第7話 失恋の自覚・恋の自覚

 学校から出て、第一寮の前を歩く。

 夏の光に焼きついた緑の木々たちは風に揺れてカサカサと音を鳴らす。もう通い慣れた道はいつも変わらず穏やかだ。サトルは少し重いカバンを肩越しに持ってゆったりとした足取りで進んでいた。

「あれ……」

 寮の前に数人の知らない女たちの群れに気づいて、足を止めたと同時に女たちはサトルの存在に気づいてこちらへと駆け足で寄って来る。

「サトル!サトルだ!」

 顔も知らない女たちが声を上げて、こちらへと走ってくる姿にサトルは動けずその場に突っ立ったまま。すぐに女たちが周囲を囲った。自分と同じか、少し年上の様に見える女たちは流行の服ではなくライブで見たことのある派手な格好。秋風に乗って香水の甘い香りが少し気持ち悪かった。

 この歩道にこの女の子たちの様相。

 サトルの目には異様に見えた。

「……あの、なんですか」

 警戒心むき出しの低い声でサトルが女の子たちへと話しかけるとその中の一人がきつい表情でサトルの顔を睨み付けてきた。

「アカーシャにファンレターを出した者です」

 アカーシャ、奥崎やサトルのバンド名である。

 強い口調にサトルは数回、動揺しながら頷いた。

「え……それで?」

「やっぱりサトル読んでないんだね。……私たち、ずっとアカーシャのファンだったんです」

「あ、そうなんだ。オクさんとかは多分まだ学校なんだけど……」

 困ったように話しながらサトルは無意識に愛想笑いを浮かべた。

「そうですか。別に構いません。私たち、あなたに会いに来たんですから」

「……俺?」

「そう、あなた」

 変わった口調だな、とサトルは思いながらも嫌な予感が頭の中を過ぎった。感じるこれは多分、自分に対しての悪意。

「キョウ様のこと、どう思いますか?彼の作った歌詞とか歌とかご存知ですか?最近のアカーシャでは歌われませんけど」

「いや、知らない。ごめん」

 サトルの返答に女は呆れたような顔をしてから深くサトルに聞こえるようにため息をついた。

「やっぱりそうでしょうね。キョウ様のすごさも理解できずによくアカーシャのヴォーカルやってますね」

「……なにが言いたい、の?」

 徐々にサトルの表情が曇る。

「以前のアカーシャと今のアカーシャ、比べ物になりません。比べたくもありません。以前はキョウ様を中心にレン様やヒサシ様、それにキョウ様の隣にはいつもヤマト様がいて、それは貴方が想像できない位すごかったんです。今の現状、多分最悪だと皆様わかってらっしゃるのになんで変わってしまったのか、私たちはすごく悲しいんです」

「…………」

 ヤマト様っていうのは多分、オクさんのことなんだろうな、とサトルは思った。勢いづいた彼女の口調にサトルは小さく何度か頷くだけ。それでも彼女たちの批判は止まらない。

「ファンレターで、私たちはアカーシャの皆様に理解を求めました。かなりのファンも離れていって、危機的な現状に気づいてほしい、と。それから貴方の脱退とキョウ様の復活を」

 話していた女の子とは別のショートカットの女性が今度は話してきた。

「何度かキョウ様がライブハウスへと来てるのも貴方、分かってます?」

「……知ってるよ」

「ヒドイ!」

 瞳の大きい化粧の濃いもう一人の女の子がいきなり声を上げて泣き出した。それにはサトルも動揺して表情が固まった。

「それを知ってて歌えるんですか?!貴方の行動ってヒドイです!」

「いや……」

 途中サトルは否定の声を出すも一歩自分へと近づいてきた先ほどの女が厳しい表情で睨み付けてきた。

「私たちは断じて、貴方を認めませんから。最近のアカーシャのファン層、男性が多くてもう私たちの見守ってきたアカーシャと違う。全ては貴方のせいです。貴方のことは私たち、許してませんから!」

 そう言うとその女は深くサトルへと一礼してその場から駅の方向へと歩き出し、他の女の子たちも泣いた女の子を慰めながら付いて行った。


 一人、サトルはしばらくそこに立ち尽くしてから深くため息をついた。


「マツ君?」


 穏やかなそれでいて低い声にサトルは驚いたように横へと顔を向けた。そこには、既に一度帰宅したのだろう私服姿のマコトの兄、タキが紙袋を手にして立っていた。長身、細い体つき。吹き付ける秋風に色素の薄い茶髪が揺れた。

「あ……」

 サトルは都合悪そうに頭を下げた。タキは少し笑みながらそばへと近寄る。

「大丈夫だった?」

「え……あぁ……。大丈夫です」

 と、サトルは少し笑みを浮かべながら答えた。

「やっぱりマツ君は我慢しちゃうのが癖なんだね」

「そう、ですかね。なんかすいません」

 どこから見られていたのか、サトルは少々居た堪れない心境に視線を地面へと落とした。

「でも、助けちゃだめだろうな、と思ってさ」

「……え?」

「最初はみんなに頼まれて始めたことだったじゃない?バンド。でもあれから結構ライブやって、だんだんマツ君良い顔してるの見てさ。なんか楽しいんだろうなぁと思って。レンもすごく楽しいって毎回言うし」

