第21話 自分の望みと居場所
すでに暗くなった寮内の廊下を疲れ切った様子でサトルは歩いた。時折、別の部屋からくぐもった笑い声。今の自分からは遠い世界のようにさえも感じた。立ち止まって孤独を感じるもまた自室へと向かって歩き出す。酷く自分の足音が寂しさを煽るように聞こえて、サトルはため息をついた。
人で溢れたこんな世界で自分は一人で。
『松崎』
突如。脳裏に鮮明に熱までも再現される鷲尾の声、顔。
自分を嫌って笑うあの顔の歪み。
サトルは眉を顰めた。
と、真横のドアが勢いよく開いた。
『お前の声が』
『俺を狂わせた』
目の前に現れた。自分を蛇のように睨んでは笑うリョウの姿。もう幻覚か現実かも分からずごくりと息を飲んで、サトルは思わずその場にしゃがみこんだ。
「ぅわっ!! ま、松崎!?」
実際に扉を開いた同級生はそんなサトルの反応に逆に驚いて大声を上げる。
「あービックリしたー! 松崎! 大丈夫?」
鼓膜がおかしくなったのか。
急に同級生の声が酷く響いて聞こえ出す。
上手く聞き取れず困ったような顔をしながらもいつの間にか震えている指先に気付いて。
またサトルは驚いた。
「ホント大丈夫か? 顔真っ青だぜ? 驚かせて悪かったな」
気まずそうに自分へと謝ってくる同級生。
サトルは相手の言っている意味を理解してゆっくりと口を開いた。が。愕然とする。
声が、
声がまた出ない。
サトルは背中に一気に汗をかいて、その場を紛らわすために笑みを浮かべて首を横に振るとすぐに立ち上がって自室へと走り去った。
「おい! 松崎!!」
廊下に響く同級生の声を背に走って自室へと向かった。
混沌としてくる脳内。
ぶよぶよの地を走っているかのような浮遊感。
明かりの灯る自室を開いたと同時にサトルはその場に倒れこんだ。閉じかけた意識の中でシノブの叫び声が聞こえた気がした。
「随分と高い熱だな、こりゃ……安静にしとけ」
ベッド脇にしゃがみこんでいたキトウが重い腰を上げて立ち上がると横にいるシノブへ睨みを利かせて言った。シノブは、はい、と小声で答えながらもやっとの思いでベッドへと運んだサトルの青白い顔を心配そうに覗き込んだ。高熱のせいで苦しいのか、顔を時折歪めるサトル。シノブは深く息を吐いてから指先で黒髪を掻いた。
「……今日は当直だ。何かあったら一階の当直室に来い。酷かったから病院に運ぶから」
持って来ていた黒い皮製の鞄を手にするとキトウは大きな欠伸をしながら出口へと向かう。
「わかりました。ありがとうございます」
シノブは小さく頭を下げてドアが閉まる音を確認すると地べたへと座り込んだ。
部屋に入るなり、倒れこんだサトルの姿。
スローモーションのように脳裏で描く様子にまだ鮮明さが残っていた。酷い顔色で気を失ったように見えた。幸い倒れこんだ場所に自分の鞄がクッションになって良かった、とシノブは横目でサトルの倒れこんだ場所を再確認した。
「……っう」
掠れた唸り声。シノブはサトルの熱い頬を指先で撫でた。じっとりと汗をかいて張り付く白い肌。顔から首筋へと辿ると顔色が悪いせいかいつもより首筋の痣が濃く目に映る。その変色した痣の下でトクリ、と脈が小刻みに動くのが見えた。
「……どうしちまったんだ……? マツ」
声をかけるも返答はない。
シノブはベッドの柵へと身を任せたまま目を瞑るサトルをぼんやりと眺めた。
彼女ができた、とは聞いた。それも嬉しそうな気配もなく淡々と。シノブはそれからサトルが解らなくなっていた。奥崎へ瞳を向けている時の顔を知っているから。それが恋愛感情からではないことも想定した。ただ流れに身を任せての行為なのか。
それともまた、誰かのための犠牲へと進んでいるのか。
脳裏に描かれる予想はいくつも浮かんでは思案するもどれもサトルへと繋がる答えには感じられない。
