激に赤くなり、奥崎とサトルへすぐさま、背を向けて咳払いを繰り返した。

「別にそんなんじゃねえよ! バーカ! ……ただ以前の事件とか、あったしな。注意は必要かと思っただけだ」

「サトルは無事だ。だからもう怒るなよ、神崎。サトルもちゃんと後からでもありがとうとか言っとけよ」

「……あ、ごめん」

 サトルは少々後悔しながらシノブへと頭を小さく下げた。シノブはそれを横目で確認するとまたサトルへと背を向けて自分の頭を乱暴に掻く。

「別にもういいって! あー面倒くせえな、もう……」

「んな事言って俺にサトルの情報を逐一流して一緒に監視してたくせに」

「んな事別に関係ねえだろうが!」

 サトルは立ち尽くしたまま二人の会話に正直呆然とした。胸の内から徐々に込み上げてくる嬉しい気持ち。思わず俯いて顔を見られないように前髪で隠した。

「マコトにも協力してもらった事がある。俺だけじゃねえ」

 強がった口調でシノブが奥崎へと怒気混じりの声を上げる。

「マ、マコトも……」

「まあ、一応な。みんな好きでやったことだ。気にするな」

 穏やかな奥崎の声。急にたくさんの事を思い起こして。サトルは溢れ出そうになる涙を懸命に流れる前に指先で拭いた。

「……まぁ、無事で、よかった、わ」

 不器用な、シノブの言葉。

 サトルは小さく、何度も頷いた。


 心の中にある

 あの重い事件の記憶

 自分だけが苦しんだと思っていたのに

 自分だけが苦しんでいくと思っていたのに

 そんなんじゃなかった

 周りはこんなにも温かいのに

 自分は

 後ろばかりみてた


「……ホントに、ごめ……」


 消え入るような掠れた声。

 サトルは俯いたまま両手で顔を覆った。

 顔を覆うサトルの手を強引に取ってシノブがきつい眼差しをサトルへと向けた。

「いいか、マツ。お前が思ってる以上に俺らはお前の事が心配だ。色んな面に対してな。だからどうすればいいのか、わからないでもいい。なんでも俺たちに言え。人を頼るっていうのも決して悪いことじゃねえんだ。誰かから意見もらったり時には協力してもらってもお前はちゃんとありがとうを返せるだろうが。誰にだって自分じゃ持ちきれない重たい荷物あったりするんだよ、俺にだってあるかもしれねえ。だからそういう時があったら周囲にちゃんと声かけろ。助けてほしいって言え」

 厳しい口調が徐々に穏やかなものへと変わっていく。

 シノブが言い終わると小さくため息をついて、サトルの頬を流れる涙を指で乱暴に拭った。

「……お前は自分で思ってるより、ずっといい奴だよ。じゃなきゃ好きにならねえ」

「……神崎」

 呟くサトルの声。シノブはサトルの手からゆっくりと手を離して一息吐く。

「ここにいるってことは、お前はオックとちゃんといるんだろ?」

「あ、……」

「……早く言ってくれよ。傷が深くなるだろうが」

 意地悪げにシノブが煽る。

 サトルは瞳を泳がせるも顔を俯かせて深く、頷いて見せた。シノブはそうか、と優しげに言ってから振り返り、奥崎へと嫌味な笑みを浮かべた。

「……俺はすっきりした。前に言ったこと、取り消す。サトルが声出なくなったのはお前のせいじゃねえよ。……俺がお前のせいにしたかっただけだ。でもサトルはもう、声が出てる。それなら俺はいい。……お前も友達だと、俺は思ってっから」

「らしくもねえと言いたいトコだが。……俺もそういうことにしておく」

「フン。……あ~あ、やっぱり俺の方がダセえじゃんか」

 シノブが両腕を上へと上げて深呼吸する。サトルはシノブへと視線を向けたままその場に立ち尽くしていた。

「ん? なんだよ、マツ」

「あ……本当に、あ、ありがとう。俺は神崎やオクさんに比べたら全然ガキだし、バカだから……特に神崎には甘えて八つ当たりしちまったり……ホント、悪かったと思って……」

