苦手と不安と花火の夏
第5話 他人の感情、自分の感情
「マッちゃんどうかしら?イケそう?」
ヒサシの期待に輝く眼差しが痛い、サトルはすぐに目を逸らして首を横に振った。
バンドへ強制的に参加することになってあれから一ヶ月。毎日のように学校が終われば奥崎と共にスタジオへと向かいバンド活動。始めは何をすればいいのか戸惑いの気持ちで逃げ出したくもなったが今では少し慣れてきた。
着いてまず、奥崎は絶対に煙草を吸うし。
生徒副会長の仙崎レンはいつも遅れて到着する。
二つ上の先輩である加藤ヒサシはそれよりさらに遅れてお菓子等をたくさん差し入れする。
音合わせ。
雑談。
そしてまた煙草。
一度セッションを合わせてからお互い意見交換。
それまでサトルといえば。
両耳にイヤホン。
奥崎達が作った曲を窓から見える雑居ビル郡を見つめながら聞く。呆然とした瞳の中は何を映すわけでもなくて、ただ旋律を口先が音を立てずに追うだけ。
そして今日。ライブ予定一週間前。
ついにサトルへと声がかかった。
ヒサシのにんまりした表情にサトルは引きつりながらも笑みを零して。一番遠くにいる奥崎へと助けを求めるように目を向けるも逆に無視を食らった。
「もう一ヶ月近く聞いてたんだ。そろそろ歌えるだろ?歌も合わせなきゃ話にならねえからな」
レンが持っているギターを肩へと掛け直しながらサトルの方へと歩いていく。
手にはマイク一本。
レンは少し笑みを浮かべた顔でサトルへとそれを真っ直ぐに差し出した。
「さすがにもう、充分なだけ時間は与えたと思うな。歌ってみてくれよ」
「……歌詞がまだあやふやなんだけど」
逃げのための言い訳を口走る自分自身にサトルは少々動揺しながらも口角を上げて少し笑って見せた。
それに応えるようにレンも笑むとサトルの手首をゆっくりと握った。
「……なに?」
苦笑いを浮かべるレンを不審な表情で見つめ返すサトルは自分の掴まれている手首へと何度か視線を落とした。
「いやー……こういうコンセプトでやるのもいいんじゃない?ってオクが言うもんだからさぁ」
「……?コンセプト?」
「そう、コンセプト」
カシャン、と金属音が響いた。
サトルはゆっくりと音のした方へと目を向けると手首には手錠がかけられていたことに驚愕の表情を浮かべた。自分の人生でまさか手錠をかけられる日が来るなんて夢にも思わなかった。サトルは動揺したまま、奥崎へと顔を上げた。
「……これがなんの意味なんだよ?コンセプト、なんだろ?」
奥崎は吸って短くなった煙草を面倒くさそうに灰皿に擦り付けると口から澱んだ白煙を吐き出しながらだるそうにサトルへと歩いた。
「オ、オクさん」
小さく声を出して話しかけるも奥崎は何も言わず、無表情のままレンの手からサトルに繋がる片側の空いた手錠を掴むとぐい、と自分の方へと引っ張った。
「い……っ」
多少荒い奥崎の行動にサトルは眉間に皺を寄せるも相手の思惑が読めず、未だ困惑した顔で奥崎を見つめたまま。
「……お前足速いからな。逃げ出されてもこっちも疲れるんでね」
ガシャン!