「あ……。……」

「どう思ってる?別に以前のアカーシャがどうとかじゃなくて。今自分がライブとかしていて。自分自身の意見としてさ」

 自分自身。そんなの、とっくに答えはひとつだ。

 サトルは顔を上げて少し笑った。

「……正直、楽しいです。さっきの子達には悪いけど」

「なら、いいんだよ。それで」

「……はい」

「よかった。歌うのは好き?」

「はい、好きです」

「バンド活動も?」

「ええ、みんなといると楽しいし、曲が出来上がるのとか……そういう楽しみも感じます」

「そっか。……じゃあ、奥崎のことは?」

「え」

 突拍子もない質問にサトルは動揺を隠し切れず顔を一瞬で赤く染めた。その状態にタキはまるで少女のようにクスクスと笑った。

「ごめんね、変な質問して。ただ……だったらいいなぁと思っただけ」

「……あ、はぁ……」

 ひどい眩暈が一瞬したような感覚に陥ってサトルはその場にゆっくりとしゃがみこんだ。正直こんな顔、見せたくない、と思った。

「マツ君、俺はね。レンのこと大好きだよ」

「あ、……はい」

 さらりと話し出すタキの言葉にサトルは動揺したまま頷いた。

「でもね、……そう伝えるのは、俺は毎回怖いんだ」

 サトルは顔をゆっくりと上げてタキを見つめる。サトルの目に、変わらぬ穏やかな表情に陰りが見えた。

「……なにか、あったんですか?」

「ううん、なにもないよ」

 優しげに首を横に振るタキ。

「でも誰かに好きだとか愛してるとか伝えるのって簡単なことじゃないからさ。耳で聞いても気持ちまで届かないと意味がない、単なる言葉だよ。それだけ、自分も言葉や行動で尽くさなきゃならない。相手が伝えてくる相手の言葉に耳を傾けなきゃならない。大変なことだと思うんだ。だから、マツ君が誰かのこと好きになったらそういう強い気持ち持ってほしいなぁと思ってね。……なにかと我慢するみたいだからさ」

「……はい」

「キョウイチのことも、……恨まないであげてほしいんだ。まぁ、コウジのこともあって嫌いだなぁと感じちゃってるところもあるだろうし、ああいうファンの子達もいるだけだからさ。キョウイチみたいに……奥崎に対して気持ち伝えても叶わない恋愛も事実、ある。それもとても辛い思いだと思うんだよ。俺は……ちょっとキョウイチの気持ちがわからないわけでもないから」

 ――恨んでは、いない。

 苦手ではあるけれど、キョウイチ自身をきちんと知っているわけでもない。サトルは息を吐いてからゆっくりと頷いた。

「……はい」

「それでも恋愛は自由だから誰かを好きになるってすごく大事な思いだと思うんだ。だからマツ君、相手へとちゃんと思いを伝えられるような人になりなね。歌を歌うって行動も思いを叫ぶ作業みたいなもんだけどさ」

 さっきまでの動揺がいつの間にか解けて、サトルはゆっくりと立ち上がった。

「……なんか、すいませんでした」

 深く一礼してみせるとタキはまた優しく笑って首を横に振った。

「ううん。謝らないで。俺もちょっと変な話しちゃってごめんね。バンド加入して大変なことまだまだたくさんあるだろうけど頑張ってね。みんなは客層変わってすっきりしてるみたいだし心配しないで頑張ってね」

「はい、頑張ります」

「じゃあ俺、これからマコトの部屋行ってくるから。なんか熱出しちゃってるみたいだから薬届けに、ね」

 そう言ってタキは第一寮の中へと歩いていった。


 吹き付ける秋風。

 サトルはただ寂しそうに見えるタキの背中を見つめていた。




 揺れる湯煙は上へと立ちこめていた。

 サトルは体をゆっくりと伸ばして深くため息をついた。少し伸びてきた前髪からは水が滴り、濡れた手のひらをただ見つめたまま動かず。

 タキの言葉が耳の奥に焼きついて。

 サトルは手を湯の中へと沈めると背中を壁に預けて目をゆっくりと伏せた。

 充実感の中に、奥崎に対する恋愛的な思いがある。そんな状況にただただ胸を熱くするだけで。

 サトルは何度か瞬きをして少しだけキョウイチのことを思った。

 苦手、と感じていたのは多分。自分に対する敵対心より何より、奥崎に対する執着心。それが強くて、自分にできた居場所を失うのが少し怖かったかもしれない。以前に付き合っていた。その事実、内容すら自分は未だ知らないまま。

 みんなと楽しく笑って、ライブで叫んで。

「人の気も知らないで、だな」

 高まっていく奥崎への思い。キョウイチへの後ろめたさ。自分が幸せを感じている分、キョウイチはどうなんだろう。好きとも伝え切れないほど、自分の勇気は弱い。それでも今の充実した日々に笑う自分がいる。反対に、好きだと伝えて居場所までなくしたキョウイチがいるのも、事実。思えば思うほど自分が最低に思えてくるような感覚にサトルは深くため息をついた。

「俺は、オクさんに甘えっぱなしだな……それで勝手に好きとか思ってるところが痛いな……」

 無意識に独り言が口を打つ。

 どうしたい。

 自分がどうしたいか。

 サトルは熱く火照った体を湯から上げて、周囲を片付けると早々に脱衣所へと歩いた。体を乾いたバスタオルで拭いて、ふいに横にある大きい鏡に映る自分の顔に呆れた。

「……どこがいい顔なんだよ。ひどい顔じゃん」

 深々とため息をついてバスタオルを腰へと巻く。

 と、タイミングいいのか悪いのか。

 脱衣所のドアが勢いよく開けられサトルは驚いた。

 奥崎が風呂道具を脇に抱えて何食わぬ顔で現れた。

「ん?お前今上がったのか。お疲れ」

「え……っ!あ、うん」

 変に動揺してしまったことにサトルはすぐに歩き出し設置されている扇風機の前へと移動した。

 ロッカーが開く音。

 後方で奥崎が動く気配を感じる。

 サトルは少し胃が痛く感じた。

「……今日、前のファン、寮に来てたって?」

 奥崎の声。

 少し不機嫌に聞こえた。

「あ、うん。でも大丈夫だったけど」

「……大丈夫じゃなかったんだろ」

 呆れたように話す奥崎の声にサトルは首を少し傾げた。

「本当大丈夫だったよ」

「お前結構頑固だよな……」

 服の脱ぐ音が聞こえる。サトルは変に緊張している自分に嫌気が差して奥崎へと振り返った。

「今まで頑固とか俺言われたことないよ」

「そういうところが頑固だっつうんだよ」

 口角を上げて笑う奥崎。

 サトルは少しほっとした。

「気にするなよ」

「気にしてないよ」

「嘘つくな。ひどい顔してる」

「……それはいつものことだろ」

「顔見りゃわかるって話だ。俺らは今自分らが望んでいた形でバンドやってる。今までのファンが離れていっても仕方ないことだ」

「……わかったよ」

「わかればいい」

 奥崎はそう言うと風呂道具を持って全裸の状態で風呂場へと去った。


 静かになった脱衣所には扇風機の音。

 それから露骨に顔が強張っている自分の顔。

 サトルは長いすへとゆっくりと深く座った。

 ひどい疲れに頭が重く感じた。ライブの一場面を脳裏に描く。それだけでも満たされる思いがある。奥崎に対する特別にも近い感情にも胸を熱くする。が、決定的にサトルは日常の不安から逃げることができないことも理解していた。