「……今、お前何考えてる?」
「少しは幸せに向かっていってんのか?」
「それともまた自分で全部解決しようとでも思ってんのかよ……」
――いつだって、いつだって。お前が幸せでただそれだけなら、いいのに。
シノブは愛しそうにサトルの額へと触れた。玉になった汗が皮膚を伝って下へと落ちる。
一日、一日。
遠くへと離れていかれているような感覚。
ライブハウスへ連れて行ったときの事。
それから食堂で一緒に飯食ったり。
学校行事でバスケやったり。
足が速いことを知ったり。
意外に短気なところもあるんだと気付いたり。
どこかほっとけなくて不安げに見えて。
気になりだしたと気付いたり。
この部屋で共有した時間、日常が。
だんだんずれていくような。
会話をしていても全然通じていかないような。
実態のつかめない手がずっと空回りしていて。
でもそれもサトルが望んでいるような。
『住む世界が違いすぎるんだよ』
最近いつも見るサトルの遠慮がちな、いや、迷惑そうな苦笑と台詞が見えた気がした。
シノブはじっとサトルへと視線を落として。
ぐるぐると止まらない考えに苛立った。
「住む世界が違うって……お前思ってそうだもんな」
「一応、オックに伝えておくか」
シノブは勉強机の上へと置いておいた携帯を手に取ると電話をかけ始める。耳元に鳴り続けるコール音。苦しげなサトルの顔。シノブは深くため息をついた。
数日間、熱が続いて。
由井からのメールが溜まっていたことにサトルはため息をもらした。
高熱の中魘された夢の存在。今でもリアルに思い出される旧友の姿、声。それから。自分へと執拗に暴力を振るうリョウの笑顔が至近距離にある感覚。それを思い出すとサトルの額には汗が滲み出て。
――その度に声を奪っていく。
傍で付き添ってくれていたシノブにも声が出ない日々が続いて。関係性はまた拗れただろう。自分の世話をするシノブの表情が曇る度にサトルは胸が痛んだ。
『聞いてる? サトル君』
「あ、ごめん」
『いいよいいよ。気にしないで。それで明日なんだけどね』
由井から電話がかかってきて数分。
サトルはぼんやりとシノブの事へと思考を奪われた。
携帯越しに聞こえてくる由井の優しい声すら空気と化して。全然耳へと入ってこなかった。
「明日、いつもの喫茶店で待ち合わせようか」
自分の声が異様に大きく聞こえた。
場所は誰もいない談話室。
時刻はすでに深夜を回ろうとしていた。
しんと静まり返った広い空間のせいだろうか。
サトルは自分の発する声に嫌悪感を抱きながら話した。
『うん! わかった。最近新しいバンドとか増えてるみたいでね。ちょっと私は楽しみなんだ』
「そっか」
『サトル君も楽しめるよきっと! 体調壊してからアカーシャずっと出てないでしょ? またライブハウスに行けば歌いたい! って思えるかも』
「……そうだね」
――無理な話だ
裏腹な思いは冷たい言葉を胸の中で吐く。サトルは一度咳払いをしてから浅く息を吸った。
「由井、俺そろそろ寝るから。じゃあ明日会おうな」
『あ、ごめんね! サトル君の声久しぶりに聞いたからなんか舞い上がっちゃって。うん、おやすみなさい』
「おやすみ」
一言告げると携帯を耳から話して終話ボタンを押す。
浮かない表情で携帯をしまうとおぼつかない足取りで談話室の中を歩いた。今の時間に戻れば、まだシノブは起きているだろう。サトルは行き場所のない自分の身をソファへと置いた。いつも、思ったよりも深く沈むソファが小さく軋む音を立てて。サトルは無性に泣きたい気持ちになった。
高熱が出たのも風邪を引いたと嘘を、由井に嘘をついて。持ってしまった関係性も重く感じて。ひどく、由井を傷つけているのだろうとも思った。でもそんな理由で泣きたくなっているわけじゃないことにサトルは顔を歪めた。
