第8話 発熱
泣き腫らした瞼を冷たいタオルで冷やす。
時刻は午後一時を少し回って、廊下からこちらへ向かってくる足音に気づいた。シノブは部屋へとノックもせず入って早々制服を脱ぎ捨てるとサトルの顔を見つめた。
「調子どうだ?ずいぶんと顔赤いな」
「え……あぁ、調子……あんまり良くねえかも」
顔色を指摘されてサトルは少し熱で潤んだ瞳を泳がせた。熱のせいなのか、それとも奥崎からキスをされたせいなのかわからない。咄嗟に視線を逸らした事でシノブに対する後ろめたさに気分が落ちる。奥崎が来たことも内緒にしてしまった自分自身。そばで優しく接してくるシノブが正直重く感じた。
「よっしゃ。じゃあ行くか」
シノブはクローゼットから上着を手にしてすぐさまサトルの肩にかける。サトルは地震のような眩暈におぼつかない足取りでドアへとゆっくりと進んだ。
薄曇りの空を、グラグラ揺れる視界に捉えて。
寮を出て少し歩くと生徒たちがよく通院する内科。時間的にもしかしてやっていないんじゃ、とサトルは不安そうに病院の門に記されている時間を見るとまだ午前中の外来はやっていることに少し安堵した。自分の前に立つシノブが自分へと手を差し出している。少し躊躇うも、サトルはゆっくりとシノブの手へと自分の手を差し出した。
柔らかく握られた手。
シノブの手が少し冷たかった。
見慣れているはずの風景もいつもよりサトルの目に霞んで見え、熱が高いせいか頭痛がした。
病院の入り口へと入ると消毒液の充満した匂いがあたりを包み込んでいた。
白を強調した待合室には数人の患者が下を向いていたり、漫画本を読んでいたり。サトルは一番端の空いている椅子へとだるそうに座った。
「ほら、体温計だと」
受付へと行っていたシノブが駆け足で自分へと向かって来て、すぐに体温計を差し出してきた。サトルはありがと、と小声で話した後脇下へとそれを差し込む。暫く二人で黙っているとピピ、と機械音がしてサトルが体温計を取り出そうとしてると横に座っていたシノブが自分へと手を差し伸べていた。
「見せろ」
「……せっかちだな。ちょっと待って」
「見てやるって」
「わかったよ」
サトルは自分で確認をする前に体温計を取り出すとすぐにシノブへと渡す。シノブはそれを嫌味くさい笑みを浮かべながら見つめると、あぁ、と小さく声を漏らした。
「何度?」
不安げなサトルの声とは裏腹にシノブはゆっくりと口角を上げる。
「こりゃ入院だな」
「……は?」
「嘘。少し熱下がってきたのかもな。今37・5度だ」
「……そっか」
「多分、座薬じゃね?」
「やめろよ……そういうの無理」
「無理ったって薬は薬だ。座薬はしかも効くんだぜ?なんなら俺がお前に入れてやるよ。親指第一関節までな」
「……ホント、勘弁して」
冗談交じりに話してくるシノブの言葉にサトルは苦笑いを浮かべ、それでも少し気が紛れた事で病院に入ってきた時よりその場に馴染んだ気がした。
「松崎さん、松崎サトルさん」
陽気な看護婦の声にサトルは顔を上げて小さく頭を下げるとシノブへと振り向いた。
「行って来い。ここで俺待ってるから」
「……あぁ」
サトルは重い足取りで診察室へと入った。
消毒の匂いが一層鼻についた。
診断結果は夏風邪。
注射をされ、薬が出された。その中には錠剤が2種類、それからシノブが冗談交じりで言っていた座薬が3本。
『38度を超えたら、座薬を挿してくださいね』
医師の言ってきた言葉を思い出してサトルは深いため息をついた。
未だ熱いままの頭を抱えながらサトルはシノブに腕を支えられながら寮へと戻った。休日ということもあって、寮内は静かなものだった。戻った時刻は午後3時近く。部屋に辿り着いてサトルはようやく休息できると思ったが、シノブは部屋に着くなり、渡された薬をよこせと言いながらサトルの布団を綺麗に敷き直し始めた。着ていた上着を脱いでサトルは浮かない表情でシノブへと薬の袋を渡す。シノブはテーブルへと袋から取り出した薬を並べて一緒に渡された紙を読む。
「これが食後……んでこっちが頭痛とか喉の痛みに効くのな……んでこの座薬が38度超えたらか」
言いながらシノブの視線がサトルへと向けられる。
「……お前、今熱は?」
「さっきで37.8度だろ?今注射打ってきたばかりだから38度以上は絶対にない。だから座薬の必要はない」
「……そっか。……なにムキになってんだよ」
小さく笑うシノブ。
サトルは都合悪そうに頭を掻いた。が。すぐに手を足の上へと置いて、サトルは笑顔を向けるシノブの顔を見つめた。熱のせいで二重に見えるシノブの姿。
でも決めた。
言わなきゃだめだろ。