 自分自身がどうしたいのか。

 自分自身がどう決めるべきなのか。

 それができない人間だという事実。

 それから離れた生活をしてきたことへの悔い。

 今になって思い知らされる器の小ささにサトルは愕然とした。




 少し開けた窓から入り込んでくる涼しい風。シャーペンが紙を走る音が教室内に響く。監督の教師も外の風景へと目を向けたまま動かない。

 中間テストだというのにサトルはさっさと終わらせると見直しをするわけでもなくただただ思いに耽った。自分の目に広がる生徒の背中。みんな一心不乱に問題に取り組んでいる。それぞれがそれぞれのことで必死で。自分はそれからかけ離れた場所に立っている気がした。

 ――悪い癖だな

 サトルはただ教室の壁にかけられている時計の秒針を目で追っていた。

 テスト時間終了の鐘と共に周囲からはため息や声が混じった。筆記用具を片付けていると机の前に誰かが立っている気配。顔をゆっくりと上げた。

「やっとで終わったな。どうだった?俺の教えたところ、問題出ただろ?」

 自信に満ちたシノブの声にサトルは小さく笑って頷いた。

「さすが、神崎様様だよ」

「あったりまえな返答だな。まぁ今回は簡単な問題でよかった。俺はこれからまた生徒会だけどお前は?やっぱりスタジオで練習か?」

「――……あぁ。うん、そうだな。来週またライブあるし」

「……疲れてるのか?」

「いいや」

 人に言うことじゃない、サトルはそう思うと笑顔でカバンを小脇に抱えた。

「それじゃ、神崎も頑張れよ」

「あぁ」

 不審げなシノブの瞳。サトルは自分自身が見透かされているような気がしてその場から逃げるように教室を出た。廊下をすれ違う顔の知らない生徒や仕事をする先生。笑って談笑しているクラスメイト。

 サトルは自分の居場所がわからなくなったような気がして、その足で階段を上がった。

 徐々に人気が少なくなっていく。

 響いて聞こえる自分の足音。


 冷え切っている周囲の空気を肌で感じながらサトルは屋上の重いドアを押し開けた。


 ひゅ、と冷たい空気が肌を撫でる。

 空には雲ひとつなく、太陽がその原型を失って、ただ光を放つだけ。それでも熱を感じることはなく、あまりの眩しさにサトルは目を細めた。ガシャンとドアが風に押されて勢いよく閉まった音にサトルは瞬間振り向いたがまた前へと進む。

「……さむ……」

 サトルは小さく声を出して、それからカバンを少し汚れた床へと置くと深呼吸をした。


 落ち着かない自分の気持ち。

 以前とは違う環境に自分の気持ちが追いついてこないような錯覚。

 進めば進むほど、自分の弱さに悔しくなる。

 歌えるだけじゃ駄目で。

 そこにいるだけでも駄目だ。

 懸命に考えても、自分のことが嫌いになる要素が頭に浮かぶだけ。

 すべての答えを奥崎らに頼りきっている自分。

 うん、とかいやだ、とか。

 あるだろう、とサトルは茶色く染まった髪を後方へと指で梳く。


 屋上へと聞こえてくる生徒たちの声。なんのために頑張るのか、そんなことすらサトルにはわからない。ただ。奥崎たちのようにはなれない自分がどうしても浮いて感じる。そのまま指先の感覚が失われるほど、サトルはただ没頭して空を見つめた。

「……結局」

 サトルは生唾を飲んでから、少し笑った。

「結局前の方が俺にとって居心地が良かったってだけじゃねえの……?」

 勝手に心臓は動く。

 逃げて生きても。

 ただがむしゃらに生きても。

 死ぬために動いていく鼓動のひとつひとつ。

 終わりはいつなのか。

 終わりは来るのか。

 以前は膨大な時間に吐き気がした。

 自分はきっと情けないだろう。

 不釣合いな世界。

 単に焦がれていただけだったのだろうか。

 それとも、それとも。


『離れるなよ』


 花火の中で小さく笑った奥崎の顔。

 優しい声。

 多分、失くしたくないモノ。

 あれほどの喜びをもらって。


 自分はなにを返せるか。

 自分は人に、奥崎になにを与えられるか。


「オクさん……」


 口をついて、出る相手の名前。

 与えられた場所が。

 あの手錠を嵌めたマイクの前なら。

 すべきことが歌うことなら。

 すべきことが叫ぶことなら。

 自分の力で殻を破るしかない。

 あの目の前の暗闇へと叫び続けるしかない。

 それが自分ではできる。

 できるはず。


 会いたい

 会いたいよ、オクさん


 サトルは床に置いたままのカバンを手に持つとすぐさま屋上から走り去った。日が落ちる。この思いが沈む前に奥崎の顔が見たくなった。




 歩き慣れたこの道。

 見慣れた風景。

 自分はひどい顔をしているだろう。


 キョウイチはそう思いながら雑居ビルの階段を下へと下がっていった。この時間。多分、いるはずと確信があった。

 まだ奥崎が中学生で、在校生が半分以上いないと借りられない橘のスタジオが借りられなかった頃。学校が終わって、当時借りていた汚いスタジオが借りられるまで、よくレンやヒサシ、そして奥崎たちとこの場所で話をしながら待っていた。だいたいいつもキョウイチとヒサシが笑って馬鹿話をして、レンはメール、奥崎はソファで横になる。そんな日常だった。