――随分と。……もう。奥崎に会っていない。
そんな寂しさが時折大きな波のように自分を襲う。
距離を置く、そう言われて腹が立った自分。ならばと。奥崎に捨てられるなら。相手に嫌いと言われる位なら。こっちから嫌ってやる、こっちから捨ててやると動いた。そんな浅ましい自分の思いに今更後悔さえ覚えている。
こんなに状況を偽っても。
気持ちまでは偽れなかった。
「……っ……会いてぇ」
こんなにがんじがらめにめちゃくちゃに現実を偽った自分を救ってほしい。サトルは震える口元へと指先で触れて。静かに流れる涙をそのまま拭うこともなく流した。
みっともない涙でさえ。
今はこの状況から少しでも。
楽になれそうな気がしたから。
その日の由井はいつもよりも可愛らしい格好で。
微笑むその表情も化粧のせいか、綺麗だった。
服装も白やピンクで、サトルは隣を歩く事に多少ためらいを感じた。自分は茶系の地味な格好であまり目立ちたくない意識からかライブハウスへと進む足がどこか逃げたがっている気がして。サトルの内面は矛盾だらけだった。
いつもなら高揚感と緊張を含んだ風を感じながらアカーシャの仲間と歩いた道。知っている道なのに、その日の空気は何もかも違っていて。
――悲しかった。
「あ、人結構集まってきてるね」
「ああ」
ぎこちない笑みを浮かべてサトルが笑うと由井は少し心配そうに覗き込むとまた子猫のように大きな瞳を笑みに変えて笑ってみせる。
――気を遣わせないようにしないとな
サトルは首を横に振って大丈夫と小さく呟いた。
先へと進むといつも目にしている錆び付いた看板が目に入って。地下へと続くライブハウスの近辺には同じ年位の集団が目に入った。サトルは手にしていた鞄からサングラスを取り出して無言でかける。
「それ、かっこいいね」
「あ、そう?」
「うん。サトル君やっぱかっこいい」
屈託もない由井の表情。サトルは安堵感を覚えて目の前の集団から顔を背けるようにライブハウスへと急ぎ足で入った。
「由井、足元気をつけて」
「大丈夫! 慣れてる慣れてる」
そう言って自分の腕をつかむ由井の手。
彼氏彼女の関係。
サトルは緊張をして下唇を少し舐めた。
開く度に思ういつも重いこの扉。
鉄製の扉を押して開けると中からはチューニングの音が爆音で響き渡っていた。暗い空間に赤いライト。そのライトが照らし出すのは人ではなく、タバコのゆったりとした煙だった。然程広くない客席にはもう数人の女性の集団が談笑していて。サトルは由井の手を引いてライブハウスの奥側へと歩を進めた。嬉しそうに微笑む由井。周囲の視線も自分へは向けられていないようで。二つ開いていた壁に沿って設置された長椅子へと由井を先に座らせて自分も腰を下ろした。
「見て見て、今日のバンド。この『ループスカルプ』って結構有名になってきてるみたい。アカーシャよりロックじゃないけど出てくるメンバーみんな綺麗なんだって」
「へぇ。綺麗、なんだ」
「うん。ヴィジュアル系みたいだから曲聴いてみないとなんとも言えないんだけど由井的にちょっと楽しみ」
「あとは?」
「えっとね……今日はカウゼルはないみたいだし、あとは由井もまだわからないなぁ。カウゼル近い内に復活するみたいだよ。コウジ大学に進んじゃったから色々忙しいみたいなんだって。でも戻ってくるって高校生最後のライブでは宣言してたみたいだからさ」
「コウジさん、そっか……大学行ったんだな。知らなかった」
「サトル君、体調壊したりで大変だったからだよ。こういう情報はね、ファンの方が詳しかったりするのかもね。由井の友達すっごいカウゼルのファンでね。その子からそのループスカルプの話も聞いたんだ」
「へぇ……そうなんだ」
「由井はアカーシャファンだからさ、カウゼルとかガチのヴィジュアル系はまだそんなに好きじゃないんだけどこの前会ったカウゼルのマコト君の話、友達にしたらもう興奮してたもん」
