迷走・望むもの
第19話 戻るもの、戻らないもの。
寝室に入ってからもう三時間。
段々と暮れ行く部屋の中で奥崎はただ瞳を開けて暗くなっていく部屋の様子を見つめていた。頭が上手く動かないような気がした。白い壁に濃い闇が層になって揺れ、カーテン越しに遠くでじっと光り続ける月が見える。雪はもう止んだようだ。不安も苛立ちもないのに、何処かが疼く感覚だけが異質だ。――異質。
凪いだ心がその異質を自覚した途端に膨れ上がる。後悔という言葉がこれほどまで大きなものだったとは。結局子供染みた己の感情に反吐が出るよう。
奥崎の瞳が月明かりを受けて鈍く光った。
――じゃあな、と告げた。
瞬間見せたサトルの顔が網膜に焼き付いてしまった。
後味の悪さだけが充満していく。
「……なんて顔しやがる」
多少苛立った口調で奥崎が片手で自分の顔を覆った。
「何が……離れるな、だ」
「サトルは初めから俺の事なんざ当てにもしてねえ。そんな対象ですらねえ…………俺を、なんだと思ってたんだよ」
奥崎は軽く目を伏せてからため息を漏らした。
未だに残るサトルの痣。
守ってやれなかった事が鮮やかに、まるで自分がやったかのように思えるほど。今でもあの身に刻まれているように見えて、奥崎は酷く責任を感じて、あれから何度も繰り返してきた言葉をまた頭に戻す。
――まさかここまでのことになるとは思わなかったからなんて、言い訳にもならない。
奥崎は喉元で笑った。
結局守れなかったんだから身を引くべきだろう。冷静に考えれば、それが正しい答えに思える。自分は神崎ではない。直接関わって、何も気付かなかった、それが現実で、であれば神崎の言う通りだ。
けれど、奥崎の苛立ちはそんな理屈をつけられるような場所にない。本能的な刃のような部分。瞼の裏でサトルが苦しむ姿が何度もリピートする。苦しそうに声を上げて、何度も、何度も繰り返される。もう二度とあんな目には、そう思う。そう思う気持ちと直結した苛立ちだ。もうサトルを傷つけないために、そのために。この部屋にでも、どこにでも、閉じ込めてしまえばいい。繋ぎとめて誰の手にも染まらないように誰の目にも触れさせないように誰からも汚れさせないように。自分は何も気付かず、見逃したせいで、もう既に他人にあんな酷さで許した行為だ。ならば、どうせ同じ目に遭うなら、自分がサトルの全てを奪って手足を捕らえて自分だけのものにしてしまえば。
――守れるじゃねえか
奥崎の表情が鈍く歪む。
余りにも酷く、馬鹿馬鹿しい考えに自嘲する。
「……ストーカー野郎と俺は紙一重だな。神崎の言う通り、釣り合ってなんかねえ」
サトルの望む場所に連れて行ってやりたい、そう思っていた。それが今は、ストーカーと変わらない。
――退院してから、声の出ないサトルが幸せそうに見えて、その世界がサトルの望むものだと思った。そこからはもう連れ出して欲しくなんか、ないように見えた。
声が出たか聞かれて、嫌なのも分かった。
自分とは違う場所に気持ちがあったのだ、と思った。
声が聞きたい、なんて。お前の声で好きだと聞きたい、その思いを聞きたい、なんて。
思っていたのはこっちだけで、その上。
「失くさせたのは、俺なんだろ……?」
奥崎は冷たい口調で窓の外を見下ろしながら呟いた。
と。
部屋へと優しげに響くインターホンの音。奥崎はゆっくりと寝室のドアへと振り向き、暫くすると再度インターホンが鳴らされる。どうせ神崎あたりか。軽く舌打ちをしてからドアを乱暴に開けて部屋を横切る。玄関出入り口に設置された鏡に映った己の顔は酷く最悪で、長い前髪を後方へと掻き揚げながらドアノブを回した。
