第13話 引き摺りあげる

 冷え切った部屋の中へ入るとすぐに奥崎はサトル専用のクローゼットを開けて、厳しい表情で中にしまってあるものを物色し始めた。その間は無言で後ろに立ち尽くしていたシノブも、思い出したようにサトルの勉強机へと向かう。

 クローゼットの中は自分とは違う匂いがして、中にあるものは男の割には整理整頓されていた。制服のポケットの中へと手を入れたり、しゃがみこんでサトルの私物を見渡す奥崎は無言。

「……サトルの携帯、もう繋がらねぇのか。ホントどこ行った?あいつ……」

 冷たい部屋にシノブのため息が混じる。その言葉にも奥崎は答えず、ただ黙々と目と手を動かして時折深くため息をついた。

「……何もなきゃいいけど、な」

 シノブの声が虚しく部屋に響く。

 後方からは何か紙を捲る音。

 シノブはサトルの勉強机の引き出しを開けて、ふと動きを止めた。


 中には潰された一枚の紙。


 それをそっと手で持ち、紙を開く。

 初めは目を疑った。

 が、同時に確信してクローゼット前で胡坐をかく奥崎へと顔を向けた。

「おい」

「なんだ」

 奥崎の反応は早くシノブはすぐさま手にしていた紙を奥崎へと手渡した。

「これ、じゃねえのか」

 渡された紙を奥崎が無表情で見つめる。

「だろうな」

 奥崎はそう言って無言のまま自分の携帯電話を取り出すとすぐに書かれている番号へとかける。

 コール音。一回。二回。三回。四回。

『はい、鷲尾です。今忙しいんで電話に』

 受話器越しに相手の留守録の声が聞こえて奥崎はすぐに携帯を切った。

「まぁ、出ねえか。こんな時間だしな。それか」

「マツと会ってるからか」

 先が見えたかのようにシノブが奥崎の言葉に続く。

 それに対して奥崎は少し笑って、そうかもな、と答えた。

「にしてもこの文章……感じ悪過ぎだろ。番号知ってるとかよ。ストーカーみてえだわ」

 苛立ち始めたシノブの口から言葉が吐き捨てられる。シノブのその言葉に奥崎が目を見開いてそのまま動かずに紙を見つめたまま。

「どうした?」

 不審げにシノブが奥崎へと一歩近づく。

 ――心当たりが、ある。

 奥崎はそう思って手にしていた紙を握りつぶした。

「……この前、ヒサシのトコにアカーシャ宛ての手紙が来た」

「……あ?それで?」

 しばしの間。それから奥崎がため息混じりに口を開く。

「サトルの写真が入ってた。それも異様な数、ライブの行き帰りやスタジオ付近どころか、完全にプライベートの写真まであった」

「は?!マジで言ってんのか!?」

「嘘ついてどうする」

 奥崎の沈着冷静な口調にシノブが眉間に皺を寄せる。

「……おい、お前何冷静に喋ってやがんだ……この紙といいその写真の話といい…ちゃんとサトルの事見てたのかよ!俺も見とくとは言ったけど、んな事になってんのはお前らしか知らねえ事だぞ!」

 シノブの怒声が奥崎へと向けられた。

 奥崎は黙ったまま自分へと怒りをぶつけてくるシノブを見つめた。

「注意はしてたが……責任逃れする気はねえ」

「責任どうこうじゃねえよ!どうするんだ?!……だからお前にマツの事渡したくねえんだよ!!気持ちが分かんねえとか言ってる場合だったのかよ!」

 徐々に息が上がるシノブを表情変えず奥崎が見つめる。

「あいつがお前の事好きとか百も承知だ。お前のこと考えて自信なさ気にもお前の背中必死についていこうとしてたのも見てりゃ解ってた。でも誰と一緒にいても誰と笑っていてもいっつもどっか不安気で」

「ああ、知ってる」

「知ってるじゃねえよ!!」

 カッとシノブの目が大きく開いて奥崎の頬へと平手が入る。それでも奥崎は黙ったまま、表情も変えぬままシノブを見た。肩から呼吸するシノブは奥崎へと怒りを露にしたまま立ち尽くした。

「お前知ってて分かんねえとか言ってほっといたのか?知ってながらお前あいつの手ちゃんと掴んでなかったのか?!不安に思ってんの分かってたんだろ!?全部から守ってやれよ!好きだったら」

「……好きだからしねえ。それだと意味がねえ」

「はぁ?!意味がねえってどういうことだ!」

「今探し出す。あいつはちゃんと自分自身で歩きてえんだよ。手助けなんかしたら一生不安なままだ」

「…………あいつはお前のこと好きなんだぜ……?マツもバカだ。俺にしときゃよかったのによ」

 シノブの口調が徐々に弱気になって。

 奥崎がその場に立ち上がった。

 揺れもしないカーテン越しの、月の光が消えた。

 窓を打ち出す雨。

「探しに行く。そう遠くには行ってねえはずだ」

「……俺も行く」

「わかった」

 奥崎がシノブの肩を軽く叩いてドアへと向かった。その表情は暗く、シノブも急いで部屋から出る背中に続いた。




「逃げるなって」

 にったりと笑うリョウの顔をサトルは恐ろしさのあまり目を離せずにいた。ただ体が勝手にリョウから逃れようと座った姿勢のまま後ずさりする。


 ――……怖い。


 サトルの額には汗が滲み出て頬を伝って首筋へと流れた。

「……ほん、と……もう帰らないと」

 思考がうまく動いてくれない。鷲尾が怖かったのと種類が違う。嫌いとか、合わないとかそういう事ではない。殺されるかもしれない、命の危険を感じる類いの意味の分からなさだ。思考が纏まらない。指先が異様に冷たくて床に落ちている埃に触れているのに感覚がわからない。リョウが優しげに笑んでサトルの前へとしゃがみこむとサトルの顔を覗き込むように見つめてくる。