 階段を下りる足が急ぐ。寂びた廊下を煌々と蛍光灯が照らす。キョウイチは目的のドアをゆっくりと開けた。先に目に飛び込んできたのは黒のジャケット。誰かがいる。そう確信するとドアをもう少し押して開けた。

 ――ソファに人が、いる。

 タオルケットを体半分かけて寝そべっている光景にキョウイチは無意識に口元に笑みを作った。相手はまだ自分には気づいていないようだ。じっとその場からソファを覗き込む。知った手の形。

「オク」

 掠れた小声を発して、キョウイチは足音を立てないようにソファへと近づいた。寝入っているのは確かに奥崎でしっかりと瞳は閉じられている。長い睫、大きな手足。キョウイチは嬉しそうに逸る思いを抑えながら奥崎の横へと膝立ちの状態でその寝顔を見つめる。

「好きだよ、オク。やっぱ無理だって、俺諦め悪いよ」

 優しげに小声のまま言いながらキョウイチの指が奥崎の髪を梳く。

「ん……」

 小さく声を漏らす奥崎。それでも起きる気配はなく、キョウイチは小さく笑った。

「疲れてるんだな……オク」

 愛しい思いが気持ちを満たす。こんな至近距離から相手を見つめるのは久しぶりだった。知った、大好きなこの場所。自分たちのアジト。タバコを吸うとか、酒を飲むとかそんな悪いこともここで学んだこと。浮かぶのはメンバーの笑った顔。錆びれた鏡。映る学ランの自分の姿。

 笑顔の自分の顔が急に崩れる。

 今、この場所から自分は外された。

 そんな現実。

「……俺は受け止める気はないよ、オク。なんのために俺がバンドやってたと思ってんの……?歌が歌いたいからじゃないよ。オクの傍にいれるからだよ?」

 自然と涙がこみ上げてきそうだった。自分の何が気に入らない?歌?それとも自分自身?キョウイチは奥崎の寝顔を見つめながら涙を堪えた。

 ――誰にも、渡したくない

 キョウイチはふと脳裏に浮かんだサトルの顔に目を細めた。当たり前みたいに奥崎の横に並んで。その癖不安そうなあの顔。

「……不快だな、やっぱり」

 冷たい口調でキョウイチは袖口で涙を強引に拭くと奥崎へとまっすぐに顔を向けた。

「譲る気は、ないよ。オク」

 そう言って優しげに奥崎へと視線を落とす。眠る奥崎の顔へと指先を滑らせてから。キョウイチは暖かい奥崎の唇へと自分の唇を押し当てた。柔らかい、相手の感触。

「……ん」

 小さく声を漏らす奥崎。キョウイチは強引に相手の唇を割って舌を滑らせた。

「……ん!」

 次の瞬間にはいつの間にか自分の肢体がソファへと押し倒されていた。見慣れた天井に目を泳がせる。強く圧された胸元に手を当てたままキョウイチは一度瞬きをすると自分へと覆いかぶさるように奥崎がきつい表情で自分を見下ろしているのが見えた。

「……お前何やってんだ」

「オク」

「もうここには来るなよ。立場わかってんのか」

 淡々と話す奥崎の言葉にキョウイチは優しげに笑い返した。

「……バンドを辞めるのは別にかまわないよ?でも俺、オクと別れる気なんてないから」

「わがまま言うなよ。……面倒くせえ」

「メンドウクセエ、オクの口癖だよね、それって。でもそれも好きだよ。全部好き」

「いいから帰れ」

 奥崎の強い口調にキョウイチは怯む事もなく、笑ったまま奥崎を見つめた。

「やぁだ、ヤダよ。オクといたい。松崎にオクのこと、譲る気はないよ」

「なんでそこでマツが出てくるんだ。意味わかんねえ」

「嘘つかないでよ。見てればわかる。オク、今松崎さんに夢中じゃんか。気に入らない」

「いつだよ……」

「しらばっくれてもダメ。俺はね、ずっとオクのこと見てるんだよ?わからないわけないじゃん?」

「知ったかぶりが一番嫌いだな」

「嫌いで結構だよ、それでも俺はオクが好き。オクが好きだよ」

 無表情のまま見下ろす奥崎へとキョウイチが腕を回す。

「ねぇ、キスしてよ。前みたいに」

「知らねえ」

「知らないわけないだろ」

 そう言ってキョウイチが奥崎の顔を自分へと引き寄せた。と、同時に奥崎は驚いた形相でキョウイチから身を引くとすぐさまドアの方へと目を向けた。キョウイチもその方向へと目を向ける。

 そこには目を見開いたまま、その場に立ち尽くしたサトルの姿があった。

「……あ、ごめ」

「マツ」

 咄嗟に奥崎がサトルの名を呼ぶ。

「松崎先輩、覗きが趣味なの?あのさぁ、趣味悪いよ。さっさと出て行ってくれないかな」

 奥崎の声をかき消すかのようにキョウイチが強い口調でサトルを睨み付けた。

「キョウイチ!」

 奥崎の怒声にキョウイチは体をビクつかせ一瞬怯んだ。それと同時にドアからサトルの走っていく足音に奥崎が小さく舌打ちをした。

 ――失敗した

 奥崎は苛立ちながらソファから離れてジャケットへと手を伸ばす。

「どこ行くの」

 喧嘩口調でキョウイチが挑発するかのようにソファへと寝そべったまま奥崎へと冷たい視線を向けた。それを無表情で見つめ返す奥崎は深く息を吐いてから何も言わずその場から走り去った。遠ざかっていく足音。

「バカみてぇ……オク、カッコ悪ぃ」

 ――カッコ悪いのは俺だろ

 キョウイチは少し笑ってから、泣いた。




 心臓が、苦しい。

 サトルは全力疾走で階段を駆け抜けた。

 目に焼きついてしまった相手の憎悪。

 奥崎の驚いたような顔。

「く、……苦し」

 荒い息切れが更に喉に焼付く渇きを与える。

 しばらく人の行き交う駅の構内で休んで、それからサトルは電車に乗った。静まらない自分の心臓に顔を真っ青にして、揺られる電車の中吐き気に襲われた。

「大丈夫ですか?」

 見知らぬ人の声にサトルは懸命に笑顔ですいません、と返すも地に足がつかない感覚に動揺を隠し切れない。最寄の駅へと着くと、サトルはポケットに入っていた携帯を手に取る。ストラップのついていない、白の携帯のボタンを押して、ゆっくりと耳へ押し当てる。コール音が脳に響くように聞こえた。

