第9話 入り交じる
体が、軽い。
そう思いながらサトルはゆっくりと重い瞼を開ける。窓の外から差し込む銀色の光。すでに日は昇っていることを知るとサトルは完全に目を開けて眉間に皺を寄せた。
「……やばい、学校」
そう呟いて起き上がろうとした。が、自分の左肩に重圧を感じて、一層皺を深くし反対側へと顔を向ける。
「おはよう」
奥崎が自分の方を向いて無表情に言葉を掛ける。サトルは驚愕して口を開けたまま、奥崎の顔をじっと見つめ、それから奥崎の左腕が自分の体を包むように上へと置かれているのにようやく気付く。
「お……おはよう」
サトルの口から弱弱しく声が発せられ、奥崎は少し笑ってまた『おはよう』と告げた。自分を抱きしめた状態の奥崎の体勢に戸惑いながらもサトルもゆっくりと苦笑してまた体をベッドへと沈めた。
「あ……そっか」
「ん?」
サトルは昨晩のことを理解しながらゆっくりと声を出す。奥崎は片眉を上げて、隣にいるサトルの背中を見つめた。
「昨日ここまで運んでくれたんだよな、ごめん」
奥崎へと顔を向けないまま、サトルは少し都合悪そうに礼を述べた。正直、照れくさい。今の状況に緊張しながらもサトルは奥崎の返事を待った。
「別に。気にするなよ。お前、高熱で大分、魘されてたみたいだったな。もう大丈夫か?」
「多分……大丈夫」
ギシ、とベッドが下へと沈む。
サトルは潜めて深呼吸をして。
奥崎へと顔を向けようとした。
が、先に動いたのは奥崎で、サトルは視界が急に暗くなったことに驚いた。強引に自分の体勢を変えられ、奥崎の胸元へと自分の顔を押し当てられ強く抱きしめられた。急な行動にサトルは声を失って、思わず目を固く閉じた。
「顔色、いいみてえだな。よかったじゃん」
「……ホント……おかげさまで……」
なにを言ってるのか自分でも理解できない。
サトルは強く高まっていく自分の心臓が奥崎へと聞こえてしまいそうで気が気じゃなくなっていった。それなのに、奥崎はサトルを抱きしめたまま呑気に欠伸をしているようだった。
「お……オクさんっ、あの」
「なに?苦しいか?」
「いや……っえ、うん、苦しい、かも」
「悪い」
喉元で笑う奥崎。ようやく奥崎の体から開放されたサトルは緊張した面持ちのまま意味もなく笑顔で何度も頷いた。
「熱は完全に下がったみてぇだな」
「え?」
「体。もう熱くねえ」
「……あ」
思えば、もう関節の痛みもない。熱が下がったことに少し気分が和らいで、サトルはそうか、と小さく呟いた。
「座薬、挿されたことも覚えてねえだろ」
「え!!うそだろ?!」
突然の奥崎の言葉にサトルは上体を腕で起こして奥崎の顔を目を見開いて見つめた。徐々に不安になっていくサトルの顔を見て奥崎は堪えていた笑みを噴出す。すでに泣きそうな状態のサトルはそれを見て更にショックを受けたように絶望的な表情を浮かべた。
「……マジで?マジで言ってんの?」
「あぁ。嘘言ってどうすんだよ」
「マジで……」
サトルはゆっくりと体をまたベッドへと沈めて奥崎へと背中を向けて深くため息をつく。
熱を出して。
奥崎とシノブが喧嘩になって。
しかも座薬を挿してもらう羽目になって。
もう、泣きたい。
消えてしまいたい。
サトルは羞恥心に枕へと顔を埋めた。
「熱下がったんだからいいじゃねえか。ケツのひとつやふたつ」
「でも問題だろ?!なんか、なんかショックなんだよ!」
「どうして?」
冷静に淡々と話す奥崎の口調に何度も喉を詰まらせながらもサトルは生唾を飲んでから息を吸って。
「だって、そんなことある?友達にケツの穴見られるなんて……熱があったとしてもさ……」
「俺は見てねえ」
「……え」
平然と告げられた奥崎の言葉。サトルは顔を歪めながらも奥崎へと顔を向けた。それでも奥崎は表情ひとつ変えず、一度頷いて。
「だから俺はお前に座薬入れてねえ」
「え……だってじゃあ誰が……?」