先程よりも強い金属音が耳に届いた。
「こうした方がいい、そうみんなと話し合ったんだ」
サトルはもう片側の手錠へと目をやると。
マイクスタンドへと手錠は掛けられていた。
「ち……ちょっと!!」
自分の手首とマイクスタンドは繋がれて動けばカチャカチャと音を鳴らした。
「ごめんねー、でもかっこいいと思うのよ!マッちゃんだからこその形って言うの?ねぇ!」
必死のフォローなんだろうな、とサトルは手錠を掛けられたショックを受けながらヒサシの言葉に呆れながらもへぇ、と小さく答えた。
「……とにかく外してくれよ。なんか嫌だ」
「よし、じゃあやってみるか」
「オクさん!」
「ちゃんと歌えたら外してやるよ」
サトルの訴え無視で奥崎は小さく笑った。
微かに伝わってくる手錠の冷たさ。
サトルはむしゃくしゃした気持ちを一掃するかのように深く息を吸った。
「そりゃオック頭を使ったな!たしかにお前は逃げ足速いからな、やっかいな足だぜ」
笑いながら話してくるシノブの言葉が癪に触る。
サトルはつまらそうな顔で軽く目を伏せた。
「もう疲れた。寝るよ」
「おいおい待てよ、さっき帰ってきて飯食って風呂入ったばっかで?しかも時間は夜十時。健全な高校生らしくねえな」
「……そう?」
気だるそうに布団に入りながらサトルはシノブと顔も合わさず答えた。いつもながらの自分勝手な持論。言われた言葉も深く考えず、サトルはシノブが一層面倒くさく感じた。
「……神崎は学校どうだったんだよ」
別に聞きたいわけではなかったが話を逸らすためにサトルが問う。シノブは別に嫌な顔をするわけでもなく今日のことを思い出しながら口を開いた。
「俺か?お前らが学校終わってスタジオ行ってる間俺はずっと生徒会だっつうの。忙しい身分なんだよ、俺様は」
「そう。……風紀の委員長とは仲良くやってる?」
「……仲良いわけねえだろ」
「そう?俺からすれば神崎とミナミ、仲良いと思うけど」
棒読み状態でサトルが話す。シノブは眉間に深く皺を寄せたまま布団に入っているサトルへと顔を向けた。
「どういう見方すれば俺とミナミが仲良く見えるのかが不思議だぜ。悪い冗談、やめろや」
「……そう思いたいならそう思ってれば?どう思うかは神崎の勝手だからな」
「おい、どういう意味だ?そりゃ」
「なんでもないよ、おやすみ」
サトルはシノブの言葉を打ち消して寝たふりを始めた。
「おい、待てこら!」
シノブは声を荒げてサトルの布団へと手を伸ばしてそれを一気に引き剥がすとおもむろにサトルの腰元に乗った。
「ちょっと、重いんだけど」
不機嫌そうに小さく声を出してサトルは不服な顔で自分を見下すシノブを少し睨んだ。
「なに機嫌悪くして俺に当たってきてんだよ」
「別に当たってないけど」
「こういうやり取りは八つ当たりっつうんだよ。経験ねえのか」
「ないね、悪いけど。……いいから寝かせろよ、もう」
「……お前って結構冷たく人の事突き放すことあるんだな」
「……だったらなんだよ」
「なにがあった?聞いてやるって言ってんだよ。この時間のない俺様がな」
「だからいいって」
「……友達のために時間を割いてやるって言ってんだ、言え」
サトルはシノブの言葉に少し目を見開いて少し笑った。
「なんだよ、なにか笑うことか?」
「いや」
「だったらなんだ」
「……友達って別に言わなくてもお互いがわかってればいいんじゃないの?」
「お前は……多分わかってねえと思うからきちんと言葉にしてやってんじゃねえか。俺の温情だぜ?バカにすんなよ」
「……そうなんだ」
「そうだよ。悪いかよ」
「いいや、じゃあ俺が悪いな。神崎に気を遣わせて」
「別に気を遣うのは嫌なことじゃねえからな。お前が気にすることでもねえ」
「そっか」
そういうとまたサトルは少し笑ってシノブへと手を出した。それをシノブは軽く握ると心配そうな顔をしてサトルを正面から見つめて。
