第12話 泥濘に獄卒
サトルは口を閉ざしたまま周囲を見渡した。
鷲尾は小さく笑って周囲へと視線を配る。
「……まぁまぁ。松崎にも用事があるんだろうさ、色々と。な?松崎」
「あぁ、まぁ」
「だろ?……っホント……お前って昔から学習能力ねえのな」
鷲尾の口調が変わる。
その声が引き金だったのかも分からない。
サトルは突如目の前に広がった光景にどっと全身に汗をかいた。
今此処ではない光景。
夏の温度。
埃っぽい部室の匂い。
差し込む淡い光。
遮断された世界。
流れ落ちる赤、赤、赤。
周囲に座る同級生の笑みが曲がって見える。
「……っう、」
起きたのはフラッシュバックによる過覚醒。そんなものは知らないサトルはただ激しく襲ってきた突然の過去の現実への吐き気にその場にしゃがみこんだ。それを冷たい視線で見つめる鷲尾はゆっくりと笑みを作り、瞳は冷たいまま優しげな口調を放つ。
「そうそう。ちゃんとお前自身に俺は教えてやったはずだぜ?逆らうなって」
熱い痛みが頭部に焼けるように感じる。
掴まれた髪の毛。
鷲尾の笑みがサトルの前に揺れて見える。
「は……離せ、よ」
「具合悪そうだな、松崎。俺、……お前のそういう苦しんでる顔、大好きなんだぜ?」
鷲尾の言葉に周囲はどっと笑って。
「出たー!ドS鷲尾!」
「ホント松崎のことお前好きだよなー」
そう言って人事のように酒を煽る同級生。サトルは込み上げてくる吐き気を必死に抑えながら何度も唾を飲み込む。指先に力が入らない。
「昔みたいにまたじっくり楽しもうぜ?松崎。俺、マジお前の事愛してるんだからさ」
そう言って鷲尾はサトルの髪を力づくで自分の方へと引っ張って床へと瞬時にサトルを叩きつけた。ダン!と強く冷たい汚れた床に叩きつけられたサトルは苦しげに顔を歪ませて鳴り続ける心臓の音を鎮めようと自分の胸元を掌で掴む。
ドクン
ドクン
強く、体の奥底から鳴り続ける警鐘。
『 オ ク さ ん 』
サトルは瞳を強く瞑って声には出さず、唇で奥崎を呼んだ。
携帯から流れる留守電の声。
奥崎は小さく舌打ちをしてようやく携帯を閉じた。
「どう?繋がった?」
「……いや」
サトルへと三度、携帯を鳴らすも一向に出る気配はなく全て留守電へと切り替わった。ライブハウス内での打ち上げは終了して帰路へと向かって奥崎、レン、タキ、ヒサシは歩いていた。
「知り合いに会うって言ってたぜ?友達とかじゃねえのか?」
レンがビール片手に奥崎へと身を乗り出して話すも奥崎の険しい表情は変わらぬまま。ヒサシも心配そうに見つめるもレンの意見にそうよね、と小声で答えた。静まり返った道路沿いを車が時折走り去っていく。奥崎は妙な気分を抱えたまま空を仰いだ。
「マツ君のこと心配なんだね、オク」
タキが穏やかに話し出す。奥崎はその声にタキへと視線を向けるも無言でまた手にしていた携帯を開いた。
時刻は午前2時過ぎ。
もうとっくの昔に帰ったかとシノブへと連絡を入れたが、帰ってきていないとの返答に妙に違和感が胸元に留まった。自分に連絡が入らないとしても同室のシノブには連絡があるはず。外泊は厳禁。そんなことはサトルも承知のはず。なのに、連絡ひとつないなんてことがあるか。
奥崎はまた舌打ちして携帯を開いたままメールを打ち出す。
好き、と言われてキスを交わした。
それからすぐの拒否・拒絶。
サトルは、鮮明に見えていると思っていた。
文化祭から理解できなくなったことに奥崎は苛立った。
文化祭――……
泣いて、屋上へと走ってきたサトルの姿が脳裏に思い出される。まるでなにかから逃げてきたかのような様子だった。
何かがあった、きっと。
何があった?