サトルはそう思って重そうに口を開いた。
「あ……」
「ん?」
「あのさ」
息を吐いて強めに声を出す。
「あの……」
笑顔のままのシノブ。その表情を曇らせてしまうのが罪悪感に感じ瞬間視線を逸らした。
「……あのなあ、……わざわざ言わなくていいぞ」
沈黙の中切り出してきたのはシノブだった。
「俺はお前の気持ちもこの耳で聞いた上でお前が好きだって言ったろ。別に付き合ってほしいから優しくしてる訳でもねえ。お前がオックのことが好きでも、俺もお前が好きなんだよ」
「だから、俺がやってることは俺が好きでやってることだ。お前の気持ちの変化を求めたくてとかじゃねえよ。人を好きになるのは自由だろ。それとも俺に好きって言われて困ってんのか?」
先回って全部言われてサトルは動揺の色を隠せなかった。その様子に小さく笑うシノブ。
「だろうな。お前そういうの下手糞っぽいもんな。だからいいんだけど」
「神崎……」
「俺は俺なりにがんばるしかねえんだよ、何事もな。ただ単に今お前が辛いなら、それは俺にとって嫌なことだ。だから、少しは俺に頼れよ、マツ」
「……それは汚いだろ」
震えてしまいそうになる声を搾り出すように声にするサトル。シノブの顔を見られない自分に女々しさを感じた。
「やっぱ俺、お前が好きだ。汚くねえよ、お前の気持ちは」
――違う。人を羨ましがるし、自分は非力だと思い知らされるし。どんなに満たされてもどこかで何かを渇望して。いつまでも死にたくなるような。そんなくだらない人間だ。
サトルはシノブの言葉に喉を締め付けられるような感覚を覚えた。
「泣くな」
「あ……ごめ……」
泣くことって、声を奪われるほど苦しい。
サトルはそう、少し理解した。
ベッドで横になって、シノブは勉強机に向かってからから一時間。
暫く部屋は静寂した。
普段は聞こえない秒針の音。
それから紙の上を走るシャーペンの芯の音。
時折ページが捲られる音も耳へと届いた。
ぼんやりと目を閉じてはまた少し開いて。
サトルは中々寝付けないまま、時間はもう夕方を過ぎて、いつの間にか外の風景は暗がりになった。
少し風が出てきたのか葉の音が窓から聞こえてきた。
寝たふりをしたまま与えられたキス。
唇には未だ感触が残ったまま。
サトルは自分の指先でゆっくりと唇をなぞった。
キョウイチが求めている奥崎のキス。
好きな人の行為だからこんなにも胸が熱くなる。
サトルは夢と現実の狭間で、重くなる瞼に少し苛立った。
「おい」
「……え?」
「勉強終わった。飯、食えそうか?」
「……ごめん、寝てた。……食欲……どうだろ」
「お前が腹減ったなぁと思ったら俺に言え。一緒に食べるから」
「いいよ、悪いから」
「うるせえな、いいんだよ」
陽気に話すシノブ。
サトルは熱い息を小さく吐いた。
「この時間何すっかな。なんかDVDでも観るか?」
「あ……それなら俺のクローゼットになんかあるかも。いくつか持ってるから」
「マジ?管理室まで借りに行くの面倒くせえからな。ちょっとクローゼット開けるけどいいか?」
「いいよ」
寮内では一階の管理室から大したラインナップでもないDVDの貸し出しが許可されている。
シノブはクローゼットを開けるとサトルの荷物をごそごそと荒らしだした。
「……なんかあった?奥の方だと思うんだけど」
「ん~、なんかあるな。これか?」
シノブがそれを引っ張り出すとなにかのDVDのパッケージだった。
「えっと、『女子高生パート2』。AVかよ!な、なんでお前こんなの持ってんだよ!」
「あー……中学の時の誰かがくれたかな。観た事ないけど」
「くれたって。どんなプレゼントだよ!」
「さぁ……くれたからもらった。実家に置いておくのも親に見つけられたら嫌だし」
「……ふぅん」
シノブはマジマジとDVDのパッケージを見つめながら返答した。
「この女、どう見ても女子高生じゃねえだろ!絶対二十歳超えてるぜ」
「……そうなのか?ちゃんと観た事ないからよくわかんねえけど、じゃあそれでいいんじゃねえ?」
「これをか?今か?」
「……?神崎はあんまり観ねえの?こういうの」
「はぁ?観るっつうの!健康な男子だぜ?観ねえ方がおかしいだろ」
急に喧嘩口調で早口に喋り立てるシノブの様子にサトルは不思議に思うもそうか、と小さく返答して重い頭を少し上に上げた。
「じゃあ観ようよ」
「……わかった。音量下げるぞ。一応寮内だから音が廊下に響いたら大変だからな」
「うん」
