第11話 慣れ親しんだ地獄の入口

 外気を熱い体が感知できなくなった。


 舌先を絡め取られるような無言の中の行為。

 奥崎の唇が柔らかく何度も優しげに愛撫して。

 サトルは必死にそれに応える。

 この場に居ると確信が欲しくて熱くなった体が奥崎を求め始めているのが解る。それでも今この瞬間、必死に奥崎へと伝えたい想い。頭の芯はきっと溶け出して、もう情けない顔で奥崎へと向いているだろう。サトルはそう思いながらも続けてくる奥崎のキスが嬉しかった。

 硬直していたサトルの腕がぎこちなく奥崎の首へと回されて、小さく奥崎が笑った。


 眩暈を起こすほどの青い空はきっとまだ上に存在している。時折吹く風の温度がわからない。乾燥しきった葉が音を遠くでけたたましく鳴らしている。下からは生徒たちの活気に満ちた声。


 屋上に張り巡らされた柵が世界を分ける。

 二人きり、ただただキスに溺れて。

 そんな行為がサトルはとても嬉しくて涙が止めることができなかった。


「……まだ泣いてやがるのか」

「あ、ごめ……ごめん」

「別に。いい加減慣れた。ファンにそんな顔見せんなよ」

「うん、ごめん」

 弱弱しく擦れたサトルの声。奥崎は無言で、それでも少し笑ったまま、サトルの頬を伝う涙が指先で乱暴に拭った。そのまま困ったように、泣き顔で赤く腫れたサトルの顔を奥崎は覗き込むように見つめて。

「泣いた顔だってすぐバレるぜ、それだと」

「そ、うかな。やべ…」

 顔へと手のひらを当ててサトルがぎこちなく笑うもすぐ奥崎がその手を緩く振り払ってまた唇を奪う。下唇からゆっくりと舐められ、サトルの体がびくりと反応する。まだ慣れないサトルの様子を唇から読み取って、奥崎は大きな自分の手でサトルの頭を捕らえると噛み付くようなキスをする。

「……っ」

 微かに口元から漏れるサトルの吐息。

 奥崎は薄目でそれを笑う。

 頑なに目を瞑るサトル。

 そんなサトルの様子にキスをしたまま奥崎は自分の腕の中へとサトルを抱きしめる。


 風は変わりなく吹く。

 それでも夢中になってキスを交わす。


 今まで口にしなかった言葉全てを相手へとぶつけるように。想いの全てを確かめ合うように。それはとても幸せで、時が止まったような気さえ起こした。

「……も、限界かも」

「なにが?」

 涙声のサトルは変わらず赤い顔で困ったようにキスの最中に声を出した。それへと即答で問う奥崎。答えようと口を少し開いたサトルの中深くへと舌を絡めていく奥崎。サトルが困ったように少し唸った。

