第14話 声
周囲の風景は日々変化を遂げて。
冬の到来を肌身に感じさせた。
久しぶりに帰ってきた実家は相変わらず匂いを変えない。
奥崎は気紛れに手にしていたギターを床へと置いて。窓越しに見える風景に目を向けた。
あれから一週間。
警察沙汰になってアカーシャの活動も停止。
傷害で奥崎一人停学処分ため自宅謹慎。
サトルは入院を余儀なくされた。
あれからまた雨が降って。
そして晴れ間。
ただ今日は風が強い。
奥崎はただ呆然と窓越しの光景を見つめた。
サトルを監禁したリョウという男が昔少年院に入っていたとか。鷲尾があの後狂ったとか。どうとか。たまにかかってくるレンやヒサシの電話で話は聞いたが。奥崎にとって関係のない内容だった。
――そんなことより寒い。
奥崎はそんなことをぼんやりと思いながら床に置いたギターへと目を落とした。
後悔。
それしかない。
奥崎はギターを蹴り上げてそのままベッドへと寝そべった。
あれから。
サトルと会っていない。
救急車に乗せて。
安堵よりも苦しさがあった。
肝心な時に守れなかった悔いだけが止まらない。
見つけた時のあの苦しい衝動。
心臓の奥が強く不安を打ち付けたようだった。
「お前が嫌だと言っていた音なんだろうな……」
ベッドに顔を押し付けて奥崎が呟いた。
未だに残るサトルの感触。
キスをした感触も抱き上げた感触も全部が全部。
この肌が覚えて。
「サトル」
無意識に名前が口をついた。
トン、とドアを小さく叩く音にダルそうに体を起こす。
「はい」
「大和さん、いる?」
か細い母親の声に奥崎はベッドから降りるとドアを開けるために歩き、冷え切ったドアノブを回す。不安げにも見える母親の顔を奥崎は無表情に見つめた。そっと自分の前へと出される電話の子機。
誰かからの電話なのだろうと思い奥崎はそれを手に取った。
「あの、神崎さんから」
「神崎?ああ、ありがとう」
「いいえ」
そう言うと奥崎の母親は足音も立てず廊下を歩いて行った。それを見つめながら奥崎は子機を耳に押し当ててドアを静かに閉める。
「もしもし」
『オック?久しぶり』
「ああ、久しぶりだな」
変わらないシノブの声。
奥崎は少し小さく息を吐きながら窓越しへと移動した。
「なんかあったのか」
『お前今日で自宅謹慎とけるだろ?』
「ああ、まぁな」
『明日、病院行って来いって、マツの』
「……行くつもりだ」
『そっか』
暗く届くシノブの声。
奥崎は不審そうに顔を歪めた。
「なんかしたのか?」
『いや、……あ、昨日マツ目覚ましたんだ。本当よかったよな。生きててくれただけでも感謝しなきゃな』
「……ああ」
『会ってやってくれよ。あいつ待ってるから。お前が停学処分食らったって教えたら落ち込んでたし』
「……余計な事は教えるなよ、あいつに」
『停学処分なんざお前中学の頃当たり前だっただろうが』
「……まぁ、そうだな」
声色が元に戻った。
奥崎は深く息を吐いて。
「じゃあ明日一緒に行くか」
『俺は学校。生徒会があるんだよ。だから、頼むな?マツのこと。マジで』
「ああ、わかった」
切れた子機をテーブルへと置いて。
奥崎はまた外の風景へと視線を落とした。
時折強く吹き付ける風が窓を揺らす。
奥崎は目を細めて床に転がるギターを壁へと立てかけた。
気持ちのどこかが騒ぐ。
会いに行く。
奥崎は優しげに表情を曇らせた。
学校から車で20分の場所の高台の白い建物。
外来患者入り口前にはタクシーが数台止まり、ロータリーが広がっていた。
時刻は午後三時。大きな大学病院前は閑散としている。周囲はもう葉を落とした木々が多く、空は真っ白に染められていた。
奥崎は表示を確認して入院棟入り口へと進み病院内へと入る。ロビーには数人の入院患者が点滴をしながら椅子へと座って雑誌を読んでいた。
シノブから聞いていた病室は三階。
エレベーターに乗り込んでボタンを押す。
機械音と共にエレベーターは作動して三階へとつくと廊下に表記された番号へと歩く。
立ち込める消毒液の匂い。
奥崎はゆっくりと歩いてナースセンターの前を通り過ぎた。
低い天井。少し汚れた壁。
番号の下に表記された名前を見て歩く。
『302号 松崎 悟』
しんと静まり返った廊下。
時折遠くから年配者の笑い声が聞こえた。
数回ノックして。
反応を待つが返答がない。
――寝ているのだろうか
奥崎はスライド式のドアを開けた。
そこには。
こちらへと笑顔を向けるサトルの姿。
額や手首には包帯が巻かれて。
あちこちに痣の痕が残っていた。
「久しぶり」
奥崎が声をかける。それへとまたサトルは優しく笑ってゆっくりと頷いた。
「……もう、大丈夫なのか?」
サトルはまた頷いて小さく笑って。
嬉しそうに見えた。あの悲惨な状況がなかったかのような、平穏な病室だった。白いベッドの横には花が飾られ、開けられたカーテンの奥には白い空が見えた。