「保健医のキトウ。頼んだんだよ」
「先生……?」
「そ。だから気にするなって」
安堵が徐々に満ちていく。
よかった。
いや、良くないけど。
サトルは深く肺から息を吐いて、そうか、と一言言ってゆっくりと笑んだ。
「別に俺が入れても良かったんだがな」
「な……何言ってんだよ。そんな汚い」
「別にそんなこと思ってねえ。ただ神崎に手出すなって言われたからな」
「神崎、が……?」
サトルは困惑気味に奥崎を見る。奥崎はそのサトルの顔を見つめたまま黙って、サトルの顔へと手を伸ばした。
「……神崎になんか言われたか」
「あ……、いや」
「言われたんだろ」
黙っている自分の中に不安にも似た焦りがこみ上げてくる。奥崎にそれを質問されるのは、知られるのは――。目が勝手に泳ぐ。誤魔化し半分で笑った顔もすぐに曇る。言葉が出てこない状況にひたすら焦った。
「まぁ、関係ねぇか。俺には」
沈黙を破ったのは奥崎の声。発せられた言葉にサトルは金槌で頭を叩かれた位のショックを受けた。
「……あ……そう、だな」
他人行儀に投げ出されたような感覚。サトルは小さく笑みを作って暗い思いを打ち消そうとした。
「神崎がどう思おうが俺には関係ねえ。自由なことだな。……お前の心境は知らねえが、自分に嘘つくのだけはやめろよ。自分も相手も傷がつく」
奥崎はそう言いながら体を起こしてベッドから降りる。
「人に対する自分の感情だ。特に特別な感情っつうのは人傷つけるのに充分な武器みてぇなもんだから、素直になれよサトル。お前次第だからな」
「……うん」
「……やっぱり告白されたんだろ」
「え!……っ!オクさんってちょっと性格悪くねぇ?」
「かもな」
優しげに笑む奥崎の顔。
サトルも嬉しそうに笑った。
第三寮特別室。
深い朱色の厚いカーテン。
中央には黒皮のソファが並び、大きいテーブルには小さな花が添えられている。壁には学校関係の書類が入った本棚。窓際にヒサシが心配そうな顔で携帯を耳に当てていた。
「そう、そうなの……じゃあもう大丈夫なのね?良かった。……ゆっくり休んでって伝えて頂戴。じゃあね」
携帯を切って安堵のため息をつくとヒサシは嬉しそうに笑みを零してソファへと座る、仙崎レンへと声を張り上げた。
「マっちゃんもう大丈夫だって!よかったわ~」
「マジで?良かったじゃん。これでライブ間に合うな」
「ちょっとライブの前にまずメンバーの心配しなさい、レン。またタキちゃんに怒られるわよ」
「なんでそこにタキが出てくるんだよ!このオカマ!」
「ホントなんでそんなに短気なのよ!なんなのよ!単なる会話でなんで罵倒されなきゃいけないの!?」
ヒサシは額に血管を浮かせながらレンに負けじと怒鳴るも当のレンは臍を曲げて不機嫌そうに足を組み直した。聞こえるように深く息を吐いてヒサシもレンの向かいのソファへと座る。
「……まぁいいわ。それで?キョウイチ、まだオクのことが好きなの?」
「決まってんだろ。ホント目障り」
「そこまで言わないで。以前は一緒にバンドやってた仲間なのよ?」
バカにするかのようにレンは鼻先で笑って見せた。
「仲間?仲間ねぇ。ただあいつ奥崎と一緒だと目立てるからだろ?俺らとバンドやりたかったわけじゃねえ。奥崎と寝たかったってだけ」
「レンってば!」
「単なる恋愛ごっこで一緒にバンドやられてもこっちも迷惑。だから辞めてもらったんだろ?」
「正直近いこと思ったこともあったけど、言葉は選べるでしょ?そんなひどい言葉並べないでちょうだい」
「……知らね」
深くため息をついて、レンがヒサシから顔を背けた。外から木枯らしの音が室内へと聞こえてくる。それに混じって聞こえるヒサシのため息にレンが少し視線を動かす。
「レン、キョウイチがどうこうで私のところに来たわけじゃないんでしょ?」
「……は?」