「全くだな。お前はガキだ。おとなしそうに見せておいてすぐ怒ってみたり。これでもお前と一年同室でやってきたんだぜ、俺は。お前のガキ臭さなら充分承知だ」

「……そっか……」

 サトルはシノブの言葉に小さく笑って頷いた。

 ドア越しに立つ奥崎もこちらを見て鼻先で笑う。

 サトルは安堵感に包まれた気分になった。

「おい、昨日帰ってこなかったっつうことは……まさか寮内でスケベなことしてねえだろうなっ!」

 語尾と同時にシノブの掌がサトルの尻を軽く叩いた。

「……! いっ!!」

 サトルが背中を反らせてからその場に四つんばいに座り込んだ。酷く響くような痛みが腰から背中へと走る。

「あ?!」

 そのサトルの様子に甲高い声を上げたシノブの左頬に強く奥崎の平手が炸裂して。体格差からほぼ吹っ飛んだシノブはソファに手を突いて凄まじい勢いで顔を上げる。

「は!?」

「悪い、殴っちまった」

「はあ!?」

 叫ぶシノブの前を奥崎が平然とした顔で通り過ぎ、座り込むサトルの元へと行き痛がるサトルの背中をゆっくりと撫でた。

「大丈夫か? サトル」

「……ぅ、うん……」

 その状況を見てシノブが数歩、後方へと下がった。

「……お、お前ら……うわ! ふざけんなよ、マジかよ! つうかオック! あんま早ぇだろうが!」

「愛情を持ってから半年以上は経過、俺にしては我慢した方だ」

「あーあー……あーっ! つうかお前らがヤッて間もない部屋に俺は訪れちゃったのかよ! すげーショックだ!」

「か……神崎、あんまり大きい声で言わないでくれよ」

 弱り声でサトルがシノブへと顔を上げるもシノブは悲痛な声を上げながらソファへと深く倒れこんだ。が、瞬時顔を上げて奥崎へと般若の様な形相で睨みつけ。

「……まさか、このソファの上でヤッたわけじゃ……」

「それはねえ。こっちだって初めて抱くんだ、やるならベッドに決まってるだろ」

 奥崎がシノブの不安に答えながらいつの間にかタバコを咥えて火をつけようとしていた。

 白煙がゆったりと上へと昇る。

「てめぇ、生徒会役員の俺の前でよくもまぁ、タバコプカプカ吸いやがって……目の前だぞ! 目の前ー!」

「興奮すんなよ、ゴリラさん……そんなに声上げると隣のナベの部屋にまで届くぜ」

「……ナベって……あの渡辺、君のこと?」

 サトルは喫茶店であったあのマコトとの衝撃的な発言をすぐさま思い出した。顔が赤くなる。

「あの鉄仮面、オックの部屋の隣なのかよ。知らなかった」

「ああ、よくマコトも遊びに来てるみてえだがな……所詮寮内、個室でも多少は漏れて聞こえるからな」

 ため息混じりに話す奥崎。

 シノブはふぅん、と納得を示して。

 サトルは奥崎のため息の意味を聞くのが怖くなった。

「どっちにしても、あんまり寮内でヤんなよオック。問題になったら困る」

「問題って。そういうゴリラさんだって、サトルに手出そうとした事、ねえのかよ。同室だったのに」

「あ?! んな事覚えてねえしなー!」

「まあキスは、してくれたな。俺の目の前で」

 シノブの顔が瞬時赤くなる。

「俺のことはもう過去の事だ! どうでもいいじゃねえか!」

 そう言ってシノブはソファへと顔を埋めた。




 奥崎の部屋から出て。

 時計は丁度一時間経過している。

 シノブはぼんやりとした顔で談話室のソファへと足を伸ばして座ったまま、小さく口を開けた。

「……あ、あー」

 意味のない声を漏らしては周囲を見渡して、虚ろな瞳が天井をただ見つめた。どこというわけでもなくただ一点をぼんやりと見つめて、シノブの口が小さく呼吸を繰り返した。

 幸せそうに見えたサトルの顔。

 嬉しそうに見えたサトルの様子。

「ようやく……隣に戻れたってことだよな……」

 擦れる、シノブの声。


 好きになってから

 ただあいつの幸せだけ

 望んだ

 それが人を好きになることだと思った

 後悔は

 後悔はねえ

 ただまだ自分の気持ちが重いだけ

 望んだ通りに時間が流れた

 よかった

 よかったんだ


 滲む瞳の淵を指先で拭って、肺から深く呼吸を吐く。


 ガラリ、と音を立てて開いたドアから入ってくるミナミの姿にも動じず。項垂れるように頭を下げた。ミナミは陽気な面持ちでシノブの向かいへと歩きソファへと柔らかい仕草で座った。

「どうしたの? ゴリラ君」

「……別にゴリラでもなんでもいいがな……よくお前とはここで会うと思った」

「……なんだか、気分が落ちているようだね」

「ゴリラにだって感情はあるだろうが」

「そうだね。ゴリラに失礼だ」

「フン」

 穏やかに話すミナミを鼻先でシノブが笑い飛ばす。不穏な空気がシノブを包んでいるように感じるもミナミはそれに顔色も変えずにただにこりと笑ってみせ。余計にシノブの気分を害した。

「恋煩いは時間が解決するそうだよ? 神崎」

 あまりミナミの口から聞き慣れない自分の苗字にシノブは片眉を上げてゆっくりとミナミを睨むように見つめた。

「……なんだそりゃ」

「何かの本で読んだなぁ……あれ、なんていう本だったかな……?」

 首を傾げて悩み出すミナミに呆れたため息を吐いてシノブが頭を乱暴に掻く。

「俺が知るか、んな事。大体こないだから言ってもねえこと勝手に決めつけんな、マツのことでもよ」

「知らないからこそ決め付けられるんじゃないか。俺は勝手に君の事を決め付けてみるのが好きなんだよ。でも松崎の話は当たりでしょ? っていうか、俺にも覚えがあるからね」