「はい」
掛けた声に帰ってくる言葉はなくて、顔をあげると目を泣き腫らしたサトルが立っていた。小さく自分を見て微笑む姿に、奥崎は目を少し大きく開いてからあぁ、と生返事を返した。黙って自分へと顔を向けるサトル。
――泣いたのか
それだけは理解できた。
「……どした、もう部屋に帰ったのか?」
あれから随分経つはずだが未だ制服姿のサトルを見て奥崎が眉を顰めて静かに話す。サトルは首を横に振るとドアノブを掴む奥崎の手へと自分の手を重ねて、そのまま頭を下げると勝手に奥崎の部屋へと入っていった。
「おい」
苛立ったような奥崎の声。
サトルは無視した状態で前へと歩みを止めなかった。
深い奥崎のため息に先を歩くサトルの肩が少し震えた。
「サトル」
サトルは自分へと声をかけてくる奥崎を無視してドアを開けるとリビングのソファへと俯いたまま座った。そんなサトルの行動を呆れたように見つめる奥崎は深くため息を吐いてから頭を掻いて。
「……なんの用だ。俺はもう寝る」
怒声に近い奥崎の言葉にサトルの体が小さく揺れる。目にして見える相手の動揺に奥崎はサトルの隣に腰を下ろす。だが俯いたまま、当然返ってくる言葉はなく。
「……待ってろ。今紙とペン用意し……」
軽く舌打ちをして、静かな口調で告げソファを立ち上がる奥崎の腕をサトルの手が捕らえた。奥崎はゆっくりと無表情で振り向いて、顔の見えないサトルへと振り返った。
「なんだ? さっきの事、……怒ってんのか」
サトルは強く首へと横に振るが顔を上げず、ただ奥崎の腕を捕らえた手に力が込められた。
「これじゃあ話がなんだかわからねえだろうが。紙とペン持ってくるから」
サトルの手を放そうとしても一層強まるサトルの力に奥崎の表情が曇る。
「なんのつもりでここへ来たか知らねえが……」
静かに話し出す奥崎。
ようやくサトルが顔を上げた。瞳は泣いたせいか、未だ赤く染まっている。たどたどしいサトルの視線が奥崎の表情を捉えては逸らす。
「さっき言ったのは俺の本心だ。神崎ならお前をちゃんと幸せにするだろうと思った。それが俺の答えだ」
見開いたサトルの瞳には涙が滲み、溜まっていくのが奥崎にも解ったが、敢えて目を逸らして話を続けた。
「今回の事、俺らアカーシャメンバーにも非がある。お前を連れて行ってやるとかほざいてた自分が今の俺にすればもう恥なんだよ。大事な奴も守れなかった。それが全部だ」
動揺を隠せないサトルの口元が震える。
奥崎は一つ咳払いをしてまた話し出す。
「お前にとって、俺は頼りにもならねえ存在なんだと思った。……とかな。話したところで口から出てくるのはこんな気分悪くなるような言葉ばかりでもう、俺にもどうしていいのかわからねえ。……お前が声が出なくなって安心してるならそれも仕方ねえことだろうしな。傷つくこともなくて幸せならいいんじゃねえの? ……ただ俺は……」
「お前の声が聞きたかった」
奥崎の腕がサトルを強引に立ち上がらせ引き寄せて抱きしめる。流れた大粒の涙が奥崎の胸元へと滲む。抱きしめられたサトルはじっと奥崎の胸の中でゆっくりと呼吸を繰り返す。
重なり合う鼓動。自分にとって嫌な嫌な音を立ててきた心臓。でも。自分の鼓動に重なるように連ねて鳴る奥崎の音が肌を通して伝わる。
オクさん
ごめんなさい
サトルの口元が何度も謝罪を繰り返す。
「お前がこんなまだ傷だらけの状態なのに、俺はお前に望んでんだ。あのストーカー野郎と何も変わらねえ。でも、お前の声が聞きてえんだよ、俺は。浅ましいな」
抱きしめていた腕が解かれて後方へとサトルの身が押される。よろめきながらサトルは自分から離れた奥崎の横顔をじっと見つめた。酷く傷ついた顔。サトルは瞳から涙を零しきって手の甲で濡れた頬を拭った。