『おー、マツ?』

 異様に声の大きいシノブの声にサトルは深呼吸ひとつしてから口を開いた。

「神崎……声大きいから」

『どした?具合悪そうだな。大丈夫か?』

 シノブの声色が変わった。

 サトルは観念したかのように少し目を伏せてから駅の壁へと寄りかかって。

「ごめ……少し体調悪いんだ。駅、迎えに来てくんねえかな……」

 返答なく、携帯がすぐに切れた。

「……どっちだよ……」

 携帯を手に持ったままサトルはその場にしゃがんで少し笑った。


 それから少しして。


 見慣れた人物がこっちへと向かってくるのが見えた。額に汗して心配そうな顔で走ってきたのはシノブだった。サトルはゆっくりとその場に立ち上がってだるそうに片手を上げる。

「マツ!おい、大丈夫かよ?顔真っ青じゃんか、熱は?」

「熱はねえと思う。悪い、来てもらって」

「具合悪い時まで気遣うな、バカ」

「バカって……病人にバカって言う人も珍しいよな」

「うるせえ」

 シノブは乱暴にサトルの腕をつかむと駅前に止まっていたタクシーへと乗り込んだ。

 つい夕方。

 逸る思いで走った風景はもう暗闇に飲まれて。サトルは窓へと視線を向けたまま黙って見つめていた。暗い表情のサトルをシノブは横目で伺うも何も言わず横にいた。すぐに寮へと着いて、街灯で照らされた寮の門を潜り自室へとシノブに支えられて歩く。部屋からは時折笑い声が聞こえたが、サトルは目に留めるわけでもなく自室へと急いだ。

 廊下に線を引く月明かり。

 サトルはそれが綺麗だと思った。

「ちょっと待ってろ」

 先にシノブが自室のドアを開け、部屋の明かりを点け、サトルを招き入れる。サトルはダルそうに部屋へと入ると持っていたカバンを壁へと立てかけ、着ていた制服を脱いでハンガーへと手を伸ばした。

「いいって。それ俺がやってやるからお前横になれよ」

「大丈夫だよ、ホントありがと」

「いいからベッドに行け」

 シノブはサトルへとベッドの方向へ指差すとハンガーを手に取り、サトルの制服を手際よくかける。サトルはベッドに入る気にもなれず、ただテーブルの前へと座り込んで未だにうるさく鳴り響く心臓へと手を押し当てた。

「心臓が苦しいのか?」

 何気ないシノブの問いにサトルはシノブへと見上げ、それから苦笑した。

「いや、苦しいわけじゃないんだ。ただうるさいっていうか……ごめん。俺、変なんだよ」

「変って何だ……、別に変だと思わねえよ。どうしたんだよ、マツ」

「ホント、ホントごめん……俺変なんだって」

 笑みを作るサトルの頬をす、と涙が落ちた。

 シノブはそれを見て口をゆっくりと開けた。

「……お前、泣いてるじゃんか。無理して笑うな」

「あ、……マジごめん……ちょっと最近疲れてんだろうな、俺。……ホントごめ……」

 声が、出ない。

 喉が急に締め付けられたかのような感覚にサトルは呼吸が苦しく感じた。

 耳をつく、心臓。

 そうか、泣いてるからか。

 サトルは少ししてからようやく理解した。

「……俺、オクさんがキョウイチ君と一緒にいたのに邪魔……して……なんか……、さぁ。多分、多分だけど。ショックだったんだ。なんか、今更わかるなんて、やっぱ俺変なんだろうなぁ」

 話す声が震えて、サトルはゆっくりとまた笑みを浮かべた。

「キョウイチ君の、オクさんに対する気持ち聞いて……俺なんかよくわかんなくなっちまって」

「マツ」

「なんだろな……なんか、苦しい」

 消え入るような声にシノブは口調を荒げてサトルの顔を両手で包み込んだ。

「苦しいか?」

「苦しい……と思う」

 サトルの熱い涙が徐々にシノブの掌を濡らしていく。

「俺、……変かも知れねえけど」

「なに?」

「……オクさんが、好きなんだと、思うんだ」

「…………」

 不機嫌そうなシノブの顔がサトルの目には涙でせいでぼやけて見えた。

「あの人が、好きだ」

 そう言ってサトルは涙を流したまま小さく笑った。

「…………マツ」

 ため息混じりに声を出すシノブにサトルは悪い、と小さく声を漏らして視線を落とした。それから小さく、不機嫌な舌打ちが耳へと届いて。サトルはシノブを見上げると、シノブは不機嫌全開の顔つきで苛立った様子だった。

「悪い、……マジごめんな。変なこと言った」

「……やっぱダメだわ」

 ため息混じりにシノブが声を出す。

 サトルはシノブの言っている意味がわからず、口を少し開いたままシノブを見つめた。

「……神崎?」

「オックにならいいと思ったけど、やっぱ無理」

 そう言うとシノブはサトルの体を抱きかかえると二段ベッドの下の段へとサトルを押し倒した。サトルは驚いたように目を大きくしたまま自分へと視線を落とすシノブの不機嫌な顔を見つめた。

「かんざ……」

 シノブは話し出そうとするサトルの口元自分の指を押し当てて諌めると強引にサトルの唇へと自分の唇を押し当てた。咄嗟の出来事に全身が瞬時に硬直してサトルは硬く目を閉じた。

