第18話 本心

 三学期が始まって。

 また学校内に活気が戻ってきた。廊下を伝って生徒たちの笑い声が保健室まで聞こえてくる。サトルは何故か浮かない表情を浮かべて保健室ドアへと視線を送った。

「……どした?」

 サトルに背を向けて椅子へとダルそうに座っているはずのキトウがサトルへと声をかける。サトルは多少驚いて瞬時に顔を赤らめて俯く。それからまた顔を上げると不機嫌そうに自分を見つめてくるキトウの様子に緊張が走った。

『あ……』

 唇が勝手に動く。

「なんだ? わからねえ問題でもあったのか? っつっても俺は保健医だから数学なんざろくに知らねえぞ」

 深く吐かれた息には煙草の匂いが混じって。

 サトルは苦笑いを浮かべた。

 また、廊下から生徒たちの声。保健室で学校生活を送るようになってから感じているのは常に疎外感。

 ――寂しい

 重圧のように体で感じてしまう自分にサトルは嫌気が差した。目の前で自分のプリントを怪訝そうに見つめているキトウの眼光は鋭い。正直、この先生も慣れない。サトルもまた課題になっているプリントへと視線を落とした。

「……なんつうか、お前犬みてえ。嬉しいやら悲しいやら、喋れねえからかバンバン伝わってくる」

 キトウがすでに短くなっていたタバコを灰皿へと擦りつけながら何の気もなく話し出した。サトルは目を丸くして、それから少しして。顔を赤くしてキトウから目を逸らした。

「っとに、……ガキって解りやす過ぎだな」

 また新たに出したタバコへとライターで火を付けるとキトウは肺の奥深くまで吸い込んだ。

 緩やかな白い光。少し開けられた窓からは心地いい位の冷風が体へと届いた。消毒液の匂いに混じった癖のあるタバコの匂いにも大分慣れた。

「それでも顔の傷あたり大分良くなったんじゃねえのか? 痣も薄くなってきたみてえだし」

 キトウの言葉にサトルはぎこちなく頷いて、またプリントへと目を落とした。


 ふと。

 奥崎と出会った頃の光景が脳裏を過った。


 何を話していいのかもわからなくて。

 見た目が全てを圧倒するようなそんな存在で。

 それでも話したいと思った。

 仲良くしたいと思った。


 ああ

 俺はオクさんに近づきたかったんだ

 どこが好きとか

 優しいから好きとか

 そういうのじゃなくて

 その存在に酷く惹かれた


「おい、考え事してねえでちゃんと手ぇ動かせ。シャーペン動いてねえぞ」

 サトルは全身で瞬時に動揺して顔をまた赤らめながら自分へと視線を向けるキトウへと困ったように笑った。

「やっぱ解りやす過ぎ」

 キトウはそう言うと意地悪げに喉元を鳴らして笑った。

 ――やっぱり苦手だな、この先生

 サトルは作り笑いを浮かべたままキトウからゆっくりと視線を背けた。ただ、その日は午後からはキトウが出張ということもあってサトルはいつもよりも気が楽だった。


 保健室のドアを開けても誰もいない事に無意識に安堵の息が漏れる。

 三学期が始まって以来通っているのに消毒薬の匂いも、先生にも慣れず群衆から外されて、こんな場所に一人で過ごしている。目に見える傷は日に日に良くなっているのに、声は一向に出る気配がなかった。

 ――なんで……?

 日を追うに連れて不安が感情を煽る。

 学校内を歩いていると必ず向けられる同情の瞳。飽きたと言われているように感じる無視。同級生の乾いた笑顔。それらに時折、胸の奥底から込み上げてくる怒りにも似た感情にサトルは益々自分が嫌いになりそうになった。それでも内心。どこかで声が出なくなってほっとしているのも事実で。


 だって、きっと、それは。

 ――出してはいけないものだから。


 サトルは頭が生み出した言葉に刹那固まった。瞬きも忘れて窓越しの白い空を見つめたまま動けなくなった。

『……出しては、いけないもの、って』

 自分で自分の考えていることが理解できない。サトルはゆっくりと自分の口元に指先を当てた。どうしてそう思うのか。でも自分のどこかが強くそう思っている。そう感じるのに、その気持ちの場所が自分で分からない。