電気の音。
すでに暗い部屋。
奥崎のため息が聞こえた。
「……暫く、距離置こう」
サトルの目が見開かれる。
「その間にお前がゆっくり決めればいい。神崎がいいならそうしろ。俺は、……自信がねえな」
突き放してくる奥崎の言葉。涙ばかりが零れるのに、全く不釣り合いに、こんな時に思い出す。
花火に重なって自分へと微笑んでくる奥崎の笑み。
アカーシャの活動。
羽目を外したり、会話で盛り上がったり。
時折、時折の奥崎の仕草、表情。
涙の奥を過ぎる映像と、こちらへと向かない俯いて立ち尽くす奥崎の様子。事件の後、思い出す事もなくなっていた楽しかった、嬉しかった事。奥崎の、隣に居た事。 サトルは流れて止まない涙を流したままゆっくりとドアへと歩き出した。
ごめんなさい、だけじゃあ
傷口を塞ぐために足りるわけがない
それでも会わないといけないと思った
オクさん
俺はあんたをこんなにも悩ませて
傷つけてしまったんだな
自分だけ楽な場所へと逃げて
ごめん
ごめんな
そう思いながら奥崎の横を通り過ぎようと歩く。視界に入ってきた腕がサトルを背中から抱きしめる。なにも言わない奥崎の体からは自分の嫌いな音に似た鼓動。
「悪かった」
耳元で呟かれた酷く落ち込んだような声。
腕から解放されるとサトルはそこから逃げるように走って振り向くこともできないまま廊下へと出てドアを閉める。瞬きすらできず、じっと廊下の壁を見つめて。
サトルはその場に座り込んで静かに涙を流した。
――距離置こうって言うんならなんで、抱きしめてくるんだよ……こんなの、苦しい
サトルは顔を両手で覆ってその場で泣き崩れた。
『あんたを守れてると思ってた俺の方が浅はかじゃんか』
感覚を失った指先は涙で濡れて、背中に残ってしまった奥崎の感触が熱く体に染み付いた。ただこのドアが今にも開いてはくれないかと、そう願うばかり。
保健室に奥崎が姿を現さなくなって三学期が淡々と過ぎた。空気は微弱に埃にも似た春の風を含んではいつも通り、キトウの開けた窓から入り込んで揺らめく白い煙を一瞬で外へと浚う。
サトルは壁に設置された大判の時計を無表情に眺めた。
尽きない後悔の波に瞼は閉じることを忘れて。
ただぼんやりと向かいにいるキトウを眺めた。
「なんだ、問題用紙全部満点じゃねえか。お前保健室来てから頭良くなったんじゃねえのか」
からかい半分で話すキトウ。
サトルは静かに笑んで口を開いた。
「そうかも、しれません」
それへとまた笑って応えるキトウ。採点された用紙が自分の前へと差し出され、それへと目を落とす。乱暴に書かれた赤色の100。サトルはそれを四つ折りにすると鞄へと仕舞った。
タバコを吸うキトウがもの言いたげに瞳を細めるのをサトルは煙越しに見つめる。
「もう声が出るんだ。そろそろクラスに復帰してもいいんじゃねえのか?」
「……はぁ」
都合悪そうにサトルは言葉を濁すと席を立ち、深々と一礼すると保健室のドアへと歩いた。
「まぁ、気をつけて帰れや」
「はい、さようなら」
いつも交わす言葉を告げて、サトルは保健室から出た。それから生徒玄関へと続く廊下を無言で歩く。
奥崎と離れて程なく、サトルは声が出るようになった。
理由はよく分からなかったが、とにかく急に、普通に話せるようになった。
驚きも感動もなかった。全てただ、――今更。
そう思うばかりで嬉しくもなんともなく、クラスにもアカーシャにも、戻りたくもなかった。声が出るようになった事を唯一知っているキトウに頼んで保健室登校を続けている。サトルは寮に戻ってもシノブとも口を利かなくなっていた。
