第17話 愛憎の制御
久しぶりに見る、第一寮門前。
サトルは黒い鞄ひとつ手に持ってその場に立ち尽くしたまま空を見上げた。今日の空はどこまでも広がる白雲。
――雪でも、降るのかな
そう思いながら手にしていた荷物を持ち直して門を潜った。少し重い扉を開けると鼻先を嗅ぎ慣れた懐かしい空気が過ぎる。いつもながら無造作に、玄関の傍らには並べられていない靴の山。ほとんどは運動部の生徒たちのものだ。
『ただいま』
サトルは胸の深くから来る安堵感に小さく口を開いて音のない挨拶をする。荷物を玄関横へと置いて自分の靴を閑散とした靴箱へと入れ、体を起こして玄関正面の階段へとふと目をやると。
「お帰り、マツ」
シノブがいつもと同じ嫌味を含んだような笑みを浮かべてこちらへと降りてきた。サトルは自分へと近づいてくるシノブへと会釈して荷物へと手を伸ばすと自分よりも先にシノブが荷物を軽々と持ち上げて見せた。
「怪我、まだ完治してねえだろ。少しは頼れよ」
何気ないようなシノブの口調。
サトルは少し照れたように頷いて、階段を上がっていくシノブの後ろをついて歩き出した。二階の階段へと上がると廊下で談笑していた数名の生徒たちがこちらへと気付き、驚いたような表情で見つめてきてからすぐに笑顔を見せて。
「松崎ーお帰りー」
「ムリすんなやー」
明るいみんなの声にサトルは一層顔を赤らめて何度も頭を下げながら自室へと向かって歩いた。
そんなサトルの様子にシノブはまた笑って。
少しだけ歩行を速めた。
「学校のみんなも心配したんだぜ? カリスマが入院したって」
シノブの話にサトルはきょとんとしながらも未だ照れた顔を一層赤くして深く頭を下げた。
「ほら、入れ。ちゃんと部屋の中は清潔を保っておいた。ゆっくりしようや」
シノブはドアを開けて、サトルへと中へ入るように顎で示す。サトルは小さく頷いて、開けられた部屋の中へと入る。
『懐かしい』
唇が勝手に動く。
サトルは部屋に入るなり首へと巻いていたマフラーを解きながら部屋の様子を見渡した。何気ないサトルの仕草。シノブはそんなサトルを見つめながら手にしていた荷物をドア越しに置いて。
痛々しく映るサトルの包帯へと目を留めた。
病室で急に解き始めた包帯の音。
必死な、焦った表情で自分の声を取り戻そうとした。
シノブは目を細めて、サトルから目を逸らした。
「なんか飲むか? 飲むなら買ってきてやるけど」
シノブの声にサトルは首を横に振って安堵した表情で床へと座り込んだ。
「疲れたか?」
頷くサトル。
「……そっか」
シノブはそう言うと自分の勉強机へと向かって歩き、引き出しから一枚の白い紙を取り出した。その紙をテーブルへと出し、サトルにペンを渡す。
「少し、話でもするか?」
シノブの屈託ない笑み。
サトルは嬉しそうに笑って優しげに頷く。
――今までより随分素直に見える
――オックと会ったから、かよ
シノブはサトルの笑みへと笑い返して。
胸の奥に溢れてくる深く嫌な感情を押し殺した。
「旅行、どうだった? 楽しかったか?」
シノブの問いに不思議とサトルの顔が赤くなるもペンがゆっくりと紙の上で動き出す。
『楽 し か っ た』
「そっか。良かったな。前より顔色もいいしな」
シノブの手がサトルの前髪を優しく梳く。
それへと反発するわけもなく嬉しそうに笑うサトル。
また、ペンが動く。
『神 崎 は 生 徒 会 大 丈 夫 ? 忙 し い ?』
「ああ、めちゃ忙しくてこの前レン先輩と大喧嘩。今は休養中」
シノブの声にサトルは驚いて口を小さく開けた。
『大 丈 夫 な の か ?』
「大したことじゃねえよ。大丈夫だ。つうかお前、字結構綺麗なんだな」
サトルはシノブの声に首を傾げて見つめるとシノブは強く頷いて。
「ああ、本当。いいんじゃね? 字はその人の知能指数を示すっつうんだから。お前頭悪くねえんだな、案外」
意地悪そうな口調にサトルは眉間に皺を寄せるもすぐに笑って。
――あ
――やっぱり好き
シノブは自分へと笑いかけてくるサトルの腕を取って自分へと引き寄せると胸元で優しく抱きしめる。硬直しているサトルの様子が全身から伝わってきた。シノブは小さくその様に笑って。
「すげえ、会いたかった。……って会いに行ってたけどな」
戸惑うような、躊躇しているようなサトルの困った反応。
シノブは少し笑って身を少し相手から離す。
「やっぱジュースでも買ってくるわ。喉渇いた。お前、楽な格好に着替えとけよ」
シノブはそう言ってドアへと歩いた。
今、マツはどんな顔してる?