「……ステージに立ってる時よりやっぱ今の方が好き、かな~」

 そう言ってリョウが笑う。

 サトルは生唾を何度も飲んで、未だ唇に残るリョウの感触を噛み切りたくて唇を少し噛んだ。

「ずっと見てたんだぜ?ずぅ~っと」

「いつもお前のステージ楽しみにしててさ」

「だって会えるじゃん?」

「お前に会うとすごく興奮するんだよ、俺」

 言いながら異様に近づいてくるリョウ。

 サトルは小さく息を吐きながらリョウの瞳に写る曲がった自分を見た。


 怖い

 怖い

 なんで笑ってる

 なんで近づいてくる?

 助けて

 ――助けて


「……サトル、さっき大丈夫だったか?鷲尾のバカ。自分の力量知れっつうのになぁ。可哀想に」

 リョウの手がサトルの顔を掠める。

「……頼む、から帰して……ほし、いんだけ、ど」

「え?やぁだ。俺ちゃんと金払ったんだよ。今の時間はサトルは俺のものなんだぜ」

「き……聞いてねぇよ……」

「マジ?鷲尾の奴黙ってたんだろうな」

 と。

 瞬時にリョウの足がサトルの顔面を蹴り上げた。

 サトルは後方へと体を滑らせて倒れこみ熱くなっていく頬の痛みに顔を歪めた。鷲尾の張り手など比にもならない。呼吸が出来ない。

「ここから出て行こうとしたらまた蹴っちゃうかもよ?俺」

 陽気なリョウの笑い声が頭へと響く。

 サトルは苦しげに体を起こしてリョウの足元を見つめたまま動けずにいた。リョウはその様子を見て表情を和らげて。

「……ごめんな。サトルが帰るっつうからよ……こんなことしたくねえんだ。だからさせないでくれ、な?」

 サトルは頷くこともできずただ黙って目を見開いた。リョウは嬉しそうに優しげに笑ってサトルの頭を優しく撫でる。


 ――これは

 なんだ?

 なに?


 サトルは混乱している自分の頭が真っ白になっていくような気がした。

「あ、そーだ」

 飲みすぎのせいか足取りのおぼつかないリョウがサトルから離れて自分の黒い鞄の中を物色しだす。

「あー、あったあった」

 サトルは鳴り止まない耳元の心臓の音とともにリョウのこちらへと近づく足音に乾いてしまった唇を舐めた。

「俺がどれだけサトルのことが好きか、これでわかる」

 リョウの手いっぱいにある写真がサトルの頭上から何枚も降ってくる。一枚、また一枚、床へと散らばって。サトルはその写真に動揺の色を隠せなかった。床一面、見渡す限りの。

 自分、自分、自分。

「……ぇ……?な、……」

「これなんか学校帰りだろ?ほら、あん時。あの女たちうざかったよなぁ。でも大丈夫。俺がちゃあんと始末しといたから」

「……へ……」

 思わず顔がひきつった。

 それを見てリョウが口を大きく開けて笑い出す。

「あ~違う違う!誤解誤解!始末ったって殺してねえって!ただ殴っただけ!泣きながら逃げていったし。もー大丈夫って話」

 そう言ったリョウの手にはすでにコップに入った酒が握られて一気にそれを飲み干した。

 テーブルへと乱暴にコップが置かれる。

 その音でサトルの体がビクついた。

「なぁ、サトル」

 ひどく掠れたリョウの声が地を這って自分へと伝わってくるような感覚。汗がまた一筋流れた。


「…………サトルは奥崎大和が好きなわけ?」


 ひどく心臓が嫌な音を立てた。

 こみ上げる吐き気。

 サトルは愕然としたままリョウの腕に抱きしめられた。



「あ、雨」

 暗闇が周囲に落ちる公園内にポツポツと雨が降る。

 キョウイチは顔を上げて決して真っ暗ではない空を木々越しに見つめた。表情は暗く、側のベンチで座りこむレンやタキ、常に陽気なヒサシも落ち着かない様子でそこにいた。

 月も姿を消して。

 大粒の雨の音が公園内のあちこちで鳴り始める。

「……外泊届は俺らが知らねえだけで実はもう出てて、友達の家に泊まって行くつもり、とか?俺らの単なる取り越し苦労じゃねえかと、思いてえ」

 レンがため息混じりにそう言うとヒサシは考え込んだまま黙った。

「なにか気になる?」

 レンの隣に座っていたタキがヒサシへと身を乗り出して問うもヒサシの表情は曇ったまま。

「なんか……嫌よね。こういう状況って。……写真が送られてきてから異様に私、ピリピリしちゃって」

 軽く笑みを見せてヒサシがそう言うとレンがすぐさま舌打ちをした。

「心配を膨らませるような発言止めろや。加藤先輩らしくねえ」

 キョウイチは黙ってそのやり取りを見つめて一歩、ヒサシへと近づく。

「ヒサシ、……大丈夫?」

「大丈夫よ。大丈夫。……タイミングが悪いんだわ、きっと。不安に感じちゃったからなんかその後でこんな、ねぇ」

 ヒサシの言葉にキョウイチは不安げに表情を曇らせてまた一歩近づいて、ヒサシの腕を緩く掴んだ。

「……松崎先輩は見つかるよ。大丈夫だって。姉貴の時とは違うから」

 キョウイチの言葉にヒサシは眼鏡越しに瞳を大きく見開いて黙るも、すぐに吹き出すように笑ってキョウイチの頭を強く撫でた。

「……失礼な人間ね、私って。自分の記憶を他人に乗せて考えるなんて。……大丈夫よ、本当に」

 ポツポツと降り続ける雨が服へとじわりと染みて、キョウイチにはヒサシの姿が痛々しく見えた。何か言いたいのに、喉に言葉の固まりが詰まってしまった。キョウイチはそう思って地面へと視線を落とした。レンは煙草を取り出してライターで火を灯す。タキもヒサシへと顔を向けて優しげに笑って見せた。

