第20話 揺り返しは優しく、痛く、酷く、
「ねえ、部屋に来るんじゃなかったの? カンちゃん」
「野暮用だ。いいから付き合え」
「うん……また喧嘩するの?」
「……もうしねえよ」
「ならいいけど……」
同じ階にあるマコトの部屋にはまっすぐに行かず、シノブの足は三階へと続く階段へと向けられた。日はすっかり落ちて廊下には明かりが灯されて、いつもと違う外の景色にマコトは窓の外を見下ろしながら先を行くシノブの後ろをついて歩いた。
そして着いた先は。
個室で部屋を持っている奥崎の部屋の前。
瞬時マコトの顔が険しくなってシノブがそれを睨んだ。
「ほら喧嘩じゃん……」
「別に喧嘩にならねえよ。単なる話し合いだ」
「頼むよ、ホント」
心配そうにマコトが話すとシノブはドアノブへと手をかけて押す。すると鍵が掛けられておらず、ドアがゆっくりと内側へ動いた。
「……開いちゃったよ……カンちゃん、ちゃんとノックしてから入るのが礼儀だよ」
「あいつ俺のこと毛嫌いしてるから出ねえだろうが。強行突破で充分だ」
「……なにそれ」
呆れたマコトの声を無視してシノブが奥崎の部屋のドアを全開にすると声を張り上げた。
「オック、いるんだろ。出て来い」
「ちょ……もっと小さい声で言ってよ」
「お前いちいちうるせえな。オック! 出て来いっつってんだろうが!」
「あーもう……」
酷く迷惑そうにマコトがため息をついていると部屋の奥から人の気配。次にドアの開く音がして、マコトは急に緊張して強張った表情で部屋の奥をのぞいた。
「……うるっせえな。人の部屋の前で」
機嫌の悪そうな奥崎の声。シノブは強気な顔を崩さずこちらへと向かって歩いてくる足音を聞いていた。
「あ、ヤッホ。オクさん」
「……マコも一緒か。なんだ?」
どうやら寝ていたようだ、とマコトは奥崎の様子を見て思った。
「や、あのね。カンちゃんが……」
「マツのことで話がある。ちょっと邪魔すんぞ」
やんわりと切り出したマコトの話を無視してシノブはそう言うと勝手に奥崎の部屋へと入っていく。それを平然と見つめる奥崎。マコトは小さな声でお邪魔します、と一言述べてからシノブの後へと続いた。
部屋の中は簡素でリビングにはソファとテーブル。その上には果たして使っているのか分からない勉強道具が散乱していた。重い色調のカーテンは閉められ煌々と蛍光灯が部屋を照らしていた。
マコトは見慣れない初めての場所にきょろきょろと大きな瞳を動かした。
「さすがに広いねー。いいなー」
「ナベも個室だろうが」
感動するマコトの横で奥崎がソファへと座りながら話す。まぁね、とマコトも話を続けるも部屋の奥に立ったまま背を向けたシノブの背中を横目で見つめた。
「で? なんだよ」
奥崎はソファへと深く座り直してからテーブルに置いていたタバコへと火をつけた。
「……マツと、距離置くって言ったんだってな」
怒鳴るのかと思いきや冷静な口調のシノブにマコトは意外だと思いつつ奥崎の向かいのソファへと座った。
「ああ、そのことか。サトルから聞いてなかったのか」
「まぁな。この時期俺も忙しかったしロクにあいつと会話はしてねえ」
「……ふぅん」
「なんでだ?」
シノブが奥崎へと振り向く。奥崎はタバコを口に咥えたまま黙ってシノブの顔を見る。タバコの煙を吐き出してから咳払いをひとつして、それから足を組んだ。
「……これ以上、傷つけるのは良くねえと思った」
「傷……?」
マコトが奥崎へと話し掛ける。奥崎はひとつまた咳払いをして。
「あいつはもう傷つくのが嫌なんだよ。だから声を取り戻したいとか望んじゃいなかった。逆に声が出ねえ、人と面倒くせえ交流をしなくても済む。牙をむけられることもねえ。それであいつは充分だ。でも」