嫌悪に満ちた嫌な顔か
それとも困ったような顔か
どっちにしても
確認する度胸も、ねえ
シノブは振り返りもせず、部屋を後にした。
腕に伝わる以前よりか細くなったサトルの細い肢体。
嬉しさと、苦しさが入り混じる。
シノブは小さく鼻先で自嘲して、廊下を歩き出した。冷え切った廊下を歩いて駆け足で階段を下って左。進んでいくと食堂と談話室、その側に自動販売機がある。シノブはゆったりとした、それでいて落ち込んだような表情で談話室へと入った。
――すぐに戻る気には、なれねえ
自分から奥崎へと啖呵を切ったのに相手の自信に揺さぶられて。
気持ちのどこかがもう萎んで、弱気になってしまった。
『取れるもんなら取ってみろ』
「……大した自信、だっつう……」
疲れきった掠れた声で言いながらシノブは中央のソファへとだるそうに座った。深々と体がソファへと沈んで、無意識に目が閉じる。何も映し出さないテレビに情けない姿に見える自分の体。シノブは自嘲して鼻先で笑い飛ばした。
「俺も大した事ねえのな、こんなにあいつに渡すの嫌なのに」
――敵わないと思うなんて。
そんなことよりも脳裏に浮かぶのは血塗れ状態で見つけ出した時のサトルの姿。
痛々しいその状態に本当は目を背けたかった。
もう、死んでしまったのではないかとさえ思って。
胸苦しさが吐き気に変わるのは早かった。
救急車が来るまで。
その場で心配そうにサトルを見つめる全員が憎く思えた。
状況を把握していてなんで動かなかった。
どうしてこんな酷い状況になった。
血を流してぐったりと倒れているのはマツで
なんでお前らじゃねえんだよ
なにがバンドだ
なにが仲間だ
ただサトルの歌が必要だったからじゃねえのか
ただそれだけ
だから
サトルが声を失ったんだ
お前らの
お前らのせいで
恨みつらみが脳裏にいくつも浮かび上がって、シノブは上体を少し前へと起こすと機嫌悪そうに頭を手で何度も掻きまわした。
「オックじゃなきゃだめなのか? マツ……俺ならちゃんとお前の事守ってやれるのに」
掠れた声でシノブが呟く。
「なんからしくないね、神崎ゴリラ君」
怒りが瞬時に湧いて、シノブはすぐさま声のした後方へと振り向いた。
談話室入り口のドアに寄りかかって、いつもながらの暴力的な顔面偏差値で笑顔を振りまいているのは、風紀委員長ミナミだった。ミナミは広く首元の開いたTシャツに黒いジャケットを羽織り、珍しくジーンズを穿いていた。少し長くなった髪は後ろに結わえていて。笑みを保ったままシノブの向かい側のソファへと移動して優雅に座ってみせる。その正面でシノブはただ黙ってミナミを睨みつけたまま。そんなシノブの様子にミナミはきょとんと目を大きく見開いて、シノブへと顔を近づけ。
「どうしたの? そんなに眉間に皺作って。年取ったら絶対そこに線ができちゃうよ?」