「はは、そうなんだ。マコト、ホントに良い奴だよ」
「うん。なんていうか可愛かった! 人間性がやんちゃな感じもしたけど。ああいう兄弟欲しいって思ったもん」
「兄弟? 由井は兄弟いないの?」
「いるよ、お兄ちゃんが一人。でも弟が欲しかったから」
「そっか」
会話は順調。サトルは由井と話しながらライブハウス内の人間をサングラス越しに伺った。もう歌わないとは云え。アカーシャのメンバーだった自分が見つけられて騒がれても迷惑。由井へと顔を向けながら必死に暗い室内へと注意の目を払った。そうして注視する間もなく。
ドン、と足元を揺らすようなベースの音が鳴り。
急に明るくなったステージへと顔を向けた。
目の前にいた少女たちが一斉に立ち上がって奇声を上げる。
「どうもこんにちはー!!」
マイクが割れるほどのバンドのヴォーカルの声。
その瞬時に地割れのような音響で演奏がスタートした。
由井もゆっくりと立ち上がって拍手をし出した。
サトルは黙ってステージを見つめたまま足を組み直した。思い出される始めて来た頃。ステージに立つレンと、ヒサシとそれから。奥崎の姿。演奏をしながらも笑顔で音を合わせて、自分へと笑いかけるみんなの表情。
ステージに立つ顔は知らぬ存在なのに。
サトルは勝手に過去の思い出をそれへと重ねた。
時折ずれるギターの音。
そういえば。レンがギターで音を外すとよくヒサシと奥崎がふざけて怒って見せたりとか。レンもそれへとわざと逆切れして見せたりとかして。自分はどうすればいいのか動揺してしまったりとか。
サトルの口元が微かに動いた。
「……あ」
小さく声が漏れる。
ステージ中央に立って歌うヴォーカルの姿。
自分の姿がどうしても重ねられない。
どうやって自分は歌っていたのか。
頭で考えても答えなんかない。
ただ始めはそこに立っているのがやっとで。
でも、次第に高揚感が体を包んで。
暗闇へと音を鳴らし続ける。
声を裂けるまで叫び続ける。
その暗闇を打ち貫く思いで。
時間が与えられるギリギリまで。
マイクを持つ手が震えていても。
どこまでも羽を広げるように。
全てから開放されたいために。
どこまでもどこまでも。
だから、――歌いたかったんだ
サトルは締め付けられる喉元に逆らうことなく呼吸を吐いた。
『連れて行ってやるよ』
『だから離れるなよ』
この場所へと。
いつだって連れて来てくれていたのは奥崎だった。
全てから開放され、逃れた自分の世界だった。
なのに。
それなのに。
「……過去ばっかり、見続けたのは俺、だな」
口が勝手に知った思いを漏らす。
もう自分だけの場所へと連れて来てもらっていたのに。
何度も過去へと振り返って不安を抱きしめていたのは自分で。その場所へと自分の足で戻って。この場所を失ってしまったのも自分。もう。とっくの昔に。奥崎が助けてくれていたのに。ああ、バカで稚拙なのはいつだって俺だ。
サトルは小さく笑んでサングラスをゆっくりと外した。
その動きに気づいて自分へと笑いかける由井。
自分で動いて、自分で失った事。
ここにいる意味すらここにはもうない。
認めてしまえば穏やかなものだ。
全ては自分が決めて。
全ては終わってしまった過去ばかりなのに。
『距離を置こう』
「……うん」
サトルはようやく奥崎の言葉に返事をできた気がした。
爆音でかき消されたイエスの言葉。
由井はただ笑いかけてくれる。
ずっとその笑みをこちらへと向けて。
「サトルだーーー!!」
急な大声にサトルの目が大きく見開いた。
一斉に自分へと向けられる目、目、目。
瞬時サトルの背中に鳥肌が立った。
人影の奥の奥。
リョウの姿に似た人物が見えた気がした。
急な。
天と地を揺さぶるような眩暈。