渋々とシノブはDVDを取り出すとデッキへとセットした。DVDは再生され、青い画面がテレビに映し出される。それから題目の『女子高生』が淡いピンク色で文字を現した。あまり聞いたことのないバックの音楽。女の子が画面に映し出された。学校の教室。教室の角へと数人の男子生徒が取り囲んでいた。嫌がる女子高校生にキスをし出す男子生徒。
その光景にシノブは小さく口を開けた。
「……おい、急にキスとかありえるか?」
「さぁ……アダルトビデオだからじゃねえの?」
「だからって女嫌がってるじゃねえか」
「それがそそるんじゃない……?」
熱があるせいでサトルはぼんやりとした意識の中ベッドから画面を見つめていた。後姿のシノブがなぜか滑稽にサトルの目には映った。生々しいキスの音が部屋へと響く。
「……おいおい、そんなに音するもんか」
シノブがぶつぶつと小言を言いながら画面へと愚痴を吐く。いつの間にか女子高生は教室内で全裸になり机へと座らせられている。サトルは少しおかしくなって笑った。
「……こんなことあったら生徒会書記はどう動くんだよ」
「ありえねえわ!先生呼びに行くっつうの!」
シノブはサトルへと背を向けたまま声を大にしてそう主張した。そっか、と笑って応えるサトル。するとゆっくりとサトルへとシノブが顔を向けてきた。
「……どうした?」
「そういえば、熱は?」
「あ……まだ計ってない」
「計れ」
命令口調でシノブはそう言うとまた画面へと顔を向き直した。サトルは体温計を手にとって計ろうとするとテレビから女の子のよがる声が聞こえ始めた。少しずつ荒くなっていく息遣い。開かれてモザイクのかかった恥部。
「女の子って大変だな……」
サトルはそう言いながら体温計を挟んだ腕を指で掻く。
「あぁ?どう大変なんだよ」
「だってあんなに足開いてさ……体柔らかいんだろうな」
「さぁ、しらねえけど」
投げやりな返答にサトルはシノブの機嫌を伺うも後姿からはよくわからなかった。徐々に激しくなっていく女子の声。サトルは少し体を起こしてそれを見つめた。受け入れられるようにできている体。容赦なく貫かれてもそんなに気持ちがいいものなんだろうか。サトルは男のモノを飲み込んでいる女子を不思議そうに見つめた。
「おい」
急なシノブの声にサトルは驚いた様子でシノブへと顔を向けた。
「あ、ごめん……なに?」
「なに真剣に観てんだよ。ったく……熱は?」
「あ、……ちょっと待って」
サトルは体温計を取り出して表示されている数字へと目をやる。
「…………」
無表情に黙り込むサトル。それを不審そうにシノブが見つめる。
「おい、……だから何度だよ」
「38.4度……」
「へ?マジで?」
「……うん。トイレ……行って来る、座薬挿してくれば下がるんだろ」
だるそうに上体を完全にサトルは起こすと深くため息をついて首を緩く横へと振った。微妙に頭痛もする。異様に熱い体は関節が鈍く痛んだ。
「……ケツ出せ」
「……は?」
真剣なシノブの言葉。サトルは眉間に皺を寄せて応えた。
「だからケツ出せって言ってんだよ。座薬挿してやるから」
「いいよ!!ヤダ!自分でやってくるから!」
「体起こすのも辛いだろうが!いいからケツ出せ!」
「ちょ!ちょっと待てよ!DVD観たから少し興奮してんのか?」
「お前、ふざけたこと言ってんじゃねえ!こんなんで興奮すっかよ!」
怒声にも近いシノブの口調にサトルは圧倒されるも断じて首を縦には振らなかった。チッと機嫌悪い舌打ちが聞こえた。シノブはサトルの肩を捕まえると上体を起こしているサトルをまたベッドへと沈ませ布団を一気に剥いだ。
「マジかよ!」
「あーうるせえうるせえ、なんならヤッちまうか?嫌だったらちゃんと従えよ」
「神崎!マジで離せよ!」
「知るか!病人は病人らしく言うこと聞け!」
シノブが仰向けにさせられているサトルの上へと乗って、それからパジャマのズボンへと手をかけた。サトルにひどい眩暈が襲う。
その時。
乱暴にドアが音を立てて開かれ、シノブが勢いよく後方にあるドアへと振り向いた。そこには不機嫌全開の表情でシノブを見据える奥崎が仁王立ちで突っ立っていた。
「……お前、何してくれてんだよ。マウンテンゴリラ」
聞いたこともないくらい低い声で奥崎がシノブを睨みつける。サトルはあまりの恐ろしさに息をするのを忘れそうになった。
「いっ!いてててててっ!」
シノブの悲痛な叫びが鼓膜へと響く。サトルは汗だくの状態で二人の様子を心配そうに見つめながら上体を起こした。いつの間にか、シノブは体ごとベッドから下ろされ、奥崎に肩を乱暴に掴まれていた。
「オ、オクさん!」
思わず、止めようと声が上がる。それでも奥崎は無表情にしゃがみ込んでいるシノブを見下す視線は崩さず、ただ黙っていた。
「離せよ!オック!」