「一応心配ぐらいするもんだろ、同室だし、同級生だし、な」
「ああ、そうだな」
少し。
少しだけわかった気がする。
激動的にまわりに流されていく自分。
それには関わっていないシノブが少し妬ましかった、羨ましかった。
でも多分。
そんなことより。
「……緊張、してんだな、俺」
「は?」
「……初ライブに向けて、さ」
「そんなことかよ。お前だけじゃねえんだ。俺も見に行くし。オックも一緒だろ?」
「そうだよな」
「お前の場所、ちゃんとオックやレンさんが用意してくれてる。お前は好きに自分出していけばいいんだ。……期待してるから適当に頑張れよ」
後半小声気味に話すシノブの顔が少し照れくさそうに歪んだ。サトルは鼓動の不安定さがどこかへと消えた気がした。
学校が終了して。
サトルはもう行き慣れたスタジオへと向かうため歩いた。光景は変わることがなく、少し日差しが暑い程度。排気ガスで汚れてしまった緑が少し目に優しく感じた。
気分は、普通。
三日後にはライブ。
それでも目的地へと歩いていく自分の現状に少し違和感と高鳴りを感じていた。
街を取り巻く電線。
それを伝う黒の鴉。
中学の時ほど嫌いじゃない。
いつもより顔を上げて、歩く。
熱風のような風に揺れる自分の染まった前髪。
どこからか聞こえてくる着信音。
少しだけ歩く速度が速まった。
橘の校章が掲げられたスタジオビルへと入ると外とは違う人工的な冷たい風が全身を撫でた。
サトルは額から流れる汗を腕で拭いながらエレベーターへと乗り込む。5Fのボタンを押して指先は右耳のピアスへと触れた。
もう痛みはほとんどない。
チン、と機械音が鳴るとゆっくりとドアは開き目に眩しい白い空間が広がった。サトルはすぐ右へと曲がり自分たちの使う部屋へと向かう。肩から下げたカバンの中にはいつもながらのMDウォークマン。
廊下を歩きながら再生する。
耳へと流れてくる聞き慣れた爆音。
冷えたドアノブを躊躇なく回す。
「……え?」
小さくサトルが声を出した。
誰もいないはずの部屋に先客が二人。耳を占領する爆音のせいで気配は感じられなかった。足が中へと入れずに棒のように突っ立ったまま、サトルは動けなくなった。
「――――……」
爆音。
部屋の向こうの光景。
ゆっくりとイヤホンを片方外した。
「――こ……こう、じ」
体格の小さいマコトの背を抱きしめる長い手。
重なり、ゆっくりと愛撫を繰り返す唇。
体でそれを嫌がるように動くマコトの体。
黒髪から覗く漆黒の瞳はうっすらと開いたまま、顔を赤く染めるマコトを見て楽しんでいるようだ。
「……うそ」
小さくサトルが囁く。マコトはその声にビクリと体を動かし、全身でコウジの胸元を圧した。
「……あ」
再度漏れたサトルの声は異様に弱弱しかった。
「わあ!マッちゃん!違うんだよ!これは単なるコウジの意地悪だから!!」
マコトはコウジの腕から抜けると必死に笑みを作ってドア向こうで立ち尽くすサトルへと話しかけた。
「あ……あぁ、そうなんだ」
「うん、ごめんね!もうあれでしょ?マッちゃんたちが使う時間だよね?すぐ出て行くよ!ごめん!」
「えっ……いや、マコト!」
「それじゃあね!」
マコトは急いでドアを全開にしてすぐさまサトルの横を顔を赤くしたまま走り去ってしまい。サトルは慌てたが引き留めることも出来ず、ただ走り去っていくマコトを見送った。
正直、気まずい。
サトルは部屋の中へと視線を移すのに何度か躊躇った後、ゆっくりと覗き込むように視線を中へと向けた。
紫煙がゆったりと空気に揺れて上へと昇る。
夕方の光がそれをくっきりと映し出した。
自分よりもはるかに高い長身。
艶のある長めの黒髪を細い指が梳く。
「……どうぞ。入っていいよ、マツ君」
低い擦れ声。
鋭い目つきが優しく笑ったように見えた。
「あ……はぁ……」