不愉快、レンの表情がそう言ってるかのように曇るもヒサシは心配そうにレンを見つめたまま。都合悪そうに先にレンが視線を逸らした。
「タキちゃんのことで、来たんじゃないの?」
「はぁ?何それ」
バカにしたように笑みを漏らしながらレンがヒサシへと睨みつける。
「今ここにタキちゃんいないでしょ。そんなに怒らないで人の話は聞いて頂戴」
「…………」
諌めるヒサシの口調にレンはセットした髪をガシガシと強引に掻き乱す。
「ホント、ちょっと大人になりなさいよ、レン。タキちゃんがレンのこと好きなの、わかってるんでしょ?レンだって」
「だからなに?」
平然を装ってレンがヒサシの話を遮って素っ気無く答える。ヒサシはその態度に一層深くため息をついて。
「……失ってからわかるじゃ大体のことはもう遅すぎるのよ。ただでさえ同性同士なんだから不安や不信感を生み出す理由なんて掃いて捨てるほど転がってるの。好きならちゃんと捕まえてなさい。人の気持ち引っかいてなにが楽しいの?」
「タキが何か言ったんだろ?加藤さんに」
加藤、はヒサシの苗字。レンは冷たい口調で言い放ってから強く舌打ちした。ヒサシはそれに首を横に振って。
「特に伝えられてないわよ。単なる……そうね、単なるオカマの勘よ」
「……はぁ?意味わかんねえ」
呆れた様な口調でレンは話した後、腕を組んで天井を見上げる。白い天井に今まで気づかなかった小さな染み、ひとつ。レンはそれを見て、安堵の笑みを浮かべた。
そう
わかるやつにはわかるんだよ
自分のやりたいようにやって
それなのに自分から手を差し伸べるとか
駄々を捏ねるとか
そんなカッコ悪い行動はお断りなんだ
――俺とキョウイチは、よく似てる
永遠に真っ白で綺麗な場所なんざ有得ねえ
あってたまるか
レンはそう思いながら向かいに座るヒサシを見つめた。悲しげに見えるヒサシの横顔。正直、気分が害された。
「学校さぼっちゃったけど……オクさん大丈夫なのかよ?」
咳払いしてからベッドで横になったままサトルは少し上体を起こしてベッド側に立つ奥崎へと話しかけた。奥崎は気にしている様子もなく無表情のまま別に、と小声で答えた。
「なんか……ごめんな。ありがと」
少々心配になりながらもサトルは擦れた声で礼を述べる。
「だから別に気にするな。病人だろ?お前」
「そりゃそうだけど……オクさんは学校に行った方よかったんじゃね?」
「もう時間も時間だ。今更行く気もねえな」
そう言うと奥崎は寝室から出て台所へと向かった。一人、そこへと残されたサトルは自分たちの自室よりも広い奥崎の部屋を眼球を動かして見渡す。
白い壁。
重圧感のある遮光カーテン。
壁の大きな時計に秒針がゆっくりと走る。
散らかったテーブルには灰皿。
黒のソファ。
開いたまま置かれた雑誌。
それと嗅いだ事のない香の香り。
綺麗とまでは言えない部屋。
それでも奥崎の居場所だとサトルは思った。楽になった体を完全に起こして裸足の足が少し冷えたフローリングへと付く。違和感を感じる喉を掌で摩り、音の聞こえてくる台所へと目をやる。慣れない、人の部屋。サトルはあまり友人の部屋を訪れたことがなかった。落ち着かない様子で人気のある台所を見つめる。
――なんか本当に、悪い……
そう思うとベッドから立ち上がり、台所へと向かう。簡易的なキッチンは使った気配はなく、奥崎がお湯を沸かしているポットの前に赤い椅子を置いてそこに腰を下ろして雑誌を捲っていた。サトルはその場に立ち尽くしたまま奥崎を見つめていると奥崎が視線に気付く。
「立ってて大丈夫なのか」
「あ、うん」
「ちょっと待ってろ。コーヒー入れてやるから」
「あ、ありがと」
会話が済むと奥崎はまた雑誌へと視線を落とす。サトルは戻るにも戻れない心境に困ったようにそこへと立ち尽くし、また奥崎を見つめたまま。そんなサトルの様子に奥崎は不思議そうに首を緩く捻って少し笑みを浮かべた。
「どうした?」