「……うっせえな、ミナミ」
ドスの利いた声がシノブの口から発されてミナミは一瞬驚くもすぐさま大きな声で笑い出した。
「そんなに怒らないでよ、嫌だな。なんか悩んでるみたいだったから相談に乗ってあげようと思ったのに」
「お前と喋る口はねえ」
「別にゴリラ語で話して? なんて言ってないから。本当、強情だね」
「なにがゴリラ語だぁ? 俺がウッホとか言えばお前嬉しいのかよ。マジ気に入らねえヤツだな。この変わり者」
「久しぶりにあったと思ったら、すぐまたそういう喧嘩を売ってくるんだから。俺が変わり者で君がゴリラでも別に構わないけどあんまり怒らないでよ、ね? 俺は仲良くやっていきたいタイプなんだから」
「……俺はまずゴリラを承諾した覚えがねえんだよ。仲良くやっていきたいのに仲良くなれないのはな、俺とお前の相性が最悪だからだ」
「相性? なに? そんなの調べたの?」
シノブの言葉にミナミは驚いたような顔をしてじっとシノブの目を見つめた。カッと顔を赤くしてシノブは怒りを顕わにするもすぐにため息をついて。
「……バカくせ。お前と話すような気分じゃねえんだよ」
「マツ君のこと?」
思わぬ図星にシノブの表情が固まる。
――なんで知ってる?
不思議そうにシノブは真っ直ぐにミナミへと顔を上げた。
ミナミは普段と変わらぬ笑みを浮かべたままシノブの顔を見て。
「俺は風紀委員長だよ? 知らないわけないじゃないか。友人が声が出なくなってどうしていいのかわからない」
「そ、……そうだな。……まぁな」
――そっちのことか
ミナミの言葉に安堵感が走った。
「それからマツ君が好きなのに一歩先へと踏み込めない」
シノブは瞬時ミナミから目を逸らして、眼球を泳がせた。全身から安堵はすぐさま消え失せ、汗がじっとりと肌に纏わりついた。
「マツ君が好きなのは別の人で、その人には渡したくない。自分の側に置きたい。でも、どうしていいのかわからない」
「だったらなんだよ」
言葉を並べ立てられている内にシノブは目を大きく見開いてミナミを睨みつけながら顔をゆっくりと上げた。
微かに震える指先。
――自分がこんなにも動揺しているのに。
ミナミは涼しげにシノブの様子を見つめていた。
「ああ、解らねえ。マツが大事でもマツが望んでいるのは俺じゃねえ。それが苦しいと思って何が悪いんだよ!」
シノブは立ち上がってソファへと座ったまま微かに笑みを湛えるミナミへと怒声を吐き散らかした。
上がる息が五月蝿くて。
シノブは何度も唾を飲み込んだ。
ミナミは黙ったまま、その様子を見て。
それから足を組み直した。
「……いいんじゃない? 別に」
「……は?」
思わぬ相手の言葉にシノブは呆気に取られて今度は全身から力が一気に抜けた気がした。
――何が言いたい?