「俺はあいつに何一つ失わせたくなかった。その癖守れなった。助けられなかった。それが事実だとも知ってる。お前の言った通りな」
奥崎の瞳がシノブを捉える。
「正直情けねえ。相談にもなんにも乗れなかった。あいつはサイン出したのに俺は気づけなかった。後悔だらけだ。なのに、あいつの声が聞きてぇんだよ。抱いて尚更そう思った」
「抱っ……? そう、な、の?」
奥崎の淡々とした口調。引っかかる言葉にマコトは口を濁すも冷静を保とうとした。
「ああ」
平然と答える奥崎。
シノブは小さく舌打ちをした。
「……あっそ」
面白くなさそうにシノブが相槌を打つ。
「最後までじゃねえ。そんなに拗ねるなよ」
「別にんなこと言ってねえだろうが! どっちにしてもだ。そう思うお前の気持ちも当たり前だと思うぜ? 後悔するのは当然だ。でもあの状況でいきなり距離置くまで言わなくてもいいんじゃねえの?」
声を荒らげてシノブは話すも頭を冷やしながら口調を宥めて話す。
「別れるとは言ってねえ。正直あいつは何もわかっちゃいねえ。俺がどれだけあいつのこと思ってんのか。大事にしてえと思ってんのかな」
「くっつかないと解らないこともあるけど離れて気づくこともあるかもしれないもんね……」
納得したようにマコトが呟く。
「それに」
続く奥崎の言葉にシノブとマコトの視線が集まる。
「……あんな犠牲的精神で物事起こされたら正直キツイな。外にも出したくねえし誰の目にも触れさせたくねえ。そう思ったらあのストーカー野郎と何一つ変わらねえと思った。それだとあいつを傷つけるだけだ。今はあいつのそばにいる自信がねえ」
「自信がねえなんてお前らしくねえ言葉だな」
シノブが少しカーテンを開いて外の景色を眺めながら話す。
「……距離を置く、なあ。マツならもう声出てるぜ。……俺も今日知ったばかりだけどな」
ぶっきらぼうなシノブの言葉。
奥崎は目を大きく見開くも静かに笑んで。
「そうか」
深く呼吸を吸って、呟いた。
「……なんで戻ったのかも全然知らねえけど……あいつ捻くれてるぜ? お前がそばにいねえからじゃねえの?」
「ふぅん」
「多分、知らねえ女から手紙ももらったみてえだし? なんかお前のこともガタガタ言ってたぜ?」
「そうか」
「そうか、じゃねえだろが。好きなら面倒くせえことごちゃごちゃお互い言ってねえでヨリ戻せ。……ったく迷惑なんだよ、こっちは」
「なんだ、取るんじゃなかったのか? サトルのこと」
奥崎とシノブの会話にマコトは瞬時に顔を赤らめて動揺した。
「え! やっぱり二人とも恋敵なの……? カンちゃん、マッちゃんが好き、な、の?」
「悪かったな。好きでよ。つうかさっき気付けよ……でもどういう好きかなんざやっぱりわからねえ。あーわかんなくなってきた。……ただほっとけねえんだよ。あぶなっかしくて、あいつ」
「そ……そうなんだ~」
マコトは顔を赤らめたまま頷いた。シノブはその反応が面白くなく、そばにあったクッションをマコトへと投げつける。
「痛い! なにすんだ!」
そんな二人の様子を見ながら奥崎は小さく笑って。
「……あぶなっかしいと感じてるなら俺と同意見だな、神崎」
「一緒にすんな」
「短気なゴリラ様だな、ホント」
「うるせえ!」
いつもの嫌味口調で話す奥崎の様子にシノブは内心安堵した。
「話戻るけど。……これからどうするんだよ」
「様子見るわ。別に別れた訳じゃねえから単なる放置プレイだとでも思ってろよ、お前らは」
「ホ!」
「放置プレイってお前な! 言葉を選べ!」
「似たもんだ。まぁあいつの好きにさせてやれ。俺はそれから考える」
奥崎はそう言ってすでに短くなったタバコを灰皿に押し付けた。