「いや、なんか」
「なに?」
「あ……いやなんでもない」
「辛いならベッドに寝てろ」
「いや、……辛くない」
「……で?そこにずーっと立ってるのか?」
含んだ笑みを零す奥崎の笑顔にサトルは困ったように動揺してから軽く自分の拳を握った。
「あ……のさ。どうしてればいいのか、わかんなくて。もしかして、邪魔、かな?俺」
「別に」
「そ、そうか」
「……困ったやつだな、お前」
「え?」
「起きて早々すぐに人に気を遣う。慣れない場所だからどうしていいのかわからない。……わかった」
「ご、ごめん」
「謝る必要ねえ」
ぎし、と赤い椅子が音を立てる。
「ちょうど沸いた。そこで待ってろ」
「……ああ」
弱弱しい自分の声。
まるでガキだ、サトルは少々自己嫌悪に陥って下唇を軽く噛んだ。
「慣れねえもんは仕方ねえ。……砂糖は?」
「あ、いらない」
「意外だな。ブラックでいいのか」
本当はコーヒーをブラックでなんか飲んだことはない。手を煩わすことをさせたくなかっただけ。そう思いながらサトルはああ、と小さく笑って頷いた。市販のコーヒーに湯を注ぐ。湯気がゆったりとした動きで上へと昇っていった。奥崎は二つコーヒーカップを手に持つとサトルのいる方向へと歩き出した。気づいたかのようにその場からまた寝室へとサトルも戻る。その様子もどこかぎこちない。
「そこに座れ」
「うん」
奥崎に指定されたソファへと腰をかけ、差し出されたコーヒーカップを両手で受け取る。
「……いただきます」
「別に単なるコーヒーだから気にせず飲め」
そう言って奥崎がコーヒーカップへと口をつける。
サトルも奥崎を真似てカップへと口をつけて一口飲む。正直、後悔した。思ったよりも苦い。それを平然と飲む奥崎が少し大人に見えた。
「どうした?」
「あ、いや、旨いよ」
「そうか」
また口から嘘が自然に漏れた。奥崎はそんなサトルの心情を知らず、ゆっくりと笑う。サトルも口に広がる苦味をかみ殺しながら相手に知られぬようにゆっくりと笑った。
時間はそろそろ夕方。
遮光カーテンから覗く空に赤みが差す。あまり飲めなくて冷え切ったコーヒーを一気に飲み干してサトルは自分の側で雑誌を捲る奥崎を横目で見つめた。
思ったよりも大きい手。筋肉質な体。染められた髪の毛が微かに差す光を受けて艶やかに映る。長い指には幾つか指輪がされていて。
サトルは無意識に自分の耳にあるピアスへと触れた。いつの間にか痛みはなくなり、最初は重く感じたピアスも今じゃ馴染んでしまった。体は順応していくのに、自分の気持ちはいつまでたっても奥崎に馴染んでいけない。
雑誌が捲れる音が少し寂しく感じた。
ふと奥崎が笑う。
「?なに?」
不思議そうにサトルが反応すると一層奥崎の笑みが深くなる。
「ホント……借りてきた猫だな。寝てる時はあんなに寝相悪かったくせに」
「へ?マジで?!」
「ああ、腹蹴られた」
「あ、ご、ごめん!痛いのか?もしかして」
「嘘。具合悪そうだった。魘されてた」
「……あ、そうか」
安堵のため息が漏れると奥崎は笑ったままサトルへと手を伸ばした。そのままサトルの肩を自分へと引き寄せる。瞬時にサトルの耳が赤くなる。
「心臓」
「え?」
意味不明な奥崎の言葉に頭が働かず、サトルは少し高い声を出した。
「まだ五月蝿いか」
「あ……」
ようやく理解してサトルは自分の胸元に高鳴り始めている心臓の音に気づいた。ドクンドクンと強く打ち付けてくる音。奥崎に聞かれたくない、そう思ったサトルは少し自分の体を奥崎から離した。
「少し、五月蝿いかも」
「この音、嫌いか?」
「……わかんねえ」
「前よりは、良いってことか?」
「かも、しれない」
「じゃあ少しは良くなったってことじゃねえか」
そう言って額に落とされる口付け。
サトルは硬直したまま、どうしていいのか軽く眩暈を起こした。
――この意味は?この意味はなんだ?