何が……
奥崎は下唇を軽く噛むと前を歩いていたレンが足を止めていることに気付いた。レンを通して歩く道の先へと視線を投げるとそこに立っている人物が月明かりに照らされて見えた。
見たことのあるシルエット。
「キョウイチ」
タキの声に奥崎が眉を微かに顰めた。よく見ればそれは確かにキョウイチの姿。心なしか不安げにこちらへと向かって手を振っているようだった。奥崎はレンの前に出てキョウイチの側へ行く。
「中坊がこんな深夜にうろつくな。ちゃんと帰れ」
「わかってるよ。松崎先輩に……ちょっと話あって」
緊張した面持ちのキョウイチの様子、が、奥崎の後方から怒声にも似たレンの声が響く。
「何しに来たんだ?そいつ」
「レン」
諌めるようにタキがレンへと声をかけるもレンの表情はきつくキョウイチを睨みつけていた。奥崎は小さくため息をついてからレンへと振り返って。
「こいつとはちゃんと話した。そんなに怒らないでやってくれ」
「ふぅん。……つってもうちのヴォーカルなら今日いねえぞ、キョウイチ」
「え?そうなんだ……」
レンの嫌味を込めた口調にキョウイチは一瞬怯むも小声で話してから視線を奥崎へと向けた。
「ごめん、松崎先輩もう帰っちゃったんだ。待ってて損した、ちょっと」
苦笑いを浮かべてキョウイチが話す。
それを宥めるように奥崎がキョウイチの顔を見て小さく頷いてみせる。
「気にするな。マツには後日でも会えるだろ」
「……柄じゃないんだけど長引かせるのも嫌だったから、ちゃんと謝ろうと思っただけ。わかったよ」
「待って」
四人へと一礼して振り返ろうとしたキョウイチへとタキが珍しく声を張り上げて引き止める。キョウイチは不思議そうにタキへと視線を向けて首を緩く横へと動かす。
「キョウイチ、この封筒って見覚えある?もしかしたらキョウイチのファンの子かな、と思ったんだけど」
タキが鞄から赤い封筒を取り出してキョウイチの前へと差し出す。キョウイチはそれを手にとって街灯の下へと歩きながら見て、苦笑を浮かべる。
「あ、これね……こないだオクにも聞かれたけど。マジで見覚えはないよ。なんか、した?」
「俺はお前のこと疑ってたんだよ、今までが今までだからな」
キョウイチの問いにレンが皮肉に答える。タキはそれを見てレンの方へと視線を向けるも軽くレンに無視されてため息を付く。
「全部マツ君のね、写真が入ってたんだ。ライブはもちろんプライベートな写真も。正直キョウイチの関係者かなと思ってて……ごめんね」
「ううん。こないだオクにも同じ事聞かれたし、俺もそういう事に思い当たる節があるから謝ろうと思って待ってたんだし、別に……え?写真……?」
「でもキョウイチが関係ないなら良かったわ。私ちょっと安心しちゃった」
ヒサシが安堵の声を上げるもキョウイチは途中で急に浮かない表情になる。
「待って、写真、だけ?写真だけ入ってた?」
「あぁ」
キョウイチの問いに奥崎が答える。
文化祭で見たカメラを手にしていた人間。
キョウイチは難しそうな顔をしながら再度封筒へと目を落とした。
様子がおかしかったサトル。
急にフラッシュを向けたサトルの友人。
疑問が脳裏を過った。
「……松崎先輩の友人って人、この前のオクたちの文化祭に来ててさ。松崎先輩の事勝手に写真撮ってたんだよね……」
キョウイチの言葉に周囲が一瞬沈黙する。
「……文化祭?」
再度奥崎がキョウイチへと問うとキョウイチは強く頷いて。
