第2部

代償

第15話 雨音

 ひどく濡れた雨音と、錆び付いた様なコンクリートの匂いが充満していたと思う。


 体中全てが心臓のように熱を増して鼓動を打ちつけてただ耳元に届いたのは、全ての雨音を消し去るようなオクさんの音。きっと腫れ上がってしまった自分の、血生臭い体を抱きしめていたオクさんの肌が異様に温かくて。酷いくらいの安心感に眠りがそこまで来ていた。

「悪かった……」

 その人の声色が震えている気がして

 どうしてか、わからなかった

「オク、今救急車来るぞ」

 遠くから聞こえた神崎の声。

 来て、くれたんだ。

 周囲の人間が霞んで見えたけど、知っている匂いに深く呼吸が吸えたからよかった。心臓の奥底に黒く残った絶望感は未だに燻っていたけれど、握られた手の感触に嬉しくて、かっこ悪かったけれど涙が出た気がした。

「松崎先輩……」

 涙声のキョウイチ君の声とそれから

「もう大丈夫だから」

 いつも優しいタキ先輩の声。オクさんの肩越しに見えるのは多分レンさんと、ヒサシさんで。


 ――助かった

 それが夢でも構わない

 ――俺は助かりたかった


「……この、バカが」


 オクさん

 オクさんの声

 遠くから聞こえてくるサイレン

 雨音

 ――目が

 開けていたい、のに

 勝手に閉じてしまうんだ

 オクさん

 ようやく、会えた

 会いたかったんだ

 すごくあんたに会いたかった

 なのに

 俺はなんで眠くなってしまうんだろう


「……守っ、てやれな……」


 熱いモノが俺の頬を伝って落ちた

 会えたのに

 オクさん

 あんたに会えたのに

 俺はちょっとどうかしてしまったんだろう

 こんなに会えて嬉しいのに

 目が開けられないなんて

 オクさん

 オクさん、ごめん

 でも

 オクさん

 どうしてあんたは泣いてるの

 あんたが


 泣いてる気が

 する


 ごめん


 ごめんな


――泣かないで





 一滴の点滴が音もなく落ちて、液体に薄い波紋を作る。

 外はあれからずっと雨降りで病室の窓を緩く水が流れていく。固く閉ざされた瞳を長い睫毛が縁取って、白い肌に赤黒い痣が、包帯越しにも見える。

「……あれから三日だっつうのに。目、覚めねえのな」

 落胆したシノブの声。虚しくも返答はない。落とした視界に入った点滴の管から沿って視線を動かすとテープで固定された針がサトルの肌に入り込んでいる。シノブは固い椅子の上で座り直してみた。ギ、と椅子は音を立てて。それでもサトルから反応は見られず、ふと窓の外の雨に目をやった。

 誰もいない病室で二人。

 救急車で運ばれてから死んだように眠り続けるサトル。シノブは少し伸びた黒髪を掻き上げてから小さく息を吐いて。

「……おい、カリスマ。聞こえるか?」

 暫し間を置いてからシノブは眉間に皺を作って、また呆れたように声を出す。

「アカーシャ、活動休止だと。学校側が今回の事厳重に見て、だとよ。なぁ、お前の都合も知らずによ。だからみんなも暇でどうしていいのかわからねえらしい。俺は例の如く生徒会で大忙しだ。で、お前の友人は警察に捕まった。お前はどう思うのか知らねえが、俺らからすれば良かったんじゃねえかな~……って。それから……それからな。オック、暴行傷害で引っ張られて今停学処分の真っ最中だぞ。聞こえたか? だから俺はあいつの代理だ。ちょっとは喜べ。おい、マツ。マツー」

 ふざけ半分でシノブがサトルの耳元で話す。

「……起きてくれよ、マツ」

「あいつだったら起きるのか? ……って、俺性格最悪じゃね?」

 そう言ってシノブが小さく笑ってゆっくりと自分の顔を両手で覆った。

「……なんで俺じゃダメなんだろうな、お前。……俺だったら、なんて思うのは低俗な考え、だよな。それでもな、俺はお前が大事なんだよ。お前がオックを大事な分、俺もお前が大事だ」