「オ、オクさん」
「ん?」
「これって……」
高鳴っていく心臓。気分の悪いそれとは違う、変わり始めた自分の中の音。速度を上げて打っていく終わりへと続く音。でも、これは。これは『好き』って意味?『恋』をしている、音――
「オクさん……あの」
「マツ」
眼前に見えるのは奥崎の瞳。
徐々に感じる吐息。
サトルは奥崎へとゆっくり手を伸ばす。
ガン!とドアを叩きつける鈍い音が部屋へと響いた。
サトルは驚いてすぐ様条件反射のように奥崎から身を引く。次に聞こえてきた奥崎の深いため息。
「……そろそろだと思ってたぜ」
奥崎が不快そうに表情を歪ませてからサトルの頭を小さく撫でる。
「来たみてえだな」
そう言って寝室から出て行く。
遠くへと向かう足音を不安に感じながらサトルは未だ熱くなってしまった顔へと手を当てた。
随分と、思い上がった……――
サトルは気を落ち着かせるために一息つく。こんな、こんなみっともなく生きている分際で。こんな自分の言葉もわからないままで、誰かとキスをしたいと思うなんて。サトルは自分の恥を責めた。
「オック!二人で学校さぼるってどういうことだ?!」
聞こえてきたシノブの声にサトルは一気に目が覚めた気がした。歩いていくと徐々に大きくなっていくシノブの怒鳴り声。サトルは少し気まずい思いでその場へと急いだ。
「別に。ただ看病してただけだ」
「だからってお前まで休む必要があるのかよ!?」
「……あんまり怒鳴るなよ。神崎」
「マツは?!マツはどうしたんだよ?」
「大丈夫だ」
冷たい口調でシノブへと答える奥崎の背中越しに制服姿のシノブの顔が見えた。
「神崎」
サトルが名を呼ぶ。それに気づいてシノブが少し瞳を大きくするとゆっくりと口を閉ざした。
「マツ……もう大丈夫か」
「ああ、もう大丈夫だ。ごめん。今回は悪かったよ」
「気にすんな。回復したならいいんだ」
「いや、本当にみんなのお陰だから」
「そんなことねえよ。お前がこうやって具合悪くしたのは元はといえばオックのせいだろうが」
攻撃的な口調にサトルは内心動揺する。自分よりも身長のある奥崎を下から睨み付けるシノブ。後姿から奥崎がどんな表情をしているのかサトルは知ることができなかった。
「……俺のせい?」
「ああ、そうだろうが」
ため息混じりに少し奥崎の笑みが耳へと届く。サトルは焦燥感に瞬時に襲われた。
「別に誰のせいでもねえから!俺の自己管理がなってなかったんだよ」
「どう、俺のせいなんだよ」
余裕そうな口調。
サトルは胃が重く感じた。
「キョウイチとこの期に及んでベタベタしやがって、お前のだらしなさが誰かを苦しめてんだよ!」
「……それで?」
「てめぇ!」
今にも殴りそうな勢いでシノブが奥崎へと一歩近づく。咄嗟にサトルが間へと入った。
「ちょ!ちょっと待てって!」
喉元で笑む奥崎の声が漏れる。
「……いや、憶測だけどな。お前の言う通り今回の件が俺のせいだったとしたら圧倒的にお前の方が状況的に不利じゃねえのか」
嫌味を含んだ奥崎の口調。それでもシノブの目は奥崎から逸らされる事なくじっと睨んだまま。サトルが奥崎の腕をつかんだ。
「オクさんってば!ホントやめろって!」
「……だったらなんだよ」
低いシノブの声が背中から聞こえる。
「だったらなんだ?相手の気持ちがどうこう状況がどうだとかそんなこと俺の気持ちには一切関係ねえな。そんな事で譲る気はねえ」