「うん。確かだよ。悪質っていうか、失礼なファンかな?って初めは思ったんだけど。その後松崎先輩と会話してたから顔見知りなんだなぁと俺は思ってさ。ただ、その人がいなくなってから俺松崎先輩と少しだけ会話したんだけど……なんか様子がすごい変だったから。オクの事呼ぼうかって聞いたぐらい」
キョウイチの言葉に奥崎はふいに手にした携帯を見つめた。
――いやな
いやな予感がする
「オク!」
急にその場から走り出す奥崎の背へとレンが大声で叫ぶも奥崎は速度を増して走った。
屋上で急に抱きついてきたサトルの腕
苦しげな表情が鮮明に浮かぶ
あれはサインだ
サインだった
『心臓の音が、嫌いなんだ』
「……糞は俺かよっ……」
奥崎は切れる息を押し殺して深夜の路地を走り続けた。橘の第一寮の前まで奥崎は全力疾走して門近くまで来ると鉛のように重い足を引き摺るように歩いた。焼け付く喉の渇き。そんなことより。空にナイフの如く浮かぶ月が一層不安を募らせた。
「オック!」
冷たい外気に混じって呼ばれた自分の名に奥崎が頭を擡げるとシノブがこちらへと足早に近づいてくるのが見えた。
「おい、マツからあれから連絡あったのか?こっちには全然ねえぞ、ずっと携帯かけてるんだが一向に出やしねえ」
「……そう、か」
熱い喉から振り絞るように声を発する。
奥崎はシノブの言葉に小さく舌打ちをして道路横の電信柱を見つめた。
「おい、なんかあったのかよ?」
「…………かもしれねえ」
「……は?マジで言ってんのかよ?」
「あぁ、冗談でどうする」
「どうするって……なにがあったんだよ!お前マツになんかしたのか?!」
「俺はしてねえ。アレ以来、話もロクにしてねえ。……知ってんだろが」
怒りを徐々に露にするシノブへと苛立ちながら奥崎がため息混じりに答える。
連絡が取れない。
どこに行った?
どこにいる?
ただその知り合いと会ってるだけか?
写真、友人、…………
奥崎は長い瞬きをした後深くため息を吐いてシノブの腕を手で掴む。
「部屋に入れろ。マツの荷物に友人の連絡書いてる手帳とかあるかもしれねえだろうが」
「……わかった」
あまりに真剣な奥崎の表情にシノブは気圧されながら寮内へと戻った。
時間が進むにつれ不安が募る。
あまりに長く感じる夜に奥崎は瞳を細めた。
腹の奥底から深く重い痛みが吐き気となって込み上げる。埃塗れの汚れたフローリングが縦に映った。サトルは衝撃に強く噎せながらも体を起こして重い体を引き摺るようにドアへと向かって走ろうとした。
同時に体を鷲尾を含めた同級生三人に抑えられ、奥の部屋へと体を放り出される。腰から床へと叩きつけられ再度、苦しげに声を上げる。
足で蹴り上げられた腹が鈍く痛んでサトルはいつの間にか指先に大量についた血に気付いた。
ゆっくりと震える手で顔を撫でるといつの間にか額から血が頬を伝って流れていた。
徐々に硬直していく指先。
そして震え。
倒された姿勢のままゆっくりと眼球で自分を見下ろしている同級生を見上げる。満面の、蛇のような笑みが自分を見つめて。
だらだらと流れる汗にごくりと音を鳴らして込み上げる唾を必死に飲み込んだ。
「だからぁ、ダメだって松崎ぃ。今日は帰れないんだよ~?」
同級生の一人が酒で真っ赤になった顔をしてふざけた口調で喋る。それに頷くもう一人の同級生も白い顔で平然を装って。
「だからいつも鷲尾に殴られるんだっつうの。聞き分け良くしてろってアドバイスしてやったじゃんか、昔」