 サトルは険しい表情のまま椅子へとゆっくり座り込んだ。胸元から襲ってくる急激な吐き気。酷い眩暈と寒気。手足が動かせなくなって呼吸がままならない。

 ――体のどこかがおかしくなってしまったんだ

 サトルは苦しげに瞳に涙を溜めて、荒くなり出した呼吸に死の恐怖さえ感じた。


 ダン、とけたたましくドアの開く音が響いて。


 反射的にサトルがそちらへと振り返った。

 目に飛び込んできたのは派手な髪の色。サトルは涙を溜めたまま瞳を丸くしてその人物を見つめた。

「……あれ? キトウのバカいねえじゃん」

 派手な長めの金髪の前髪から覗く瞳は鋭く、形のいい指には銀の指輪が嵌められている。全身黒づくめで保健室を見渡しながら中へと入り、椅子へと座っているサトルへと視線を落とす。サトルは瞬時にその金髪から視線を逸らして意味もなく何度も頭を下げた。

「おい、高校生。お前キトウ知らねえ?」

 酷く掠れた男の声。

 強い口調で問われて、サトルは困ったように表情を歪め、それから慌てて机に置いてあったホワイトボードに字を書き出した。不審気に自分を見てくる男の視線を痛いくらい背中に感じながらサトルは焦って字を書き終わり、自分より長身の男へとそれを手渡した。

 男は怪訝そうな表情でホワイトボードではなく、サトルを上から下まで睨むように眺めてからようやくボードへと目を向けた。

『鬼 頭 先 生 は 出 張 で す』

「はぁ? そういう事ちゃんと言って行けよ。あのクソジジィ」

 金髪の男は乱暴に自分の頭を掻き何度も舌打ちを繰り返した後、ボードを無言のままサトルへと差し出した。動揺を隠せず小さく会釈を繰り返しながらそれを受け取るサトルの様子をじっと見てから、男はようやく口を動かす。

「……あー……あんただろ? アカーシャのヴォーカル。キトウが言ってた」

 サトルはすぐさま頷いて上目でその男の顔をようやく見た。男の表情は未だに険しく、サトルは相手に聞こえないように小さく息を吐いた。

 ――誰もいない保健室で午後はのんびりと過ごすはずだったのに

 一気に重くなってしまった気持ちにサトルは吐き出すかのように呼吸を繰り返した。が、急に自分の視界に男の指輪が見えて、サトルはゆっくりと顔を上げた。

「俺は小浦アラタ。橘大学。お前の先輩」

 不機嫌そうに話される内容を必死に理解しようとサトルは強く頷いた。

「キトウに用あって来たんだけどいねえなら仕方ねえ。お前あいつに言って……いや、伝えといてくれよ。『今日は実家に行ってから帰る』って」

 サトルは瞳を大きく開いたまま強く頷くとそれにようやくアラタが小さく笑った。

「じゃあ頼む」

 そう言うとアラタは保健室のドアをまた乱暴に開けて去って行った。遠ざかっていく足音に相乗して増す安堵感。サトルはほっと一息ついてから白い紙へと頼まれた伝言を書き込み出した。

『実 家 に』『行 っ て か ら』『帰 る』

 ――帰る……?

 ふとサトルの眉間に皺が深く入る。――帰る、とは。キトウ先生の同居人、いや、兄弟、なわけないか、苗字違うし。でも目元怖いっていうのは似てたけど……あまり、関わりあいになりたくない――サトルはそこまで思うとまた顔を歪めて深くため息をついた。面倒になりそうなことには順応した振りしてその場しのぎで意味も無いのに笑って、だからダメだ、と思う。……でも、どう対応すればいいのかわからない。

 強い自己嫌悪にサトルは嫌そうに瞳を閉じた。

 一人きりの保健室は気が楽だと、期待をしていたのとは真逆な己の感情。サトルは壁に設置されている時計を見上げた。まだ学校終了まで時間があって、――落ち着かない。そう思いながら立ち上がる。

 ただ、動悸と眩暈は、いつの間にか止まっていて。

 サトルはゆっくりと自分の肩を撫でた。



 夕方から降り始めた雨は雪へと変わり。

 奥崎は屋上から一面に広がる空を見渡し、時折吹く風にも表情を変えずただ空を見上げて咥えていた煙草を吸った。

 掻き消されていくタバコの煙と違い強く蘇るのは、この屋上でのサトルの顔。あんなに不安げに自分へと抱きついてきていた、きっとあれが最後のシグナルだった。日常の中に救える術は落ちていたのに自分はそれを見落とした。――結果サトルは声を失って、静かに笑う。