サトルは小さく頭を下げてから中へと入った。バタンと閉まるドアがいつもより威圧的に感じるし、鏡に反射した夕方のオレンジの光が目に痛い。サトルはコウジを避けるように中へと入ると窓際へと移動して、もう座り慣れたイスへと腰を下ろした。
一言も発さないコウジの様子を探るのも嫌だったし、目に焼きついているさっきの光景を払拭したくてサトルは息を細く吐いた。
「……ごめんね?少し驚かせたかな」
「あ、はぁ……まぁ……それなりに」
何度か頷いて作り笑みを浮かべるサトルに答えるように笑むコウジの顔。印象が強い漆黒の鋭い瞳を直視できるわけもなくサトルはすぐに視線を逸らした。聞こえているはずの爆音も全然耳へと入らず、サトルはMDを停止して耳からイヤホンを外した。
――マコトが帰ったんだ、多分煙草を吸い終わったらコウジも帰るだろう。
そう思っていたが、コウジは短くなった煙草を灰皿へと押し付けて消すとゆっくりと興味深そうな笑みを浮かべながらサトルへと歩を進めた。
「喉の調子はどう?もうそろそろだよね、ライブ」
「……あ、はい……3日後です」
動揺がまだ消えない。それ以上出てくる言葉もなくてサトルは困ったように笑む。その態度に口元に拳を当てて笑むコウジ。
少しバカにされたような気がした。
「……最近ね、マコト、なんか様子が変だから問いただしてみたんだ。そしたら顔赤くして困るもんだから可愛くなっちゃって。……つい、ね」
「……はぁ」
――可愛く、たってマコトは男だぞ。
サトルは多少コウジの話してくる言葉に呆れながらも返答した。
「そう、まさに今の君みたいにね」
「俺……?俺ですか?」
「そう、人のキス現場目撃して興奮してる君の顔も赤い」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ熱でもある?」
また一歩コウジがサトルへと近づく。サトルは席に座ったまま動けずにいた。きっと今離れたら部屋に居場所を作るなんてできない。さっさとコウジに消えてもらいたかった。
「……さっき見てしまったことは謝ります。すいません」
「別に構わないよ」
喉を鳴らして笑むコウジ。サトルは耳へとまたイヤホンをつけようと手に取った。
「最近、マツ君変わったね」
急に変わった話にサトルは眉を顰めてコウジへと顔を上げた。
「……変わったって、俺は特に……あ、髪型とかですか?」
笑みを湛えたままコウジは首を横へとゆっくり振る。
「いや、最近死にたそうな顔しなくなった、と思ってね」
「……は?」
サトルはゆっくりとコウジの顔へと視線を上らせた。
「別に俺は死のうとか……」
「つもりじゃないならそれが君にとっての普通だって事かな」
「普通……?」
「死にたいと思っているのが君の普通の状態だってことだ。少し興味あるよ、そういうの。大体は理由があるもんだけどね、死にたいと思う理由が。でも君はそれが普通なのかな、昔から?これからもかな」
「だ、だから俺は死のうとか」
くす、とコウジの特有の笑みが目に焼きつく。
急に自分へと伸びてきた大きな手にサトルは一瞬で汗をかいて。抗議するために顔を上げると唇を塞ぐなにかにサトルは固く目を瞑った。
「ん……っ!!」
唇を割って進入してくるコウジの温かく柔らかい舌。それはサトルの口の中を深くまでゆっくりと舐め、少し固くした舌先でサトルの舌先を器用に絡める。
「!!」
押し返そうとする腕もコウジの力にねじ伏せられ、さっき見た楽しんでいるような漆黒の瞳に自分が映っているのが見えた。
「……っ……ちょ……!!」
「オクが好きな声、ねえ……本当に可愛い。キスもロクに知らないみたいだな」
またコウジの喉が笑った。
「……っふ、んんっ」
いつの間にか窓際へとイスごと押し付けられてサトルは身動きが取れない。
「……や、やめてくださいっ……!」
「死にたい?」
笑みを浮かべて自分を見下してくる瞳。サトルは体勢を無理やり変えてコウジへと背中を向けた。
――みんなは、みんなはまだ来ないのか?