クスクスと女々しく笑う同級生。
サトルは三人を凝視したまま動けずにいた。
遠くから携帯のバイブが鳴る音。
それをゆっくりと鷲尾は拾い上げてサトルの前へと静かに置いた。
「着信さっきから五月蝿え。自分で消せよ?松崎」
静かに、冷静に、鷲尾が話す。瞳は獲物を捕らえたかのように輝いて、サトルは鳴り続ける携帯を見つめた。
『着信 奥崎大和』
サトルは浅く息を吐いてゆっくりと携帯へと手を伸ばす。と、同時に鷲尾がその携帯を先に拾い上げると有無もなく躊躇もせず携帯の電源を切る。
「……奥崎って、友達?」
鷲尾の問いにサトルは動けぬまま黙った。
こんな世界に巻き込まない
サトルはそう思ってゆっくりと首を横に振った。
鷲尾が電話に出れば居場所を奥崎は聞く。
答えても答えなくても鷲尾は不利だ。
きっとこの男はそんな事はわかっている。
サトルはそう思って小さく笑った。
「……俺の友達はお前だろ……?」
サトルの声に鷲尾は面食らった顔を瞬時にするも、すぐさま嬉しそうに笑みを浮かべて。
「よぉく、できました。松崎。それでいいんだよ、俺らずっと友達だもんな」
ニィ、と不気味に鷲尾が笑う。
サトルはさっきから何度も込み上げる胸苦しさ、吐き気に少し顔を床へと伏せて咳を繰り返した。
ヒュ、と空を切る音が聞こえて顔を上げる。
床を滑ってこちらへと流れてくる一本のカッターナイフが丁度サトルの目の前で止まった。
見覚えのある、カッターナイフ。
サトルはそれをじっと見つめたまま瞳孔を開いた。
「なぁ、これ覚えてるか?松崎」
鷲尾が優しげに話し出す。
「これは俺の大事な思い出の品なんだよ。アレ以来大事にしてたんだ」
「……カッター……」
「そ。これだったよなぁ、今でも思い出すと身震いする。凄かったよなぁ、お前の血」
「……血……」
サトルの発する声に鷲尾は徐々に不快な表情を浮かべてサトルの前にしゃがみこんだ。
「なんだお前、マジで覚えてねえのか?信じられねえな。あんなにすごかったのに忘れられるか?普通よ」
鷲尾は笑って言った。
それから予備動作もなくいきなりサトルの頬を張り手で吹き飛ばす。反射的に顔を歪ませてサトルはきつく目を瞑る。けたたましい音が耳の奥を貫き、遅れて頬の熱さが襲ってくる。
しゃがんだ状態のまま自分を見下す鷲尾の表情はなく、床に転がるカッターナイフを拾い上げるとキチキチと音を立てながらカッターの刃を長く出す。
「……償い方を、知ってるか?松崎」
瞬間、サトルは酷く眩暈を覚えた。
濁ったオレンジの室内灯がぐるりと回って。
床が地震のように揺れた気がした。
真夏の熱が体の中に溜まっている。
呼吸をするのもままならない。
埃っぽい部室。
ドア付近には冷たい瞳の同級生等が鍵を容赦なくかけて満足気に笑った。擦りガラスの向こうにはきっと太陽が空高く昇っている。部室内の気温は上昇を続けた。
部屋中央。サトルは椅子に座らされている。
正面には鷲尾が満面の笑みでサトルを見下す。
体からは汗を噴出し、眼球が不安で見るところも無く勝手に動く。暑い筈なのに、頭のどこかが酷く冷えて、サトルは鳥肌状態に陥った。
「俺等ってずっと友達じゃん?松崎」
「……うん」
弱い声で答えるサトルは俯いたまま正面にいる鷲尾を直視できずにいた。そんなサトルの様子に鷲尾は大きく聞こえるようにため息をついて。
「……うん、じゃねえよ!」