 今になって思い出せばおかしい状況だったとこんなにも後悔できるのに、あの時はそう受け取らなかったのも自分で。

「……クソが」

 奥崎は眉を顰め、自分へと小声で言い放つ。抱きつかれた背中の感触さえ肌にまだ残っているのに。

 ――それでも、自分は気付けなかった。

 ふと、頬を伝うものに気付いて奥崎は瞳を大きく見開く。指先で拭い取った涙へと視線を落として、少し笑いながらその場にしゃがみこんだ。

 ――バカすぎて、笑うしかねえ……

 奥崎が吐いた白い息が周囲に漂う。

「声、……聞きてぇな」

 ぼそりと呟いた自分の声に堪え切れなかった涙が、屋上のアスファルトに雪に交じって吸い込まれた。

 ――どうして助けてと言わなかった? そんなに頼りないか。それとも、関係ない、か。

 押さえきれない感情が頭の中で衝動のように愚痴を零し始めて、奥崎は頭を抱えて何度も浅く息を吐いた。

 ――抱きたい、声が聞きたい。……もう誰の手にも傷つけられないようにどこかへと連れ出して自分のものにしてしまいたい、自分のものに。

 ふと、奥崎は己の心の声に目を覚まして顔を上げてから鼻先で笑った。

「……そんなの、ストーカーと変わりねぇな」

 ――歌を。

 歌を歌えと引っ張り込んだ。髪型も服装も変えて、サトルの心にも触れた。それが全ての間違いだったか。お前をどうすれば守れたのか。お前をどうすれば――救えたのか。

『やばいことが起きる予兆を知ってて誰も助けなかったマツの可哀想な結果だ。ちゃんと受け止めろよ』

「ああ、わかってる」

『責められても仕方ねえんじゃねえの?』

「そうだな」

『マツが治る保証がどこにあるんだよ』

『治すこともできねえ癖に適当に喋ってんじゃねえ』

『俺はお前からマツを奪ってやるよ。それがあいつのためだ』

 あの日の雨音と共に耳へと届くシノブの声。

 奥崎は静かに目を伏せて、それからいつの間にか火の消えたタバコへと視線を向けた。

「……マジで奪えるもんなら奪えよ、神崎。マツのためにも」

 奥崎は手にしていたタバコを屋上から投げ捨てる。どこまでも続く白い空と、冷え切った涙。胸元を締め付ける鼓動。

『心臓の音が嫌いなんだ』

 不安げに話すサトルの声。

「ああ、俺もだ。マツ」

 酷く心臓を震わせるかのように鳴る鼓動は抉るほどの揺さぶりで、吐き気を誘う。

 ――今ならこんなにもお前の不安が解るのに。……何もかも遅ぇ

 空から振り続ける雪は風に巻き上げられる。

 奥崎は目を細めて空を漂う雪を見つめた。




 いつの間にか太陽が沈むのが遅くなったのか。

 保健室からは未だ白い空が覗き、降り積もる雪にサトルは目を細めた。時刻は四時過ぎ。アラタに頼まれた伝言をメモした紙を机の上へと置いて、ぼんやりと椅子に座ったままただ、空を眺めた。

 ――今日も、声は出なかった。

 書く事で相手に言葉を伝えて、頷く毎日にも徐々に慣れて毎日が過ぎていくことにあまり焦りはなかった。声が出ない。歌が歌えない。それでもあの時の恐怖に比べたら今は平穏無事で、周囲は自分へと同情を向けても牙を剥けてくることはない。

 でも声が出たら。またああいう目に遭うかもしれない。同じことを繰り返すかもしれない。それに比べたら今の日常は自分にとって優しかった。哀れみでも自分へと優しく対応してくる周囲。傷つけあうことがないなら、願ったりな日々かもしれない。サトルは穏やかな顔でそう思った。

 太陽が沈んでいないのだと思っていた空からは幾億もの雪が降っていた。少しだけサトルは驚いて、またすぐ穏やかな表情に戻る。――一日が終わるだけ。ただそれだけ。

 サトルは椅子から立ち上がると机の上にあった自分のプリント類を纏めて、職員室へと向かおうと歩き出す。と、ドアの擦りガラス越しに見えた人影に気づいて足を止めた。スライド式のドアから現れたのは陽気に笑みを浮かべるシノブで、サトルは笑みを零して小さく手を振った。