シノブは険しい表情のままゆっくりと瞬きをするミナミを見下ろした。
「だから、いいんじゃない? 神崎が好きなら仕方ないんじゃないの?」
「……は」
「あは、だから好きになっちゃったのは仕方ないと思うよ。今苦しいなら多分、苦しむべきことなんじゃないのかな? 恋愛の全てが楽しくて幸せだなんてことは絶対にないと思うしね。自分が気持ちを曲げるタイミングも真っ直ぐに突き進んでいく姿勢も決めるのは全部神崎自身でしょ? なら、苦しくてもただ、頑張るしかないと思うけど」
シノブは初めてあまりにもマトモに見えたミナミの姿に正直驚いて何度か瞬きを繰り返した。
「……お前」
「ん? 何?」
「なんか、気持ち悪ぃ……」
「それはこっちの台詞だな。いつものゴリラじゃないね、神崎。今の君は人間過ぎて面白味に欠ける」
そう言うとミナミはゆったりとした仕草で髪の毛を解くとソファから立ち上がった。
「早く、いつものゴリラ君に戻ってね。張り合いがないから」
「……うるせえよ、バカ」
シノブの照れたような口調にミナミは少し笑ってそれから談話室の出入り口へと向かった。あ、とシノブの口から声が漏れる。
「おい、ミナミ」
「ん? 何?」
「お前、好きなヤツでもいるのかよ?」
素朴な、思い浮かんだ問いをシノブはミナミへと投げかけるとミナミは少し振り返って小さく笑み。
「秘密」
と、極上の低い美声で一言言ってから静かにドアから出て行った。一人残された談話室はあまりにも広すぎて寒気がするほど冷え切っていた。
「あいつなんで……こんなことまで知ってんだ」
疑問だらけで頭の中がぐちゃぐちゃで。
――けど。
シノブは久しぶりに自然と笑みを浮かべた。
「ゴリラは承諾しねえけどな」
そう言って。
息を吐く。
急に脳裏に浮かんだホモを取締るだのいう台詞。
シノブは目を見開いたまま、ミナミの出て行ったドアへと振り返って、活動実態の分からない風紀委員への嫌な予感に頭を抱えたくなった。
手の奥へとじんわりと染みこんでくる様な熱を感じながらシノブは自動販売機で買ったコーヒー缶ふたつを手に階段を上がった。ミナミの話してきた言葉が嫌に余韻を残して頭へと響く。
「好きなら頑張るしか、ねえのはわかってるっつうの」
ずっと苛つく場所にいるミナミからの言葉。なのに、何かに殴られたように、やけに頭の奥を冴えさせた気がして。
シノブは含み笑いを浮かべながら階段を上った。
二階の廊下へと出て自室へと足を向けるとドアが勢いよく開くのが見えて。
シノブは驚いて立ち止まった。
廊下へと差す光が緩く影を差す。
音のしない風が外では吹き付けているようだ。
もう葉のついていない枝が揺れている。
誰もいない廊下にサトルは不安げな表情で飛び出してきた。
「……マツ?」
小さく呟いてからシノブは廊下へと出てきたサトルへと缶コーヒーを掲げて手を上げる。
「おーい、マツ? どした?」
廊下へと響くシノブの掠れ声。
サトルはシノブへと振り返って。
一層不安げな表情を浮かべながらシノブの姿を捉えて。
走って。
走って。
シノブの胸元へと勢いよく抱きついた。
こちらへと向かってきていたサトルの影がシノブの目からはスローモーションのように映って。
今は重なってぼやけた影を白い壁に映し出していた。
胸をつくようなサトルの泣きそうな顔。
シノブは瞬きも忘れてサトルを片腕で優しく抱きしめた。
「どした? こんな季節にゴキブリでも出たか?」
陽気な口調を保ってシノブがサトルの頭を子供をあやす様に撫でた。シノブの胸元に抱きついたまま俯くサトルはゆっくりと首を横に振った。それから少し赤らんだ表情でシノブを見上げて。
『ごめん』
唇がそう動いたように見えて、シノブは小さく笑った。
「なぁんだ? どうしたんだよ、マツ。なに謝ってんだ?」