大声を出したと同時にサトルの座っているイスを力任せに蹴る。その行動に驚いたサトルは瞳を大きく見開いたまま慌てて自分の手元に視線を落とす。
鷲尾の荒々しい呼吸を黙って聞いた。
「……なぁ。うん、じゃねえだろ?お前って昔から計算高くて目立ちたがりでな。俺がどんなに頑張ったって全部良い所持っていきやがる。こっちの身にもなってみろよ。いい加減頭にくるわ」
べらべらと早口で鷲尾が話す。
サトルは並べられた言葉を上手く理解できずただ黙って、動かず、小さく息をした。
「なんとか言えって!松崎!」
後方から怒声が飛ぶ。
サトルは無意識に動揺して小さく、ごめんと一言言葉を発する。
「ごめん、とか演技もういいから。お前のそういう所疲れた。人に認められない人間の気持ちなんてお前にはわからねえよ」
鷲尾の言葉にサトルは胸の内に溜まる疑問を抱えてゆっくりと顔を上げるが、鷲尾の酷い形相にまたすぐに視線を逸らす。
「俺は……」
小さく、震えた声をサトルが出す。
「俺は、別に目立ってなんかねえよ。それにお前からなんか取ったりとか……してない」
「あ~あ、自覚なし、はい。重症~」
サトルの言葉を遮って鷲尾が笑いながら言い、そのまま。
急に頬を平手で殴られた。
サトルは顔を伏せたまま驚いて言葉も出なかった。
なにが起こったのか、理解できるまでに時間がかかり、ゆっくりと鷲尾へと顔を上げる。
「いちいち俺に逆らうなよ、松崎。黙って俺に従ってりゃいいんだ」
軽蔑の眼差しを向けられてサトルはゆっくりとイスから立って。
一瞬、鷲尾を睨みつける。
「……身に覚えがない。俺は部活に戻るよ、先生も怪しむだろ?」
そう言ってサトルがドアへと方向転換したと同時に頭部を固いなにかで思い切り殴られ。周囲からは小さく声が上がった。サトルは焼け付くとんでもない痛みに顔を歪めながら地へと膝をついて小さく唸り声を上げた。鷲尾の手には金属製の棒が握られ、それを不敵な笑みで見つめていた。
サトルは酷く痛む頭へと手を当てながらまたゆっくりと立ち上がり。
「……お前……」
「……はい、人を傷つけた人間には必ず罰が下るんです」
「な、何言ってるんだよ……」
徐々に鷲尾の笑みに不安を感じ、サトルは後ずさりしながら鷲尾の手に握られている金属製の棒を直視した。言葉が通じる気がしない。
「俺は逆らうなって言ったんだぜ」
「落ち着けよ。鷲尾……逆らうとかそういう……」
「いいや、お前は俺に逆らった。償えよ」
「だから」
「償えよ!!」
あまりの剣幕にサトルは言葉を失って、その場に立ち尽くしたまま。鷲尾は深く深呼吸してから再びゆっくりと笑みを浮かべて。
「さぁて、はい、これ」
学生鞄から鷲尾が取り出したのは美術の時間に使用したカッターナイフ。
それをサトルへと笑顔で差し出す。
「……え……?」
その行動に戸惑うサトル。
が、後方から背中を蹴られ床へと再度倒されて。
目の前にカッターナイフを置かれた。
「鷲尾の邪魔ばっかすんなって」
「どうやって取り入って部長になったんだよ」
「マジ最低」
「ほら、ちゃんと償えよ」
次々と飛び交う罵声。
サトルはただ黙ってカッターナイフを見つめた。
――意味が、わからない。
正面にいる鷲尾は蛇のようにゆっくりと笑って。
「償い方を知ってるか?松崎」
いつの間にか勝手に震えだした体にサトル自身動揺するも震えは酷くなるばかり。
これは悪い夢だ。
きっと起き方を忘れてしまって。
どうやって起きればいい?