「ま、……待っ……てよ、オクさん」

「悪いが、俺も限界なんだよ」

「……へ?あ、キス、が?」

「いいや」

 鼻先で笑ってから奥崎がゆっくりとサトルから唇を離す。自分へと大きな瞳で見つめてくるサトルを奥崎は優しげにじっと見つめて。

「好きな奴とこうやってキスしてんだ。体が反応するのは普通だろうが」

「から、体……あ、そう、だよな。ご、ごめん」

「……すぐに取って食おうとは思ってねえ。まぁ、お前が望むなら俺はいつでもいいけどな」

 奥崎の意地の悪い言葉にサトルは何かに殴られたかのように驚いて首をすぐさま横に振った。

「お、オクさん……冗談、よせって」

「は。冗談でこんなこと言うか。バカ」

「ご、ごめん。ごめんな」

「好きだよ、お前が」

 強く屋上に風が吹くと同時に葉の茂る音が一斉に鳴り響いた。

「オクさん……」

 いつの間にか穏やかになっていた自分の気持ちにサトルは呼吸してから気づいた。

 ――と、同時。

 急に不安や恐怖が込み上げてサトルは表情が凍りついた。

 ――多分、多分。

 ――自分は取り返しのつかないことをした


 ゆっくりと息を吸い込む。


「……ごめんな。急に好き、とか。お互い男だからもっときちんと考えるべき問題だよな」

「は?」

「……だから、同性同士じゃんか、俺たち。オクさんの邪魔になるような想いを俺が抱いてたって事だよ」

「あぁ、上等だな。つうか邪魔なんざ言ってねえ」

「そう……なんだけど。やっぱり良くねえよ……こんなの」

「俺とお前が良ければそれでいいじゃねえか」

 ――ああ

 サトルは顔を覆って泣き出してしまいたい衝動に駆られる。

――俺もそう思う

 けれど、そうは出来ない。ただ、本当に。

 ――好きだよオクさん

「急にどうした?やっぱりなにかあったのか?」

「別に、ないよ」


 俺はこの人を

 オクさんを自分のことに巻き込もうとしたんだ

 きっと


「サトル」

「ごめん、なんか自分でもよくわからない」


 怖いから

 鷲尾が怖いから

 この人に甘えて手を引いてもらって

 助けて欲しいと望んだんだ


「わからねえ?わからねえわけねえだろ」

「本当にわからないんだ」


 手を引いて

 手を繋いで

 俺の世界をぶち壊してほしい

 オクさん、あんたの隣へいきたいよ


「……やっぱ好きじゃねえってことか?」


 好きだよ


「……かもしれないな」


 真っ青になった顔。

 口から得意の嘘が吐き出される。


「……いい加減にしねえと怒るぞ、サトル」

「いいよ」


 わざと、小さくサトルは笑って見せた。

 それを無表情に見つめる奥崎の眉がひそむ。


 ごめん

 こんなままじゃ傍にいれない

 好きなあんたの傍にいれない

 くだらない俺の色のない世界

 あんたは絶対に関わらせない

 あんたを傷つけない

 だからあんたを近づかせない


「何だってんだ、ホント」


 呆れた様な奥崎のため息。

 サトルの胸の奥が強く痛む。

 それでも、ダメだ、とサトルは思った。


「さっきの、取り消し……なかったことにしよ」


 きっと今ひどい言葉を吐いているだろう。

 サトルは瞳に涙を溜めたまま少し笑った。


 縋りたい、こんな気持ちで吐いた好きなんて

 今の俺の言葉をあんたに渡したくない

 もっと本当の強い想いでぶつけたい

 ここまで手を引いてくれたあんたに

 ちゃんと好きと言えるように


 俺は、俺の腐ったあの今も残っている世界を

 ぶっ潰してくるから


 その間にあんたが俺を嫌っても

 その間にあんたが俺を罵っても

 俺はあんたが好きだよ


「……ごめん」


 溜まってしまった涙を落とさぬように、サトルは奥崎の横を通り抜けて屋上のドアを開いてその場から立ち去った。


 ――泣くなら、一人で泣けばいい

 サトルは涙で歪む校内を全力で走った。


 風はとどまることを知らず、吹く。

 揺れる染めた前髪が少し視界に入る。

 残された奥崎は深くため息をついてその場にしゃがみこんだ。

「……ざけんな、糞が」

 呟いた声が容赦なく木枯らしに消し去られた。




 文化祭が過ぎて。

 外の気温は日に日に冷えて、紅葉していた葉のほとんどが地面へと落ちた。

 あれ以来。

 奥崎とは会わないようにサトルは心がけた。

 自分の想いももちろんあったが、それよりも。

 奥崎と会うのが怖かったから。

 きっと酷く振り回して傷をつけた。

 それを見るのが怖い自分を自嘲したりもしたがサトルはゆっくりと呼吸をして、鷲尾と会って以来鳴り出して止まらない心臓の音に耳を傾けた。

 徐々に速度を上げる心臓。

 いつになっても止まらないこの大嫌いな音。

 それでも、もう逃げるわけにはいかないだろう。

 サトルは鞄に仕舞いっ放しにしていた鷲尾から受け取った手紙を取り出した。

 ゆっくりと指先で封を開ける。

 中には一枚の紙。それを引っ張り出してサトルは自室でしゃがみこんだ。書かれていたのは場所や時間ではなかった。サトルの瞳が大きく開かれる。


『お前の携帯番号は知ってる』


 ドクン、と心臓が強く打つ。

 自分で思っていたよりも根強く過去は生きていたようだ。

 サトルは少し笑った。

「マジ怖いよ、お前が」

 他に書かれていたのは携帯番号とメルアド。

 それ以外は記されていないようだった。

「……連絡取りに来いってこと、だよな」

 ズボンへとしまっていた携帯を取り出してじっと見つめる。

 震えている自分の指先。

「情けなさすぎ……」

 サトルは無理やり生唾を飲み込んで紙に書かれた番号を手早く押し、そのまま通話ボタンを押そうとする。

「ただいま」

 バタンとドアが閉まる音に驚いてサトルはその場に腰から座り込んだ。

「び、びっくりした。神崎……」

「んだよ?ちゃんとただいまって言ったろうが」

 陽気に答えて部屋へと入るシノブをサトルはそうか、と呟きながら目で追って。疲れた様子のシノブは生欠伸をしながらダルそうに制服を脱いで部屋着に着替える。

「文化祭……終わった後も生徒会は忙しいんだな」

「おお、そりゃあな。今度の全生徒集会ん時に発表する議題作ってんだよ。なんかねえ?困ってること」

「困ってること……」


 鷲 尾


 すぐさま浮かんだ鷲尾の顔にサトルの顔が一瞬曇るもすぐにシノブの前で困ったような顔をして。

「う~ん……今のところは。ない、かな」

「だよなぁ。はぁ~面倒くせ」

 そう言って笑うシノブ。サトルも合わせて笑った。手にしていた携帯をズボンへと仕舞って紙を勉強机へと何気なく仕舞う。シノブも別に怪しむ様子もなく、こちらへと背を向けて勉強机に向かってシャーペンを走らせていた。