「うるせえ、ゴリラ野郎。マジで苛つくんだよ」
完全に怒ってる。
サトルはそう思うとどうしていいか解らず、とりあえずベッドから這い出てシノブの側へと移動した。
「誤解だからさ、神崎は親切心で俺の看病をしてくれてて」
「それで?こんなもん見て興奮してマツのケツ掘ろうってか」
「じゃなくて!熱が高いから座薬を挿してやるって冗談で神崎は言ってたんだ」
「別に冗談じゃねえよ!!」
急に大声で否定してくるシノブの発言にサトルはぎょっとして隣でしゃがみ込むシノブを見つめ返した。
「何言ってんだ?!神崎」
「マツをどうしようと俺の勝手だろ?!オックにとやかく言われる筋合いはねえな!」
シノブの言葉に奥崎の表情に陰りが差した。吐く息さえもサトルには恐ろしく感じて、何かを訴えるように奥崎を見上げる。視線を感じて、奥崎はサトルへと一瞬視線を落とす。
「どけ、マツ。布団で寝てろ」
「こんな状況で寝れるかよ!!」
奥崎の淡々とした事務的口調が妙に冷たくて、 サトルは正直ビビッたがこのまま事態を放っておくわけにはいかない。震える気持ちを奮い立たせて大声で止めに入る。
「文句があるなら言ってこいよ、オック」
人の気も知らず挑発するシノブの発言。サトルは徐々に胃が痛くなってきた。シノブの言葉に奥崎は小さく笑って、下から上へと視線をシノブへと向ける。完全に睨みつけているその目は蛇のようだった。
「あぁ、文句なら山ほどあるな。アダルト好きな生徒会書記……いや、ゴリラ様にはな。日本語が通じればいいが」
「はぁ?!てめえ、バカにするのもいい加減にしろよな!俺がゴリラならお前は熊だ!熊!」
身を乗り出そうとするシノブの前に咄嗟にサトルが身を呈して二人の間に割って入る。体から異様に汗が込み上げてくるようだ。
「頼むからもういい加減にしろって!」
「うるせえ、マツ。お前は病人なんだから引っ込んでろ」
衝動に駆られたかのようにシノブは怒鳴った。サトルの息が徐々に上がっていく。
「マツ、ベッドに戻れ」
シノブを見据えたまま、少し柔らかい口調で奥崎がサトルへと話すもサトルは返答するかのように深くため息をついた。自分の息遣いにさえ眩暈がする。一瞬訪れた沈黙。二人は睨みあいながら動かない。
その沈黙を破ったのはテレビの音だった。
激しくなっていく女性の声とうめき声に似た声を上げる男の声。サトルはちょっと恥ずかしくなって顔を下へと背けた。頭上から聞こえる舌打ち。
「……さっさとイけよ、糞が」
奥崎の声が非道に聞こえる。
「……あー……面倒くせえな」
シノブはそう言いながら首を緩く横へと傾けて、サトルへと目を向けた。ゆっくりとサトルの身体が床へと落ちる。
「マツ!?」
「……サトル!」
同時に聞こえるシノブと奥崎の声がやけに頭の奥へと響いて聞こえた。
「も……ムリ……きゅ、救急車呼んで……」
ぜいぜいと荒い息切れでサトルが擦れた声を出した。
身体が動かせない。
こんな状況で死ぬなんて。
それだけは勘弁だろ。
耳に付く女の喘ぎ声。
荒く責め立てて来る男の声。
それと、ゴリラとか、熊とか。
もう、本当に勘弁だ。
サトルは徐々に込み上げてくる吐き気を押し返すようにぐっと唾を飲み込んだ。
ふと、自分へと触れてくる何かに目を細めて先へと続くリビングの床へと視線を流した。肌へと直接触れてくる柔らかい皮膚が冷たくて、心地いい。サトルはゆっくりと頭を上へと向けられる。奥崎がサトルの首後方、それから膝へと腕を回して持ち上げた。
だらりと腕が揺れる。
「マツ、聞こえるか?」
シノブの声。慌てているように聞こえる。サトルはシノブへと視線を向け少し笑って見せた。
「……だから早くベッドに戻れっつったんだ、本当に頑固だな、お前」
口角を上げて、小さく笑う奥崎の顔が異様に近くに見えた。
「お……オクさん」
いつの間にか奥崎に全身を持ち上げられた状態でサトルは内心驚きもしたが、あまりの具合悪さに奥崎の胸元へと額を寄せた。
「も……マジでムリ……」
口から熱い息が小さく吐かれる。
「顔、真っ青だな……マジで救急車呼ぶか?」
心配そうなシノブの声。
「いや、呼ぶまでもねえだろ。……神崎、第二寮に連絡してみろ。今日日曜日だろ、当直で保健医がいるかもしれねえ」
「わかった」
シノブは勉強机に置いてあった携帯を取るとアドレスから第二寮へと連絡しようとした。
「あ、すいません。第一寮の……」
敬語で話すシノブの声。横にあったテレビへと目を向けるといつの間にかアダルトビデオは終わっていたようだった。サトルは奥崎へと身を委ねたまま、止まらない眩暈に軽く吐き気が続いた。
「吐くなら吐いちまえ」