 言葉を切って、顔を上げる。勿論、サトルは起きない。

「今はお前の大事なオックが来れねえから、俺で勘弁しろよ。……勘弁して、いい加減、起きろ。この寝坊助」

 落胆と陽気な口調がシノブの口から漏れる。


 それでも。

 雨は止むことなく、病室の床に雨だれの壁が間延びして揺れているように映った。消毒薬臭い部屋の中は静かに時が流れていく。シノブは何度もサトルの手を握った。




 真っ暗な林の中

 ただ速く

 速く前へと進まなければ

 捕まってしまう

 殺されてしまう

 額から流れていた汗が血へと変わって

 手にしていたはずの地図も

 自分の血液でびしょびしょに濡れてしまった

 寒くもないのに吐かれる白い息はゆらりと上空へと昇る

 月は夜空に浮かぶ小さなナイフのようで

 まるで自分へと落ちてくるような錯覚


 ドクン


 動き出した心臓

 警告のように鳴り響く

「あ……」

 ――切ってもいないのに。

 手首から血液が線を描いて地へと落ちる

 助けて、誰か


『お前の』


 暗闇に響く嫌な声

 この声を

 俺は

 知ってる


『声』


 何度も後ろを振り返っても

 誰の姿もない

 時折

 木々が人形のように見えて

 心の底が恐怖で震える

「だ……誰か……」

 後ろをもう一度確認して

 それからまた前へと顔を向ける

 ひゅぅ、と喉が嫌な音を立てた

「……っ……!」

 闇の底から込み上げるような掌が自分の喉を締め付けて


 殺される……?

 殺される

 殺される!


『お前の声が俺を狂わせたんだよ? サトル』


 暗闇の中で何かがニィと嫌な笑みを見せた。

 異様な程白い牙


 瞬きが

 できない


「うああああぁぁぁぁっ!!!」


 暗闇に向かって叫ぶ

 この闇を、破り捨てられるほどの悲鳴が欲しい


 助けて

 助けて

 助けて




「おい! マツ!!!」

 鼓膜を強く刺激されて。

 ようやくサトルの目が開かれた。


 ああ

 瞳が閉じれなかったんじゃない

 閉じていたんだ


 サトルはぼんやりとそんなことを思いながらゆっくりと横へと顔を向けた。酷く心配したシノブの顔が見える。熱い自分の体。サトルは掌で自分の額にゆっくりと手を落として、滲み流れている汗を拭った。

「……お前魘されてたぞ。……大丈夫か?」

 ――ああ、夢。だったんだ。

 サトルはようやく納得して小さく頷いて見せた。

 見慣れない天井。

 自分は白で統一されたベッドで寝ていて。

 サトルは周囲を確かめるように眼球を何度も動かした。

「ここは病院だ。お前……あれから一週間位寝てたんだぜ? ……この寝坊助がよ……」

 心配そうなシノブの顔に笑みが浮かんで。

 サトルは見慣れないシノブの表情を目で追った。


 あれから?

 ああ

 あれから、か


 サトルはようやく状況を把握して小さく笑んでからベッドの上に置かれているシノブの手に自分の手を重ねた。浅く、息を吸って。口を小さく開いた。


『ごめん』


 サトルは不思議そうに目を丸くした。


 ――……今、口を開いて。

 話したはずなのに。

 自分の声が聞こえない。

 殴られたせいで耳が聞こえづらくなったのか。

 サトルは呆然とシノブを見つめたまま黙って。

 そんなサトルの様子にシノブもまた目を見開いて首を緩く横へと傾げた。

「ん? どした? マツ」

 嬉しそうなシノブの声。

 ――……聞こえる。

 ちゃんとシノブの声はサトルの耳に届いた。

 ――……なのに、なんで?

 なんで自分の声が聞こえない?

 サトルは困ったように顔を歪めながらあちこち痛む体を起こして。自分の喉へとすでに震えている指先を辿らせる。

「どうした? 痛えのか?」

 シノブの問いに首を強く横へとサトルは振った。

 首には包帯。

 ――……これのせい?

 包帯できつく首を巻いているから?