サトルは脳裏に過る奥崎の顔やレンの顔を脳裏にぼんやりと描いた。
自分の全身を這うように捕まえるコウジの手。
「……死にたくない、って思うほどの快楽だったらマツ君に渡すことができるよ、……まぁちょっとした麻薬みたいなもんだよね?イクなんて感触は、さ?」
「な……!何言ってるんだよ!!」
自分の首筋の生肌へと背中から舌を這わせてくるコウジへとサトルは声を荒げた。
「長年人の上に立つ役ばかりだったせいか、教え込むのは得意なんだよ」
微かに首筋に歯を立てられ、サトルは一瞬で涙目になった。
夕方の光がこんなにも生々しさを映し出すなんて知らなかった。
いつの間にか部屋の隅まで逃げたサトルの両手首をコウジは簡単に片腕で奪って、露にされた胸元を這うコウジの舌に身を震わせた。
「……なんでっ……!?」
サトルは涙目のまま自分へと愛撫をしてくる相手を睨みつけた。コウジは舌をサトルから離すと笑みを浮かべた顔から感情が消えたかのように無表情のままサトルの顔を自分へと向かせた。
「……なんで?……なんでだろうね。多分、意味なんかないんじゃないかな?」
「……は?」
コウジはゆっくりと自分の下唇を舌先で舐めて、また笑みを作った。
「生きること、死ぬこと、交じわること、全てにいちいち意味なんかない。あったとしても口にするほど大事なことじゃないよ。……強いて言うなら肌を重ねると温かいし気持ちいいからいいんじゃない?……それとも、マツ君は好きな人でもいるのかな?」
コウジの言葉に理解を示せないままサトルはコウジの強い瞳に困惑して目線を合わせないようにすることに必死だった。
「……あんたの言ってる意味が、わからない」
「別に理解しなくてもいいことだよ。必要ない事柄だ。君が死にたいと思いながら毎日を過ごす事も誰も知らないことだよ。君が抱えてるものも、俺が抱えているものも、他人が入れない領域さ。……それは他人も同様だろうけど」
「……あんた何が言いたいんだよ?どうでもいいから離してくれ」
「……要は、君の気持ちなんか知ったことじゃない、だね。他人の思うことも君にとっては知ったことじゃないだろ。お互い様」
言うなりぐっと首を片手で絞められ、サトルの顔が苦しそうに歪んだ。
と、すぐにコウジの唇がサトルの口を塞ぐ。
「……っ!!」
「大事な人がいないのなら、こういうのは単なる経験みたいなものだよ」
「く……くるし……」
顔が徐々に熱くなっていく。
喉仏を圧され、何度も繰り返される口付けにサトルは目を開けることすらできない。
「……死にたいと望んでも君はまだこんなに生きてるね、マツ君」
ふ、と意識が朦朧として、抵抗する腕がゆっくりとコウジから滑り落ちた。
微かに、耳に届いたドアの開く音。次の瞬間、空気が一気に体に入り込んだような気がした。
ひゅ、と喉元が鳴る。
サトルは部屋の隅でしゃがみこんだまま何度も咽た。指先の感触でようやくコウジの手から離れたことに気付いた。
「大丈夫か?マツ」
ゆっくりと顔を上げるといつになく心配そうに見つめる奥崎の顔だった。その傍らには無表情に自分を見下すような目をするキョウイチ。二人ともサトルを覗き込むようにして見つめていた。