「!!」

 侵入してくるシノブの生暖かい舌の感触に一層眩暈がひどくなったような気がした。

「ちょ……ちょっとまっ……!」

 サトルは必死に声を出すもシノブの舌はサトルの口を割って何度も舌を絡ませてくる。

「……っは……」

 ようやく開放された口元は濡れて、サトルは相手を凝視できず横へと顔を向けるとシノブはそれを許さず、サトルの顔が両手で包み込むと自分へと真っ直ぐ向けさせた。

「逃げるな。俺は冗談でお前にキスしたわけじゃねえ。オックがお前のことこうやって泣かすんなら、そうなるくらいなら俺がお前のこともらう」

 あまりにも真剣な口調にサトルは視線を泳がせた。

「……俺が勝手に泣いてるだけだよ」

「それが嫌なんだよ。俺はお前のこと好きだ。もうオックのことなんざ知るか。逃げるなよ」

「……神崎」


『離れるな』


 耳に残っていた奥崎の言葉が響く。


 遠ざかっていく意識の中、誰かが涙を拭いてくれたような気がした。




 急激に消耗した筋肉がダルい。

 奥崎は椅子へと深く座ったまま長い指を足に滑らせる。もう日も落ちてしまったスタジオ内は蛍光灯がやけに眩しく周囲を照らし出す。時刻はすでに十時を過ぎようとしていて、ふと視線の先に入ったビル郡の光がやけに汚く目に映る。レンの鳴らすギターの音は虚しく途切れて、気付けば蛍光灯の微かな音が耳に付いた。

「どうした?オク」

 何気ないレンの言葉に奥崎は別に、と素っ気無く答えて窓から視線を外した。

 無意識に舌打ち。

 レンの咳払いが虚しさを煽る。

「……結局、マツ君来なかったな。ヒサシも今日はバイトだし」

「ああ」

 即答で返してくる相手の生返事に耐えかねたレンはため息を長く付きながら肩からギターを外す。

「……またキョウイチかよ?」

 相手の態度を伺うような問いに奥崎の眉間に深く皺が寄せられた。やっぱりね、と納得するような顔をレンはして頭を小さく指先で掻く。

「なんつうか、……せっかく良い感じだったんだけどな。キョウイチ、お前に対してマジなんだろうな」

「興味ねえ」

「……まぁ、な。でもお前が興味あるとかないとかじゃなくて現に攻撃受けてんのマツ君じゃん?今日もあれだろ?どうせマツ君が嫌がらせに合っちゃったんだろ?」

「…………」

 白を切る奥崎の態度にレンは深々とため息を増した。

「怒ってるならちゃんと怒れよ、オク」

「……別に」

「またそれかよ」

 レンの声と同時に散乱したテーブルの上に置いた携帯電話が着信音をけたたましく鳴らした。奥崎はすぐに席を立つと携帯を手に取りすぐさま耳に当て、対応した。

「……神崎、なんだ?」

 いつになく不機嫌そうな声が口から出た。

『……お前今どこいるんだ』

「スタジオ」

 シノブの機嫌が最悪なのが想像できた奥崎は肩から息を吸って、冷静に対処する。

「お前こそどうした?勉強時間じゃないのか?」

『は?お前に関係ねえだろ。話があんだけど』

「なに?」

 面倒くせえ、内心そう思いながらも奥崎はシノブへと問う。電話越しから相手のため息が聞こえてくる。

『……マツのこと』

「あぁ、あいつちゃんと寮に帰ってたか」

『それは別にお前に関係ねえだろが。じゃなくて……あー……本当は会って話すのがベストなんだろうけどな、こういう話』

「だから、なんだよ」

 人と話す心境ではない、と奥崎はシノブの言葉に多少苛だつも軽く目を伏せた。

『今日、お前キョウイチと会ってたんだってな』

「あぁ、マツから聞いたのか」

『……もうマツと関わるなよ』

「……は?」

 奥崎の声が地を這った。

 暫し、沈黙が流れる。

『……お前さ、傷つけたくてマツに歌歌えって言ってんのかよ?バンドの件でも、マツがキョウイチのファンから悪く思われているのも知っててなんのフォローもしねえ。自分が困ってるからそれを助けてくれてありがとう、はい、終わりはねえだろ』

「……誰がそんなこと思ってるつったんだ」

『誰にも言われてねえよ。俺が客観的に見てての判断だ。マツの性格上、今の状況絶対キツイだろうが。お前がそうやって相手傷ついても別に構いやしねえ性格ならまぁ仕方ないとする。が、俺の気持ちがどうもお前が気にいらねえんだよ』

「……なにが言いたい?」

 細く奥崎が瞳を開けた。

 ため息が携帯越しにくぐもって聞こえてくる。

 それからシノブの言葉が続いた。

『これ以上、マツが傷ついたりとか正直可哀想だし、俺的にマツの事、大事にしたいと思ってる。だからもうお前とあいつは関わらせねえ。以上、じゃあな』

 勝手に携帯が切れる。

 奥崎はゆっくりと携帯を閉じてから下唇を舌でなぞるように舐めた。沸々と湧き上がる嫌な感情が今にも手から余りそうな、そんな感覚に持っていた携帯を力任せに床へと叩きつけた。

「っ!おい!」

 その様子に動揺しまくるレンを完全に無視して、奥崎は壁へと置いてあった鞄を乱暴に掴み取ると、何も言わずにスタジオから出て行った。


 残されたのはレン一人。

 動揺しきったまま、廊下から響いてくる奥崎の靴音をただ耳にした。

 壊れた携帯は完全に電源が落ちて。

 虚しく床に転がったまま。

「……大丈夫なのかよ……あいつら」

 小さな声がやけにスタジオ内に響いた。




 首を締め付ける細長い感触がきつく喉元を押す。苦しそうにサトルはその指先から腕へと抵抗して全力で指先を解こうとするもそれはビクともせず徐々に喉へと圧力をかけた。背景に広がるオレンジの光。苦し紛れにもれる声はやけに響いて聞こえた。誰か。そう思って固く閉じていた瞳をうっすらと開ける。

 目の前であまりにもきれいに笑うキョウイチの顔。思わず、気が引けた。頬を伝って流れるキョウイチの涙が自分へと落ちて、線を引いて、また落ちる。笑顔が苦しそうにも見えて、サトルは顔を赤くしながら体から力を抜いた。