「神崎」

「あー?」

「今度勉強教えてくれよ」

「俺の授業料は高いぜ?まぁお前は特別だから半額にしてやる」

「ありがと」

 ここの空気はこんなにも優しい。

 サトルは静かに笑って詰まる想いを仕舞いこんだ。


「もしもし」

『おせえよ』

 誰も居ない深夜の談話室。しんと静まり返った冷えた部屋に鷲尾の声が響いて聞こえた。強気な相手の声。もうこの身に染み込んでしまった嫌悪感が体中に満ちる。

「連絡遅れてごめん。ちょっと忙しくて」

『嘘付けよ、お前のことだからまた俺から逃げようと考えてたんだろ?』

「そういうのじゃないよ」

 淡々と口調を変えずにサトルが返答する。

 気持ちが凍り付いていく様がわかる。

 携帯越しに相手のため息が耳を付く。

『ふぅん。でもお前が連絡くれてよかった』

「そう?」

『そりゃあな。お前、また俺から逃げたいって考えてんのかな~って思ってたからさ。ちょっと安心した、うん』

「……そう」

『元気ねえな。また昔みたいにうまくやろうぜ?俺ら親友だろ?な、今度どこで会う?約束しておかないとこれで終わりになっちまう可能性あるからさ』

 終わりにしてえよ、サトルはそう思ったが下唇を軽く噛んで口をゆっくりと開いた。

「……来週の金曜日。ライブあるんだ。その後だったら」

『了解。じゃあその時にな。……松崎』

「なに?」

『逃げようとか考えるなよ。俺たちずっとお前の友達でいるつもりなんだから。もうわかってると思うけど、逆らうなよ』

 ――ドクン

 ――ドクン

『俺だって、お前に酷いことしたいわけじゃねえんだから。お前ちょっといい気になり過ぎなとこあるからみんなで話し合った上でやったことだ。解るよな?』

「……じゃあ金曜日、な」

『……相変わらずだな、お前は。じゃあ金曜日な、お休み』

 相手が切るよりも先に携帯を閉じて談話室のソファへと深く座り込んだ。


 閉じて、目に浮かぶのは中学の光景。

 今は完全に色を失ってしまった過去の映像。

 白黒の人物達が自分の周囲を囲む。

 中央にはいつも鷲尾。

 にたりと気味の悪い笑みでこっちを見る。

 手招きする同級生。

 引きずられる自分。

 またいつもの場所。

 陸上部の部室。

 大嫌いな場所。

 これから始まる悪夢。


『言うことが聞けないってことだよな、松崎。親友なのに』

『ちゃんと鷲尾に謝れって、松崎』

『鷲尾は傷つきながらもお前のこと思ってるじゃんか』

『……悪いことしたら罰は絶対に下るんだぜ?』

『どう償うんだよ』


 夏季大会が終わって顧問の先生から部長をやるように言われた。理由はそれだけ。でも、そこからが悲惨で。毎日がたまらない日々に変貌した。あの時、自分の世界は確かに変わったんだ。知らなかったことを知らされた。知りたくもなかったことを知らなきゃならなかった。