 それに応えるヒサシの顔。

「連絡、ないわね……」

 眼鏡の奥にある瞳。

 キョウイチは顔を上げることができない。


「ったくやってられねえっつうの」


 ふいに公園奥から男の怒声が聞こえて全員がそちらへと顔を向ける。

「……なんだ、知らねえ奴か」

 舌打ちをしてレンがそちらへと迷惑そうに睨みつける。タキも目を細めて伺うもサトルの姿がないのを確認すると視線を逸らした。

「……そうだね。関係ない人みたい」

 落ちついたタキの声にレンが頷く。

「寒くなってきたわね……オク、どこまで行ったのかしら」

 心配そうに行き先も告げず奥崎が向かって行った方向へと振り返りながらヒサシが呟く。

「俺、そろそろ電話してみるよ」

 キョウイチがポケットから携帯を取り出そうとした時。

 こちらへと向かうらしき男の怒声が再び公園の静寂を乱暴に破って響いた。

 レンの眉間に皺が深く刻まれる。


「いい気になりやがって!あームカつく。……先輩もどうかしてるしよ。ありゃ狂ってるぜ」


 人数は三人。その一番前を偉そうに怒鳴りながら話す男の姿がようやく確認できる距離。

「リョウ先輩昔っからヤバイって有名じゃん?別に俺らが巻き込まれてるわけじゃないんだからそんなに怒るなよ。鷲尾」

「うるせえ、誰のおかげで良い思いできてると思ってるんだか。今更命令される覚えもねえんだよ」

 キョウイチは耳に入る相手の酔い口調に苛立って顔を上げる。その表情が瞬時に固まった。

「うるせえな……殴ってくるか……?」

「レン」

 苛立ちを露にしてレンがベンチから身を乗り出して向かってくる三人を睨むもすぐにタキが目で隣に座るレンを諌めた。

「だいぶ酔ってるみたいだよ?気にしないの、レン。問題は起こさないでよ」

 ヒサシもため息混じりにレンへと伝えるも、自分の傍で身動き一つしないキョウイチの表情に気付いた。

「どうしたの?キョウイチ」

「……多分、当たりだと、思う……待って」

「はぁ?」

 キョウイチの言葉に瞬時にレンが反応して睨むようにキョウイチへと顔を向けた。キョウイチはこちらへと向かってくる男たちを見つめたまま動かず、ゆっくりと口を開いた。

「うん。あの人が……この前、橘の文化祭で松崎先輩と話して写真撮ってた人」

「それ本当?キョウイチ」

 タキがベンチからすぐ立ち上がりキョウイチへと駆け寄る。それへと力強くキョウイチが頷いた。

「態度、酷かったから。見間違えはないよ」

 今も目に残るあの時のサトルの顔。それを思い返しキョウイチは確証した。

「オクに連絡取る」

 キョウイチは強い口調でそう言うとすぐさま携帯を操作して耳へと押し当てた。その横を相変わらず怒声を吐いて歩いていく三人の男たち。


 レンの冷笑をタキが再度目で諌めた。




 恐怖をこんなに肌で感じたのはきっと初めてで

 触れられた部分が死んでいくよう


 ――瞬きも、できない


 強く引き寄せられた体に酒の匂いがした。

 窓越しの黒い夜に雨。

 サトルは目を見開いたまま動かなくなってしまった体に汗をかいた。

 周囲を自分の写真が汚らしく散らかって。


「……ぇ?」


 ようやく声が掠れて出た。


「だからぁ、奥崎大和が好きなの?って聞いたんだよ」


 ――……バレてる


 引きつる表情。サトルは再度黙って込み上げてくる生唾を飲み込んだ。


 ――オクさん

 ――巻き込みたくない


「……ち、がうよ」

「俺言っておくけどすんごく嫉妬深いんだよなぁ~。昔っからの悪い癖。人に自分のモノ、取られるの大嫌いなんだよ」

 ケラケラと笑うリョウの声。

 心底鳥肌が立った。

「違う……違うよ。好きじゃない……」

「嘘つくなよ、騙せると思ってんのか?サトル」

 急に威圧感を感じる声色の変化にサトルは身を震わせた。

「だから」

 リョウの手がサトルの首を撫でる。

「一旦捕まえたらもう離さないようにしようと思ってたんだ、お前の事」

 耳元に寄せられる口。相手の呼吸すら人間だとは思えない。サトルは反射的にリョウから逃れようと腕を伸ばしてリョウの胸元へと手を当てて抵抗を示すと、瞬時にサトルの顔に平手が飛んだ。

 あまりに容赦ない力にサトルは横へと倒れ込む。口からは深く切れたのか血液がパタタ、と音を立てて汚い床へと落ちた。

「……っ……ぅ」

 此処に来てから、何度目かも分からない痛みに耐えかねる声がサトルの口から漏れる。リョウはすぐにまたサトルの腕を引っ張り自分の胸元へとサトルを押し当てた。まるで人形のようだ。