「かんざ……」
酷く弱いサトルの声。が、声を出したと同時に奥崎の腕がサトルの体を自分へと引き寄せた。シノブの表情が不快に歪む。
「……なら上等だ。俺も譲る気は一切ねえよ。安心した。単なる自己犠牲かと思ってたぜ」
「そんなに優しくできてねえ」
「いや、お前を優しいとは思ってねえよ。ただそういう犠牲的精神が生徒会書記様は好きなのかと思ってただけだ」
「いらねえ心配だな」
「ああ。……それから手は出してねえ。安心しろ」
そう言うと奥崎の手からサトルは開放され、突然の状況をうまく把握できず後方へと振り返ってシノブの顔を見つめた。
「……帰るぞ、マツ。迎えに来た」
「あ……わかった」
ろくな言葉が出てこない。サトルは少し笑おうとしてみたが、どうもうまくできないでいた。多分、自分のはっきりしない思いが酷く関係を歪めている。そんな気がした。なのに、自分は逃げ腰で。何事もない、そんな流れに持っていこうとする卑怯者で。――どこまで腐ってんだ。サトルはそう思うとやっと笑えた。
自分の手を繋ぐシノブの掌は異様に冷たい。いつもより悪く映る顔色が心配で、サトルはシノブを見つめた。
「……じゃあオクさん、ありがとう」
「ああ」
優しげに笑む奥崎の顔。
手を繋ぐシノブの顔。
サトルは後ろめたさを感じながらまた一つ、咳払いをした。
バン、と床にカバンが叩きつけられる。
その音にサトルは内心驚きながらも自分の前に立つシノブの背中を見つめたまま部屋のドア前で立ち尽くした。荒い息遣い。サトルはシノブを苦しめている感覚に後ろめたさのあまり、俯いた。
さっきのさっきまで自分の心臓は奥崎へと向かって高鳴って。そんな自分を好きだと、シノブは伝えてくれて、なのに。こんなに苛立たせてしまっている現実。
「ご、ごめ……」
思わず、謝罪の言葉が口をついた。シノブはきつい表情でサトルを一瞬睨むもすぐに表情を和らげて小さく笑って見せた。
「悪い。どうも苛苛しちまって。大人げねえのは俺だな」
「そんなこと……ねえよ。俺が、俺がだめなんだよ」
「またそうやって卑屈になる。お前の悪い癖だぜ?」
「そうなんだよ!本当にそうなんだよ、俺が、ダメなんだよ」
――苦しい。
そう思ったとたん、サトルの瞳から涙が零れた。
『好きな人にちゃんと好きだって伝えなきゃダメだよ』
頭の中に浮かぶタキの言葉。
でも、自分には本当に勇気がない。
奥崎とキョウイチのことを知って、目で見て。
そんな自分を守るとシノブを苦しめて。
こんなに苦しめても自分の事が決められない。
その癖、身を引く事も出来ない程気持ちは揺らぐ。
単なる卑怯者。
こんな自分。
サトルは次々に浮かび上がる言葉を噛み殺す。シノブはドアをゆっくりと閉めるともうすでに暗がりの部屋に立ち尽くすサトルを背中から抱きしめた。
「ホント……熱下がって良かったわ」
優しい声が辛く、サトルの頬を伝う涙がパタパタと床へと落ちた。
「喉、もう痛くねえか?」
「ご、ごめ……もう大丈夫」
「いいんだ。なら本当に良かった。歌えなくなったらお前辛いだろうが」
「か、神崎……」
「泣くな、泣かせたいわけじゃねえんだ」
「女々しいよな、俺……マジだせぇ」
「ファンが見たらショック受けるぜ?元気出せよ、カリスマ」
「……だからその呼び方止せよ」