そんなことを必死に考えて。
「ヤクザでもけじめで指を落とすんだと。知ってるか?」
首を強く横に振るサトル。その様子に鷲尾は気分良さ気に一層笑みを深くして。
「でも、俺はそんなに鬼じゃない。俺たち、友達だろ?」
サトルの唇が小さく震える。
「だから」
長い刃が僅かな光を受けて。
サトルの目を刺激する。
「…ぁ」
ドクン
引かれたと同時に腕から細い線を作って赤い液体が心臓の音を立てて流れる。
「こうやってやるんだぜ?松崎」
ドクン
音
音がする
聞いたことのある
あぁ
これはきっと
カウントダウンだ
サトルは大きな瞳から涙を落とした。
目の前に広がる光景。
あまりに酷似していて今かあの時かも分からない。
ぱっくりと割れた自分の腕から血が流れ落ちて、汚いフローリングを一層汚した。汚いフローリング。これは、今だろうか。
「……あ……あ、」
サトルは小さく声を漏らして。
震えの強くなる腕をもう片手で必死に押さえる。
「逆らう度に傷は増えるだけだぜ?なぁ松崎、そうだったよなぁ?」
「……鷲尾」
酷く、擦れた声がサトルの口から漏れる。
周囲の同級生もアノ時と同様。
酷く興奮した顔でサトルを見つめている。
「ちょっと俺の手元が狂えば、……お前はいつ死んだっておかしくない」
鷲尾はそう言って喉の奥底で笑った。
止まらない腕から吹き出る血。
流れる血潮。
それと同時に鳴り続ける痛みの音。
サトルは深呼吸を何度もして、自分の耳元で疼く心臓の音を無視しようとした。
「どうしたんだよ?松崎」
興奮しきった笑みを浮かべる鷲尾。
サトルは目を伏せて大きく息を吐く。
それからゆっくりと瞳を大きく開け。
鷲尾をきつく睨みつけた。
「……おい。松崎……その顔なんだ?!」
鷲尾がカッターを手にしたままサトルへと怒声を浴びせる。周囲の人間も小さく笑ってサトルの態度を見る。
サトルは鷲尾を睨み付けたまま動かずただ黙って、鷲尾から視線を逸らさず、睥睨した。
「その目付きなんだ?!」
明らかにサトルの態度に気付いた鷲尾の声が一層音量を増して部屋に響く。
「おい、松崎やめろって。マジで殺されるぜ?」
冷やかすように笑う同級生の声。
それでもサトルはそちらへと耳も貸さず、目の前にいる鷲尾から目を離さない。
苛立った鷲尾はカッターの刃先をサトルの目の前へと向けて顔を歪ませて笑う。
「ほら、また切られてぇのかよ?松崎!!」
怖く、ない
屈するために来たわけじゃない
ここで
これで
終わりにするために来たんだ
自分のいたい場所にいるために
自分の全てを拭い去るために
あの人の隣で
立っていられるために
ここは
俺のいたい場所じゃない
ここは
――俺の居場所じゃない
頭の芯が冷えてしまったかのような錯覚にサトルは額に汗を掻いた。でももう、気持ちは動かなかった。そうする、と決めた。
目の前でちらつくカッターナイフへと視線を落とすと無表情のまま刃先を掌で握り締め、自分の胸元へと強く引いた。
鷲尾はサトルの行動に驚愕して思わず手にしていたカッターナイフから手を離すと後方へと二、三歩後ずさりした。
興奮していた周囲もいつの間にか静寂と化した。
サトルの手から床へと赤い血液がボタボタと落ちた。
「……俺も今日は話があって来たんだよ、鷲尾」
静かにサトルが声を出す。
それに対して返答はなく、ただ周囲は息を呑んでサトルを見つめている。掌から疼く鼓動が邪魔に思ったが不思議と痛みはない。サトルは床に落ちる血へと視線を落とすもすぐにまた鷲尾へと顔を向けて。
「ちゃんとお前等と決別したくて、来たんだ。俺はもうお前らと関わりたくない。二度と」
「……は、……は?」
思ったよりも動揺の激しい鷲尾にサトルは観察するように見つめるもすぐにまた口を開いて。
「だから、もうお前等とは会わない。やりたいことも、居たい場所もできた。切られるのも命令されるのも、嫌だ。だからこれでお別れだ」