「あー……そういう顔も大好きだ。お前の苦しそうな声もいいよなぁ」

 いつの間にか荒くなっている自分の呼吸。時折心臓の音が五月蝿すぎて、サトルの耳にはリョウの声が遠くへ響いて聞こえた。

「……ライブん時でも学校でも、お前の視線の先はいっつも奥崎大和……俺、あいつ大嫌いだなぁ」


 冷え切った指先。

 熱く腫れた頬。

 恐らく立てない程に震える体。

 サトルは必死に呼吸を繰り返した。


「俺はいっつもお前をレンズ越しに見つめて。気付いてほしくて。でももう気付いたろ?愛してるよ、サトル」

 再び自分の唇へと強引に重ねられるリョウの唇。

「嫌だ!」

 サトルは身を捩ってリョウのキスから逃れるも強く握られたリョウの力に腕に痛みが走った。

「離せ!離せって!」

 振り絞るように声を荒げ、偶然に抵抗していた手がリョウの顔を叩いた。

 サトルの顔が硬直する。

 が、満面の笑みで反応を示すリョウの顔に背筋が凍りついた。

「いってぇ……つうかそういう声大好き」

「も、離して、マジで……」

 どうしようもなく体が震える。

 リョウの口が嬉しそうに歪んだ。

「もっと、聞きてえなぁ。お前の声」

 瞬間右肩に激痛が走った。

「っあああぁっ!」

 無理に服を引かれ剥き出しになったサトルの肩に、リョウの歯が容赦なく齧りつく。サトルはあまりの激痛に叫んで身を何度も捩るもリョウの口が自分の肩から離れない。引き離そうとすればするほどリョウの歯が肩へと食い込んでいくようでサトルは体を横に倒した。

 瞳からは大粒の涙。

 顔を真っ赤にして痛みに耐えた。

「……その叫び声が大好きなんだよなぁ、俺。……痛かったか。ごめんな」

 ようやく解放された痛みの場所をリョウが舌でじっとりと舐めていく。痺れるような痛みがじんわりと体を走る。床に転がったまま周囲に点々と落ちている自分の血痕はすでに乾いていた。


 サトルは口をゆっくりと開いて小さく呼吸する。


 眼球の後ろから脳を殴るように響く心臓の音が痛みと重なって、流れ落ちる涙が冷たく感じた。




「でもやっぱやべぇだろ、先輩は。熱烈ファン?ストーカーだよなぁ~」

 能天気な声が真っ青に染まった公園内で響いた。

 鷲尾を含めた三人は歩きながら近くのコンビニで買った袋菓子に手を突っ込んでいる。でも鷲尾は厳しい表情のまま二人の後方を歩いた。気に入らない、そんな雰囲気を隠さないきつい視線が前を歩く二人を突き刺す。

「どうしたんだよ、鷲尾。今度は元気ねえじゃん?」

「はぁ?別に」

 強い口調で不快を露にする鷲尾。

 同級生の一人が気を遣うような笑顔を見せて。

「まぁまぁ……松崎は先輩に任せるとしてさ、少しは気、楽になったか?お前ずっと松崎の事陥れてやりたいみたいな事言ってたじゃん?ようやく念願叶っておめでとうじゃんか」