小声で自分へと話してくる奥崎。サトルは嫌そうな顔をして首を横へと振った。変な汗が額と背中から滲み出てきた。サトルは辛そうな顔で電話中のシノブの背中を見つめた。奥崎は暫く、サトルを持ち上げたまま、その表情を見て。それからシノブの電話が終わるのを待たずにサトルを抱えたままドアの外へと出ようと動き出した。驚きで、奥崎の顔をサトルは呆然と見つめたまま。シノブは少ししてからそれに気付いて奥崎へと向かって声をかける。
「おい!オック、サトルどこ連れて行く気だ?!今保健医来るってよ」
「あ?そうか、じゃあ俺の部屋に来るように伝言よろしく」
「はぁ?!お前ふざけんな!なんでお前の部屋なんだよ!」
ドアの入り口でシノブの手が奥崎の肩を引っ張った。ゆっくりと奥崎がシノブへと振り返る。
「……病人は安静にするもんなんだろ?生徒会書記様」
「ああ、当たり前だ」
「……だったらそっとできる場所に連れて行くのが当たり前だろ。俺の部屋は個室だし、安静にさせるには丁度いいだろ」
「お前にどうこう言われる筋合いはねえってさっき言っただろうが!ここで俺がちゃんとマツを看病する」
「……周囲に気ぃ遣って吐き気も我慢するような奴だぜ?俺らが変に傍にいたら気疲れで治るもんも治らない」
奥崎の言葉にサトルは都合悪そうに顔を奥崎の体へと埋めた。シノブは奥崎の言葉に下唇を軽く噛むも、ゆっくりと頷いた。
「だけどな、俺はお前と……」
「なにもしねえ」
シノブの言葉を遮って奥崎が強い口調で話す。
「なにもしねえ。……それは約束する」
奥崎の言葉に黙り込むシノブ。サトルは二人の間に流れる不穏な雰囲気に眉を顰めるも、数回咳をして固く目を閉じた。喉が焼けるように痛い。苦痛に満ちたサトルの顔。チッと小さく聞こえてくる舌打ち。サトルはゆっくりと目を細めて開けた。嫌そうな顔のシノブ。サトルは安心させようと少し笑って。
シノブは表情はそのまま、サトルへと手を差し伸ばし。強引にサトルの顔を自分へと向けた。急に重ねられる口付けにサトルは目を開けたまま、シノブの感触にぼんやりしていた意識が一瞬覚めた。
「!!」
「……じゃあ先生そっちに行くように伝えておく」
シノブはそう奥崎へと言って背中を向け、また携帯を耳に当てた。
「……よろしく」
冷徹に聞こえる奥崎の声。まるで感情の感じられない表情にサトルはただ黙ってしまった。
「……行くか」
無表情にサトルを抱えたまま奥崎はドアノブを回すと、ゆっくりとドアを開けた。
ひやりとした空気。
月明かりが異様に眩しかった。
瞳の奥のもう一枚の闇の底で夢を見る。
特別、勉強ができるわけでもなかった。
でも、両親が誉めてくれることが最初は嬉しかった。仕事から帰ってきた父親までも笑顔で俺の頭を撫でてくれて、俺を挟んで父と母は優しく笑う。そういう家庭がとても居心地が良くて、それを永遠にしたくて机に向かって勉強した。両親が子供を間に置いて、優しげに笑う家庭。崩れる危うさを知っていたかもしれないと、今なら思う。どうにか繋いでいたくて、離れてほしくなくて。努力を持続できればこうしていられると信じていた。
父が好きだった、母が好きだった。でも俺にとって『親』でも、二人は『男女』。傷が割れ出すと早くて、母親は俺の前から姿を消した。頑張っても繋ぎとめておけないものがあると学習した。
――置いていかれるのはなんて、悔しいことだろう。置いていかないで、なんて。言葉にもならなかった。
父親は再婚もせず、変わらない生活を送る。俺もいつも通り、机に向かってやることがないから勉学に励む。自分がどんな風に生きても――例えば明日死んでも。きっと母には会えない。
「明日雨が降れば、学校終わって帰れば、母が帰ってきてる」
頭の中で勝手にルールを作ってはそれだけで嬉しくなって、簡単に打ち破られて虚しさに少し笑って。それに「寂しい」なんて言葉が当てはまることも知らなかったから俺は叶わない願掛けに夢中になった。何度も何度も夢を見て、現実に打ちのめされていいだけ年月を経てから、疲れて、その内やめた。夢を見ることも、頑張ることも、きっと全ては意味の無いことだと思った。
変わらない部屋
変わらない友人の受け答え
気だるげなのが楽だと笑う
本当は笑えることなんて何ひとつないのに
生きていると実感したいからか?
灰色の人間関係、修復する気もなかった
ただ同じ世界でぐるぐる生きてる自分
死にたい?
死にたいのか?
いや、死ぬのは怖い
じゃあ自分はなんで生きてる?
意味の無い、こんな世界で
無駄に生きる命を抱えてる?
勝手に動く心臓はなに?
脈打つ血液はいつ流れを止める?