「オクさん、マッちゃんが声出て嬉しいの?」
マコトが陽気な口調で奥崎へと問う。
奥崎は静かに笑って。
「さぁな」
と言った。
朝からの雨は昼には上がって。
太陽の光が春の暖かさを帯びた。
雲はゆったりと流れて。
真っ白な校舎が眩しく反射する。
「最近、なんか良いことあったのかよ?」
レンが制服のネクタイを緩く解く。生徒玄関には人気はなく、そこにいるのは生徒会長になったレンと奥崎の二人だった。
「別に」
涼しげな顔で奥崎がそう話すとレンは意地悪気に笑みを浮かべて。
「マツ君のことだろ? 声出るようになったって神崎から聞いた。まぁ、俺も嬉しいけど。やっぱ責任感じてたからな」
「それはお互い様だ」
「……しかし、もう春だな~、そろそろ桜の季節か」
レンが座り込んでぼんやりと遠くを見つめた。奥崎は黙ったまま腕を組み直してそんなレンの様子を見つめた。
「……なんだよ」
「いや、なんでもない」
奥崎の視線に気づいたレンは首を緩く捻ってから小さく笑った。
「タキは、もう転校……」
「ああ、した。この前学校去っていったぜ。清々したっつうの」
奥崎の言葉を遮って陽気に話すレンの様子に奥崎は小さく息を吐いて、そうか、と一言述べた。
「……そういえば」
暫くしてからレンが重たそうに口を開いて。
奥崎が小さく頷く。
「あの、例の事件にマツ君の同級生いたじゃんか。この前、見かけた」
瞬時、奥崎の瞳孔が鋭くなった。
「……いつ?」
「つい二、三日前じゃねえか? ヒサシと二人で髪切りに行って……駅で見た」
「ふぅん……」
「大丈夫、なのかよ。……好きなんだろ? お前」
「それこそあんたに関係ないな」
「あっそ。まぁ注意して見ていようや。俺も気をつけるし」
「ああ」
不穏に空気が動かなければいい。奥崎はそう思いながら生徒玄関から正門を眺めているとそこへ知った人影が横切った。わざわざ目を細めなくても、わかる。奥崎は腕を組み直した。
「……ん?」
レンは顔を歪ませて遠くに見える人へと目を凝らした。
私服姿で並んで歩く男女。
レンがゆっくりと口を開いた。
「あ? ……あれってマツ君じゃねえの……?」
「ああ、みたいだな」
「……どうなってんだ? お前ら付き合ってんじゃねえの?」
「今は放置プレイ中」
「なんだそりゃ。あれ、付き合ってるみてえだぜ?!」
「らしいな」
動揺もしない奥崎の態度にレンは顔を一層顰めてその場に立ち上がった。
「おいおい、いいのかよ。それで」
「……俺はあいつが声が出るようになったんならそれでまずは構わねえよ。誰と付き合おうが、そうしてえなら今は好きにすりゃいい」
「……お前って心広いな……」
意外そうな声がレンの口から漏れて。
奥崎は目を細めて笑んだ。
「っつうか! 新入生遅ぇな! ったくよ。ここで待ってもう三十分だぜ?!」
「そろそろ俺は行く。じゃあな」
「おい、待てよ。もう少し付き合え」
「用事ができた」
奥崎はそう言うと振り向きもせず正門へと向かって歩き出した。
「……大仏野郎」
レンは去っていく奥崎へと舌打ちして小声で言った。
裸の状態の木々に色づきだした緑。
生温い風。
奥崎は目を細めて正門から出た。
歩く歩幅に気をつけながら。
後方を歩く彼女へと顔を向けて手を繋ぐ。
そっと握られた柔らかくて小さな手。微笑んでくる彼女。サトルはまだ内心ぎこちなさを感じながらも大分以前より慣れてきたと思った。
「ねぇ、今日はどこに行こうか? サトル君」
彼女ができてから、二週間。
毎日続けられる息継ぎのようなメールとたまにかかってくる電話。付き合い始めたことを一応シノブには伝えて、背中を向けられたまま生返事を返された。
――奥崎には、まだ伝えていない事実。