廊下を歩く耳障りな自分の足音に眉を顰めて。
サトルは深々とため息を吐く。
奥崎の部屋から出た後。
心配するシノブを傍にしてもサトルはただ数日呆然と日々を過ごした。つかの間、雨の日もあって。風が強く窓を揺さぶる日もあったと思う。それでも自分の中ではただ奥崎の嫌そうな顔と、言われた言葉だけがぐるぐる回っているだけだった。
心配するシノブも学校行事で忙しく、日曜も学校へと行く日が続いて、サトルは自分とかけ離れた環境のシノブや周囲に対して違和感や距離感を深めた。
――自分が辛くても何でも、毎日朝は来て夜も訪れて、シノブは忙しそうで。
そのうち無意識に煽られる孤独感にも慣れ始めた。
その間のいつ声が出たのかもはっきり覚えていない。その頃には殆ど誰と会話する事もなくなっていたし、声が出たとか、出ないとか自体自分にとってはもうどうでもいい事になっていて。心配するシノブや周囲にも話す気になれなかった。
孤独感が増すと同時に膨れ上がったのは周囲へと向けた自分の勝手な憎悪。
その感情にサトルは時折泣いた。
――好きだから。好きだから自分の事になんか関わらせちゃいけないと思った。過去を清算した上で傍にいたいと思った。そうして、奥崎と笑って過ごしていけたらと思った。あの笑顔が傍にあるなら。傍にあるなら。
『距離を置こう』
いつもの様にただ思考の中にいて、放課後の廊下を歩いていたサトルの耳に、強く奥崎の声が響く。
サトルは顔を瞬時に歪めて歯を食いしばった。
「……あー……やだ」
すぐに緩んでしまう涙腺。
サトルは誰もいない廊下に立ち尽くしたまま少し汚れた白い壁を睨みつけた。
――あんたを好きで失いたくなくて。
――だから一人で立ち向かったのにどうして?
頭の中で勝手に己の言葉が悲鳴を上げた。
――声が出なくなったから? 歌えなくなったら意味がないから? 傷つくことが怖くて逃げ出した俺が許せないから? わかんねえ、わかんねえよ、あんたの好きってなんだよ
「も、……ツラい」
――嫌われるくらいなら。
乱暴な感情が、サトルの頭を支配する。
――嫌われるくらいなら、こっちからあんたの事嫌いになる。どうせ逃げ出すためじゃなきゃ俺は走れない。
答えはない。誰もいない。目に映るのは、冷えた暗い廊下だけだ。
――こんな俺の事、なんで好きって、離れるなって言ったんだよ
もう、相手とも世界とも、充分に距離が出来た。
尋ねる事など、到底出来そうにない。
「離れるなって言った口で……距離置こうかよ」
――じゃあどうすればよかったんだよ、オクさん
サトルはため息混じりに溜まってしまった涙を指先で落として。それからまた無表情に歩き出した。
寮へと入って。
すぐに自室へと向かう足が徐々に速度を増す。廊下を抜けて自室のドアを開けるとまだシノブの姿はなかった。安堵してから鞄を壁へと立てかけて、着ていた制服を脱ぎ捨て私服へと着替えた。帽子を深く被り、地味な服装。それから座ることなく勉強机の引き出しから紙を出して黒ペンで文字を書き殴る。
『病院に行って来るから』
部屋の中央にあるテーブルへとその紙を置くとサトルはその足で自室から出た。まるで寮内から逃げ出すように外へと出て、暫く走ってから徐々にペースを落として歩き出した。
このところの毎日の日課。雨の日でも構わず、サトルはこうして毎日を過ごした。シノブにも奥崎にも会いたくない。自分を知っている誰にも会いたくない。ただその一心だった。