 ――こんなにも。人のことを傷つけてまで、この思いは届けたいものなのか。人の涙に濡れてまで、傍にいたいと願うのはもう、その時点で罪じゃないのか。

 次にキョウイチへと目をやるとそれは顔を変えて、憎悪に満ちた中学時代の友達だった。自分を睨み付けてくる瞳。じっとりと見つめられたサトルは驚きのあまり、目を見開いた。

「……な、なんで」

「死にたいんだろ?こんなくだらない人生に終止符を打ちたいんだろ?何、もがいてんだよ、松崎」

「……っ!くるし……」

「お前は俺ら側の人間だろ?どんなにもがいたって苦しくたってこのまま年食って死ぬんだ。下手に足掻くなよ、かっこ悪ィ」

「……はな、せよっ……!」

「たかが歌だろ?こんな喉、潰してやるよ」

 全身の体重をかけられて、喉が圧迫される。

「お、オクさ……っ」


『離れるなよ』


 失くしたくない。

 この声のおかげで奥崎に近づけた。

 この声だから、今こうして前進している。

 失くしたくない。

 失くしたくない!


 サトルは大粒の涙を瞳の淵に溜めた。




「マツ!」

 シノブの大声がサトルの鼓膜を突き抜けた。

 驚愕してサトルは目を完全に開くと、息切れをしている自分に動揺してゆっくりと横へと目を向けた。そこには心配そうにサトルを見つめているシノブがいた。

「あ……神崎……」

「大丈夫かよ……」

 気づけば、寮の自室。

 部屋は薄暗く、しんと周囲は静まり返っていた。自分の隣に寝そべっているシノブを不思議そうに見つめて、サトルは未だ夢うつつのまま辺りを見回した。

「……神崎、なんでお前ここで……」

「いいから服脱げ。ものすごい汗かいてるから。風邪ひくぞ」

「あ、あぁ」

 額の汗を拭おうと掌で顔へと触れ、いつの間にか泣いている自分に気づいてサトルは何度か瞬きを繰り返した。

「ほら」

 シノブはサトルの顔を見ないようにティッシュを一枚サトルへと手渡すとベッドから出る。

 ギシリとベッドが軋む。

 渡されたティッシュでサトルは涙を先に拭くと自分もベッドから出ようとするも急な眩暈にまたその場に座り込んだ。

「……大丈夫か?」

「あ、……ちょっと眩暈……」

「熱、あんじゃねえの?ちょっと熱計るか」

「別に熱はないよ」

「計らなきゃわかんねえだろ、まず先に服脱げ。着替え出してやる」

「……わかった」

 サトルはシノブに言われるがまま汗で湿ってしまった服を脱ぎ始めた。シノブは暗がりの中、クローゼットを開けてガサガサと動き、そこから紺色のパジャマをサトルへと投げた。

「俺のだからちょっとでかいかも知れねえけど早めに着ろ」

「……悪い」

「あのな、こういう時はありがとうって言うもんだぞ?お前日本語変」

「……わかったよ」

 渋々サトルはそう言うと自分へと投げられたパジャマへと手を伸ばしてそれを着た。その間もシノブは暗がりの中自分の机の引き出しを幾つか開け、そこから体温計を出した。

「やっぱちょっとでかいか。……まぁ今日はこれで我慢しろ。これ、はい」

「……ありがと」

「そ。ありがとって言っとけ」

 サトルがそう言うとシノブは嫌味くさい笑みを暗がりで浮かべた。渡された体温計をサトルはゆっくりとした動作で脇の下へと入れるとそのまま、またベッドへと横になった。体を起こしてるのがつらい。熱は確かにあるような気がする、サトルはそう思うと気が重くなった。

「なんか、怖い夢でも見たのか?」

 声を潜めてシノブがサトルの顔を覗き込む。サトルはそれに少し動揺するもすぐに首を横に振った。

「……なんの夢みてたか、よく覚えてない」

「そっか……まぁ元気出せよ」

 そう言ってシノブはサトルの汗で額にへばりついてしまった前髪を後方へと流して、少し笑った。サトルはそのシノブの仕草に少し恥ずかしさを覚えるも必死に顔や態度に出ないように平然を装った。

 ――あんな、あんな夢。

 大丈夫、夢で見なくてもちゃんと自分でわかってる、サトルはそう自分へと言い聞かせた。

「ちゃんと俺が守ってやるから、安心しろ。……なんか俺馬鹿みたいなこと言ってる?もしかして」

「いや、……なんかごめん。ごめんな」

 シノブの言葉にサトルは内心気が引けて、誤魔化しまぎれに少し笑んだ。自分のことをこんなに心配してくれている人がいるのに、自分はどう受け取って、どう感じてるのか。サトルは正直泣きたくなった。

「喉、渇かねえ?」

「喉……少し渇いたかな」

「……わかった。ちょい自販機まで行ってくるから。眠くなったら寝ろよ?一応飲み物なんか買って来てやる」

 そう言ってシノブは笑って、立ち上がるとドアへと向かって歩き出した。開かれたドアから微かに差し込む月明かりにシノブのシルエットが縁取られて見える。静かに閉められたドア。ゆっくりと部屋をまた包み込む暗闇。サトルはそれが少し落ち着く感覚に似て、安堵のため息を吐いた。

 シノブは本当に良い奴で、それが本当に苦しい。多分、自分の本当の気持ちはシノブを苦しめるだろう。傷つけてしまうだろう。そんなことはきっと良くない。そんなにまでする事はきっと。

 ――幸せとは言わない。

「神崎……悪い」

 非力な自分を本当に恨んでしまいそうな夜。

 ピピッと機械音が聞こえた。

 体温計が表示する熱は38.2度。

 死ぬのなら今が一番いいのに。

 サトルは泣き顔を歪ませて、少し笑みを作った。




 どんなに気持ちがどん底でも、朝は確実にやってきて部屋を光で満たす。サトルはぼんやりとした意識の中、学校へと身支度をするシノブを目で追っていた。

「昼頃一旦帰ってくる。お前の飯、食堂のおばちゃんに頼んでおくから食えよ。えっと……それからなんだ、あ、昼過ぎになっても熱下がらなかったら病院に行くぞ。昨日飲んだのは単なる市販の薬だからちゃんとした薬もらいに行くからな」