不思議と心と呼ばれる部分は落ち着いていて、サトルは先程の不安が嘘のように感じた。皮膚を裂かれたはずなのに、血液は流れていくのに。鼓動は徐々に静まって、サトルは手にしていたカッターナイフを床へと静かに置いてその場に立った。
「……ちょ……ちょっと待てよ!松崎!」
鷲尾の悲鳴にも似た声。
サトルは真っ直ぐに鷲尾へと顔を向けて。
「カッターナイフ、錆びてたらごめん。じゃあそろそろ行くよ。みんなが心配する」
サトルはそう言って床に転がった携帯を拾い上げてズボンへと仕舞う。軋む体を無理矢理動かして背を向ける。
「やっぱりヴォーカルになっていい気になってるだけじゃんか!そういうことだと思ったぜ!お前はそうやって周りの人間馬鹿にして生きてる奴だ!俺のことも片っ端から否定しやがって!なんでいちいち逆らってくるんだよ!黙って言うこと聞いてりゃいいだけの話だろうが!なにが気にいらねえ?!」
「……鷲尾や周りの人間を否定したつもりも馬鹿にしたつもりもないよ。ただ、俺とお前が合わない。俺は痛いのは嫌いだよ。切られたくない。嫌なことを言われて、されて、鷲尾に従う理由がない。鷲尾は痛めつけるのが好きで、痛めつけて楽しんで友達を従わせたい。俺とお前が合わない。それだけだろ?……こういう仲は間違ってると思ってたんだ。だから高校も教えなかった。……薄情だと言われても言い訳はしない。俺はお前が怖かったんだから。でも、もう逃げちゃだめだと思った。だから来たんだ」
「それではい、さよならバイバイって?!お前の言う通りになると思うなよ!ちょっと歌歌えるからっていい気になりやがって!」
鷲尾の大声に周囲の同級生も緊張した面持ちでただ突っ立っていた。
瞬時、自分の右頬に熱く鈍い痛みが走った。
サトルの頬を拳で殴った鷲尾は肩から深く息を吐いて小さく笑おうと顔を引きつらせて。
サトルの目から見て、鷲尾が思っていたより、頭で描いていたよりも小さく見えた。
あれだけ恐怖を抱いていた相手だったのに。
自分の言葉に動揺している。
時が流れる。
人は成長する。
確かに友達だった時期もあった。
交わした約束とかもあっただろう。
でも自分の居場所へと奥崎が連れて行ってくれた。
酷く不安定な場所ではなく。
熱く真っ白な温かい場所に。
『不安か?』
耳の奥に聞こえる奥崎の言葉。
サトルは小さく首を横に振って。
目の前で必死に笑う鷲尾を見据える。
自分がここに来たのは
決別するため
不安と決別するため
そしてあんたを守るため
不安なことなんてあるもんか
望んで、ここへ来た
目の前にいる人間を裏切っても
傷つけたとしても
それも
自分が望んだんだ
「……なんだよ?なんか言いてぇのか?!松崎!」
「ああ、うん」
「言ってみろよ、遠慮するなって」
大声を上げて叫ぶ鷲尾。
サトルは小さく呼吸する。
「お前が大嫌いだよ」
そう言うとサトルは鷲尾の襟を掴んで自分へと乱暴に引き寄せると拳を強く振り下ろした。鷲尾は床へと叩きつけられて殴られた自分の頬を庇うように手で覆いながらサトルを驚いた形相で見つめていた。
「ふ……ざけやがって!」
情けなく響く鷲尾の声。
埃まみれの綺麗とはいえない部屋。
小さなテレビ。
酒やつまみで汚れたテーブル。
サトルはそんな周囲を見つめて。
それから自分の傷口へと視線を落とした。
未だに血の止まらない傷口。
その奥底から伝わってくる、痛みを増す。
心臓にも似た鼓動。
「……じゃあ、帰る」
サトルはそう言って自分の前に座り込んでいる鷲尾を見てからゆっくりと背中を向けて少しさび付いたドアノブへと手をかけた。
早く
早く会いたい
オクさん
あんたの顔が見たい
逸る想いがサトルの表情を和らげた。
――やっと、話せる
――やっと、好きだって
ぬらりと。
視界に背中から腕が現れた。
驚愕したサトルの首元へとその腕は絡みついて一気に後方へと引っ張った。足下を掬われた視界が部屋を認識出来ず、汗ばんだ酒臭い掌がサトルの口を塞いだ。
「おい、もう話は済んだのか。鷲尾」