「……!」
――声
声が、
また
咄嗟に喉を庇う様にサトルが両手で喉元を覆った。
こちらへと群がってくる群衆。ステージに立つ自分よりも若いであろうヴォーカルが感激の笑みをこぼしてこちらを凝視している。
「アカーシャのサトルに拍手ーー!」
波のような拍手の嵐。
サトルは困惑の表情を浮かべながら長椅子から無言で立ち上がった。
「サトル君」
不安げに自分へと手を伸ばす由井。
サトルはその手も無視したままその場に立ち竦んだ。
群集から差し出される無数の手。
その奥。
その奥。
ソノ。
『……リ、リョウ……?』
声に出ない言葉が口元を走る。全身に流れる汗。逆流してしまったかのような血液。みるみる顔色が悪くなるサトルの様子に由井が不安に駆られて声を荒らげた。
「サトル君!」
倒れる寸前、視界を奪った衣擦れの音。
一瞬で視界を奪われたサトルは一層困惑を隠しきれず後ろへと倒れそうになった。
「サトル」
背中から支えられて。
耳元で囁かれた名前。
知った。
ひどく愛しい声に。
サトルは静かに目を閉じた。
「オ、オク……さん……?」
呆気なく、声が、出た。
遠くなっていく意識。
抜けていく体からの力。
「……出るぞ」
奥崎が低く呟いて。サトルの頭から自分の脱いだ上着を被せたまま抱き上げた。場内から一層沸き上がる歓声。奥崎はそれへと軽く答える様に頷いた後、サトルを抱きかかえたまま出入り口へと歩き出す。周囲は制する必要もなく道を作り。
一人残された由井はただそこに立ち尽くすしかできなかった。
体に響いてくる低音の地鳴りのような音。
遠くからの歓声と壁にぶつかるくぐもった人の気配。
人の波から差し出される無数の手。
その中に知った、手があった気がした。
あれは自分に触れたことのある。
あれは自分へと傷を付けてくる。
手から上へと視線を伸ばすと不気味なほどの笑顔。
それが蛇のように睨め付ける。
――リョウ
リョウの瞳の色が様々に色を変えて。
伸びた手が自分を覆い尽くしていく感覚。
『お前の声が俺を狂わせた』
間延びした妙に響く声。
ゆっくりと開く口から覗く赤々しい舌。
サトルは恐怖のあまりしゃがみこんで目を固く瞑った。
そんな自分の横を子供が笑い声を上げて走り去る。
ハッと開かれたサトルの眼。
映し出されたのは汚れたアスファルト。
そして遠くに見えるのは、中学時代の自分の姿だった。
「……あ、今日は終業式、だったっけ……」
サトルはため息混じりに乾いたガムの張り付いたアスファルトへと目を落とした。我が物顔で近所の子供がサトルの横を走り抜け、無邪気そうな笑い声が響く。
遠くにいる自分が顔面蒼白で呟いた。
「……なんか疲れた……」
手にしている鞄を面倒くさそうに持ち直して家路をダラダラと歩く自分。
春薫る桜の季節、憂鬱な中学校最後の日。
サトルは呆然としながら遠くへと歩いていく自分の後ろ姿を見送った。
項垂れた背中。まだ黒髪だった自分。
手にしている鞄も重たそうで。
全てが面倒で、邪魔で、疲れるだけで。
この頃は。何を考えることも嫌で、何よりもこの先ずっと生きなければいけないことが嫌だった。膨大に続く生の時間。地球の生物全てが生まれてから死ぬまで同じ数だけの鼓動を鳴らすのなら、自分の終着点まであと幾つ心臓を鳴らせばいいのか。強く打ち付ける心臓の音が嫌いでどうしようもなかった。
サトルは瞳を大きく見開いた。
――ああ、そうか。
「……俺は、ずっと死にたかったんだ」
「死にたくて……死にたいと思うほど、鷲尾が、あの場所が嫌だったんだ……」
中学時代。
サトルは陸上部所属で、その成績は目に留まるようなものではなかった。ただ友人と単なる付き合いで入った部活。部活動的に厳しくもなかったし、暇があれば友人と話したり笑ったり、たまに走ってみたり。部活担当の顧問も滅多に顔を出すわけでもなかったからサトルにとっては楽な、そしてダルい世界だった。