「いいよ、……面倒くさいから」

「お前、風邪を甘く見るな。いいからそのつもりでいろよ。じゃあ生徒会の仕事してくるからな」

「いってらっしゃい」

 シノブは早口でそうサトルへと伝えるとさっさと自室を後にした。サトルはそれから暫くして、重い体をゆっくりと起こすと眩暈のする中誰もいない部屋を見回した。


 ここに来てから半年。それだけでもサトルにとって奇跡に思えるほどの時間。


『死にたそうな顔をしてるね』


 いつかコウジに言われた言葉が耳元で聞こえた。

 それを思い出してサトルは静かに笑ってから一息つく。体が弱るとこうも絶望感に満たされてしまう。本当に自分が嫌いだ。そう思う。額がやけに熱く感じてサトルは腕を横へと伸ばして窓を少し開け、入り込んでくる冷気が肌に触れて、サトルは少し目を閉じた。

 ――言わなきゃ、いけない。

 そんな思いにサトルはまた泣きそうになるもそれを払拭するかのようにまた静かに笑んだ。多分、人を傷つけるだろう。そんな思いを自分は含んで今こうして生きてる。


 キョウイチを傷つけてはいけない。

 そんなことはしたくない。

 シノブを苦しめたくない。

 優しくしてくれる思いを自分なんかが駄目にしてはいけない。

 傷なんか、つけたくないんだ。

 これ以上。

 これ以上、自分を許しちゃいけない。


「平凡、が一番だったってことだよなぁ……」


 驕った自分が背負うモノがなんなのか、少しわかった気がした。


 歌が歌える。

 それがどんなに嬉しいものなのか。

 そのことを教えてくれた奥崎がどんなに愛しいか。

 続けたい。

 できるのなら続けて生きたい。

 でもきっと、それじゃ駄目なんだ。


「一人でも、まだ生きる時間は膨大にある……それで十分じゃんか。これ以上、なにを望む気だよ、俺」

 サトルは自分の胸元へと手を当てた。

 いつになく落ち着いて強く打つ心臓。

「……なに落ち着いてんだよ、ホント救いようがねぇ」

 ぼたり、と涙が布団へと落ちる。

 これからシノブを傷つけるのに。

 ――涙なんか流してやがる。

 サトルは急に襲う眠気を鼻で笑ってから、ばかばかしい自分自身の腕に爪を深く立てた。

「オクさん……オクさん」

 止まってくれない涙に苛立ちながらもサトルは奥崎の名を呼ぶ。


 助けてほしいのか。

 殺してほしいのか。

 愛してほしいのか。


 それすらもうサトルには理解できない。

 ただ、もう膨れ上がらせてはいけないと感じる思いが、いない奥崎へと募った。


ふと、目が覚めた事でサトルは自分がいつの間にか寝ていたことに気づいた。急いで目を向けた壁掛けの時計の示していた時刻は十時半過ぎ。シノブの帰ってきた様子は、ない。そのことにサトルは少し安堵して熱い息を吐いた。

 ――多分、熱は下がっていないだろうな。

 サトルは病院へ行く、という予測に面倒臭さを感じるも仕方がない、とため息をついた。しんと静まり返る部屋。空気の音が耳へと入る。揺れるカーテンに自分が開けっ放しで寝ていたことに気づいた。開けたままだとまたきっとシノブは五月蝿いだろう。そう思って窓へと腕を伸ばしたその時、ドアの前に立つ人の気配に敏感に気づいてサトルは急いで布団へと体を沈めた。

 同時にドアノブが音を立てた。

 サトルは寝たフリをして静かに目を閉じたままその体勢から動けなくなった。多分、シノブが帰ってきたんだろう、そう思った。ぎし、と床を踏む音。人が部屋へと入ってきた。サトルは小さく息を呑んでその体勢のまま様子を伺った。チッと小さく舌打ちが聞こえ、それから窓を閉める音。

 サトルは失敗した、と内心思った。

 いつ目を覚ませばいいか、機会を伺って、それから、それから。そう思っていると、人の気配が自分の顔へとずいぶん近くにいるような気がした。緊張のせいか、熱のせいか、全身にじんわりと汗を掻いた。

 ふ、と口元をかすめる柔らかい感触。

 サトルは内心驚いた。

 が、その様子に相手は気づいたような気配がない。

 うっすらと目を開けようとすると今度は口へと柔らかい感触がさっきよりも強く押し当てられていることに気づいた。


 多分、キスだ。


 サトルはびっくりしてゆっくりと身を動かすも相手の腕がいつの間にか自分の体を布団の上から抱きしめていることに気づいた。

「……ん」

 小さく漏れてしまった自分の声。それでもキスは止まる気配がない。髪の毛をゆっくりと撫でる手口から感じる息遣い。

 ――シノブじゃない。

 ――オクさん。

 そう気付いて胸が苦しくなった。

「関わらせねえだのほざきやがって……知るか」

 耳元で聞こえた奥崎の言葉にサトルは目を閉じたまま疑問を抱くもそれから額へとキスを落とされた。

 目を、目を開けられない。

 それから暫くして、側から人の気配がなくなった気がしてうっすらと瞳を開けると廊下へと出ようとする奥崎の後ろ姿。そのまま静かにドアは閉められる。サトルは手で自分の顔を覆った。

「……なんでこんなタイミング……」

 喉が焼けるように痛い。まだ口元に残っている奥崎の感触がこんなにも、幸せをくれてしまう。


「……も、どうすればいい……?」

 声が勝手に震える。

 これからシノブに自分の思いを伝えて。歌うことも。奥崎に対するこの想いも全て。手離そうと思っていたのに。

「……あー……もう、ホント、勘弁して」


 間違いない。

 あの人が好きでたまらない。

 女でも男でも関係ない。

 ただあの人の傍で歌っていたい。

 あの人の傍で、生きていたい。


 サトルは声を出して、暫く泣いた。

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