少しサトルの声が和らいだのを知ってシノブの表情も優しげに変わった。しんと静まった室内はひんやりとした空気が流れていた。
「……だってお前の歌マジすげえじゃん?キョウイチより全然すげえって」
「褒め過ぎ……」
「嘘ついてねえよ。それだってオックが見出してくれたもんだろ?……もっとちゃんと自分のこと好きになれよ」
――見出してくれたもの。
この声があるから。
この声があるから奥崎の側にいれる。
自分にはそれしかない。
あとはきっと悪いものでしかできてない。
この声があるから。
この声があるから。
「……苦しい、って思う」
「そりゃそうだ。誰かに気持ち揺さぶられれば苦しいもんだわ。恋するっつうのは思ったより苦しいもんなんだよ」
そう言うとシノブがサトルの背中へと額を押し付けた。サトルはシノブの様子が気にかかって少し動くもそれに反応するかのようにシノブがサトルを抱きしめる腕の強さが増す。
「ちょっと、こうさせてくれよ」
「……うん」
「まぁ、ちょっと。俺も甘えたい時がある訳よ」
そう言ったシノブの声が少し震えた気がした。
燃える月の如く全身へと差し込む赤い光
目の前の絶叫の暗闇へと叫び続ける
嫌でもなく良くもなく
ただ手錠へと繋がる銀のマイクスタンドへと
何かを打ち破るために
何かを繋ぐために
何かを求めるために
ただただ大声で叫び続ける
そんな夢のような場所
現実から突飛して
鈍く光る番の無数の目へと
現実を叩いて壊す
額から流れる汗が首筋を伝って落ちた。
もう慣れてしまったライブハウスの裏口から細い路地へと出ると冷えたアスファルトにサトルは座り込んだ。
酷く上がる息。
それでもこの興奮は止められない。
歌はサトルにとって中毒そのものになっていく。
頭上には小さな白い月ひとつ。
汚い街から離れて浮かぶ。
アスファルトと突き破って生えている雑草。
雑居ビルの真ん中。
光さえ遠く感じるこの場所。
深くは息は吸い込めない、こんな腐敗した場所でもサトルは徐々に安心を得ていった。今日も路地は薄暗く、左からはネオン混じりの界隈が見える。ファンの興奮の声が路地まで届いた。
「本当今日並んだ甲斐あったよね」
「よかった~」
「ヤマトやっぱ上手いね」
「サトル可愛い!」
――可愛い、なんだ……
誰も居ない路地からファンの声を聞いてサトルは小さく笑った。ふと正面の暗がりへと視線を移すと、壁には誰かの落書き。電線が風で細い音を出した。どうやら風が出てきた、とサトルは少し咳払いをして笑みを消した。
あれから数日。数日経つのに背中にまだ感触が残っているシノブの体温。多分、多分泣いていたのだろう。サトルはそう思うと胸が苦しくなった。現実はやっぱり優しくない。
奥崎を想うと高鳴る感情に。
シノブの想いに揺らぐ感情に。
比べて軽蔑に値する自分自身に吐き気がした。
こんな自分を守ると言う。
こんな自分の心配をする。
そんな周囲の優しさにただ泣くだけ。
「……なにも変わらねえじゃん」
こんなんじゃダメだ。
守られてばかりじゃダメだ。
変わろうとする意志だけじゃきっと足りない。
足りなすぎる自分の器。
『好き』
素直にそれを話すタキを想った。
怖くはないのだろうか。
恐れてはないのだろうか。
誰かと一緒にいる。
こんなに安易じゃないなんて思ってもいなかった。
ただ。
今の自分が嫌いだ。
でも。
自分ですら自分のことを好きになれないのに。
どうやって人に好きと言える?