 普通に気の合う友人たちと部活に入って。毎日ただ楽しく会話して。それだけで充実感があったはずなのに。変貌したんだ、確かに。


「なに、苛立ってんだよ。おい」

「……は?」

 校内の廊下途中。

 周囲に人はおらず、放課後の学校はすでに薄暗くなっていた。シノブは怪訝そうに窓際で立っていた奥崎へと声をかけた。

 奥崎はこれといって表情を変えず、ただシノブを見て、それからゆっくりと視線を逸らした。

「別に」

「別にってことがあるかよ?最近マツとも喋ってねえじゃねえか」

「見んなよ、気持ち悪ぃな」

「悪かったな、見ててよ……」

 奥崎の言葉にシノブは嫌そうに窓へと顔を向けてため息をついた。

「俺はマツの心配してるだけだ。お前の心配なんざしてねえ」

「言われなくても知ってる。……まあ色々な」

「色々ってなんだよ」

「生徒会書記様には関係ねえな」

「友人として心配してんだよ。って……俺が心配するのも変かもしれねえけどな」

「全くだな。まぁ……今はお前の方がいいのかも、な」

 淡々と答える奥崎の表情が一瞬曇ったのをシノブは見逃さなかった。

「ホントどうしたんだよ」

「知らねぇ」

「知らねぇっておま……」

「ホント、わからねえんだ。マツが何を考えてんのか、どう思ってんのか。全然」

 いつもよりも低い声で答える奥崎の様子にシノブが咳払いをした。

「……なんか調子、狂うな。お前がそうだと」

「それもこっちの台詞だ」

 シノブの言葉に即答で返す奥崎。先程よりは表情が和らいで見えて、シノブは内心安心感を得た。

「……なんか、遠いんだよ」

「は?」

 話し出す奥崎の言葉にシノブは顔を歪めて声を漏らした。

「遠いって、毎日会ってんじゃんか」

「そういうことじゃねえよ。急に距離を離された気がする」

「距離?」

「……そういう言い方しか浮かばねえ」

 珍しくも奥崎が言いながら深くため息をつく。

 シノブはそれを見て後頭部を軽く指先で掻くと小さく息を吐いた。

「……そっか」

 シノブ自身もこの会話に合う台詞が浮かばず、 小さくそう答えた。

「神崎」

「……んだよ」

 急に真剣な口調で話し出す奥崎へと驚いたように顔を向けてシノブが答えた。

「文化祭の時、マツ変わったことなかったか?」

「変わったこと?さあ、俺生徒会あったからあの時期会ってねえんだよ」

「そうか」

 また黙り込む奥崎の問いにシノブは首を緩く捻って。

「文化祭の時に喧嘩でもしたのかよ」

「いや」

「じゃあ何だ?」

「好きだと言われた」

「……は」

 平然と、しかも事務的に淡々と答える奥崎の言葉にシノブの表情が固まった。

「……だから。好きだって言われた」

「わかった、何回も言うんじゃねえ」

 シノブは引きつり笑いしながら奥崎へと目を向けた。

「だったら近づいたんじゃねえの、かよ?」

「……いいや。その言葉をなかったことにしてくれ、だと」

「は?!……なんだそりゃ」

 シノブの顔つきも徐々に厳しくなり腕を組んで壁に凭れながら考え込んだ。奥崎のことが好きだと泣いた、はずだったのに。シノブは何度か長い瞬きをしてから小さく唸った。

「俺の気持ちもマツには伝えた。嬉しそうに見えた。が、そのあとすぐだ。よくわからねえんだよ」

「……あの欝男また面倒くせえことでも考えたんじゃねえの?」

「どうだかな。ただあの文化祭の時、泣いて屋上に上がってきやがったからなにかあった、と思ったがホント……わかんねえんだよ」

「部屋に居る時はいつもと変わんねえ感じだけどな」

「嫌じゃねえのかよ」

「は?」

 奥崎の突然の問いに意味が解らず、シノブは怪訝そうな顔で奥崎を見つめた。

「マツが俺に好きだと言ってきた。お前は嫌じゃねえのかよ」

「そりゃ……でも、俺はマツがそう決めたんなら邪魔する気はねえ。俺はただあいつが心配なだけだ。入学してからずっと見てて、危なっかしい奴に見えるんだよ、あいつは。だからできたら守ってやりたいと思ったんだ」

「そうか。俺のこと恨んでねえのか」

「俺は、マツの気持ち分かってて告ったのになんで今更お前を恨まなきゃならねえんだよ。面倒くせえな。じゃあお前は?俺のこと恨んでるのかよ」

 嫌味を込めた笑みでシノブが笑うと奥崎が鼻先で笑って見せた。

「恨んではいねえが大嫌いではあるな、マツの件に関しては」

「……お前はっきり言うな」

「そりゃそうだろ。どうでもいいモンなら感情なんか絡まねえよ」

「まぁ、そうだよな」

 そう言うとシノブは含み笑いを浮かべ。

 奥崎も目を閉じたまま少し笑った。

「お前からこの話聞いたことはマツには言わねえ。ただ様子はちゃんと見とくわ」

 シノブはそう言うとダルそうに片手を上に上げて奥崎へと手を振りながら廊下を歩き出した。


 先の暗い廊下。

 奥崎の目にはどこまでも続く暗闇に見えた。




 心はゆっくりと、死んでいくものだということを知っている。心臓だけがこんなにも速く強く打ちつけてくる事。それも知っている。徐々に心の端から麻痺が始まって眼球の動きは鈍くなって喜びも笑顔も理解ができなくなっていく。視界からゆっくりと色彩は失われて白と黒、そして映える赤色だけが残った。鮮明な赤は痛々しく映って不安を煽る。止まらなくなるのは、心か、考えか、心臓か。どこまでも続いていく永劫の痛みとも思った。心が死んでいく、裂けた皮膚からゆっくりと侵蝕は続く。カウントダウンのように心臓は耳元で警告のように鳴り始めて、それはきっと今もずっと鳴り続けてる。