気持ちのどこかに後ろめたさと後悔が募る瞬間もあるが、こうして彼女と過ごしていると余計なことを深くまで考えないで済むのはサトルにとってはメリットだった。
受け取った手紙には。
アカーシャの頃からのファンで。
活動休止と聞いて心配していたことと。
それから公園にいるサトルを見かけるようになって嬉しかったとか。だんだん好きになってしまったとか。そういう淡い感情がピンク色のペンで綺麗に書かれていた。手紙に書かれていたアドレスへメールを送って。
それから他愛のないやり取りが始まった。兄弟は何人とか。好きなことは何とか。アカーシャの何の歌が好きとか。ただ彼女、清水由井が自分へと特別な感情を抱いているのは理解できた。
予感。それから告白。まるで流れが決まっているようにあの公園で彼女から告白されて。サトルは迷うこともなく了解した。つまり、彼女の彼氏になることを決めた。
一人よりいい
一人よりマシ
捨てられるくらいなら
こっちから捨ててやる
嫌われるなら
こっちから嫌いになってやる
荒れ狂う復讐心の様な感情の波がたまに打ち寄せて周囲の視界を留める。まるであれから時間が止まってしまったかのような感覚。あれほど好きだった奥崎の事。もう嬉しかった奥崎の笑顔すら自分の中からかすみ始めている気さえした。
――これで、これでいいんだ。間違ってなんかない。間違ってるわけがない。考えなくても当たり前のこと、同性同士なんてありえない。普通にありえねえだろ。……気持ち悪ぃ
自分が好きと伝えてくるシノブも奥崎もどうかしてる。気が狂った世界にいたのかもしれない。どこかがずれている世界。そんな場所を世界にしちゃいけない。絶対間違ってるじゃないか。この方向は、間違いじゃない、はず。間違いじゃ、ない。
『好きな』
『好きな人にはちゃんと好きって伝えなきゃダメだよ』
心臓を突かれたようなタキの声が鼓膜に響く。
ひゅ、と口から酸素を吸い込む。
サトルはふと顔を上げるといつの間にか自分の前で立ち止まっている由井の不思議そうな表情に気付いた。
「な、何?」
「ううん。話しかけても返事がなかったから疲れてるのかなと思って。……大丈夫?」
「大丈夫だよ、悪ぃ」
「ううん」
――優しく笑う由井。由井は。優しい。いつも気を遣って、いつも笑っている。本当にいい子で。本当に。だからこそ。だから。
サトルはふいに右手に拳を作った。やりきれない矛盾した自分の気持ちにたまに押し潰されそうになる。自分へと笑いかける由井を。こうして一緒にいて、傷つけているようだった。
まだ付き合ってから。
好きとも言っていない。
ただ一緒にいるだけ。
時間を共有するだけ。
キスさえ、していない。
確かに、可愛い。
可愛いし守ってやりたいとも思うのに。
どこかで。
――どこかで俺は。
「サトル君?」
「! っ……ごめん」
「? ううん。着いたよ? 入ろ?」
人懐っこく笑いかける由井がミュールの音を鳴らしながら先に地下へと続く階段を下りる。サトルは降りていく由井を見つめながら強く一息吐いた。
「……集中……しなきゃな」
罪悪感を抱かなくなるほど、由井を好きになればいい。
ただそれだけのことだ。
サトルは笑みを作って階段を降り、重い鉄製のドアへと手をかけた。階段を下りて鉄製の重いドアを開けると中からはジャズが低く流れている。並べられた木製のイス、それからテーブル。隅には使われていない暖炉。床は黒い石が敷かれ、壁はまるで洞窟のような作りになっていた。天井は高く、店内は薄暗かったが雰囲気のある店だった。
最近二人で通っている喫茶店である。
店の奥にはカウンター席もあり、その周囲に二人掛け、 四人掛けの趣のあるテーブルが配置されていた。