シノブの言葉にサトルはようやくシノブから体を離して瞬時に顔を一層赤くした。それから取り繕うように頭を掻いて、横目でシノブの様子を窺うように見たり、逸らしたりを繰り返した。
「自分から抱きついておいて今更照れるなっつうの。ほら、お前の分も買って来たから部屋で飲もうぜ」
自室へと入って。
掴まれた腕は痛みはなかったけれど自分の思うようには動かなくて。
壁へと全身を押さえつけられて。
シノブの唇がサトルの唇へと奪うように重なった。動くことも出来ず、サトルは硬く目を瞑って、シノブの口付けの合間に何度か呼吸を繰り返した。
「……邪魔、入って言えなかったけど」
ようやく離された口元が解放されてサトルは目を見開いたまま俯くシノブを見つめた。
「オックにはもう俺の気持ちも全部伝えてる。もう遠慮はしねえ。お前と、お前が好きなオックが一緒にいられる幸せを一番にと思ったが……それももう任せられねえんだよ。俺だったらお前をちゃんと守っていく。守る自信がある。……お前がオックを好きなのも重々承知だ。それでも、俺はお前から身を引く気はねえ。お前が好きだ、マツ。もう、お前を放っておきたくねえ」
真剣に強い口調で言い放つシノブ。無理な口付けの後に続けられた言葉をサトルは初め怯えるような目で見つめていたが、掴まれた腕から伝わってくるシノブの手は。
――……震えてる
サトルはシノブへと顔を見上げた。
『神崎』
唇が微かに動くが、シノブは気付いていない。
「そういう訳だから、覚えとけよ。俺は俺でお前が好きだから好き勝手やらせて貰う。いいな」
そう言って、サトルの腕からシノブの手が離される。と同時にサトルの手がシノブの離れていく手を捉えて、シノブが少々驚いたように瞬きをした。
「……なんだよ」
『わからない』
「だからって俺に遠慮すんなよ? マツ」
『……俺は』
サトルは口を動かすも、伝わらない事に瞬時に苛立ちが募ってシノブの手を繋いだままテーブルへとシノブごと引っ張って座り、白い紙へとペンを速く走らせた。
神 崎 の 事 大 事 だ よ
乱雑に書かれた文字。
それでもサトルの表情は真剣そのもので。
シノブは急にこの状況が可笑しく感じた。
――いや、
――幸せ、なのか
シノブは喉元で笑い出して。
サトルはその様子に困ったように表情を歪めた。
『ごめん』
何度かサトルの唇が謝罪の言葉を作ったのをシノブは見て、また笑って。
「ホント、お前ってさぁ、なんつうか、好きなんだよな、俺」
予想もしていなかったシノブの言葉にサトルは顔を赤らめてまた俯いて。そんな様子にシノブはサトルの頭へと掌を乗せた。
「今はそれだけで俺は充分だな。俺もお前が大事だ」
シノブの優しげに話される言葉。
サトルは息をついて、それから嬉しそうに笑んだ。
「ん? そういえばさっきなんかあったのかよ? 泣きそうな顔で廊下に出てきやがって。なんか不安か?」
ふと思い出したさっきの状況にシノブはサトルへと問いかけるとサトルは口を小さく開いて。困ったように顔を歪めるとペンを持ち、紙へと文字を並べていく。
部 屋 に 一 人 で い る の が 急 に 怖 く な っ て
神 崎 が 帰 っ て こ な い よ う な 気 が し た か ら
シノブはサトルの書いた紙を自分へと引き寄せて眼で読むとサトルを横目で見つめて。
「俺が帰ってこないって……この寮で俺が迷子になるとでも思ってんのか?」
冷たい口調でサトルを責める様に話し出すシノブ。サトルは動揺しながら首を必死に横に振る。そんな様子にシノブはまた笑って。冗談冗談、と繰り返した。
「一人にしねえよ。不安になったら安心ぐらいは俺にでも与えられるだろ? ちゃんと伝えて来い。な?」
シノブの言葉。
サトルは瞳へと徐々に溜まっていく涙を懸命に耐えるも一筋、流れ落ちた。