「……俺が松崎を?」

「ああ、言ってた言ってた!急にヴォーカルとか自分の器も知らないでとか言ってたよなぁ」

「それは事実だろ」

 冷たく突き放すように鷲尾が鼻先で笑う。

 同級生の一人がため息をつきながら鷲尾の隣へと並んで。

「でもよ、松崎本当に変わったよなぁ~昔から努力家だとは思ってたけど、あんな才能あるなんてちょっとビビッた」

「だよな!俺も思った。からかうつもりでアカーシャ見に行ったけど全然無理な」

「それな」

 陽気に、笑って会話をする二人。

 鷲尾にはバカにしか映らない現実感。

 肺の奥から呼吸をして二人へと意地悪く笑いかけた。

「お前ら、もう帰れば?疲れた。こっちの身にもなってみろ、もういいだけ楽しんだだろ?」

 鷲尾はそう言うと雨に濡れたベンチへと腰掛けて二人から視線を逸らした。

「……お前先輩にバカにされたからって俺らに当たるなよ」

「まぁ、いいじゃん?帰ろうぜ。俺始発で帰るわ」

 一人は不機嫌そうに舌打ちするも、もう一人は呆れたように笑って。自分たちへと背を向ける鷲尾へと顔を傾げた。

「……ホント自分が一番じゃなきゃ気が済まねえんだよ、あいつ」

 小声で漏れた同級生の声。

 鷲尾は完全に無視を決めて聞こえてくる言葉に奥歯を強く噛んだ。

 遠く離れていく二人の足音。

 まだ朝日の差さない公園は少し霧がかって。

 鷲尾が顔を歪めて舌打ちを繰り返した。


 気持ちのどこかでバカにしてるくせに

 どこかで俺の言ってることを信じてないくせに

 現実を事実と受け止めきれないバカな同級生

 反吐が出る

 楽しいことも自分じゃ起こせないくせに

 全部他人任せで

 それだって俺の力量のおかげで

 お前らは最初から最後まで外野だろ

 全部

 全部俺に逆らう松崎のせいだ

 いちいち俺の言うことに逆らって

 頷くことも知らないバカな奴

 ああ


 俺もお前が

 大嫌いだ


 鷲尾は霧の立ち込める公園の池へと視線を落とした。弱まっていく雨音。細い瞳が公園を奥を見据えた。




「オク!」

 公園側のコンビニエンスストアの光が異様に霧の白さを浮き立たせた。冷えた空気。湿気。

 奥崎とシノブは息を切らしながらコンビニ前に座り込んでいるキョウイチ、ヒサシ、レンとタキの元へと走った。

「マツは?!」

 シノブの声がまだしんとした周囲へと響く。

「場所まではまだ。たださっきキョウイチが話した、文化祭の時に見た人はまだこの公園にいる。合流してから声掛けようと思って」

 タキも心配そうに状況を伝え、ヒサシも頭を軽く掌で抱えたままじっと自分の側に立つ奥崎を見つめた。

「……なんつうか。……俺のせいだな」

 奥崎の声にキョウイチが目を見開いて、口を開き掛けた時。

「……待って、さっきの?」

 ふいに声を漏らすタキの見つめる方向へとその場の全員が顔を向けた。こちらへと近づいてくる罵声にも似た笑い声。白い霧の中、人影がだんだんとはっきり視界に映る。

「あ、……だと思う」

 キョウイチの声。

「松崎先輩の友達と一緒にいた人」

 小声で呟くキョウイチの声と同時に奥崎が公園入り口へと歩いていく。急な動向にシノブやレンが奥崎の後ろを付いていく。徐々に速くなっていく歩調。濡れたむき出しの地面に足音が水音を立てて響く。


「つうかマジ鷲尾ムカつくな!付き合ってやってるのはこっちだっつうの毎回毎回!」

「ホントこっちの身になってほしいよな。振り回されっぱなしだぜ?松崎が逃げても当然だよな」

「まぁ逃がしたくないんじゃない?松崎も変に目立つことするから鷲尾に見つかっちゃって可哀想になー。先輩はあの通りだしな」

「それさ、どうなわけ実際?」

「鷲尾が目指してる将来の人間像みたいな人らしいけど。……ああヤバイと俺はムリ。鷲尾ってマジ意味わかんねえ」

「言えてる」

「今頃殺されてたりして!マジ怖!」

「俺ら後から警察とか?」

「はぁ?絶対ムリ。ヤダ」

 けたたましく笑いながら歩く二人。


 白い霧の中。

 不意に強く乱暴に掴まれる肩に一人が顔を歪めて声を張り上げた。


「いってぇ!何?何だよ!」


 怒鳴り声を出して掴んでくる相手の腕を振り払おうとするも表情が固まった。もう一人も唖然としたままその場に立ち尽くした。


「サトルの居場所を知ってるみたいだな」


 淡々と事務的に話す奥崎。その後方からレンが機嫌良さそうに笑いながら近寄る。

「どーも。アカーシャですけど」

 公園入り口からバシャバシャと水音を立てながら他のメンバーも集まってくる。二人の顔色が霧のせいか白く映った。

「あ……」

 怯えるような声。

 それでも奥崎は力を緩めず同じ質問を投げた。

「サトルの居場所を知ってるな」

 生唾を飲み込む音が聞こえた。

「はい……」

 観念したかのように弱弱しい男の情けない声が返答する。

「そうか」

 奥崎はそう話すと相手の肩から手を離して、拳を振り下ろした。顔面を庇いながら濡れた土へと滑るように倒される男。それを見てキョウイチが呆れたようにため息をついた。

「場所は?」

 続く奥崎の問い。二人は挙動不審になりながらも必死に言葉を繋いだ。要領を得ない説明に、静かに呼吸を吐く奥崎の顔。それを幾筋もの雨が伝う。




「サトルー?」


 荒い呼吸が止まらない。


 サトルはぼやけ出した自分の視界をしっかりと捉えようと何度も瞬きを繰り返した。倒れこんでからもう随分と時間が経つ。額から流れていた血液はすでに固まって。汗と混じって服へと付着していることに気付いた。


 黴臭い匂い。

 自分の血液の匂いか。

 それともこの部屋か。

 もうわからない。


「なぁ……サトルー」

 間延びしたリョウの声。自分の側でしゃがみこんでいるリョウの蛇のような目線。サトルは込み上げる吐き気に何度か咳払いした。

「奥崎の所に帰りたい?」

「帰りたいかもしれないけどそれはムリだから」


 いやだ

 あんたとなんかいたくない

 オクさん

 あんたに

 あんたに会いたい


 サトルは震える腕で上体をゆっくりと起こす。

 それを楽しそうに見つめるリョウは自分の顎をゆっくりと撫でた。


「どうした?じっとそこで倒れてていいんだぜ?」

「……帰る、んだよ」

「だぁからムリだって」

「無理……とかあんたが決める、ことじゃないから」


 帰ろう


 帰って


 あんたの側に行く


 もう全てを捨てて

 面倒くさい柵も

 面倒くさい自分も

 全部脱ぎ捨てて

 あんたの側で

 歌う

 それが俺にとっての居場所で

 俺にとっての幸せで


 ああ

 あんたの笑顔が見たい


 もう

 離れないよ

 好きだ

 好きだよ


 右腕に激痛が走る。

 鈍く骨が音を立てて、サトルはその場にまた倒れこんで体を震わせた。あまりの痛みに勝手に全身から汗が流れ出す。

「……言うこと聞けないなら仕方ないだろ?腕でも足でも動けないようにしてやるよ」

「か、……帰る」

 汗ばんだ全身が気持ち悪い。サトルは情けないほどに震える指先に奥歯を噛締めながらまた体を動かした。頭上から聞こえる長いため息。

「そんなに逆らうなら拘束するしかないなー。……あ、つうかサトルその方がいいよな」

 倒れた体勢のまま髪を鷲掴みにされ体を前方へと引き摺られサトルは顔を痛みのあまり顰めた。リョウがアカーシャのパフォーマンスを揶揄した台詞を吐いている事になど意識すら向かない。