「マツ、今日もちゃんとプリントやったか? 今日は俺生徒会ねえから一緒に帰ろうぜ」

 機嫌がいいみたいだ、とサトルはシノブの様子を窺って小さく頷いた。それから職員室のある方向へと指を指してプリントを掲げるとシノブは、ああ、と小声で返答して。

「先生たちなら今日職員会議で誰も職員室にはいねえぞ? なんなら明日俺が担任に渡しておいてやる」

 シノブはそう言うとサトルの手からプリントを勝手に取るとカバンへと入れた。サトルはシノブへと頭を下げて笑うとシノブも笑ってサトルの頭を片手でグシャグシャに撫でた。

「今日の夕飯は俺の記憶からすると肉のはずだ。さっさと寮に戻って食おうぜ」

 自分へと笑顔を向けてくるシノブ。サトルは優しく接してくるシノブの存在が嬉しく思えた。

 帰路へと着くため、ドアへと二人振り返るとそこには奥崎が無表情に立ってこちらへとまっすぐ視線を向けていることに気づいた。サトルは正直驚いて口を少し開き、シノブは笑みを瞬時に真顔へと戻した。

「なんだ、オック。いるなら言ってこいよ。ビックリした」

「ああ」

 いつもと同じ奥崎の口調に、サトルは小さく笑んで奥崎へと笑いかける。けれどその視線を不意に外されてサトルは戸惑い、俯きがちに周囲へと視線を泳がせた。

「お前も帰るのか? じゃあたまに三人で一緒に帰るか?」

 シノブが奥崎へとそう言うと奥崎は首を横に振ってすぐさま二人へと背を向けて歩き出す。

「おい、ちょっと待っ……」

 シノブの声を遮ってサトルの手が背を向ける奥崎の腕を掴んだ。ゆっくりとサトルへと振り向く奥崎。見上げた顔は無表情にサトルを見下ろし、何を話す事もなくただ黙って自分へと向けられる視線。

 耐えられなくなってサトルが目線を下へと落とした。

「……何だよ、オック」

 見兼ねて、ため息混じりに話し出したシノブへ奥崎の視線が向けられ、間を置いてから鼻先で笑う。シノブはその態度にすぐさま不機嫌そうに顔を歪めて奥崎を睨むも、サトルの手前軽く舌打ちをして深くため息を吐いた。


「声は出たのか? サトル」


 冷たい口調で話し出した奥崎の言葉。

 サトルは心臓を掴まれたような気持ちになった。

 顔を歪めて首をゆっくりと何度も横に振った。

「苦しいか?」

 続く質問にサトルは動揺しながら奥崎へと視線を向けるもその視線の先は自分ではなくシノブに向けられたまま。

「それとも、ほっとしてるのか?」

 無意識に生唾をサトルが飲み込んで、即座にシノブの怒声が廊下に響く。

「おい、オック! お前何言ってるのかわかってんのか?!」

「ああ、分かってる。俺のせいでサトルがこうなったのも承知だ。お前に言われた通りな」

 知らない話にサトルは動揺の色を隠せずシノブへと振り向くとシノブは険しい表情でサトルを見る。

 ――どういうこと?

 サトルは奥崎の腕から手を離して、シノブへと無言で疑問を投げかけるとシノブは苛立った様子で奥崎を睨みつけた。

「……マツが声が出ねえのは精神的な問題だ。それに負担かけてお前何してえんだよ、オック」

「負担? ただ聞いただけだ。マツ。今日は神崎に相手してもらえ。……なんならずっと」

 サトルは絶望にも似た気持ちに小さく口を開けたまま奥崎へと顔を向けるも視線すら交わすことができず、酷く不安に駆られた。

 ――オクさん

 サトルは縋る様に再度奥崎へと手を伸ばすも、暗い相手の表情に圧倒されてその手に触れることができなかった。何も掴めなかった手が冷たい空気に放置される。

「神崎がお前に俺はふさわしくないとよ。……俺もそう思う」

「オック!」

 シノブの苛立った大声。

 サトルは頭の奥底から眩暈がしそうになった。

「……じゃあな」

 低く突き刺すような口調。

 離れていく奥崎をサトルはただ涙目で見送るしかできなかった。足元から全てが崩れてしまったような錯覚に立っていられずサトルはその場にしゃがみこんで、自分の傍で声をかけてくるシノブの言葉を遠くに感じていた。触れられて嬉しかった肌が酷く痛くて。