テーブルに灯されたキャンドルが薄暗い店内を幻想的に彩る。
サトルと由井はいつもと同じカウンター傍の席へと着いて。店員が持ってきたメニューへと目を通す。
「知ってる? ここのカレーおいしんだって。今日チャレンジしようと思って」
「そっか。じゃあ俺もそれにしようかな。コーヒーも付くみたいだし」
「うん。じゃあカレー二つね。私は、……紅茶にしようかな」
「紅茶にも砂糖結構入れるんだろ?」
「だって甘党だもん。サトル君も飲んでみてよ」
「由井のは甘すぎだって」
自分の言葉に本当に嬉しそうに笑う由井。サトルはうまく保てている、と思った。傷をつけるわけでもなく、良い安定を保ったラインで良い会話ができていると安心して店員に出された水を一口飲んだ。
由井が店員を呼んで注文を済ませて。
それから何かを思い出したかのように由井が瞳を大きくしてからすぐ笑って自分の鞄を開けた。サトルは黙ってそれを目で追って。
「何? なんかしたの?」
「うん、今日サトル君に会ったら渡そうと思ってて……あ、あった」
取り出された二枚の紙をテーブルへと出され、サトルはそれを手に取った。書かれていた文字を読んで、ふぅん、と一応返事をする。
「ねぇ、今週の日曜なんだけど一緒に行かないかな? ライブハウス」
「……今週の、日曜か」
用事なんて、ない、が。用事などとは比べられない程面倒くさい気持ちがあって。サトルは言葉を濁した。
「もしかして、用事、ある?」
少々残念そうに聞いてくる由井は困惑した犬のように悲しげな表情を浮かべていた。多少、気まずさを感じてサトルは意味もなく咳払いをした。
「日曜は……どうだったかな。……まだわから……」
「あれーー?! マッちゃんじゃん!!」
耳を突く様な知った声。
後方から突然叫ばれた声量に驚いて振り向くとマコトが手を振りながらこちらへと歩いてきた。
その隣には渡辺が不機嫌そうにこちらを睨みつけているように見えた。
「……マ、マコト」
気が抜けたような自分の声。向かいに座る由井がきょとんとしたままサトルへと顔を向けた。
「サトル君の友達?」
「あ、……あぁ。クラスメイトだよ」
都合悪そうにサトルが小声で由井へと話す。
「……そっか」
小声で返してくる由井の声。
どこか寂しげに言葉が揺れた。
「マッちゃんもここ来るんだね。俺ここ大好きなんだー。って……あ、ごめん! 友達さん? かな。マッちゃんの友達のマコトって言いま~す。よろしくー」
マコトはそう言いながらカウンターへと座ってすぐさま店員にコーヒー二つと注文する。渡辺も物怖じする様子もなくマコトの隣へと座った。
紹介し損ねた由井の様子にサトルが少し声を張り上げてマコトへと笑顔を向けた。
「彼女は清水由井さん。橘女子高校の二年だから俺らと同学年だよ」
「そうなんだ! やっぱ女の子は可愛いね~。ね? カズ」
無言。
酷い間を置いて渡辺から発せられた言葉。
「……あぁ?」
所構うことはないらしい威圧感にマコトもサトルも声が出ず、口を小さく開いたまま動けなくなった。
「そ! そういえばさ! マッちゃん本当に声出るようになったねーおめでと! 俺マジ心配したから! 本当良かったよ! この前はバタバタしてたからちゃんと言えなかったけどさ!」
「あ、ありがとう」
「いつから教室に帰ってくるの? オクさんだってきっと待ってるって!」
「……あぁ、それはないけどな」
「……あ、まだ、仲直りしてないんだ、な」
マコトは一層顔を歪めてコップへと手を伸ばして。
「ごめん。ごめんね?」
「……いいや。マコトのせいじゃねえって」
サトルは笑みを作って優しげに話した。