それも季節が来たら終了、誰とぶつかり合うわけでもこれといった問題もなく平和な生活の中で受験が始まり。自分にとって楽に合格のできるラインの高校を選んだので特別受験のための勉強をするわけでもなかった。
平穏で平凡な普通な日々は三年間続きついには卒業。
感動するとかそういう思い出深いこともなかったので単に つまらない長時間のHRを終えたようにしか思えなかった。
部屋の中はいつの季節も普段から埃をかぶったパソコンとゲーム機、オーディオ、本棚、散乱した勉強机。
そして楽しいことも辛いこともなく平穏無事な生活を送るサトルがダルそうにベッドで横になる。
これもいつもと同じ光景。
平和なはずなのに。
サトルは無気力な世界にため息を吐きながら4月に入学する橘高等学校の制服へと目を向けた。
「……眠い……」
髪をグシャグシャにしながらサトルは見慣れた天井を呆然と見つめた。
――息が詰まる日常に終わりなどない。
サトルは膨大な日常の真っ只中に取り残された気分になった。
ベッドに横たわるあの頃の自分。
虚ろな瞳に無表情。
サトルはじっと部屋の片隅でそんな自分の姿に涙した。
平穏無事、なんかじゃなく、何事もなく、なんか無かった。圧力と暴言と嘲笑の中で、何も感じず、何も考えず、ただ周囲の声に相槌を打ち、何も求めず、己の声も殺していけば傷を深めなくても済む。これ以上、傷つかなくても済む。でも苦しかったんだ、それが。
――なのに
「……嫌だって、苦しいって、認めれば良かったんだ。……苦しかったって気付くこともできなかった」
サトルは下を向いて、涙を落とした。
『サトル』
聞こえてくる奥崎の声。
サトルはゆっくりと重い瞼を開いた。
「……ようやく起きたか」
蛍光灯の光が容赦なく自分の瞳を刺激する。
サトルは瞳を細くしながら逆光のせいでよく見えない奥崎へと目を凝らした。ぼんやりと霧のかかっていたような意識が徐々に覚醒して。サトルは奥崎の膝に頭を乗せてソファに横になっている状況に驚いた。
「オ、オクさん!」
思わずそこから飛び上がろうと上体を起こすも背中から抱きしめられ身が刹那硬直した。
切れ掛けの蛍光灯が嫌な音を放つ。
自分の体を抱きしめてくる腕に視線を落として。
それから少しだけ顔を上げるとその場所がライブハウスの奥の部屋だったことにサトルは気付いた。何度もメンバーで足を通わせて、この場所でくだらない話や曲についての討論をして。
ただいつも笑っていたような気がした。
ああ
さっきのは夢だったのか
サトルは自然に流れ出る涙をそのまま流した。
いくら先へと歩いていっても地に足をつけている場所が自分で理解できてないからダメで。
先程の悪夢はすでに終わった過去の出来事なのに。
高校に入ってから与えられた幸せを感じることもできず、感じようともせず。
こうして。こうして、もう。
大好きな人が自分の傍へといてくれていたのに。
「……少し痩せたか? なんか小せえな、お前」
「……ごめん」
「なんだそりゃ……」
小さく笑う声が背中から聞こえる。
愛しい、その声
サトルは顔を赤らめて視線をまた奥崎の腕へと落とした。
「声は、出るみてえだな」
奥崎の言葉にサトルは瞬時瞳孔を開く。
「あ、……俺」
「倒れた。っつうか……自分の喉押さえてパニくってたように見えたけどな……」
「……! 今何時?」
サトルは焦りながら奥崎へと告げると奥崎も顔を顰めた。
「正確な時間はわからねえな。ただお前が倒れてからもう二時間は経つ。……もう今日のライブは終了してここには関係者以外誰もいねえ」
「……あ」
――由井
サトルの脳裏に彼女のことが掠めた。
「……ゆ、由井は……? 俺の彼女なんだけど……」