 サトルは瞳が赤くなるまで、音もなく泣いた。


「薬飲め、マツ」

 サトルはシノブの声に強く首を横に振って応えるだけ。日はすでに落ちて再び戻った保健室の中は薄暗く、外の風景は徐々に失われていった。

「……悪かったよ、マツ。俺のせいだな」

 サトルはそれに首を横に振り、頬を伝う涙を何度も拭った。さっきまで声が出なくなって安心していた自分を恥じた。後悔がこんなにも大きく自分へと降りかかってくるなんて。

 シノブがそっとサトルの肩を抱いて自分へと引き寄せる。

「……ただ、前も言ったけど。俺はお前をあいつに渡す気はねえ。お前がオックを好きだとしても。俺はお前が傷つくのをこれ以上見るのが嫌だったんだ」

 サトルは泣きはらした目を開いてシノブへと目を動かす。

「俺ならお前をちゃんと守ってやれる。そう思うしそうする。本当にほっとけねえんだよ、マツ」

 ――神崎

 サトルの口が小さく動いた。

「……あいつはお前を守る気なんてねえ。大事な時になにもしなかったオックが俺は憎い。それは……前に、オックには俺の気持ち伝えてるっつった時に、オックに憎い、認めない、許さない、お前から離れろって言ったこと……話すべきだった。悪かった。俺の気持ちで言ったことだから、お前に聞かせる必要ねえと思った……だから、今お前がこんな形でオックから急に聞いて傷付いたのは、俺のせいだ。けど」

「ちょっとずつでいい、俺はちゃんとお前を守るし大事にするから。もうあいつから目を離せ」

「……俺はやっぱりお前が好きなんだよ、マツ」

「好きで好きで仕方ねえ」

 シノブの両方の手のひらがサトルの顔を掴む。

 それから少し笑って。

「ひっでえ顔。ぶさいくだぜ? カリスマ」

 サトルはまた瞳に溜まっていく涙を流した。

 微かに香る香水。

 もう慣れてしまったシノブの皮肉に笑う笑顔。


『じゃあな』


 耳元に残ってしまった奥崎の冷たい言葉。

 瞬時に瞳が閉じる。


『離れるな』


 でも、同じ程、あの声だって残っている。


 ――傷を。傷を、いつの間にか付けてしまった。じゃなきゃオクさんがあんなこと言うわけない。何かを間違えた。きっとひどく傷つけてしまった。

 サトルはシノブの肩越しに顔を埋めて静かに涙を流した。

 ――歌えなくなって、声が出なくなって周囲が優しくなって。傷つけあうこともなくて。そんな状況になって、もう、声が出ない事で自分が無事ならいいと思った。多分それが間違いで、声が出ない事で得られた環境に甘えて、本当に、本当に自分が嫌いだ。自分の声が出ない事で責任を感じて苦しんでたオクさん、許せないと憎んだ神崎の事も知らないで、勝手に安心してた。

 サトルは自分を優しく抱きしめるシノブへといたたまれない想いでいっぱいになった。

『ごめん』

 唇は無言で謝罪を述べるも相手には伝わらない。正直、どうしていいのかまだサトルにはわからなかった。


 突然ドアの開く音がした。

 シノブとサトルは抱きしめあったまま振り向くと、あからさまに疲れた様子で自分たちを見下ろし呆れたようなため息を吐く保険医キトウの姿。

「なんだってんだ。あの奥崎の次は生徒会か? 松崎、お前モテるのか」

 手には土産の袋。それからビジネス鞄。珍しくもスーツ姿で保健室へと入るとすぐさま椅子へと座ってタバコへと火をつけた。シノブは都合悪そうにゆっくりとサトルから身を引き、サトルもそれへ応じた。

「……ったく。ガキ共、言っとくがここは病人が来るところだ。愛を語り合う場所じゃねえ。……コーヒーでも飲むか?」

「あ、……はぁ」

 曖昧なシノブの返答にキトウは片眉を上げてから席を立ち三人分のコーヒーカップを用意しだした。

 ――帰りづらくなった

 サトルは困惑した表情で椅子へと座ると下唇を小さく噛んだ。隣の席に座ったシノブも同様に自分と同じことを思っているのか、小さく舌打ちが聞こえた。


「……ふぅん」

 他人事のようなキトウの返答。

 白けた空気が保健室に漂った。

 消毒の匂いはタバコにかき消されて、キトウは窓を小さく開く。そこから吹き付けてくる風が思ったよりも冷たくてサトルは鳥肌を立てた。

「それで俺の仕事場でもある保健室で抱き合って愛を語ってやがったってか」

「……それは、すみません」

 暗いシノブの声色に合わせてサトルも小さく頭を下げた。

「ったく、なんでガキはこんなに手がかかるんだろうな。つうか俺の目の届かないところでホモってろ」

 サトルは正直キトウの口から出された言葉に軽くショックを受けて顔を赤らめた。シノブは気に入らない様子でキトウへときつい表情を向けるもすぐ視線を逸らして隣にいるサトルの様子を窺った。