 サトルは焦った様子で首に巻いてある包帯を解き始めた。

 それを見たシノブは驚愕してサトルの手を押さえた。

「おい、マツ! 何やってんだ! まだ治ってねえんだぞ?!」

 それでもサトルはシノブの声を無視して手を止めず、幾重にも巻かれた包帯を解こうと必死になった。

「マツって!」

 サトルの行動がシノブの大声で制される。

 と、同時にサトルの瞳から大粒の涙が頬を伝って流れた。

「……マツ……? ちょっと落ち着け。どうした?」

 優しげなシノブの声。

 サトルは生唾を飲み込んでも呼吸を繰り返した。

 それからゆっくりと震えてしまった唇を動かして。


 声を。


『神崎』


 それを見て。

 シノブは驚いたような顔でサトルの顔を見つめて。

 ただ黙ってしまった。

 サトルの口先だけが何度も動いて。

 耳へと音は届かない。


『どうしよう』

『声が』


 ゆっくりと唇が動く様をシノブは見つめて。

 それから数回瞬きを繰り返した。


『これじゃあ』

『歌えない』


 サトルの口元は開いたまま。

 そのままサトルは自分の顔を両手で覆って。

 口を大きく開けたまま。

 ただ涙を流した。


「……マ、マツ……」

 シノブはサトルの両手を自分へと引き寄せると震えているサトルの体に気付いて。顔を歪めたままサトルの体を自分へと強く抱き寄せた。それへと縋るようにしがみついて震えるサトルの肩。音のない悲しみの深さにシノブはサトルに気付かれぬ様に涙を流した。




「……え、ぁ……?」

 思わず声を失ってレンの瞳が泳ぐ。

 その前ではシノブが深く頷いた。

「それって、……あの事件のせいでってこと……?」

 冷静な口調で言いながらタキがシノブの側へと歩く。

 冷めた空気が生徒会室に充満して、カーテンは風に揺れることなくただぶら下ったまま。

 重いような曇り空。

 なにも書かれていない黒板。

 整然と並べられた長テーブル。

 冷たい椅子。

 ヒサシのため息が長く吐かれた。

「……私たちの責任でも、ある、なぁ……」

 ヒサシはようやく口を開いてレンへと目を向けた。レンはその視線に気付いて肩から息を吐くと静かに頷いて見せた。

 ――責任?

 ――当たり前だろ

 シノブの胸元が嫌にざわついた。

「……マツの親から話聞けたんすけど、外傷がどうとかじゃねえらしくて……」

 シノブの口調はどこか濁って空気を更に重くさせた。

「……マツ君は? ……ショック受けてる、よね」

 タキが呟くように話してから、視線を床へと落とした。

「そりゃそうだろ」

 レンが吐き捨てるように話す。ヒサシはその様子に目を向けるも一度目を伏せて、それから立ったままのシノブへと顔を上げた。

「そっか……そうだよな……」

 頷きながらヒサシが話す。

 シノブは周囲の様子にいまいち溶け込めずただ、黙って広がる光景を頭のどこかでぼんやりと見つめた。


 今回の事件。

 アカーシャに不審な手紙が来ていたのに。

 事件を防ぐことも出来ず後手に回って。

 結果マツは今。

 そう思うと苛立ちを感じずにはいられなかった。

 ――自分だったら。

 そんな浅はかな感情が込み上げてくる。


「……マツの様子はこれからも見に行く。その都度あんたらにちゃんと伝えるから安心しろって」

 投げやりな口調が先走って。

 シノブは故意に全員から視線を逸らして話す。

「俺もヒサシも昨日で謹慎は解けた。今度は俺らもマツの様子伺いに行く。悪かったな、神崎」

 レンの言葉。

 ――五月蝿ぇよ

 シノブは込み上げてくる言葉を奥歯で噛み締めて小さく頷く。


 どうせ誰も守れなかった

 守る気もなかったんじゃねえの?