 襟を持ち上げられてから床へと叩きつけられ頭へと強く振動が続いたと同時にひどい眩暈で天井が回って見えた。吐く息も切れ切れで。サトルは脱力したまま自分の上へと乗るリョウをぼんやりと見つめた。

「愛してるって言えよ」

 笑って話すリョウ。

「……いや、だ」

 サトルの返答後すぐに拳が飛ぶ。右腕を持ち上げられると全身を電流が走るような痛みにサトルは大声を張り上げる。

 それを喜色満面に見つめるリョウ。

「あーマジいい声。お前の声ってなんか俺のこと狂わせてくれるんだよなー……大好き」

「…っ!い…ぃた…」

「折れちまったのかなぁ?サトルがちゃんとしないからだぜ?」

 優しく微笑むリョウ。

 ガシャンと耳に付く金属音。

 サトルの視界に入ったのは。

 銀色の冷たい手錠。

 リョウの笑顔がゆっくりと変化する。

「やっぱりこれ、サトル似合うな。……その声もぜぇんぶ、俺のもんだ」

「……イヤ、だ」

 声が勝手に震える。サトルは震えを払拭させるかのように痛む腹を抱えながらも咳払いをして。

「俺は、オクさんの所に帰、るよ……」

「ふぅん」

 嫌に汁っぽいゴツリ、という音は。

 耳に届いた音なのか。

 それとも脳の中が壊れた音なのか。

 鈍い音と共にサトルの視界が真っ暗になった。

 急に遠のく意識。


 ――ただ口に残る血の味が、体を満たしていくようだった。


 滴る血液が汚れた床に黒い染みを丸く作った。

 しゃがみこんだリョウの手から鉄の棒がけたたましい音を立てて落ちる。瞳孔の開いた黒い瞳は床へと倒れているサトルをじっと見つめた。

「……サトル?」

 呟くリョウの声。

 その場にゆっくりと立ち上がる。

 濁った光を放つ蛍光灯。

 ぼやけた黒い自分の影がサトルの上を覆う。

 うつ伏せのまま動かないサトルを暫く見つめて、 自らの頭を指先で掻くと足をサトルへと振り下ろす。

「起きろ」

 サトルの体を数回蹴り上げて。

 最後の蹴りがサトルの体を仰向けにさせる。


 白い、顔。

 額の左側から血液が流れて。

 目を閉じたままのサトルの顔を見つめて。

 リョウは少し笑った。


「……あとでちゃんと手当てしてやるからな」


 繋がれた手錠を眺めながらまたしゃがんで。

 その下のサトルの手首は赤く腫れて。

 そこへと愛しそうにそっとリョウがキスを落とす。


 ノックの音がくぐもって部屋へと届く。


 リョウは体勢を変えぬままそちらへと顔を向けて。

 入ってきたずぶ濡れの鷲尾へと嬉しそうに笑った。

 鷲尾の表情は暗く、髪からは水が滴り落ちる。

 ドアの向こうからの雨音。

 ようやくリョウは雨が降っていることを知った。


「よぉ、お帰り」

「……終わったんですか」

「いいや、今ようやくサトルが寝たところだ。俺は薬買いに行ってくるわ」

「薬?」

 鷲尾の表情が曇る。

 それとは反対にリョウは一層嬉しそうに笑って。

「そ」

 そう言うと立ち上がって玄関に立ち尽くす鷲尾の傍へと歩いた。

「だからそれまでサトルのことよろしく。すぐ戻る」

 鷲尾はリョウの方を見ないまま部屋の奥で倒れているサトルを見つめた。

「……そうすか。いってらっしゃい」

 リョウは玄関入り口に放置していた自分の上着を手にすると玄関から雨の降り続ける外へと出て行った。乱暴に閉まるドア。微かに香る雨と混じって、鷲尾の鼻先をコンクリートの匂いが掠めた。


 濡れた服が、鷲尾の肌の体温を奪う。

 が。

 体の奥底、腹の奥の奥。

 熱く歪んだ思いがずっと熱を発して。

 寒さを、温度を感じない。


「……松崎。……生きてるか?」


 無感情に言葉が出る。

 ゆっくりと靴を脱いで部屋へと入る。

 埃くさい部屋を蛍光灯が照らして。

 あちこちには血痕が飛び散っていた。

 サトルの傍まで歩くと立ち止まり。

 その横に転がる血の付着した鉄棒に目を留めた。

 未だ額から夥しく流れるサトルの血液。

「……生臭ぇ」

 鷲尾はそう言って微かに口角を上げて笑った。

 目を閉じて動かないサトル。

 鷲尾はゆっくりと顔を近づけて。

 サトルの体を眺めた。


 今日のライブであの幾筋もの光を浴びながら立っていた。服も髪も自分の持っているものとは比べ物にならない様に感じる眩しさで、強い嫉妬を覚えた。

 いつも、少し世界が違ったらそこに立っていたのは自分だったのかもしれないのに。

 いつだって周囲はサトルを選ぶ。

 いつだって友人はサトルの意見を聞いて本当は鷲尾を笑う。

 いつだって。

 いつだって。

 いつだって。


「……当然の報い、だよ。松崎」


 世界を望んで何が悪い

 誰だって人に認められたい

 それは当然のことだろ

 お前はそれを俺からいつも奪う

 お前のせいで周囲だって腹の底で俺をバカにして

 お前が俺を認めないから

 俺の言うことに頷かないから

 全部お前のせいだ

 お前がいるから

 お前が生きてるから


 髪を伝った水滴が床で乾いたサトルの血に混じった。耳鳴りのように静けさの音がする。ぐったりと目を瞑って動かない、サトルの顔。自分が切った痕も、サトル自らがカッターで切った痕も。赤い線になって。もう血が、流れていない。