由井はそんな二人のやり取りに中々入れず、ただ見つめることしかできなかったがサトルの手へと自分の手を重ねた。サトルは内心驚くも顔には出さないようにした。
「あ、ごめんな。由井」
「ううん! 仲良いんだね。初めまして、清水由井です。サトル君と付き合ってます」
その言葉に突如渡辺がサトルへと鋭い視線を向ける。
その瞳にサトルは驚いて目を見開いた。
マコトは咄嗟に渡辺の手を握った。
「どうしたの? カズ?」
「いや……なんでも」
そう言って首を捻る渡辺。
サトルはじんわりと額に汗をかいた。
マコトも少々笑顔を引きつらせながら由井へと笑いかける。
「そ、そうなんだ! もう! マッちゃん言ってよー! ビビるから!」
「あ、……ごめん」
「でもそうなんだ。彼氏彼女なんだねー。アカーシャのファンだったの?」
「はい」
好意を持って由井が答える。
マコトはそうなんだ、と相槌を打つ。
サトルは心情的に落ち着かなかった。
別に渡辺のせいではなく。
居心地の悪さを酷く実感してしまったようだった。
いつもとは違う空気の流れ。
いる場所を自分が間違えているような。
まるで迷子になった心細さにも似た酷く落ち着かない気持ち。
サトルは由井から顔を逸らしてようやく出されたカレーを無心で食べ始めた。
「え? じゃあカウゼルって知らない?」
「あ! 知ってます! コウジのバンドですよね? 私の友達が大ファンです!」
「俺、そのカウゼルのギターやってるんだよ!」
「やっぱり! あのマコトさんだったんだ」
楽しげに談笑する由井とマコト。
興味なさ気にコーヒーを飲む渡辺。
サトルはぎこちなさに味がわからなかった。
「そういえば、マコトさんって誰とも付き合ってないんですか? 何か先輩からはコウジには昔から最愛の人がいるって噂では聞いてるんですけど……マコトさんの彼女って見てみたいです」
「え?! 俺??」
急にマコトの言葉が濁る。引きつったような声が裏返り、マコトはすぐに笑みを浮かべて。
「えーっとね。……今のところは」
返答に困りながらも必死に笑みを絶やさないマコトの視界に、後方から伸びてくる腕が現れてその笑顔が固まった。
「俺だけど」
マコトを後ろから抱きしめる形で渡辺が話す。混乱している様子のマコトとは裏腹に平然と由井の顔を真っ直ぐ見る渡辺。
サトルは頭が真っ白になった。
そっと握られた手に動揺してサトルは強く驚きながら隣で歩く由井へと顔を向けた。由井はその反応にきょとりと瞳を大きく開いてつられて驚く。
「あ……ごめ」
「ううん。急に手握ってごめんね? 驚かせちゃったね」
申し訳なさそうに由井が緩く笑みを零した。
サトルは少々安堵して首を横に振った。デートの帰り道。橘女子寮の傍、月明かりを背に歩く。周囲は住宅街で人通りの少ない道路にも車があまり通らない場所だ。ここへ送り届ける道順も覚えて。帰りはいつも他愛のない話で必死に言葉を繋ぎとめていた。
けれども。今日はどうも調子が悪いな、とサトルは後悔の念を抱いた。正直、二人に会ったのが痛かった。
マコトを背中から抱きしめた渡辺の強い睨みがまだ目に焼きついている。見られたくない現場を見られてしまったような。自分の逃げ場所を見つけられて茫然自失になったような。
その後の由井の反応も自分にとって思ったよりもきつかった。信じられないような声を小さく上げて、必死に笑みを作ろうとしていた彼女の対応。胸元が強く押された気がした。
「でも、今日ビックリしたね」
「え?」
想像のついた由井の話題にサトルは後ろめたさのあまり無意識に惚けて見せた。内心まずい、と思う感情をきっちりと内で殺して。なんともない顔を由井へと向ける。
「ほら、カウゼルのマコト君。……サトル君もカウゼル知ってるよね?」