 きっと

 オックも


 目の奥が熱くなる。

 シノブは病室で泣き崩れたサトルの姿を脳裏に甦らせて。

 腹の底から怒鳴りたい思いを押し殺した。

「奥崎はまだ知らねぇよな。あいつの謹慎解けるのっていつだったか?」

 レンの問いに無意識にシノブの怒りが膨れ上がる。

「忘れた」

 冷たい口調で突き放すような言葉がシノブの口から出る。

 タキはそんなシノブの様子に一瞬目を疑うも小さく息を吸って。

「……たしか明日じゃなかったかな」

 と、レンへと優しげに話す。レン本人もいつもより愛想の悪いシノブの様子に険しい顔つきでいたが、タキの言葉に反応を示して。

「そうか。……知らせておいた方がいいだろな。あいつには」

「じゃあ私が連絡しておくわ。昨日も電話でマツ君の事気にかけてるみたいだったし。……ショックなことだけどオクも知るべきだわ」

「俺がかけます」

 シノブがヒサシを制するかのように口調を強く、言い放つ。全員の視線がシノブへと集まるもシノブは平然とした顔でまた口を開く。

「俺は確かにメンバーじゃあねえけど同じクラスメイトだし。先輩たちは先輩たちで今後のアカーシャの事、考えるべきなんじゃないんですか」

 淡々と話すシノブ。レンは苛立ちを顔に出して掛けていた椅子から体を起こすもタキがそれを目で制して、ゆっくりと優しげに笑んだ。

「じゃあお願いしてもいいかな? 神崎」

「はい、じゃあこれで失礼します」

 シノブは表情一つ変えず、そのまま全員へ背を向けるとドアへと向かって歩く。暗い空気に尾を引いて響く足音。開かれたドアから廊下からの冷気が滑り込み、ドアが閉まる音が余韻を生徒会室に残した。

 ――マツの事を任せられるか

 ――てめえらなんかに

 廊下を歩くシノブの瞳がきつく先を見据えた。




「……あいつの態度なんだっつうんだよ。苛つくな」

 レンの不快な口調。残された三人はシノブの去って行ったドアを見つめたまま。タキは静かに周囲を見渡して、レンの側へと歩く。

「許せない、のかもね。神崎は」

「は?」

 喧嘩口調でレンがタキを睨みつけた。

「怒らないでよ、レン」

「別に怒ってねえよ」

「神崎が怒っても当然の事かもしれないよ。俺たちは知っていて結局は最悪の事態を止めることができなかった。その点、神崎は知らなかったんだから。なんで知ってて守ってやらなかったって思われても仕方ないよ」

 宥めるようなタキの声。ヒサシも視線を床へと落としたまま、下唇を軽く噛んだ。

「アカーシャのヴォーカルはマツ君しかいないわ。……精神的なものだっていうならマツ君に、歌いたいとか、出来たら、復帰したいと思って貰えるまで……出来ることしなきゃね。じゃなきゃ本当に後悔する。……神崎にずっと恨まれるのも嫌だし」

 少し笑みを浮かべてヒサシがレンへと話す。レンは目を細めたままドアを睨みつけて、大きく舌打ちをしてから目を伏せる。

「そりゃ当然だ。オクも知ったらそう思うだろうし。……大事なヤツだろうしな、マツくんは」

 ため息混じりに話すレン。

 それに答えるようにヒサシも頷いて。

 タキは少し笑ってから。

「……それは、神崎にとっても、だろうけどね……」

 と、小さく呟いた。




 あれ以来。

 閑散としてしまったような寮の自室に戻って。

 シノブは暗い表情のまま勉強机の引き出しを無言で開けると青い手帳を取り出した。それから椅子へと深く腰掛けて携帯を鞄から取り出すと手帳を確認しながら番号を慣れた手つきで押し、通話ボタンを押して耳へと当てる。