母は、俺になんで体を与えた?
苦しめるため?
それとも単なる快楽の産物?
愛してないものでも結晶はできたのか?
腹に孕む苦しみと引き換えに
あんたはなにを得たかったの?
あんたは、なんで俺を捨てたの?
認めたくないから?
見たくないから?
憎いから?
それともそれが幸せだから?
あんたは、幸せですか?
母さん
もうずっと心臓が五月蝿いんだ
どうか母さんの手で止めてよ
もう求めないから
だからせめて止めを刺してくれよ
心臓が遅いんだ
もっと
もっと速く鳴らないと
終着点に着けない
鳴らせ
鳴らせ
破裂するほど
己の声も打ち消すくらい
人が恋しいと思うこの想い諸共
聞こえなくなれ
涙で目を潰すから
喉で感情を殺していけよ
たのむ
たのむ
たのむから
これ以上ひとりにしないで
どんなに願っても
どんなに頑張っても
世界はきっと変わってはくれない
変わりは、しない
そんなこと
知りたくなんかなかった
『離れるなよ』
洗面台の蛇口から水が勢いよく流れ出し排水溝へと飲まれていく音が響く。
「座薬は入れておいた。後は朝まで充分に睡眠とらせることだな」
無愛想な声が洗面台から聞こえて、奥崎は返事もせずただソファに座って頷いた。電気もつけていない洗面所からダルそうに濡れた手を横へと振りながら現れた保健医、キトウは首を回して関節を鳴らした。皺だらけの白衣だった。
「ありがとうございました」
奥崎は小さく礼をして、ドアへと保健医を誘導する。保険医は奥崎の後方を歩きながら煙草へと火を付け、深く吸い込んだ。
「流石、親が寄付してる個室は他の生徒よりは良い暮らしぶりだな。確か、お前の家、華道のなんかだよなぁ」
「家がそうだってだけです」
奥崎のぶっきらぼうな口調にキトウは苦笑するもすぐ真顔になってため息を吐く。
「はいはい、……折角麻雀良い調子だったのになあ」
暗闇に煙が線を引いて漂う。
奥崎は別に気にすることもなくドアノブへと手をかけ、ドアを開く。キトウはその様を見てニィと薄い唇を曲げた。
「さっさと帰れってな。はいはいそうするよ」
「どうも」
キトウがスリッパを履き替えて廊下へと出るとすぐに奥崎はドアを閉めた。周囲に漂う煙草が少し気に入らない匂いで、奥崎は顔を顰めながら寝室へと戻った。
通常、寮の生徒が入っている二人部屋の二倍の広さ。他の生徒の部屋と違うのは簡易キッチンが設置されていることだ。奥崎はキッチンをほとんど使った試しはなかったが、今回は少し役立つものだと思った。洗面器に水を入れて、タオルを入れる。それを片手に持って隣の寝室へと音を立てぬように歩いた。紺色の分厚いカーテンは微動だにせず、そこから静かに月明かりが漏れているだけ。薄暗い部屋の中心に置かれたダブルベッドにはサトルが寝息を立てていた。未だ苦しそうなその顔を見て、奥崎は洗面器をベッドの脇へと置くと少し屈んで、サトルの寝顔を見つめた。
額には汗をかいて、前髪がへばりついていた。
「マツ、髪伸びたな……そりゃそうか」
掌でサトルの額に張り付いてしまった髪の毛を後方へと撫で付ける。肌の奥から底熱い熱を感じ、未だ熱が高いことを知る。
「睡眠、を取らせる、だったな」
そう言って奥崎はベッド脇のソファへと横になった。時刻は十二時を指す。寝れそうもないな、と奥崎は少し笑って呟いた。
「……んぁ」
苦しそうな声にいつの間にか閉じていた瞳を奥崎は開けた。サトルへと目をやるといつの間にか、掛けておいた布団を足で捲り上げていた。
「……暑いのか」
奥崎はソファから立ち上がり、ベッド横のライトを点燈するとサトルは苦しそうな顔をしながらまだ眠っているようだった。
「マツ」
眉間に皺を寄せたまま寝ているサトルへと声をかけるも返答はなく、代わりに小さく唸る声が聞こえる。
「嫌な夢でも見てんのか」
小さく喉で笑って布団を掛け直そうと、掛け布団へと触れると、ずいぶんと湿っているような気がして。奥崎はベッドで横向きに眠るサトルの背中へと手を当てると汗を随分とかいていることに気付いた。
「これじゃまた身体が冷える、か」
奥崎はベッド横にあるクローゼットから新しい衣類を取り出す。
「でかい、だろうが……仕方ねえ」
衣類をベッド横へと置いて、サトルの様子を伺いながら洗面器の中のタオルを固く絞る。
「マツ、着替えるぞ」
奥崎はそう言って布団を捲り挙げると自分もベッドへと片膝ついた状態でサトルのパジャマのボタンを上から手際よく外していく。肌は紅潮して、汗が電気の明かりで少し光って見えた。ボタンを全て外して上半身を片腕でゆっくりと起こす。
「……ん」