「なにが?」

「え? 恋煩い? あは」

 軽い口調で笑むミナミにシノブは不審気に表情を曇らせた。

「そんなに顔も良くて頭も良くても思い通りになんねえ事があんのか、絶望的だなこの世は」

「君が誉めてくれるなんて珍しいね。よっぽど参ってるのかな? 恋煩いに」

「誉めてねえし別に参ってねえよ。もう終わったことだ。後は俺の気持ちだけ。ただそれだけ」

「ふぅん。……ゴリラでも恋するんだね」

「お前マジムカつくな。悪いかよ! 恋して」

 苛立ちが口調を荒らげたがシノブは呼吸を抑えて口を一文字に結んだ。

「あは、やっぱり君面白いよね」

「五月蝿ぇよ、王子野郎」

「……でもまぁさ、辛いこととかってさ、時間がなんとかしてくれるって言うけどそんな時って大概一人なんだよね」

「あぁ?」

「孤独を感じてしまう嫌な時間だって事。辛い事から離れるためにはその辛さを耐えなきゃいけない代償が発生する。……自分の気持ちは本当に扱いが難しいと思うよ」

「……お前でもそう思ったりする時あるのかよ」

「ないと思うの? 俺は君と違って人間だよ?」

「あのな」

「好きな人が幸せになれた、それで良かったなんて、俺は偽善だと思うけどね。でも君は頑固だからきっと己の正義のために自らを犠牲にしてもそうやって生きていくんだろうけど。辛かったら辛いでそれを緩和する術もつけて生きていかないとこの先やっていけないよ?」

「……だとしててめえに言われる筋合いはねえよ」

 自らの信念をバカにされたような気分に襲われ、シノブの怒声が談話室に響く。も、すぐに吐き出されたため息に掻き消されまだ談話室が静寂に満ちた。

「お前が王子様なのも俺よりも出来がいいのもわかったから……ちょっとそっとしておいてくんねえかな。お前の言う事に反論する気もねえ。寧ろ肯定する気持ちだってある。が、今はそんな人の話聞ける気分じゃねえ」

「……俺ってしつこいかな?」

「ああ、しつこいな。俺が恋煩いとか失恋したとかお前にとってはどうでもいい話だろうが。お前の言う通りサトルに失恋した直後だし、相手が幸せになったからそれでいいとも思ってるところだ。あとは自分の気持ちが黙ってくれればいいだけなんだよ。俺に構うな。あっち行け」

「あっち行けって……初めて言われた言葉だね。ビックリしたよ」

「ビックリでもなんでもいいからあっち行ってくれよ。ミナミ」

「え、ヤダ」

「ヤダってお前」

 心底呆れた表情でシノブがミナミを睨みつけるもミナミはいつもと同じ表情で自分を見つめていた。軽く舌打ちが口から漏れる。

「……参ってる俺を見るのがそんなに楽しいか?」

「あー……そうかもしれないね」

「はぁー……そうですか。お前ってマジ性格悪ぃな!」

「それはたまに言われるね」

「……つうか、イライラする……」

 この状況に耐えかねてシノブが頭を抱えるように俯いた。ミナミは動じることなくその様子を窺い小さく笑った。

「……俺は君を観察するのがとても楽しいけどね」

「あ?!」

 シノブの怒りが頂点へと達し、ミナミへと身を乗り出す刹那。

 引き寄せられるように掴まれた頭部。

 長いミナミの指先がシノブの顔を捕らえて。

 重なる唇と唇の感触にシノブは思わず硬直した。

 止まってしまった視界に入るミナミの長い睫毛。

 その睫毛の縁取る色素の薄い茶色の瞳に自らの大きく見開いた瞳が見えると、シノブは両手でミナミの胸元を容赦なく圧した。ミナミはそれに抵抗することなく後方へと上体をシノブから引いて、重なった口元を指で静かになぞりながら笑ってみせた。

「て! てめえ! どういうつもりだ!? 人の事おちょくるのもいい加減にしろ!! マジで怒るぞ!」

「もう怒ってるじゃない」

「怒るだろうが! 怒らねえ奴がいるか!? 人が落ち込んでるとお前はこういう嫌がらせしてくるのかよ!」

「やだなぁ、嫌がらせなんて酷い表現。俺は人が弱ってる隙を付け狙っただけだよ」

 ミナミはいつも通り、穏やかな口調でそう言うとその場から立ち上がり出入り口へと向かって歩き出した。

「これで少しは辛い時間が短くなったんじゃない? じゃあね、恋に悩む子羊さん」

 妖艶なまでに綺麗な表情で笑むミナミ。シノブは顔を真っ赤にしたまま黙ってドアが閉まるのを見つめた。

「……っふ、ふざけやがって……!」

 悔しそうにシノブが頭を一層乱暴に指先で掻く。ボサボサになってしまった自分の黒髪はあちこちに跳ねて。

 それでも熱い自分の顔に苛立ちを重ねた。

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