 誰もいない部屋。

 サトルのいたはずの部屋。

 ハンガーに掛けられた制服。

 なにも置かれていない勉強机。

 その机の横には黒の紙袋。

 シノブは目を細めてそれらを見渡したまま耳越しに鳴るコール音を聞き流した。二回、三回。四回目が鳴る寸前でコール音が止まる。同時に女性の声が小さく聞こえた。

『はい、奥崎です……』

 優しげな女性の声。

 シノブは躊躇せず口調を変えた。

「すいません。大和君の中学時代からの同級生で神崎と申します。大和君お願い出来ますか」

 相手から「少々お待ち下さい」と返答された。

 受話器からはメロディ音。

 シノブは乾いた自分の下唇を舐めた。

 全身に巡る異様な緊張感。

 ただいつものように。

 そう頭の中で繰り返しながら待った。

 メロディ音が途切れる。

 シノブの瞳孔が瞬時息をする様に動いた。

『もしもし』

 久しぶりに耳にする奥崎の落ち着いた声。

 シノブの喉が無意識に唾を飲み込んだ。

「オック? 久しぶり」

 いつもの口調で。

 変わらない口調で。

 シノブは落ち着かない様子で部屋の中を歩き出した。

 受話器越しに聞こえてくる相手の呼吸。

『どうかしたのか』

 シノブの口元が皮肉を交えて歪む。

「お前今日で自宅謹慎とけるだろ?」

『ああ、まぁな』

 ――まぁな、ね

 シノブの手が汗を掻く。

「明日、病院行って来いって、マツの」

『……行くつもりだ』

「そっか……」


 行って

 お前らが引き起こした現実がどういうものか

 目に焼き付けてくればいい

 少しは

 ――少しでも

 苦しめよ

 オック


『どうかしたのか?』

 予想になかった奥崎の問いかけにシノブは躊躇して携帯を持ち替えた。

「いや、……あ、昨日マツ目覚ましたんだ。本当よかったよな。生きててくれただけでも感謝しなきゃな」


 声が

 声が出ねえんだ

 マツは


『お願いするよ』


 耳の奥からタキの声が響く。

 が、シノブは軽く目を伏せてから首を緩く傾げて。


 ――知るか


『……ああ』

 奥崎の暗い声。

 シノブは胸元に渦巻く憎悪にも似た感覚に笑みを歪めた。

「会ってやってくれよ。あいつ待ってるから。お前が停学処分食らったって教えたら落ち込んでたし」

 ――教えてなんか、ねえがな

 頭が勝手に言葉を生み出す。

 シノブは笑顔のまま窓の外を睨むように見つめた。

『……余計なことは教えるなよ、あいつに』

 ――当たり前だろ

「停学処分なんざお前中学の頃当たり前だっただろうが」

 喉の奥が笑い声を上げる。

 ――あ、マズったか

 シノブの笑顔が一層歪んだ。

『……まぁ、そうだな』

 奥崎の声色が変わった。

 ――なんだ

 ――大丈夫か

 それから受話器にまた相手の呼吸が雑音のように聞こえて。

『じゃあ明日一緒に行くか』


 は?

 冗談


「俺は学校、生徒会があるんだよ。だから、頼むな? マツのこと。マジで」

『ああ、わかった』

 ブツ、と通話が切れる。

 数回鳴る通話音。

 その後、沈黙。

 シノブは音のしない携帯を耳に当てたまま笑顔から無表情へと変わった。それから投げつけるようにベッドへと携帯を捨ててその場にしゃがみこんだ。

「一緒に……? 一緒になんかいけるかよ。こんな状態で」

「……お前が泣いたら、俺はきっとすげぇ笑うから」

 そう言った声が震えて。

 シノブは流れてくる涙を乱暴に袖で拭いた。

 胸の奥で渦巻く感情。

 奥崎を容赦なく恨んでいる事実。

 どんな反応も言葉も姿ですら許せなくて、きっとバカにしてしまう。

 こんなにも奥崎の不幸を心底望んでしまう。

「泣けよ、オック」

「絶対に」


 お前はもう、邪魔だ

 マツをお前には渡さない

 どんなにマツがお前を愛しても

 お前のようなヤツに任せることなんてできるか

 許さない

 絶対に許さない

 愛してるなら

 マツを本当に愛してるなら

 全部何もかも元に戻せ

 ああ滑稽だ、馬鹿馬鹿しい、出来るわけもない

 笑える


 シノブは脳裏に次々と浮かぶ思いに肩を震わせて笑った。裏腹に頬を伝っていく涙。気に入らない様子でそれを払い除けて。

「……なんで俺が泣く必要があるんだよ。だせえ」

 そう言ってシノブは顔を伏せて勉強机を力任せに蹴り上げた。

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