 目の前に投げ出されたナイフ

 笑う同級生

 きっとみんなが狂ってしまったんだと思った

 それかこれは悪い夢で

 俺はきっと起き方を忘れてしまったのだとさえ


『人に対する償い方を知っているか?松崎』


 体は強く緊張して、同時に目が覚めた。

 開かれた目は未だ暗い部屋の中を確かめる。

 胸元に掻いた汗は滝のように流れていた。

 額にも滲む汗が気持ち悪く、掌で拭う。

 軽い眩暈。

 そっとそのまま掌で頭を覆った。

 しんと静まり返っている室内。

 その中で微かに聞こえる人の寝息。

 シノブの起きてくる気配はなく、内心サトルはほっとした。きっとまた心配させる。暗闇に大分瞳が慣れてきてどこというわけでもなく、ただ一点をぼんやりとサトルは見つめた。


『逃げられると思うなよ』


 今にも聞こえてきそうな鷲尾の声を自分の脳が鮮明に再生を繰り返す。夢に現れた知った顔の人間たちは全員中学の制服姿で自分を見下ろしていた。その中心には鷲尾。場所はどこかわからなかった。


 投げ出されたカッターナイフ。

 知った光景のように思えた。

 多分、知った光景だと思った。


「忘れようと思えば忘れることができるんだな……俺って都合いい……」


 サトルは自嘲した笑みを浮かべると寝返りを打って体を縮めて抱え込んだ。


『償い方を』


 償い方――……


 どうしてもその後何があったのか、思い出せない。

 でもどこかで自覚している。

 自分はあの光景を知ってる。


 思い出せない。

 思い出したくない。

 それでも。


 なんで鷲尾が怖いのか。


 どうしてアンナ目ニアッタノカ?


「あんな目って、どんな目に遭ったんだったっけ……?」

 そう呟いて、思い出せないのに、勝手に徐々に震え出す体にサトルは少し笑った。

 どんなに真剣に思い出そうとしても蘇るのは一人グラウンドを走る自分。それを遠目で見つめながら愚痴を言い合う部活の同級生たち。

 中央には鷲尾。

 蛇のような笑みが自分を睨むように笑って。

 それが大嫌いで。

 それでも、部活から逃げ出すことができなかった。

 大嫌いな場所だったはずなのに。

 どうしても、逃げ出さなかった。

 いや、逃げ出せなかったんだ。

 でも、それがどうしてかなんてもうわからない。

 苛められた、とは言い方が合わない。

 そういうのじゃないと、思う。

 なんだった。

 なんだったんだ?

 わからない、わからねえよ、もう。


『離れるなよ』


 胸元が熱くなった。

 いつかの奥崎の言葉がふいに耳元で聞こえた。


「オク、さん……」


 好きな人の名を、呼んだ口元は少し震えた。


 会いたい


 自分の弱気が招く欲望

 そんなことわかってるのに


 ああ


 今こんなにもあんたに会いたい

 会いたくて、しようがない

 いま、此処にいると思いたい


 でも

 逃げ切れなかった

 逃げ切れなかったなら

 あいつに、あいつらに関わらせたくない

 普通じゃ、ないから

 普通じゃない

 それが俺の世界で、俺の全てだった

 未だ燻って生きている現実だ

 逃げたと思ってもどこまでも追ってきた

 鷲尾に支配されて

 心が死んでいくのを感じながら

 息を殺して生きていく

 そんな俺の世界なんだ

 だから

 あんたを関わらせない

 関わらせちゃいけない

 こんな人が嫌いで怖くて

 どうしようもない俺の手をあんたが引いた

 あんたが俺に少しだけ違う世界を教えてくれた

 目に映る光景はもっと綺麗なもんで

 人はもっと優しいもので

 俺はもっと歩けると


 だから

 あんたの側でちゃんと胸張って歩けるように

 俺はもう逃げないよ

 たとえこの心臓に耳が壊されても

 あんたに声を届けたい


 静寂満ちる深夜の自室は冷えて。

 サトルは死んだ瞳でゆっくりと部屋を流した。大きな落とし穴にいつの間にか嵌っていた事を、ようやく自覚した。


『誰とも衝突するわけでもなく、誰とも問題を起こすわけでもなく、ただ平凡に無感動に生きていっていると思っていた。それが自分が望んだ世界ではなく、破りたい世界だとさえ思っていた』