「別に元々俺もマツもホモじゃね……ホモじゃないです」

 咳払いをしてからシノブがキトウ相手に敬語で言い直すとキトウは小さく笑って。

「たまたま好きになったのが男でしたってヤツか。お前らも大変だな。まぁ愛情だか単なる情だかは知らねえが存分に悩むことだな。三角関係ほど面倒くせえものはねえぞ」

 口を大きく開けて笑うキトウを、シノブは怒り心頭に見つめるも数回舌打ちを繰り返して気持ちを落ち着かせた。

「まぁ、好きになっちまったんなら全部が全部楽しい幸せとは限らねえさ。それは相手が男だろうと女だろうとな」

 キトウはそう言うとコーヒーを一口飲んだ。

「へぇ、先生も恋愛とかすんだ」

「うるせぇな。生徒会の連中っつうのはなんでこんなに一癖ある連中ばかりなんだろうな、好かねえ」

「……はぁ、すいません」

 サトルは二人の会話に時折動揺しながら様子を窺っていたが、ふと伝言のことを思い出した。

『先生』

 サトルの口が小さく動いてキトウがそれへと気づいた。

「なんだ? アカーシャ」

 サトルは机の上のメモを手に取るとキトウへと差し出す。キトウはそれを手に取って目を細めて読むとふぅん、と小さく鼻先を鳴らしてゴミ箱へと捨てた。

 ――アラタさんはキトウさんの弟さんかな

 本当は聞きたいことがあったがサトルは深く詮索する気になれず止めた。

「無視されたら落ち込んで泣く、傍に来てくれたら嬉しそうに笑う。松崎、お前本当に犬だな」

「マツが犬って……人間を動物に喩えて話すのは失礼だと思いますけど」

 シノブは自分が日頃言われていることも含めてキトウへと反論する。が、キトウはそれを聞き流してサトルをじっと見たまま。

「いや、小動物か? なんとなく。よくそれでヴォーカルやってたな。人は見かけによらねえな、やっぱ」

 ギシ、とキトウの椅子が軋んだ音を鳴らす。

 サトルは困ったようにまた笑って、それから机へと視線を落とした。キトウはその様子を黙って見つめ、横にいるシノブへと視線を移す。

「奥崎じゃねえが。……声は出そうにないのか?」

「先生」

 キトウの問いを諌めるかのようにシノブが止めようとするもキトウは完全にシノブから視線を逸らしてまっすぐサトルへと目を向けた。サトルはその視線に気づいて顔を上げるもまた俯き、ゆっくりと首を横に振った。

「病院からもらった手紙は読んだが、精神的な要因がでかい、そうだよな?」

 サトルが静かに頷く。

「……声が出なくなってよかった、とか思ってるか?」

 ドク、と心臓が強く嫌な音を立てた。

「おい、いくら先生だからってそれは失礼じゃねえの?!」

 隣にいたシノブが瞬時に立ち上がり怒りを露わにする。

 が、サトルの手がシノブの腕を掴んでそれを止めた。

 シノブは困惑した表情になりながらもサトルへと顔を向けて心配そうに見つめる。サトルは小さく笑って首を横に振り、机に置いてあったペンを持って紙へと字を書いていく。


『声が出なくなって安心しました』


 白い紙に書かれたその言葉。

 だろうな、とキトウは小さく言ってタバコへと火を点す。隣からシノブの動揺を感じ、サトルは震える唇を動かしてシノブへと顔を上げる。

『 ご め ん 』

 シノブは呆然としたまま黙ってサトルを見つめた。

「自分の気持ちだけ走らせるなよ、糞ガキ。恋愛してるならちゃんと相手の気持ちも聞いとけ」

 落ち着いたキトウの言葉。サトルは観念したかのように真面目な表情でシノブを見つめた。それから再度ペンを走らせて、思っていたことを書いていく。

 保健室に漂うキトウのタバコの煙。


 心臓がまた鼓動を鳴らし出した気がした。

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