「もう帰ったんじゃねえか。さっき見てきたけど誰も居なかった」
「……そ、そうか」
「ああ」
会話
なんか話さなきゃ
なんか
頭は勝手に焦り出して沈黙している間にサトルは何度も唾を飲み込んだ。勝手に強く打ち付け出す心臓。胸の上にある奥崎の腕へと音が伝わってしまいそうで嫌だった。
「あ、あの」
「ん?」
「あのさ」
「なんだよ」
――なにか、会話を
「オクさん、なんで、今日ここにいたんだよ。今日出てたバンドの子の知り合い?」
「あ? 別にそんなんじゃねえよ」
「そ、そう」
「お前がライブハウスに向かったから」
「……え?」
「ライブハウスにお前が向かってたから付いて来ただけだ、俺は」
「ぁ……」
平然と話す奥崎とは対照にサトルの顔は瞬時に赤みを帯びた。
「……そ、そう……」
「ああ」
後方へと体を引き寄せられ奥崎の腕へと強く抱きしめられる。
――でも
サトルは嬉しいと感じる反面、顔を曇らせた。
――でも、オクさん
「!」
サトルの顎を後方から手で捕らえると奥崎はサトルの口へと自分の口元を寄せ、思わずサトルが奥崎の手から顔を背けた。
「ちょ……ちょっと待って!」
「あ? なんだよ」
「だってそうだろ? だって……」
「だから、なんだよ」
奥崎が小さく息を吐いた。
「だって距離を置こうって……話しただろ……?」
「したか?」
「……っしただろ! した! すげえショックだったし、嫌だったし……それに」
「うん」
静かに返答を返す奥崎。
サトルは無性に泣きたい気持ちになった。
「それに……すげえ泣いたし。俺は俺の昔の事にオクさんやみんなの事巻き込みたくなかったからちゃんと俺が自分で決着つけようと思って動いたのに、なのに! 距離置こうとか言われて正直すげえ恨んだし……! 恨んで、捨てられる位ならこっちから捨ててやるって思ったし……もう、彼女もいるし! 全然一人じゃねえし! 寂しくないはずなんだよ」
奥崎は黙って、ジッとサトルを見ているだけ。
一人で怒っている自分の声が、何だか上滑りしているようで、サトルは徐々に消沈してくる。
「……なのに」
「なのに、ちっともあんたのこと嫌いになれなくてすげえ腹立つし……前より全然落ちつかねえし……」
「もう嫌いになったって言いたいのに」
「やっぱり……あんたが好きだし……」
ボタボタと落ちていく涙の音。ちっとも綺麗じゃないその生温い滴は奥崎の手を伝って流れていく。
肩を震わせて泣くサトルの声。
奥崎の笑みが深くなる。
「会いたいってずっと……思ってたよ」
「オクさん」
サトルがゆっくりと奥崎へと顔を向けた。
泣き腫らした赤い瞳。
奥崎が指先でサトルの涙を拭う。
「……それはお前だけじゃねえし」
小さく笑む奥崎。
自分だけに向けられる優しい顔。
サトルはまだ溢れてくる涙を懸命に耐えながらゆっくりと奥崎の胸元へと顔を埋めた。ひどく懐かしい匂い。サトルは奥崎の背中へと手を回して涙をまた落とした。
奥崎の胸元で泣き続けて。
すっかりサトルの鼻先は赤く染まっていた。
奥崎はテーブルの上にあるティッシュを一枚サトルへと渡すと自然にサトルの頭を撫でた。そんな仕草にサトルはぎこちなく視線を奥崎から避けて眼球を動かす。
人気のない、室内。いつもは五月蝿いライブハウス。勝手が違うせいか、どこか落ち着かない表情でサトルは周囲を見渡した。奥崎はゆっくりとサトルの体から腕を放して、ソファから立ち上がる。
「……ほら、帰るぞ。寮の門限に間に合わなくなるのもまずいだろ」
「あ、……あぁ」
差し出された大きな、手。
サトルは躊躇しながらもその手へと自分の手を乗せる。
「あ、ありがと」
「いいや」
テーブル横の椅子へと置かれていた自分の鞄。サトルは鞄へと手を伸ばすと中に入っている携帯をすぐに取り出した。着信履歴は3件。確認すると全て由井からのものだった。罪悪感で気分が重くなる。サトルは携帯を閉じると手にはせず、鞄の奥底へとそれを仕舞った。