辛辣に顔を歪める自分の顔が通りにあるコンビニのガラスに映って。それから目を嫌そうに逸らすと帽子を深く被り直した。ただ毎日こうして、距離を開けて過ごす。奥崎の望みであり、自分の望みでもある。心配を告げてくるシノブの存在もサトルにとっては重く感じた。
――ひとりになりたい。
もう訪れることに慣れてしまった小さな公園のベンチへとゆっくりと腰をかけて曇り空を見渡す。
風が揺らすブランコの軋む音。
耳へと届く車のエンジン音。
公園にしては子供の姿はなく、どこか寂しげな場所だった。錆び付いた滑り台の周囲には枯れた雑草が波を時折作っては揺れて。サトルはそれを時間が経つまで眺める。こんな毎日でも充分だった。もう全てに意味がなくなったような喪失感。
「声が出たから、……何だよ」
愚痴を吐くように言葉が口から出る。今更声が出るようになったとしても奥崎と会うことすらもう憚られる。会ってどうするのか。「声が出ました」とでも告げるのか。それが何かになるのか。どうせ何をやってもダメになる、そんな気さえした。
未だ冷たい風が首筋を通り抜けてサトルは少し体を強張らせた。
――覚えのある、感覚。
中学時代の自分がまるでここへと帰ってきたかのような。群れて笑う同級生から逃げるようにいつもグラウンドをただひたすら走って。走ることで、部活をすることで、不快な場所にいなきゃいけない理由にしていたようにも思えた。逃げても逃げても。――いや、結局いつも。
『逃げなかったのは俺だな……』
刹那、サトルは自分の口元へと覆うように両手で触れた。いつものように口を動かしたのに。
――声が出なかった。
――また?
サトルは驚愕の表情で自分の喉元へとゆっくりと指先で触れた。
「……あ」
――出た
酷く安堵して深くため息を大地へと吐きつける。と。携帯が着信音を鳴らして。サトルはポケットに仕舞っていた携帯を取り出すとすぐさま開いた。メールだった。
「神崎からか……」
メールを開いて目で文字を読む。
『お疲れさん。俺もう戻ったぞ。病院ちゃんと行ったか?』
サトルは暫くしてから携帯のボタンを押し始めて。メールを神崎へと送信した。これもいつものこと。
「そろそろ戻るか……」
サトルがベンチから立ち上がるとふと公園の入り口付近で女子高生が二、三人、サトルへと視線を向けていた。サトルはその場に立ったまま不思議そうにそちらへと目を向けるもまた帽子を深く被って歩き出そうとした。
「あ! あの!」
強張った高い声がサトルへと飛んで、サトルは歩みを止めてその方向へと振り向いた。一人の女子が走ってくる。緩いウェーブが肩越しで揺れる制服姿の女子の頬は少し赤かった。緊張している様子で、サトルよりも小さなその生徒が必死で笑う。
サトルもその笑みにつられて、小さく笑った。
額を汗が流れるのは多分、緊張したせいだろう。
サトルは指先でじわりと滲んでは流れる汗を拭った。
埃のない白い廊下を歩いて自室のドアをノックもせずに開けるとそこには勉強机に向かって座る神崎の姿があった。
「おーお疲れ。ちゃんと薬もらってきたか?」
機嫌はいいみたいだ、とサトルは思いながら首を縦に振って平然と嘘をついた。病院にはもう長く通っていない。喉に色濃く残った痣の跡は見るからに痛々しいが、別に痛みがあるわけじゃない。もう通っても時間の無駄にしか感じられない。サトルも自分の勉強机の椅子へと座ると一息ついて天井を見上げた。しんと静まり返った部屋にはシャーペンの走る音。神崎が背中を丸めて勉強に精を出しているが、自分はぼんやりとした意識の中にいるようだった。白濁した視界。未だ冷たい指先は赤みを帯びている。それには何も感じられず、頭の中に浮かぶ光景は先程の公園での出来事だった。