「お……オク、さん」
奥崎はゆっくりとしゃがみこむサトルの背中を擦り、それから肩ごと自分へとサトルを引き寄せた。
「悪かった。コウジさんもう帰ったから」
――あぁ、帰ったのか。
サトルは安堵の笑みを少し浮かべた。
それでも奥崎の表情は曇ったまま。
キョウイチは横へと顔を向けて深くため息をついた。
帰ったことに気付かなかった、サトルは自分が少しの間気絶したことをゆっくりと確信した。部屋の中は長い影が落ち、オレンジの光は陰りを帯びていた。
「コウジはさ、ライブ前ちょっとナーバスになるんだよ?気をつけないとね、サトルさん」
キョウイチの言葉にサトルは少し固まったが何度か小さく頷いた。
「じゃあ俺がなんか悪いこと、したかもな……」
サトルは小さくそう言うと俯いて。ふと目に入った赤くなった自分の手首を見つめたまま動けずそこに座り込んだ。
「お前のせいなわけねえだろ。首、見せろ」
――いや、マコトとのキス現場を目撃したからかもしれない。
サトルは内心そう思うも口にできなかった。
「……っ」
奥崎の指先が優しくサトルの赤く、後の残った首に触れる。多少違和感を感じた。
「……本気で締めるかよ……、今日はもう帰るぞ」
「……わかった」
サトルは落ち込み気味で項垂れるように頭を下げるとゆっくりとその場に立ち上がった。
「でもそんなにコウジ他人に当たるタイプじゃないのにねー?オク。ホントにサトルさん、コウジになんかしたんじゃないの?」
キョウイチの言葉に奥崎はふぅん、と一言反応を返してサトルの脇へと手を回した。
「聞いてる?オク」
苛立ったキョウイチの声。
サトルは少し気になってキョウイチの顔を見つめるとキョウイチの視線は自分へではなく真っ直ぐに奥崎へと向けられていた。
「……聞かなくてもお前はわかってんじゃねえの」
「え?」
キョウイチはきょとんとして奥崎を見つめ返す。
「サトルがコウジに絡まれてるトコ黙って見てたんだからお前が知らない訳ないだろ。コウジに礼でも何でも勝手に言えよ。じゃあな」
「ちょっと待ってよ!なんで俺が悪者みたいに言われなきゃいけないんだよ!」
キョウイチの言葉も虚しく。強くサトルは奥崎に支えられた状態でドアへと歩いた。奥崎の手がドアノブへと伸びる。
「……サトルのこと潰したい気持ちは解った、だからって誰かに頼むような真似は止せ。じゃあな」
声とは裏腹にドアを乱暴に開け、奥崎はサトルの肩を抱きしめたまま部屋から出た。
「……オクさん」
「悪かった、……気にするなよ」
エレベーターに乗り込むと同時に遠くからガシャンと派手に何かが落ちたような音が聞こえた。
「……面倒くせぇ」
奥崎はそう言ってダルそうに舌打をした。
授業が終わって
家に飛んで帰って好きな服に着替えて
駅前で待っていれば
いつもオクが少し笑みを作って
遅くなって悪いって、謝って。
人には冷たいのに時折見せてくれる笑みは多分、自分の特権ぐらいに思っていて、たまに触れる手とか、ギターで作る曲とか。普段弾くベースも、全部全部好きだったのに。
――なんだよ、これ?