ひどく掠れた男の声が少し笑って聞こえた。
「……!っ……んっ!」
口を塞がれて篭った声が漏れる。
「サトル、おとなしくしてくれよ」
宥めるような男の声。
酷く酒の匂いが体に染み付いてきそうな気がした。
サトルは立ったまま背中から自分を拘束している、奥崎ほども体格のある男を、口を塞がれたまま目で伺った。
微かに視界に入った男の口は笑みを浮かべて、薄い唇を赤い舌が舐めた。
「先輩、まだちょっと待ってくれよ。今立て込んでて」
鷲尾らしくない弱気な声。
それを払拭するかのように男は鼻先で笑い飛ばして。
「はぁ?さっきから聞いてたけどもういいだろ。相手を支配してえつって、てめえが一瞬でも怯んだら終わりなんだよ、タコ」
擦れた声が笑う。サトルは強く自分の腰へと巻きついている男の腕へと視線を落とした。黒いジャケットから覗く、黒いタトゥー。気付かれぬように生唾をゆっくりと飲み込み、そのままサトルは正面の鷲尾へと目を向ける。鷲尾はすごい形相でサトルを睨むも、サトルの隣にいる男へと目を向け表情を硬くした。
悔しそうに部屋に響く鷲尾の舌打ち。
「……わかった。俺の用事はこれで終わり。あとは先輩の好きに」
「やり方がぬりぃんだよ、お前は。相手を支配するっつうのは恐怖だけじゃダメなんだぜ?」
サトルの口を封じて片腕で抱き竦め、横顔が見えるほど身を乗り出した、形のいい男の瞳が怪しく笑う。鷲尾はそれに情けなく笑い返すと周囲の同級生へと顔を向ける。
「お前ら外出るぞ。俺らは邪魔だ」
冷たい口調が響く。鷲尾が赤く腫れた頬を庇いながらよろよろと立ち上がると、同級生たちも戸惑いながら素直に頷き各々鞄等を持って玄関へと足を向けた。
サトルはその状況に不安になり、必死に男の腕から逃れようと腕に力を入れるもびくともせず。
自分の前を通り過ぎていく鷲尾を目で追うと鷲尾がサトルの視線に気付く。
「……終わったら戻ってきてやるよ。俺に逆らったお前が悪い。せいぜい痛い目見るんだな」
言葉を吐き捨てて鷲尾は冷たい表情のまま開かれたドアを出る。けたたましい音を立てて扉が閉められた。
そこから、出る筈だった扉が、閉められた。
しんと急に静寂に落ちた汚い部屋でサトルは不安気に何度も目を泳がせた。ゆっくりと自分の口から男の手が離れ、同時に背中から両手で強く抱き竦められた。
「……やっとサトルにちゃんと触れた」
嬉しそうに擦れた声で笑う男。
サトルは身を硬くしたまま動けず、ゆっくりと頭だけを動かして後方へと顔を向けた。
「……あ、あの」
「サトル」
名を呼ばれたと同時にその体勢のまま強く唇を奪われた。サトルは大きく目を見開いたまま相手のキスに驚愕した。荒々しく音を立てて自分の口へと侵入してくる熱い舌はアルコールの匂い。サトルはむせ返る酒の味に顔を顰めて全力でその男の手から逃れようと顔を必死に動かそうとするも首ごと相手の手がサトルを捉えていた。
チュ、と水音を立てて男の舌がサトルの舌を絡めては奪う。
ドク、と心臓が嫌な音を立ててサトルは顔を顰めて全力で抵抗する。
「……っ!やめろ!」
サトルは無理矢理に口を離して大声で叫びながら相手の腕を振り解いた。勢いが付きすぎたせいか、その場にサトルは転んで、振り返ると男は自分の口元を指先で拭いながら笑って。
「サトルはやっぱり優しいよなぁ。キスしても舌どころか俺の唇噛むこともしねえもんなぁ」
鈍く光る相手の眼光。
肌も朝方の青味を受けて恐ろしくサトルの目に映った。座り込んだままサトルは後方へと身を引いて。
「ちょ……ちょっと待って。あんたは、なんだよ?鷲尾の先輩なんだろ?」
「あぁ、俺?そ、鷲尾の先輩。リョウって呼んでいいぜ」
へら、と笑うリョウ。
サトルは全身に瞬時に鳥肌が立った。
鷲尾よりもこの人は異様だ。
逃げなきゃ、逃げなきゃダメだ。
胸元が早鐘を打った。
まるで警鐘のように。
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