奥崎はベッド脇にあった簡易的な椅子へと座り、布団の外に出されたサトルの手をゆっくりと握った。
「神崎とかみんなも来たろ。来るのが遅れて悪かった」
それに対して首を振るサトルの表情は困っているように見えたが、それすら得難く思えて、奥崎は小さく笑ってサトルの顔を見つめる。
「……生きていてくれてよかった」
暖かいサトルの手。
奥崎は安堵のため息をつきながら話しかけた。
それにサトルが小さく口を開くもまた閉じて。
奥崎は優しげに見つめたままサトルを不思議そうに見つめた。
「どうした?サトル」
またもサトルが困ったように笑って包帯の巻かれた自分の首へと手を当てた。
口が開いて。
また閉じる。
奥崎の目が異変を感じた。
「サトル」
首を何度か傾げて。
サトルが小さく頷いた。
唇が、何かを語る。
奥崎は目を見開いてサトルの顔を見つめた。
『ごめん』
音のない唇が語った。
サトルがいつもの困った顔で笑う。
その口元が再び小さく動く。
言葉を見逃すまいと、それを追う。
『会いたかった』
「ああ、俺もだ。お前だけじゃねえ」
即答したが、声がうまく出ない。
胸の奥で何かが詰まったような感覚。
気づかれないように生唾を飲み込む。
――声が
白く平穏な病室から、あの雨の夜に。
一瞬で墜落する感覚に目眩を覚える。
震えそうになる声を必死に堪えて奥崎は笑った。
暫くするとサトルは何故か、
少し自分から視線を逸らした。
奥崎は不審に感じてサトルの顔を覗き込む。
「どうした?サトル」
それでもサトルはまだ視線を泳がせて。
顔を赤らめたまま漸く奥崎を見た。
微かに唇が、ゆっくりと動く。
『好きだよ、オクさん』
『好きだよ』
唇が伝えてくる音のない言葉。
奥崎はそれを見て、目を見開いた。
それから。
暫くしてからゆっくりと頷く。
「ああ、俺も。お前が好きだ」
そう言うとサトルが幸せそうに、恥ずかしがりながら微笑んだ。それからサトルはベッド横の引き出しからホワイトボードとペンを取り出すと何かを書き始めていく。奥崎はそれをじっと見つめた。
『またいつか声が元に戻ったらライブやりたい』
それを見て奥崎は少し笑ってみせて。
「わかった。仕方ねえな」
サトルの唇へと自分の唇を優しく重ねた。
暖かい手のぬくもり。静寂と化した白い部屋には色取り取りの花が飾られて。柔らかい相手の感触だけがあるようで。奥崎はサトルを優しく腕で包み込むように抱きしめた。
「もう、離れるなよ」
奥崎の声にゆっくりと赤らめた顔でサトルが頷いた。
欲しかったのは
この繋がれた手
病室を染めた太陽は落ちて
白い部屋は青と橙に染まる
間違いを正す勇気を貰った
これは歪んでいない、慕情
恐れて怯えるよりも守っていけたら
この人と生きていけたら
幸せも苦しみのこの人のためなら
どんな辛いことも打ち砕いていきたい
あんたの隣で
あんたが教えてくれた全てで
不穏な旋律を砕いていく
あんたのように
例え
腐った世界を潰すための声が消えても
あんたの隣で生きていきたい
――心だけは、愛おしさを叫べる
寝息が奥崎の耳に届く。
そっとサトルの胸元に触れてゆっくりと強く息づく心臓に安堵してから、奥崎は病室を後にする。スライド式の扉は音も立てず閉じる。疲れたように奥崎は扉へと身を任せて目を伏せた。流れ落ちる、涙。随分と泣いてなかったな、と小さく笑って。
それからその場にしゃがみこんだ。
声を殺して泣いた。
「……あんまりだろ……」
涙声が痛く廊下に響く。奥崎は立ち上がるとその場から逃げるように立ち去った。
カミソリのような月。
外気は冷たく冬を告げる。
白く吐かれた自分の吐息。
己の全てを捧げても構わない
どうかあいつに声を戻してほしい
なにも失わせたくなんかなかった
「……残酷か……俺も」
残酷だろうか
声を戻してほしい、なんて
泣いてサトルに声が戻るなら
あの日が変わるなら
自分の命ひとつ
どうなっても構わないと思う
それでも
俺に
お前以外に傷ひとつない事が
お前の望んだことか
サトル
お前が声なら俺は腕を引き換えていい
傷を負ってしまったのなら
代わる全てをお前に与えたいのに
俺に傷がなくてお前は満足か
お前が怯えた日々も、過去も
俺が何も知らずお前を一人にして
俺が満足だと思うのか
――それでも
――お前が望んだ事なら、笑うべきか
見上げた夜空。
カミソリの月は冷たい光を照らした。
奥崎は脱力したようにその場にしゃがみ込む。
涙が、地面へと落ちた。
――正解なんて、分からない。
――理由があってその声を愛した訳じゃない。
――声だけを、愛した訳でも、ねえ。
沢山のサトルの姿が眼裏に蘇る。
全ての呼吸が尽きようと
お前の存在は俺を支配し続ける
お前が与えてくれたぬくもりと一緒に
お前の隣で生きていく
最後の息を潜めて
お前の隣で
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