小さくサトルが声を上げる。奥崎はサトルを上半身を裸体にしてからまたゆっくりとベッドへと戻すと、タオルを手に首筋からゆっくりと拭いていく。
「ん」
再び上がる声に奥崎は拭いていた手を止め、サトルの首筋へと視線を落とした。早く脈打つ様が目に映る。ゆっくりとサトルの首筋へと顔を近づけて。
「心臓が、随分と速いみたいだな、サトル」
指先でサトルの首筋で脈打つ血管に触れる。それからゆっくりと指先を肌の上で滑らせていく。時折、眉間に皺を寄せるサトルの顔。奥崎はそれを見て、喉元で小さく笑った。熱く紅潮しているサトルの肌。奥崎はゆっくりと顔を近づいて、鎖骨へとそっと唇を落とす。今度は舌を這わせ、鎖骨をゆっくりと下から上へと舐めて。指先がサトルの胸元へと触れる。奥崎の舌はゆっくりとサトルの体をなぞり、胸元へと到達する。と、その時。サトルは小さく声を漏らした。
「……待って……」
奥崎は動きを止め、体をゆっくりと離して、サトルへと目を向ける。が、サトルの目は固く閉じられたまま。
「寝言か」
奥崎は小さく息を吐いて、いつの間にかベッドの上の置きっぱなしにしていたタオルをもう一度手に取る。シーツはいつの間にかタオルから水分を含み、その部分だけ濡れてしまっている。
「……あ」
思い出したかのように奥崎が声を漏らす。
「神崎に手出さないって確か約束した、な」
「……忘れてた」
奥崎は無表情で小さく呟いた。
開け放たれた窓へとスタジオ内の空気が星も消えた雑居ビルの闇へと流れていく。
時刻は午前二時。携帯を閉じてレンが小さく舌打ちをした。
「うっわもうこんな時間かよ。結局サトルもオクもヒサシも来なかったな」
少々苛立った様子でレンは無造作にセットされた茶髪を一層指でかき乱して呟いた。窓越しに立つタキはそれを見て静かに笑うと音を立てぬように窓をゆっくりと閉める。
「マツ君、熱あるみたいだし仕方ないよ。そんなに怒らないで、レン」
「わかってるよ」
レンはタキの言葉に声を荒げて言うもそれから少し黙ってスタジオ入り口のドアに立つキョウイチを下から舐めるように睨んだ。
「ストレスなのかもな、マツ君が熱出したの。……んで?お前は何しに来たんだよ」
嫌味の入ったレンの言葉にキョウイチは端正な顔を少し歪めてレンから目を逸らす。
「レン」
諌めるかのようにタキがレンの側へと寄るも、レンはそちらへと目を向けることなく黙ってキョウイチを見つめたまま携帯をまた開いた。
「オクなら携帯ねえぞ。先日苛立って自分でぶち壊しやがったからな。お前のせいだ」
「レン」
「それから何だったか、ああ、昔のファンがマツ君とこ怒鳴り込みに行ったそうじゃねえか。どうせお前の差し金だろ?なぁキョウイチ」
周囲の空気がひりついていくことにタキはキョウイチへと心配そうな顔を向けた。キョウイチは黙ったまま、ゆっくりとタキへと顔を上げる。
「オクならすぐに買うと思うよ、携帯。このご時世、持たない人なんていないでしょ。安心しなよ、キョウイチ」
「それで満足だろ?何時だと思ってんださっさと帰れよ、中坊」
喧嘩口調のレンの様子にタキは深くため息を付いてレンの顔を覗き込むも、当のレンはタキと視線を敢えて合わさず、平然とキョウイチを睨んだまま。その様子に椅子へと足を組んで深く座っていたコウジが小さく喉で笑みを漏らした。
「……なんすか」
低い声でレンがコウジへと横目で睨みつける。そのレンの様にコウジは一層目を細めて笑むとゆっくりと立ち上がってレンへと歩き出す。すらりと伸びた長い足からは靴音が相手を威圧するかのようにゆっくりと鳴り、レンは近づいてきたコウジから顔を背けると小さくため息をついた。
「相変わらずの短気だな、仙崎。まぁ、お前の特徴みたいなものか。……キョウイチは俺がここへ呼んだんだ。まさかお前たちがこんな遅くまでここを利用するとは思わなかったからね。悪かった」
穏やかに話すコウジの声に合わせてレンの側にいたタキが珍しく表情を歪ませた。
「別のスタジオもあるのに敢えてこの場所にするなんて会長も性格悪いですね。レンが短気だと理解してるなら煽らないでくださいよ」
レンは小さく舌打ちをしてから横にいるコウジを無視して、テーブルの上に置いておいた自分の黒い鞄を手にする。
「タキ、帰るぞ。俺らは邪魔みたいだからな」
「……わかったよ。ちょっと待って」
タキは壁の服がけにかけておいた自分の上着を手にするとレンへと向かう。その間もキョウイチは都合悪そうに二人から視線を逸らしたまま、その場から動こうともせず。レンはキョウイチを少し睨んでからコウジへと振り向いた。
「じゃあお先に。約束の場所、占領してすいませんでした」