 そうじゃない。

 そうではなかった。

 そう生きたと思っていなければ苦しかったから。

 自分に起きた事から逃げた結末だったのに。

 大きな自分への思い込みから目が覚めた。


 無感動になにも感じず毎日を過ごさなければ現実には耐えられなかった。誰にも逆らわず、無気力に日々を送らなければ耐えられなかった。いつの間にかそれは心に異様に馴染んで、サトルにとって「無気力」は当たり前の世界になっていった。それがどんなに色のない世界か、知っている。それがどんなに遠く長い日々か、恐ろしくなるほどの不安を、心臓だけが、覚えていた。


 殻を破るのは痛いだろうか。

 歩き出すのは苦しいことだろうか。

 ――それを怖いと思うのか。


 サトルは生唾を飲み込んで息を潜めた。




「随分顔色悪いなぁ、マツ君」

 レンがミネラルウォーター片手に心配そうに見つめてきた。ライブハウスの路地裏には煌々とライトが暗い夜道を照らす。ドアに寄り掛かるレンは機嫌が良いらしくサトルは死んだ魚のような瞳でゆっくりとレンを見つめ返す。

「……そうですか……?」

「どうしたんだ?今日、今までで一番出来良かったと思うぜ。なんつうか、鬼気迫る感じで」

「そう、でしたか?ありがとうございます……」

「客席も全員マツ君の勢いに推されて興奮状態。以前のアカーシャにはなかったな」

「なら、よかったです。俺もライブ……今、本当に大好きだから」

 意外なサトルの返答にレンは正直呆気に取られるもすぐに嬉しそうに笑って。

「マジで言ってんのか?それ。だったら嬉しいんだけど……いやマジで」

「ホントです。……本当に好きです。みんなと出会ってこんな経験させてもらって。俺後悔してないですから」

 いつになく自分の気持ちが正直な場所にあることがわかる。サトルは穏やかに笑ってレンの顔を真っ直ぐに見つめた。

「本当に、みんなには感謝してます。俺にとってかけがえのないものを与えてくれたから」

「ん、……そうかよ」

 レンは調子が狂ったように照れ隠しに咳払いを数回してからガシガシと頭をかいた。

「いや、その……俺らだってマツ君にはそう思ってる、しな……って俺何言ってんの」

 照れている様子が見てわかり、サトルは小さく笑ってドアに立つレンへと歩き出す。

「……すいません。変な事言って。なんかライブのせいでまだ気持ちが興奮してて。じゃあ、俺そろそろ帰ります」

「え?打ち上げ……」

「今日はこれから知り合いと会う約束してるんです。すいません。オクさんとかにも謝っておいてください」

「え、マジで帰んのか?!」

 と、丁度サトルの携帯が着信音を鳴らす。

 レンは口を閉じて、サトルは携帯を取らず無表情で画面を見つめて少し目を細めた。

 それからゆっくりと笑顔を作って。

「……じゃあ仙崎先輩、お疲れでした」

 そう言ってドアからライブハウスの中へと入っていった。

 一人残されたレンは今日のサトルに多少の違和感を感じながらもまたミネラルウォーターを一口飲んで空高く浮かぶ細い月を見上げた。


 人込みを掻き分けて、サトルは黒のジャケットを羽織り、深く帽子を被って荷物も何も持たずライブハウスの出入り口へと歩く。途中フロアに奥崎やタキ、ヒサシの姿を見るも声をかけず、険しい表情で先へと歩いた。


 ――今日で全部、終わらせる


 胸に秘めていた想いが口を付いて。

 サトルは人込みに紛れて見えなくなっていく奥崎の姿を愛しそうに見つめてから歩き出した。


 ――まだ、好きだと言わせて貰えるかな


 ライブハウスから出るとまだ興奮止まない客たちが道路に座り込んで談笑している。

 通りを走る車のライトが勢いよく通り過ぎて。

 サトルは約束した場所へ行くためにすぐ左へと曲がって道路沿いを足早に歩いた。挙動不審だったのか途中自分へと不思議そうな表情で振り返ってくる男女。サトルはそれを無視してそのカップルの横を通り過ぎると丁度青色が点滅している横断歩道を走って渡った。そのまま真っ直ぐ走り抜けていくと徐々に人の気配が薄れていく。