「血、もう止まったんだな」

 血で汚れてしまったサトルの首筋。

 その皮膚の下。

 強く動脈が動く。

 その、死にかけの『生』に。

 鷲尾は目を見開いて。

 サトルを跨いで上へと座り込むとサトルの首へと両手をかけた。

「……俺も、お前が。大嫌いだ!」

 力を込めて首を強く締める。

 額から流れる血液。

 外から漏れて聞こえる雨音。


 遠くで雷鳴が轟いた。




 雨音が世界を覆うようにどこまでも続くような感覚。奥崎の表情は一層険しく、全身ずぶ濡れで先頭を歩いた。その後をサトルの同級生二人。そしてレン達が歩いている。

「……正直もうヤバイかも」

 同級生の一人が怯えながら小さく声を出した。

「そうか」

 奥崎は後方を見ずにそう答えて歩く。

 前髪からは水が流れて。

 雷の光が空を白く瞬時に映した。

「今何時だ?」

 レンの声にタキが腕時計へと目を落とす。

「もうすぐ五時。もう朝だね」

「……本当に家に向かってるんだろうな!」

 怒鳴り声を上げてレンが言うと前を歩く二人が体をびくつかせた。

「もう少し、……です」

 都合悪そうに一人が答えるとレンが大きくため息をついた。一番後ろを歩くシノブは携帯を手にするとまたサトルの番号へと電話をかけるが、それも意味もなくゆっくりと携帯をまた仕舞う。