「もう、あんなことは起きねえよ。そう気持ちも体も理解するまで時間かかるだろうけど大丈夫。お前は大丈夫だ。耳まで聞こえなくならなくて良かったろ?」
わざと茶化す様にシノブは話す。
サトルは顔を両手で覆ったまま泣いて。
シノブは愛しそうにサトルの背中をゆっくりと撫でた。心に溜まった黒く、深いものを背中から押し出してやれるように。そう、シノブは思った。
新学期初め。
三学期始業式は雪が降った。
その頃には寮内もいつもの活気に満ち溢れていた。実家から帰ってきて手土産を配って歩く生徒も見かけられた。
サトルは一人、自室で制服に身を包んで。
久しぶりにネクタイを締めた。
まだ、首筋に残る青い痣が包帯からちらついて見え、鏡から視線を逸らした。シノブはもう生徒会の用事で学校へと出ていてぽつんと一人いる自室には何も音が響いてこない。――多分、寮内にはもう生徒は居ない。サトルは面倒くさそうに壁に立てかけていた鞄を手にした。少し冷えた部屋の空気に肩を竦めて、サトルはコートをクローゼットから出すと着込んだ。
――未だに声は出る気配も無く。
学校へと登校するのが正直億劫でしかないサトルの表情は暗かった。
多分。あの一件は学校中で話題になっただろう。そういう話題にはすぐに根も葉もない噂がついてくるもので、しかもそれを否定するための言葉を今の自分は持たない。
もしクラスに入って質問攻めにでもあったら。……それで声が出なかったら、どうなるだろう。誰もが同情の目で自分を見るかもしれない。いや、嘲笑うものも中にはいるかもしれない。いい気味だ、と罵るヤツも出てくるかもしれない。もしかしたら。……もしかしたら。
サトルはドアノブに手を掛けたまま。
立ち尽くしてゆっくりと俯いた。
――気持ち悪い
込み上げてくる吐き気に口を掌で覆う。
どうやって説明すればいい?
知人にアパートへ監禁されて暴力を振るわれたと?
いやそういう事じゃない気がする
みんなが知りたいのはもっと濃い情報な気がする
ストーカーがどういうものだったのか
どう殴られてどう倒されたのか
声が出ないのはどんなものか
きっと、中には俺を分析し出す奴も出てくるだろう
『多分、殴られた反動で声帯に傷がついたのかもしれない』
『治療で誤って傷がついたからじゃねえのか』
『歌えないって、辛いよな』
見もしない生徒たちの同情を帯びた笑顔。
または悪意。知り合いから受ける悪意の怖さ。
他人が勝手に自分を判断する感情の怖さ。
それはもう。まだ痣となって身にしみている。
聞いてもいないはずの耳に響く生徒たちの声。
サトルはゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
――やばい
――怖い
額からじっとりと汗を掻いて。
サトルが瞳をきつく閉じると涙が頬を伝って落ちた。
――ダサい
――苦しい
耳の奥で生徒たちの声が止まず、サトルがドアノブから手を滑り落とすと、ドアノブが急に回り始めてサトルは自分の目を疑った。開かれたドアからひゅ、と冷たい風が部屋へと流れ込んで。サトルは目を見開いたままゆっくりと視線を上へと向けた。
「寝坊した」
芯から眠そうな奥崎の姿。崩して適当に身に付けた奥崎の制服姿にサトルは懐かしさを感じ、口が小さく開く。
『あ』
「……相変わらず顔色最悪だな、お前」
自分へと差し出される大きな手。サトルはその手へと自分の掌を重ねて、ゆっくりと立ち上がった。
「で、どーする? サボる? それとも学校、行くか?」
奥崎がドアへと寄りかかった姿勢のままサトルへと目を向けた。サトルは何度か呼吸を繰り返してからようやく口を開いて。
『……学校、行く』
「はいはい。俺はサボりてぇけどな。……ダリぃし」
サトルの重なった手を奥崎は握ると廊下へと引き寄せて。
「んじゃ行くか。お前は今日から保健室だとよ」