 途中道を照らす蛍光灯を仰いで、いつの間にか月が雲に遮られているのに気付いた。


 遮られて尚、鋭い刃のような月。

 サトルは異様な雰囲気に息を呑んだ。

 道をそのまま真っ直ぐ進んで。

 今度は道から階段が下へと続いている。

 それを駆け足で降りる。

 枯葉が敷き詰められたように落ちている。

 小さな踊り場。その横のベンチ。

 鷲尾。

 腕を組んで汚いコンクリートの壁に凭れていた。


 少し上がった息を整えながら鷲尾へと歩く。

 その足取りは一歩一歩重くサトルに緊張を与えていくようだった。


「……お待たせ」

 サトルの声に鷲尾はニィと細い目を一層細くさせて笑うと組んでいた腕を解いて上着のポケットへと両手を入れた。

「お疲れ。アカーシャのヴォーカルさん」

「それでこれから、どうする」

 鷲尾の言葉を流すようにサトルは表情一つ変えず周囲を見渡しながら問う。それに対しても鷲尾の笑顔は健在ですぐ左へと続く細い路地を指差した。

「この先に俺の後輩のアパートがあるんだ。そこでみんなと会う約束してる」

「わかった」

「なんか元気ねえな?さっきの勢いで頼むぜ?アカーシャ」

「……行こうか」

 先へと続く道を照らす蛍光灯は何度も点滅を繰り返す。いつの間にか鳴り出した心臓が酷く五月蝿い。

 細い路地を歩いて十分程度。それから少し中へと入り組んだ場所にコンビニが見えた。その場所からすぐの所にアパートはあった。

 ライブハウスから電車にもバスにも乗らなかった。道順こそあやふやだが、こんなにも近くにあるこの場所に目眩を覚える。

「ここの二階だ」

 鷲尾はそう言って二階へと上がる鉄骨の階段を音をけたたましく立てて登っていく。サトルはその背を見つめて、深くため息をついた。

「ここだ」

 鷲尾はそう言うとノックもせずにドアを勝手に開けて中へと入っていく。

「鷲尾」

「ん?気にするなって。お前の事はちゃんとみんなに言ってるから」

「……あ、そう……」

 サトルは乗り気のしない自分の気持ちをかみ殺して、鷲尾の後に続いてアパートの中へと入った。

 中に入ると狭い玄関に脱ぐ場所も無いほどの靴。それから目に入るのは場所も定まらない様子で放置された青いゴミ袋が数個、それから山のような空き缶。殆ど使われていないだろう台所は汚く、歩くスペースがあまりない場所だった。鷲尾が一番奥の部屋のドアへと手を掛けて開けると数人の人間の話し声が聞こえてきた。

「おー鷲尾ー、遅ぇわあ」

「お疲れー」

 聞き覚えのある、声。

 サトルは無意識に額に汗をかいていることに気付いて手の甲で拭う。

「ほら、松崎、入れって」

 陽気な鷲尾の声。サトルはゆっくりと頷くとゆっくりとドアへと近づいた。開けられたドアの先は煙草の煙が蛍光灯に当たって充満している。黄ばんだカーテンの前に数人。埃っぽい部屋に全員で五人、人間がいることがわかった。サトルが姿を現すと周囲から一斉に声が上がった。

「おーー!松崎ー!」

「お疲れーー!」

「マジでアカーシャじゃんか。鷲尾、お前の親友って本当だったんだな」

 中には顔も知らない人間もいてサトルはぎこちなく頭を下げた。

「まぁまぁ入れって。松崎」

 優しげな鷲尾の声にサトルは浮かない表情で頷くとドアの側付近に腰を下ろした。その隣に鷲尾が座って周囲の人間に笑って話しかけ始める。

「いや、懐かしいね。こういうの。同窓会ってやつ?」

「そうだな~、松崎お前すげー変わったじゃんか」

「……そうかもね……」

 周囲の勢いに圧倒されてサトルは見知らぬ隣の人間から手渡された缶ビールを受け取ると小さく頭を下げた。

「鷲尾、お前の親友緊張してるみたいだぜ」

「そうみたいッスね。すいません」

 鷲尾はそう言って陽気に笑った。

 鷲尾の敬語からこれは先輩、なんだろうなとサトルは勝手に思い込んで缶の封を開ける。打ち上げでも口にしない酒を、余りの居心地の悪さにあおる。その様子をじっと見つめる、隣にいる鷲尾の先輩の視線に気付きゆっくりと横を見る。