「なんだよ……」
シャワーの水がどんどん服を重くしていく。キョウイチは涙ごと全身濡らして風呂場で異様に響く自分の声に苛立った。せっかく携帯で撮ったコウジとサトルの写真も何の意味もない。手にした携帯は水を弾いて。奥崎の顔を思い出して、キョウイチは持っていた携帯を床へと叩きつけた。荒い息が篭って響く。
「……オク、バカみてえ。なにかばってんの?あんな奴……大嫌いだ、大嫌い」
――オクがいたから歌えたのに。
キョウイチは固く瞳を閉じて俯いたままシャワーを止めた。
「……俺は、認めないからな。オク」
――相応しくねえ、全然。
キョウイチは少し鼻で笑って天井を睨みつけた。
「ひえぇ~!大丈夫?!マツ君!」
派手なリアクションでヒサシが心配そうに声を張り上げた。
「大丈夫です、すいませんなんか」
「いいのよ!気にしないで!こういう時はすぐに呼んでちょうだい!仲間なんだからさっ」
少々照れてヒサシは何度も頷きながら部屋にある救急箱を取ってきた。
場所は第三寮内。
三年のヒサシの部屋。
部屋の壁には何枚ものポスター。
ほとんどが洋楽なのだろう、外人だ。
あるはずの勉強机は埃を被ってベッドは白と黒とモノトーンな雰囲気に作られていた。
そして部屋の隅にはお香が焚かれていた。
「やっぱ三年はいいな、一人部屋で」
そのベッドの上にいたレンが羨ましそうに周囲を見回しながら煙草を咥えた。
「ちょっと!煙草吸うのはやめて!臭っちゃうじゃない!」
「いいじゃん!一本だけ!」
レンがヒサシと話してる間。
奥崎はヒサシが出してくれた消毒薬を取り出してサトルの手首を捕まえると容赦なく消毒し出した。痛みで顔が歪むサトル。それを見て奥崎は少し笑った。
「ちょ……手加減してくれよ」
「優しくやっても消毒にならねえ」
「……沁みる」
「そりゃそうだろ」
淡々と返される奥崎の反応にサトルは呆れたようにため息をついた。
あれからすぐヒサシへと奥崎は連絡を取り、この第三寮内へと入った。真っ直ぐ部屋に戻るとサトルは言ったが、神崎が心配する、と言う奥崎の意見に同調したところもあってこの場にくる事にした。それからヒサシがすぐレンに連絡を入れて、今この状態に至る。
「……しかしうちの会長、ホントにやべーな。マジビビるわ」
レンがため息混じりにそう言うとヒサシも苦笑いを浮かべた。
「コウジねえ……確かにライブ前は変に落ちるトコあるから……あ、別にマツ君のせいとかじゃなくてよ!」
「いや、……なんかすいませんでした」
俺のせいじゃない、とは確信が持てないな。
サトルはそう思った。
申し訳なさそうに頭を下げて包帯を巻かれている手首へと目を向けた。
「オクさん……ちょっとそこまでする怪我じゃないからいいよ包帯は」
「別にいいだろうが」
「単なるかすり傷だよ」
「知ってる」
「じゃあ取ってよ」
「……これもいいと思いません……?」
包帯を巻き付け終えたサトルの手首に視線を落としたまま、ぼつりと零された奥崎の言葉にレンとヒサシがサトルへと振り返ってマジマジと見つめてくる。
サトルは目を大きくして少し動揺した。
徐々に二人の顔がにやけ出す。
「……いいと思うわ」
「手錠もかけるわけだしな……オク、いいじゃんコレ!」
「……なら、これでいきますか」
「いいわ~なんか。手錠されて包帯なんて!イメージ沸く沸く!!」
テンション高くヒサシが声を張り上げた。
この人は、立つと結構身長も高いしかなり整った顔をしているのに何故、女口調なのか。サトルはものすごく疑問に感じた。
「いや……あのいいって……何がですか?」
「あ?いいか?マツ、俺ら3日後ライブすんじゃん、やっぱパフォーマンスも必要なわけよ。んでお前が手錠して歌歌うのもパフォーマンス。ただそれに包帯が加わったって話だよ、はーマジ頑張ろうな~」
早口で説明するレンにサトルは頷くこともできずに黙って話を聞いた。ふと横を見ると奥崎も優しげに笑っている。
――楽しいんだろうな。
サトルはそう思うとようやく安堵感を覚えた。
「……でもキョウイチ。なにが気に入らなくて、ねぇ?」