「……もう逃げるのもいい加減にしろよ」
どこかで逃げ腰で、どこかで人のせいで。
できなかったんじゃない。
やろうとしなかっただけだ。
何かをやりたかったら周囲なんて関係ないけど、
周囲に合わせた方が楽だって気持ちが知ってた。
だから、シノブや奥崎がすごいとも怖いとも思う。
自分の惨めさが浮き彫りになるような気持ち。
『離れるなよ』
――オクさん
俺はあんたの隣にいたいんだ
あんたの隣にちゃんと並んで立っていたいんだ
「今日、すごかったね」
急な声にサトルは動揺しながらその場に立ち上がった。後方へと振り返るとライブを終えた生徒会長、大塚コウジが缶ビールを長い手で持ちながらサトルへと笑った。
「お……お疲れ様です」
やっぱりこの人は苦手だ、サトルはそう思いながらも合わせて笑みを作った。コウジはそんなサトルの顔を見て軽く鼻を鳴らしてから路地へと踏み入れる。
「中はまだ凄い熱気だよ。ここは涼しいね」
見るとコウジの額にも汗がゆっくりと下へと流れている。珍しい、とサトルは思いながらも相槌を打つ。
「あ……いつも終わった後ここに来るのが好きなんです。なんかリラックスできるっていうか」
「……サトル君のお気に入りの場所、ね」
そう言ってコウジがアスファルトへと座り込んで空を見上げた。軽く吹き付ける秋風がコウジの髪を靡かせる。その場にいるだけなのに。サトルはコウジの雰囲気に圧倒されて少し見惚れた。
ライブ上でのコウジの表情、歌、動き。全てはステージ上を凌駕して客を惹きつける魅力がある。圧倒的に強さを放つ瞳。その目がゆっくりと弧を描きながらサトルへと向けられた。
「……そうそう、以前はすまなかったね」
「え?」
「君の首を締めて、さ」
平然と妖艶に話してくる過去の出来事にサトルはあぁ、と小さく声を漏らしてから困ったように笑んで。
「もう、気にしてないです」
「そ?なら良かった。俺も随分悩んだんだよ。キョウイチに頼まれた時はね」
「あ……そうなんですか」
「うん、でも。キョウイチがあまりにも奥崎が欲しいっていうから同情しちゃって」
「同情……ですか」
「そう、少し奥崎が羨ましいと思って、ね。協力してあげたいと思ったんだ」
「そう、なんですか」
「うん、ごめんね?」
「……いえ」
ダルそうなコウジの口調。
――なんか調子が狂うな……
サトルはそう内心思いながらも必死に笑みを保ったまま何度か意味もなく頭を下げる。
「あの……でも、同情って、コウジさんだったらみんなに求められる存在じゃないですか?なんか、すげえし……」
「ありがと」
緩やかに笑むコウジだが、表情が少し曇ったことにサトルは気付いた。
「あ……なんかガキ臭い事言ってすいません」
「君って本当に人の顔色伺って生きてるんだね。気にしなくてもいいよ。君の発言に気分が暗くなったわけじゃない」
「……はぁ」
「好意的な言葉っていうのは嘘でも容易くもらえるものではあるだろうけど、本物はひとつしかないものだからね」
「……ひとつ……」
サトルは瞳を大きくしてコウジをじっと見つめた。それを見てコウジは小さく笑って立ち上がる。
「悩んで逆境に立たされている時程、良い歌が歌える。君はそういう点では俺と似てるね」
「……そう、ですか?」
「ああ、ホント良かったよ」
「ありがとうございます」
正直、嬉しく思った。サトルは込み上げてくる嬉しさにゆっくりと笑みを零した。開かれたままのライブハウスの裏口ドアからヒサシが見えた。ヒサシはサトルの姿を捉えると口を大きく開けて、外へと出てサトルに駆け寄った。
「マッちゃん!どこ行ってたのよ~みんな探してたんだから!さ!打ち上げ行くわよ!」
「あ、ごめん。もうライブ終わったんだ」
「とっくの昔よ!って……コウジ?あんたなんでこんなところいるのよ?!」
コウジの存在に気付いてヒサシの声が一層高くなる。そんな様子にコウジは皮肉そうに笑んで。
「ヒサシ……ごめん。ちょっと五月蝿い」
と、優しげに言ってからサトルへと手を軽く振ってライブハウスへと消えた。
「大丈夫だったの?!マツ君!なんか言われた?」
「何も言われてないよ。大丈夫だから」
気持ちは高揚としたまま。サトルはヒサシの心配そうな顔を見つめて、少し笑った。
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