ジーンズから桜色の手紙を出す。
それには綺麗な字で名前が書かれていた。
『清水 由井』
ファンレターかもしれない。
サトルはしばらくそれへと目を落とすも中身を開いてみる。破けていく紙の音にシノブがサトルの横顔を見て、手にしている手紙に気づいた。
「どうしたんだよ、それ」
「さっき女の子からもらった」
淡々と無感情に話すサトル。
シノブは驚いたように目を見開いてからサトルの肩を自分へと引き寄せた。
「おい! 声! 治ったのか?! だよな! だよな!」
興奮は話すたびに増して。シノブの声が部屋に五月蝿いくらい響いたがサトルは平然と、むしろ暗い表情でシノブへと目を向けて。
「うん」
と、また声を出す。
「よかったじゃんか! マツ!」
本当に嬉しそうに笑みを浮かべるシノブ。
自分のことで喜んでくれているはずなのに。
ちっとも自分の事と思えない。
サトルは笑むこともなく渡された手紙を開いた。
シノブはサトルの反応に浮かない表情を浮かべて。
「……どうした?」
心配そうに問うシノブをサトルは顔色ひとつ変えずに見て。
「別に大したことじゃないよ。もう手遅れだから」
とそう言うと視線をシノブから逸らした。
「おい、待てよ。手遅れって……」
「俺はもうとっくに見切りつけられたんだ。オクさんに。今更なんだよ、声が出ても」
「そういうことじゃねえだろ?! 失くした物が取り戻せたんだぜ? また歌えるかも……」
「そんなに歌ってないと俺って価値ないか?! 結局歌ってないと必要ねえ?」
初めて耳にしたようなサトルの怒声にシノブは口を噤んだ。重い空気が二人の間に流れて、サトルの視線がうんざりしたようにゆっくりと弧を描く。深く肺から息を吐いた。
「……結局、人間関係って俺苦手なんだよ。お前らみたいにうまくできないんだって。別にお前も見切りつけたいならそうしてくれよ。……もう、疲れた」
「お前なんも言わねえけど、あれからなんかあったのかよ、オックと」
「好きとか嫌いとか大事にしたいとかそういうのも、もういい。失敗したのは分かった。嫌ならそれで構わねえよ。こっちも距離置くから」
「どうしたんだって聞いてるだろ?! マツ!」
強く吐き出されたシノブの怒声にサトルは一瞬怖じ気づいて口を閉ざすも生唾を飲み込んでシノブを軽く睨む。
「……俺が何を間違ったって言うんだよ。ただ迷惑になりたくなかっただけだ。自分の昔の揉め事にみんなを関わらせたくなかっただけ。だから声がそのせいで無くなったとしても後悔なんかしなかった。俺なりにオクさんやアカーシャを傷つけないように行動した。声が出なくたって、オクさんがそばにいてくれるだけで構わなかったのに。なのに距離置こうとか……意味わかんねえよ、もう……」
徐々に震えてくるサトルの声。
シノブは黙ったままサトルの肩から手をゆっくりと離した。
「……それで? その手紙はなんだよ」
「別に。神崎に関係ないだろ」
瞬間サトルの胸座をシノブは掴むと自分へと引っ張り上げ、ベッドへと向かって乱暴にサトルの体を放り投げた。サトルは強く目を瞑ったままベッドの上で痛々しい表情を浮かべた。
「……っってぇ!」
「……関係ねえとはどういう言葉吐きやがるんだ。お前が苦しんでるのも不満溜め込んでるのもよく解ったぜ。けどな、オックが距離置こうって言ったんならその気持ちも分かる」
「なにが? なにが分かるんだよ」
「言っておくがな。俺はまだお前のことちっとも諦めちゃいねえし、そもそもアカーシャともオックとも離れさせたかったんだ、元はといやあ全部そのせいだろが。お前とオックが距離置いたんなら全く好都合だぜ。歌ってないと意味ない? そりゃ誰の話だよ。俺はお前がそうしたいだろうと思っただけだわ。まあ、それも関係ねえな? お前に習えばよ。さっさと俺のモンにしちまうか」