サトルは知らない内容に目を大きくして奥崎の手を軽く自分へと引っ張る。奥崎はそんなサトルの様子に少し笑って。
「事情が事情だからお前は暫く保健室で個別授業だそうだ。昨日神崎から言われた」
――神崎が
サトルは急に奥崎に後ろめたさを感じて。
繋いでいた手から力を抜いた。
奥崎は気にした様子もなく再度手を引いて、歩き出す。
自分へと真剣に気持ちをぶつけてくるシノブの事。
『お前は大丈夫だ』
きっと自分は酷い人間だ。
サトルはそう思った。
こんなにも奥崎と一緒にいると鼓動が高鳴って。一緒に触れていられるこの手が幸せを感じてしまっている。それでも、気遣ってくれる神崎の言葉に嬉しいと、思う。
――結局、自分さえ良ければいいと思っているんだ
サトルは目を細めて廊下の窓から見える雪を目で追った。
自分の手を引いてくれる奥崎の背中。
直視することができなかった。
道路脇には雪が数センチメートル降り積もって。
いつもは駆け抜けていく自動車もゆったりと道を進んでいた。
学校へと着くとすでに静寂としていた。人の気配を校舎からは一向に感じることができなくてサトルは少々不安になった。それとは反対に奥崎は気にもせず大きな欠伸をして。正面玄関で靴を履き替えると真っ直ぐ保健室へと向かって歩き出した。
保健室は職員棟一階奥。生徒指導室や事務室の向かい辺りだ。その廊下もしんと静まり返ったまま。サトルはあちこちへと視線を向けながら奥崎の後を付いていく。
「多分、……みんな始業式だろ。そんなに不安になるなって」
小さく奥崎が笑って後ろを歩くサトルの手を取ると少しスピードを上げて歩き出す。変に響いて聞こえる自分たちの足音が派手に耳について、サトルは誰かに気付かれないか、ただそれだけが不安だった。
進んでいくと、鼻先を消毒の匂いが掠めた。
見上げると表記には黒字で保健室の文字。
サトルは廊下の後方へと振り向いて。
来た道をじっと見つめた。
「入って待ってろよ」
奥崎が保健室前の廊下でサトルへと話しかける。サトルは一層不安げに口を小さく開いて目が奥崎の顔を捉えた。
「すっかり弱気だな、ったく……」
呆れたように奥崎は鼻先で笑うと迷い無く、保健室のドアを引いた。ギィ、と錆びた音を立ててドアは開くと中には誰も居らず。サトルは中を必死に目を凝らして見つめるも保健医の姿は見当たらなかった。
「よかったじゃん。誰もいねえ」
奥崎はそう言うと先に保健室の中へと入る。
保健室に入ってすぐ、壁側には簡易キッチン。
それから白い棚には本、それと薬棚。
キッチン前には保険医の机。
横には銀の容器に張られた水。
清潔な白いタオルが掛けられている。
そしてその反対側にはベッドが二つ設置されて。
シーツの皺がなく、きっちりと敷かれている。
初めて入った保健室にサトルは周囲を見渡して深く息を吐いた。嗅ぎなれない消毒の匂いが体に纏わりついて、ここにこれから毎日通うことになる、そんな想像がつかなかった。
急にベッドの軋む音にサトルはすぐさま反応してベッドへと目を向けると奥崎が靴を脱いで寝ようとしていた。サトルは慌てた様子で奥崎へと駆け寄りすでに布団を被っている奥崎の体を軽く何度か叩いた。
「あ? 大丈夫だって。お前も寝る?」
そう言って奥崎は布団を腕で押し上げてサトルへと勧めるもサトルは顔を赤くして首を強く横に振った。
「……んな拒否すんなよ」
奥崎はそう言うと上体を起こしてサトルの腕を掴むと強引にベッドへと押し倒した。サトルはすでに背中に汗をかいて。マトモに奥崎の顔を見られず視線を泳がせた。
「顔色、良くなったんじゃね?」
からかう様な奥崎の笑みが保健室に聞こえる。
サトルはようやく奥崎の瞳へと視線を向けるとすぐ。
唇を重ねられて、同時に体が反応して背筋を反らした。