ドア越しに自分を見つめて立つ奥崎の優しげな表情。サトルは矛盾した自分の気持ちを顔に出さないようにした。
ライブハウスのステージはすでに暗く。
人が一人もいないせいか不気味にも見えた。
誰もいないカウンター。
誰も座っていない椅子。
寂しげな光景に足を止めるも奥崎の手がサトルを引き寄せる。
「あんまり見るな。出るって噂だ」
「……っえ!」
「早く」
無表情に答える奥崎の様子にサトルは怯えた表情のまま奥崎の後を歩く。重い鉄の扉を開くと外からはひやりとした未だ冷たい風が身を包んだ。背中から腕へと鳥肌が立つ。道路へと出ると人の気配はなく、ただ煌々と街灯がアスファルトに光を帯びていた。
サトルは周囲を視線で浚って人がいないのを確認すると内心安堵感を抱いた。
――由井は、帰ったみたいだ
そう思ってすぐに自分が卑怯な人間だと思い知る。
――帰っていてくれて安心するなんて
サトルは自分の手を握って歩く奥崎の背中を目で捉えた。自分よりも高い身長、少し伸びた髪。その髪から少し見ることの出来る耳につけられたピアス。
サトルはふと自分のピアスへと手を触れた。
――無理やり開けられて、風呂に入る時とか、寝る時とか苦労したな
まだ一年と経っていないのに、サトルは遠い出来事のように感じた。
――空気はまだ冷たいし。桜の季節が近いのに木々はまだ蕾で。ライブハウスで大勢の前で倒れたし。由井は帰るし。散々だったはずなのに。なのに。
サトルの足が止まった。
手を引いて歩く奥崎がサトルの歩みが止まったことに気付いて振り返る。
「……どうした。サトル」
サトルは応えずにただ黙って俯いた。
あの中学校の卒業式の日のような汚れたアスファルト。
誰だってまたこの場所を我が物顔で歩いていく。
鼓動はまた同じように繰り返す。膨大に長い生の時間がどこまで続いてるのかがわからない。でも、いや。違うんだ。そんなことじゃない。生きることが辛いんじゃない。死にたいと思ってるわけでもない。
「……俺」
「? 言ってみろ」
「俺は……」
――あんたと
「…………」
――あんたと、いたい
口を小さく開いて呼吸を吸う。言葉を発する前に奥崎の大きな手が自分の体を捕らえて深く口付けを交わされる。また、頬を伝う、涙。サトルは目を閉じて奥崎の舌先へと自分の舌を這わせていく。
「……っは」
小さく自分の口から声が漏れる。
濡れた口元を奥崎の舌がゆっくりと舐め上げて。
サトルは涙で濡れた瞳を奥崎へと向けた。
「オクさん……ごめん、ごめんな。助けに来てくれた時も、そう言いたかったんだ、本当にごめん」
「……謝るところじゃねえ。むしろ、守れなかった俺の非だ」
「違う。全然オクさんが責任感じることなんかねえから」
「……責任ぐらい感じさせろや……。ただ抱きたくて傍にいるわけじゃねえ」
「……あ、あぁ……」
平然と話す奥崎の言葉。サトルは動揺するも以前のような奥崎との空気に触れているようで。自然に顔が綻んだ。
「まだまだ出るな。涙。ジュースでも買ってやるか? 水分補給した方がいいぜ」
「もう出ない。つうか、涙腺壊れたんだ、きっと……」
「お前がそう言うとなんか悲観的に聞こえるな」
からかう奥崎にサトルは困惑するも深く呼吸を吐いて奥崎の手へと自分の手を重ねた。きょとんとそれを見つめる奥崎。サトルは頬を赤らめて奥崎の手を引いて歩き出す。
「少しゆっくり歩いてくれよ。……まだ頭クラクラするから」
「……ああ」
奥崎が鼻先で小さく笑ってからサトルの後方を歩き出す。
出来るだけ歩幅を小さくして。
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