「俺、あんたの大ファンなんだぜ?前のアカーシャより全然良いもんな。ホント尊敬するわ」

「あ、ありがとうございます」

「しかも礼儀正しいときたもんだ。益々大ファン」

 そういうと先輩は豪快に笑ってサトルの体へと腕を回す。されるがままサトルは苦笑いを浮かべて周囲へと瞳を泳がす。そんな周囲もサトルの変わりようにマジマジと見つめて。

「ホント、松崎変わったよな」

「中学の時はあんなに真面目ちゃんだったのになー、人は変わるもんだぜ」

「同じ中学からこんな有名人が出るのも嬉しいことだけどな」

 屈託なく笑う同級生たち。サトルはぎこちなくそれへと愛想笑いを浮かべるだけ。できたらこの場からもう逃げ出したい衝動に駆られていた。

「まぁ、松崎がヴォーカルやることになったのも俺はわかるけどな、なんとなく」

 鷲尾の言葉に周囲が不思議そうに見つめて口々に何で?と問う。それへと鼻先で笑ってから鷲尾は手にしていたビールを飲み干すとサトルを指差して。

「だってこいつに歌の良さを教えたのは俺だぜ?まさかこんなに好きだったのは予想外だったがまぁ……そもそも俺の影響でしょ」

 サトルは自分の隣で堂々と言い放つ鷲尾を凝視した。当の鷲尾は周囲の人間と談笑している。覚えのない話に正直腹立たしかったがサトルその感情をため息で吐き出してビールを一口飲む。

 と、隣にいた鷲尾の先輩がゆっくりとサトルの背中を包み込むように抱き寄せようとしてサトルはその行為に気付いて瞳を大きく見開いた。

「……え?あの」

「…サトル、すげえ細いんだな」

「……はぁ……おい、鷲尾」

 多分、酔っているんだろうとサトルは鷲尾に話しかけるが鷲尾は小さく笑って。

「あー、先輩俺たちが来る前から飲んでるからちょっと酔ってんじゃね?」

「はぁ?酔ってねえよ。約束だろ?」

「まぁまぁ、明日の約束でしょ?」

 先輩を剥がす事も無く続けられた会話の意味が解らず、サトルは眉間に皺を寄せる。

「……どういうこと?」

「あとからな」

 小声で話す鷲尾。鋭い目つきに気圧されてサトルはゆっくりと口を閉じた。

 自分の背中をじっとりと触れてくる酒臭い男の手。

 不快感で汗をかいた。


 ――ライブの打ち上げはもう、終わっただろう。


 続く不快な時間に一瞬場にそぐわない事を考えた。

 時刻は既に午後11時半過ぎ。

 サトルは携帯の時刻を確認すると酔いが回って談笑に浸っている周囲へと瞳を向けた。隣にいた鷲尾の先輩はもう酔いが回りすぎて壁に寄りかかったまま寝ていた。鷲尾はもうすでに数缶酒を開けていたが顔色変わらないまま、また新しいビールへと口をつけた。

「相変わらず強いな、鷲尾」

 同級生の一人が鷲尾へと話しかけると鷲尾はまた鼻先で笑って当たり前、と一言答えた。

 ――いい加減、もういいだろう。

 サトルはその場で座り直すと鷲尾の肩を軽く叩く。

 それへと陽気に振り向く鷲尾。

 瞳の中が充血していた。

「俺、そろそろ帰るわ。……寮だし、泊まりは厳禁だから」

 小声で話すサトル。

 その瞬時部屋の様子が変わった気がした。

 同級生たちは顔を見合わせてから鷲尾へと視線を向け。鷲尾自身もサトルから一瞬視線を逸らして、それから小さく鷲尾が笑って。サトルは意味も解らず、その体勢から動けずにいた。

「……帰んなきゃヤバいのか?松崎」

 同級生の一人が伺うような口調で問う。サトルはまぁ、と困ったように小声で答えるも相手からは小さく唸り声が返って来た。


 ――なんだろう


 すごく変な空気が流れる。

 サトルは嫌な予感がしてその場に立ち上がるとそれを制するかのように鷲尾がサトルの腕を掴んだ。

「ちゃんとお前と話そうと思ったんだ、本当は。場を誤魔化して悪かった」

 慎重な面持ちで答える鷲尾の様子にサトルは息を飲んだ。


 それでも多分、良くない、気がする――……


 掴まれた手首に鈍く痛みを感じながらサトルは鷲尾を見下ろしたまま動かず。


「とにかく帰る。話があるなら後日メールでもすればいいだろ」


 縁を断ち切る、そのつもりでこの場に足を運んだが。どうも、おかしい周囲の状況にサトルは危機感を感じずにはいられなかった。とにかくここからすぐに離れなければ、なにかがそう伝えてくるようだった。


「……つうかお前、それはあんまりだぜ?松崎」


 同級生の一人が口調厳しく話し出した。


「そうだぜ?鷲尾の気持ちにもなってやれよ」


 あ


 脳裏に甦る過去の光景。

 会話。

 この空気。

 ――知っている。

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