いつの間にか両腕は優しく繋ぎとめられて。
丁度、チャイムが鳴った。
――先生が、来るかも
サトルは不安な要素に気が気ではなく奥崎の手からどうにか逃れようとするも奥崎の力は増して、サトルを押さえつけた。
「……うちの別荘以来だな。お前とこうするの」
奥崎の低い声が鼓膜を刺激してサトルは強く目を瞑った。
「あん時もお前震えてたし。……そういうの好きだからいいけどな」
水音を立ててサトルの耳を奥崎が舌で舐め上げる。
瞬時荒くなったサトルの呼吸。
奥崎は愛しそうにサトルの顔へと指先を落として触れた。
「……緊張、してんだな」
そう言って笑う奥崎へとサトルは悔しさが込み上げて上目で睨みつける。
「愛してる」
動揺も無く奥崎はそう言うとまたサトルの口へと自分の口を重ねて。サトルは目を瞑ると酷い眩暈に襲われた。汗ばんでしまった体は恍惚として逆らう力が抜けてしまう。奥崎の抱擁に、安心するのだ。
チュ、と強く水音が保健室に響く。
「……っ」
サトルが顔を歪めて口をゆっくりと閉じた。奥崎はサトルの口元を指先でなぞりながら目を閉じて荒くも吐息を吐き続けるサトルを、笑みを浮かべて眺め。
「ここで、するか? サトル」
サトルは奥崎の言葉にゆっくりと目を開けて、また首を横に振って。でもその拒否は先程よりも明らかに迷いのあるもので、奥崎はサトルの首筋へと顔を埋める。
「……抱きてぇな」
酷く奥崎の声が体に響いて。
サトルは困ったように、顔を歪めた。
と。
けたたましく保健室入り口のドアが乱暴に開く音がして奥崎の腕の力が瞬時弱まり、サトルがベッドから起き上がった。いつの間にか乱れてしまった制服を直しながら恐る恐るドアへと目をやる。そこには白衣姿の保健医、キトウが険しい表情でこちらへと睨みを利かせていた。
「……ラブホじゃねえぞ。ガキ共」
キトウはそう言って保健室の机へと向かって歩き、未だにベッドの中にいる奥崎へと視線を逸らさず見つめた。
「おめえもだよ。ここは仮眠室でもねえ」
その声にベッドの中から舌打ちが聞こえて奥崎がダルそうにベッドから這い出て乱暴に靴を履いた。
サトルは居場所が見つけられなくてベッド側で立ち竦んだままだったがキトウがサトルへと手招きした。
「で、お前がアカーシャのヴォーカルで、えーっと……松崎、悟で、いいんだよな」
『あ、は……』
返事をしようとしたが声が出ないことにサトルは口を閉ざして代わりに頷いて。
「こっち来い。当分はここで学校生活送るからな、お前」
キトウの言葉にサトルは納得を示してまた頷いている横を奥崎が通り過ぎてドアへと早々に向かう。サトルはドアから出て行こうとする奥崎へとすぐに顔を向け、酷く頼りない視線で見つめた。横目にその様子を確認した奥崎はサトルへと振り返って。
「帰り、迎えに来る」
そう言い残すと保健室から去って行った。
残されたサトルの指先が意味も無く動く。
キトウのため息。
サトルはキトウへと目を向けると自分へと奇異な瞳で見つめてくる保健医の目つきに心臓が嫌な音を立てた。
「ま、できてんのかと思ってたがな。……学校内では止めとけよ。ろくな事ねえぞ」
サトルは苦笑いを浮かべながら小さく頷いて、用意された席へと浅く座った。
ライターの付く音。
煙草の煙が開かれた窓からゆったりと逃げて。
代わりのように窓から小さな雪が保健室へと入り込んだ。
「あ、煙草の匂い苦手か? それとも寒いか?」
キトウがサトルの様子に気付いて話しかけるもサトルはすぐさま首を横に振った。
静かな保健室。
消毒くさい中、漂う煙草の煙。
それでも朝の不安を掻き消された気がした。
まだ残っている奥崎の感触。
火照った肌を冷たい風が拭うように吹き付けた。
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