嫌味臭い言い回しでレンは言うとドアを乱暴に開けて出て行く。
「じゃあ、失礼します」
困惑気味にタキも挨拶を述べると先を行くレンを追いかけて行った。遠ざかっていく足音が廊下へと響いて聞こえ、キョウイチは開けられたドアをゆっくりと閉めた。
バタン、と遮断される音がスタジオに響く。
「……なんで嘘つくの」
キョウイチが小声でコウジへと問うと、コウジは不思議そうな顔をしながら首を緩く傾げて見せた。
「なにが?」
「何がじゃねえよ。あんたをここへ呼びつけたのは俺だ。なんであんな下らない嘘なんか」
「別に。人の気持ちを煽るのが好きだから?かな」
「……やっぱあんた変わってる」
「お前程じゃないがな。ここで約束すればオクに会えるとでも思ったのか」
穏やかな口調は乱れることを知らず、コウジは小さく笑ってみせてからテーブルへと置いていた煙草へと手を伸ばす。静寂に火を灯す音が聞こえる。キョウイチは厳しい表情のままコウジが煙草へと火をつける仕草を睨むように見つめた。
「……それで?今度はなに?」
煙を口から静かに吐いて、コウジが少しダルそうに話す。キョウイチは生唾を飲んでからコウジへと近づいた。
「もう追い出してとか言わない。オクが俺の事睨むから」
「だろうね」
即答で返すコウジの言葉にキョウイチは眉間に皺を寄せるも一息ついてまた口を開く。
「俺、前にオクになにかしたかな。嫌われるようなこと、したと思う?バンドだって上手くいってたのに急に辞めろなんて、さ……」
「……アカーシャの事を何で俺に聞くわけ?」
コウジは目を少し細めてから煙草へと口を付けた。
「コウジなら知ってるかと思って……正直、ただの相談なんだけど……迷惑?」
「いいや」
「なんかごめん。ちょっと前より参ったっつうか、堪えた……なぁって」
「オクは正直だからね」
「正直?……じゃあ俺を邪魔だと思ってるってこと?」
「現に邪魔してるだろ?違うのか?」
「……そっか。だよな……でも」
「でも?」
キョウイチはゆっくり俯いて、込み上げてくる涙を白い床へと落とした。
「でもやっぱ好きだからさ。どうにかオクの気持ちを取り戻したくなるんだ。前みたいに隣にいたいんだ。でも、最近睨まれてばかりだしさ、前は俺がオクの隣に居たのが当たり前だったのに、だんだん遠くなっていくのがわかる。……だからすごい憎い。松崎さんが憎い。あの人さえいなきゃきっと」
「コウジだったらどうする?」
「コウジならどう動く?」
泣き声混じりの言葉がコウジの吐き出す煙に混じる。キョウイチは顔を上げられないままその場でただ涙する。コウジは小さくため息をついてキョウイチの側へと向かった。
「遠くなっていくのが自分でわかるなら、実際にはもう随分遠いのかもしれないな」
穏やかな口調。キョウイチは涙を溜めた目を開いたまま、床に落ちて潰れてしまった涙を見つめた。
「キョウイチはオクが好きでどうしようもない、ならオクもそうだとは思わないか」
「……どういうこと?」
「人を好きになってどうしようもなくなってしまうのはキョウイチだけじゃないって事だよ。好きになったらしょうがない事だ。止められるモノじゃない」
「だからキョウイチが松崎のことを憎む、それは仕方がないことだと俺は思ってる」
短くなった煙草を灰皿へと押し当てて消すとコウジはキョウイチの肩を自分へと抱き寄せる。
「けど奥崎の気持ちがお前の憎い相手へと向かうものだったら?お前が辛い想いするのも仕方のないことだと思うよ、俺は」
キョウイチは流れてくる涙を拭おうともせず黙ってコウジの話を聞いた。絶望ににも似た現実感が徐々に悲しく染み込んでくる様。それでもキョウイチはコウジの胸元に顔を押し当てたまま動けなくなった。
「……辛いなら止めれば?」
耳元で呟くように話すコウジの声にキョウイチは一層に瞳を開く。
「……っ!辛くてもオクじゃなきゃ俺はダメなんだよ!自分が辛いから止める位ならもうとっくの昔に諦めてるに決まってるじゃん!!」
キョウイチはコウジの胸元を両手で押し離すと声を荒げて速い口調で怒鳴った。
「誰にもやりたくない!オクが誰かの事を好きだと思っても俺はオクじゃなきゃダメなんだよ!」
息を切らして、キョウイチの呼吸が荒々しく響く。
コウジはその様子に小さく笑んで。
「そういうキョウイチが俺は好きだけどね。じゃあ頑張りなよ。ちゃんと見ててやるから」
「俺の方がオクに相応しいって証明してみせる」
キョウイチは涙を乱暴に拭う。
皮肉を交えて笑った顔が闇の広がる窓越しに鮮明に映った。
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