「……マツ」

 不安げにシノブが呟く。


「あ…………」


 一人が声を出して前を指差す。

 奥崎はその声を立ち止まると指を指された方向へと目を細めて睨む様に見つめた。

 雨の奥。陽気な笑みを称えてこちらへと歩いてくる男の姿が一人。

「あれ、先輩の……リョウ、さん」

 怯えるような同級生の声。

 奥崎は相手を確認すると歩みを進めて、徐々にスピードを上げ、一気に走り出した。

「オック!」

 叫ぶシノブの声と同時に派手な音が聞こえた。

 奥崎の拳がリョウの右頬に叩き付けるように当たって、そのまま体が吹っ飛んで倒れた。意識は飛んでいないらしいリョウの唸り声が雨音に混じる。

「オク!」

 レンの声。

 同級生二人はその場に立ちつくして呆然とその様子を見つめた。

 右頬に掌を当てながらリョウが辛そうな表情で上を見上げ驚いたように目を見開いて。自分へと睨みつけてくる奥崎の姿に動揺を示す。

「お……奥崎、大和」

 声が震えている。

 奥崎はその相手を無表情に見下ろして。

 それから、倒れこんだままのリョウへと踏み付ける様に強く蹴りを入れた。またリョウの体がびくついて、顔を歪ませた。

「……マツはどこだ」

 淡々と感情の感じられない声。

 リョウは黙ったままゆっくりと目を細めて。

 それから小さく笑った。

「……マツはどこだと聞いているんだ」

「聞こえてるよ、奥崎」

 笑い声の混じったリョウの返答。

 辺りに酒臭い匂いが立ち込める。

 奥崎は目を細めてリョウを見る。

「サトルなら俺の傍にいる。安心しろって」

 リョウの場にそぐわない、明るく威勢のいい声に奥崎の顔が瞬時に歪む。

「……は?」

 地を這うような冷たく低い奥崎の声。

 それを聞いてリョウが座り込んだまま両手を広げて笑った。

「だからサトルは俺の傍にずーっといるんだよ。もうお前のところには返さない」

「マツは物じゃねえ」

 即答する奥崎をリョウが鼻先で笑う。

「なんで?欲しい者を手にする、当たり前のことだろ?本当はお前だってそうしたいくせにできもしねえ、小心者だ」

「俺はサトルを愛してる。ライブで初めて見た時からずっと。レンズ越しにあいつをずっと見つめて」

「あいつをいつか手に入れるのを考えてきた」

「今日会ってやっとで深く口付けもできた。俺はサトルのために何でもする。なんでもだ。幸せ者だ。ビビりの鷲尾にも感謝だぜ」

「だから臆病者共は揃ってこのままとっとと帰れ。これからサトルの手当てするために薬買いに行ってくるんだから」

 リョウは饒舌に次々言葉を吐き散らかしながらおぼつかない足で地面にようやく立ち上がり、周囲を眺めてまた大きく笑って見せた。

 それを嫌悪の表情で見つめるタキ。

 キョウイチは己の目を疑うような人物に動揺を隠せず、ただ黙ってリョウを見つめた。

 レンは自分の前に立つ奥崎を見つめて。

「……あの写真って……」

「ああ、そうみたいだな。こいつだ」

 感情を失ってしまったような奥崎の声。

 シノブにはひどく悲しく聞こえた。

「オック……」


 奥崎の返答はない。

 雨音が激しさを増した。


「……怪我、させたのか」

「させたくてしたんじゃない。ちゃんと手当てするって」


 リョウが歩き出す。


 奥崎の横をリョウが通り過ぎようとした瞬時。

 奥崎の手がリョウの肩を掴むと同時に再度拳が飛ぶ。崩れそうになるリョウの襟を乱暴に自分へと引き寄せて。リョウの腹に膝を入れた。

「オク!」

 タキの声が雨音に消された。

 何度も人を殴りつける音。

 雨に打たれて流れる血。

 徐々にリョウの足から力が抜けてついには立っていられずコンクリートに落ちた。

 肩から呼吸をし続ける奥崎の様子にキョウイチが泣き顔を浮かべて奥崎の下へと走った。

「オク!もう止めなよ!学校にばれたら」

「あ?……知るか、糞が」

 酷く掠れた奥崎の声。

 レンがキョウイチの腕を掴んで自分へと引き寄せた。

「やめとけ、気にするな。しゃあねえよ」

「……ごめ……」

 レンはそう言ってから奥崎へと顔を向けて。

「そいつ、酔いすぎだ。もう相手にするな」

「ああ」

 奥崎の返答にタキが安堵の息を吐いて、隣にいるキョウイチへと笑いかけた。


 雨は上がることを知らず未だ降り続けて。

 空の雲は厚く光を隠すかのように見えた。

 揺れる電線。

 黒く濡れるカラス。

 酷く腫れた拳に更に力を込めて。

 奥崎は続く道の先を睨みつけた。




 静けさで耳が痛い。

 鷲尾の息が徐々に上がる。

 ぐっとこみ上げる力をサトルへと向けて。

 自分は固まってしまうんじゃないかと思うほど。

 締めつけずにはいられなかった。

 もう雨音すら耳に入らない。

 熱くなってしまった頭は思考を失って。

 ただ自分を照らす蛍光灯が邪魔に感じた。

 額を流れるのは汗なのか、水なのか。

 それもわからない。

 こんな静寂した場所で。

 あれほど出会うことを願っていた相手を。

 今ようやく消すことができる。


 違和感だ。

 不快だ。

 全てにおいての拒否だ。

 世界はこいつを望んでなどいない。

 楽に。

 楽になるための手段だ。


 鷲尾はゆっくりと異様に乾いた唇を舌でねっとりと舐めあげてさらに力を加えた。蛍光灯が映し出す自分の動かない影。

「……っうっ」

 漏れるサトルの声に鷲尾は一層瞳孔を開いて。

「……苦しいか……?松崎」

 サトルの顔へと鷲尾の涙が落ちて、汚れた床へと流れる。

「俺もお前が大嫌いだ!嫌いだ!大嫌いだ!」

 半狂乱に声を張り上げて鷲尾が更に腕に力を込めた。反る様にサトルの体が強く抵抗を示す。赤くなり出すサトルの顔。鷲尾の眼球は動揺するかのように動いて、動いて。喉の奥から笑い始めた。

「大丈夫だ、な?…これで、これで本当に終わりだ、松崎」

 その場に似合わない、睦言のように呟いて。

 鷲尾は穴が空く程サトルを見つめた。


 激しい雨音が耳を劈く。

 ドアを打ち付ける音。


 男の怒鳴り声が聞こえて。

 鷲尾は顔を上げた。

 開かれたドアから耳に入る声、声、声。

 部屋へと入ってくる幾人もの足音。

 鷲尾はサトルの首から手を離して。

 同時にサトルが瞳を固く閉じたまま苦しそうにひどく咳き込み始めた。

「マツ!」

 シノブの叫び声。

 目に入る夥しい量の血痕。

 鷲尾は慌てながらサトルの体から離れて壁際まで逃げた。

「ど……どうしてだよ!?なんで?」

 慌てふためいた鷲尾の声。

 奥崎は深く息を吐いて鷲尾を睨むもすぐに目を離して床で咳き込むサトルへと駆け寄った。

「サトル……」

 奥崎の声にもサトルは反応せずただずっと咳をし続ける。酷く腫れた顔。目に留まった首筋の赤い痕に奥崎は奥歯をかみ締めた。

「……帰るぞ。サトル」

 小さく呟く奥崎の声。

 それに反応するかのようにサトルがうっすらと瞳を開けた。繋がれた手錠には血液がこびり付いていた。奥崎はサトルの体を慎重にそっと抱き上げる。

「鍵は?」

「……これだな」

 部屋の惨状に言葉を失っていたレンが奥崎の声に反応して浅く息を吐きながら周囲を見渡し、テーブルの上にあった小さな鍵を奥崎に投げる。受け取った鍵をすぐさま手錠の鍵穴に入れて、開錠する。

 ぶら下がったままのサトルの腕はひどく腫れて。

 ――折れている。

 奥崎がサトルの顔へと視線を落とす。

「サトル、悪かった」

 沈んだ奥崎の声。

 サトルはうっすらと瞳を開けたまま口元を何度か小さく動かした。

「もう大丈夫だ。みんなもいる。俺もな」

 小さく頷くサトル。

 そのまま意識を失って奥崎の腕の中でサトルは目を閉じた。

「もしもし、警察ですか?」

 部屋の片隅でシノブが携帯電話で話す。

 その反対側では鷲尾が震えたままじっとサトルを見つめて何度も呟く。

「もう少しで……もう少しで終わりだったのに」

 ヒサシがハンカチを濡らして奥崎の腕で眠るサトルの額に深くついた傷の周辺を拭きながら鷲尾へと目を向けた。

「もう終わった」

 厳しい形相のヒサシに鷲尾は怯えたように泣き出した。呆然と立ち尽くす同級生二人は暗い表情のまま。奥崎は自分の腕の中で眠るサトルを見つめて目を伏せた。

 サトルの体の奥から自分へと振動してくる鼓動の音が強く打ち付けた。


「……心臓はちゃんと動いてる。よかったな、サトル」


 呟くようにサトルへと語りかけ。

 肩を少し震わせた。


 遠くから聞こえるパトカーの音。

 雨はいつの間にか上がり、空から雲は消えた。

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