「……ああ、まぁね」
カウゼル。
コウジの率いるバンド。
そのメンバーにはマコトも含まれ、アマチュア、ましてや高校生が率いるバンドとしてはかなりの大型バンドだ。
将来的にも有望視されていて、メジャーレーベルからも声がかかっているという噂さえ流れている。独特な世界観に乗せて綴られる作詞を担当しているのはコウジでその世界観を作り出す曲を作っているのがマコトだった。ライブ中もコウジとマコトの絡みは名物とまで言われ、学生がメンバーを占める為に地方遠征をほとんど行わないカウゼルをそのためだけに地方から見に来る人も多かった。パフォーマンス、歌唱力、全てにおいて見るものを惹きつけてしまう。そんなカウゼルの存在を知らない者の方が橘高等学校では少ないだろう。
サトルももちろんカウゼルは知っている。
同じヴォーカルという位置にいるせいか、コウジの凄さは身に染みるほど。
それだけに己の緊張と自信の無さが酷く影響を受ける。
「コウジさんは凄いよな。指先ひとつ動かすだけで目が奪われるっていうかさ。声ひとつでその世界観を体現しちまうんだから」
「……私はマコト君とコウジさんが付き合ってるって噂聞いてたから……今日は本当にビックリしちゃって」
「……そんな噂あるんだ。へぇ……」
重く、圧し掛かるような後ろめたさが急に背中から襲う。ならばその噂は明日から更新されるのだろうか。そんな事はしないだろうと思いながらもサトルは由井から顔を逸らした。
「同性で付き合ってますって……そういう人たち、私初めて見たかも」
「……だよな」
――話を
「でも本当に恋人同士なんだよね、ああやって見ててさ。お互い好きなんだなぁって思った……なんか、なんか凄いよね」
――話を変えなきゃ
「サトル君もビックリしたよね。私もビックリしたもん。同性愛って……あるんだ」
「由井は、ちょっと理解できないけどさ。……うん、あるんだねぇ」
――話を変えなきゃ
「ねぇ」
「ん?」
焦りのせいで額に汗を掻いた。
月明かりに照らされて。由井の瞳に冷たい月の光が反射して見える。サトルが由井へと顔を向ける。頬を小さく温かい手が包み込んで。
引き寄せられた先にあったのは酷く柔らかい感触。
サトルは一瞬自分に何が起きたのか、わからなかった。
重ねられた唇は微かに震えている気がした。ゆっくりと自分の唇から離れていく由井の表情は緩くウェーブされた髪に隠されてよく見えなかった。俯きがちに由井が少し笑って。
「急に、ごめんね? キス、とかしちゃって」
「……いや」
「私、本当にサトル君と付き合ってるって、なんかまだ実感できなくてさ」
「あぁ、付き合ってるよ」
――あ
「それじゃ、ここまで送ってくれてありがと! ここまででいいよ。おやすみなさい」
「……うん。おやすみ」
自分の傍から駆け足で離れていく由井が小さく手を振る。無意識にそれに応えて振る自分の右手。振り続ける手が酷く、重いような気がした。
「……全然、心臓の音がしねえよな……そういえば」
震えていた由井の唇の感触。
サトルはそこから少し歩き出してからふと、立ち止まった。横を通る一台の車のライトが眩しくて、サトルは目を細めた。頬を伝う一筋の涙。罪悪感が酷く胸元を揺さぶるようで由井が去って行った道へと背を向けて逃げるようにそこから疾走した。
――あんなに震えながらも好きだと相手が伝えてきたのに、ドキドキすることも、ねえなんて
走るにつれ荒くなっていく呼吸。重くなっていく足かせを嵌められたような足。サトルは焼けるような喉の痛みに安堵をようやく感じた。
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