「ふざけたことぬかしてんのはどっちだよ!」
「どっちもだろ。別にどうでもいいや、面倒くせえ」
シノブが一歩、サトルへと近づく。
「俺はお前を抱けりゃそれでいい。面倒くせえことぐちゃぐちゃ考えてるその頭。何も考えられなくさせてやるよ」
そう言うとシノブは間髪入れずサトルの腕を強く握るように掴むと強引にサトルの胸元へと手を滑らせた。
「ちょっ……!! ヤダ!!」
「知らねえよ、お前の気持ちなんざ」
「ふざけんなよ! 神崎!」
「だって俺はお前のこと大事にしてやりたくて好意でヤろうとしてんだぜ? ふざけてねえ。ほらこっち向けよ」
「ヤダ!」
強く握られた手首が痛んでサトルが顔を顰めた。が、シノブは厳しく見下した表情を緩めずサトルの顔を捕らえると無理やり自分の唇をサトルの唇に重ねた。
「……っ!! ヤ……ヤダ!!」
「うるせえ!」
耳元で怒鳴られてサトルは瞬時ビクつくも足元で横の壁を何度も蹴り続けた。と、部屋のドアが急に開いてそこから冷たい空気が部屋へと流れ込んできた。
「カ! カンちゃん! なにやってんの! やめなって!」
人懐こい声。
サトルの上に乗って強引にキスをしようとしているシノブの様子にマコトは驚愕の表情を浮かべながら走り寄る。そしてシノブの肩へと両手をかけると懸命にサトルから引き剥がそうとした。
「触るな! チビザル!」
「落ち着いてよー! マッちゃん嫌がってるじゃんか!」
「知るか!」
やっとの思いでサトルからシノブを引き剥がして。
マコトの息は上がったまま二人を見比べながら首を横へと捻った。
「……ど、どうしちゃったの? ものすごい喧嘩の仕方だよ? これって……」
ベッドの上のサトルはいつの間にか涙目で。
シノブの髪の毛も無造作にあちこちに跳ねていた。
「……マコ、今日泊めろ」
低く掠れたシノブの声。少ししてからマコトは反応して不思議そうにシノブを見つめた。
「……へ?」
「いいから泊めろって言ってんだよ。サル」
「いいけど。でもちゃんと仲直りした方がいいよ。……ねぇ?」
マコトは困惑した顔でサトルへと話を振るも当のサトルも顔を背けたまま動かない。シノブのため息が聞こえて、マコトの顔が一層困った表情を浮かべた。
「マツ」
サトルから返答はない。
「お前ちょっと頭冷やせ。俺もそうするから」
「……オックの気持ちも……好きなら考えてやれ。お前は後悔なかったかもしれねえけどな、他のみんなは後悔しっぱなしなんだよ。いいな……」
疲れきったシノブの口調。サトルは顔を動かすこともできずただベッドへと倒れこんだまま動かない。
部屋から二人が去っていく音。
徐々に遠ざかっていく足音。
手首に残った赤い跡。
サトルはようやく体を起こして。
その場で咽び泣いた。
――じゃあ。じゃあどうしろって? どうしたら良かったっていうんだ。鷲尾とのことをどうすれば正解だった? 知らない、知るか、もう。全員知らねえ、
興奮した頭で泣いていたサトルはふと、いつの間にか部屋に落ちていた桜色の手紙に気づいて、ベッドから手を伸ばしてそれを掴む。開かれた手紙の上に並べられた字は見慣れない。平仮名、漢字の意味なす文章。それをゆっくりと眼球を動かして読む。それから暫くしてその手紙をベッドの脇へと置いた。
重くのしかかる孤独感。
今更になってシノブへと吐いた暴言に後悔した。
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