急に気まずい雰囲気が空気を染めた。
ヒサシはぎこちなさそうに奥崎を見つめて奥崎は無表情のままその視線を受け止める。
「……知るか」
呆れ気味に話す奥崎。レンはその様子を見つめながらゆっくりと肩で息を吐いた。
「……まぁ、マツ君には悪いけど今回は仕方ないんじゃないの?キョウイチの心情を考えると、な」
「そうよね~……ホントにマッちゃんには悪いんだけどね…」
意味不明な会話の流れにサトルは目を見開いたまま横の奥崎へと目をやる。奥崎は無表情のままだったが、どこか機嫌の悪い雰囲気。
「……だからってマツには関係ねえだろ、それに……あー……面倒くせえな」
「……なに?」
全く読めない会話の流れに耐えかねてサトルが疑問を投げた。横にいる奥崎はサトルへとゆっくり視線を合わせて不機嫌そうに頭を掻く。
「あー……なんつうかな!あれよ」
「そう、そうなのよね~……」
レンとヒサシの意味不明な言葉。
サトルは一層眉間の皺を深くした。
「……キョウイチと一時付き合ってた」
いつもよりも重い口調で奥崎が話す。
「……ぇ?」
サトルは小さく声を漏らしてそれから、暫く黙った。気まずさは一層深く雰囲気を悪化し、しんと部屋が静まり返った。
「……マジで一時な。もう終わったことだ」
沈黙を破るように話す奥崎のため息交じりの声にヒサシが優しげに笑って見せる。
「そうよ、そうよね?もう終わったことだわ、それにもう同じバンドじゃないからね!」
「……要は恋心がちょっと嫉妬に変わっちゃってね。それがマツ君に向いたって事。ごめんな?」
レンがすまなそうにサトルへと話す。
サトルは、まだ頭がうまく動かない。頭のどこかが白くなってしまったのか、それとも、それとも。ただ声が出ないほど驚いてしまったのは事実だ。
「マツ」
「……あ、あぁ」
「ホントに終わったことなのに、お前に迷惑をかけた。すまなかった」
あまり謝られた経験のないサトルは困惑しながらも頭を小さく、何度も縦に振った。
「マツ君大丈夫か?!」
レンの問いかけにも作り笑顔で応えた。
自分が、なにを考えてるのかわからない。
サトルは複雑な心境の中、ただ自分の手首に結ばれた包帯へと目を落とした。
――要は。
要はキョウイチと奥崎が昔に付き合っていて、キョウイチと奥崎は一緒にバンドをやってて。それから理由は不明だけど二人は別れて。で、その後入ったのが、俺だから。
暗い室内にはシノブの寝息が微かに聞こえる。
その夜、サトルは枕に頭を乗せて、薄暗い天井を見つめながら頭の中を整理していた。
コウジ先輩のことはキョウイチが頼んだことで。
要は自分のことが嫌いということ。
「……付き合って、たんだな」
ぼそりとサトルは暗がりの中呟いた。
時刻はもう午前三時過ぎ。
目が閉じてくれなかった。
「キョウイチに消して!って言われたらあんた消そうとするんですか?!会長!!」
レンの声が生徒会室に響く。
罵声を浴びせられている生徒会長、コウジは片手にウーロン茶を持ったまま机に置いてある小説のページを捲った。明らかに完全無視状態。レンは顔を引きつらせた。
「だから会長!!」
「聞いてるよ」
レンとは反対に冷静に、優しげに話し出すコウジの視線は未だ小説。レンは深くため息を付いてそんなコウジの様子を見つめたまま。その向かい側の席に座っているマコトの兄であり、生徒会副会長佐田タキは二人の様子を静かに伺っていた。
「……珍しいですね、会長がレンに怒鳴られるなんて。なにかした?」
「さぁ?レンはただ機嫌が悪いんじゃないか?いつものことだろ、タキが気にするようなことじゃないよ」
「ちょっと待ってくださいよ、おい」
白を切るコウジの優しげな口調にレンが肘鉄ついたまま片腕をコウジへと伸ばした。コウジはそれを冷たい目つきで見つめてからゆっくりとレンへと顔を上げた。
「……俺はただきっかけを貰ったから動いたまでだよ。キョウイチの味方をしたわけでもないしマツ君が憎かったわけでもないさ」
「はい、はいはいはい……きっかけ、ね。あんた人殺すことできるきっかけを得た、それで首締めたってわけですか?」
「え、違うよ。マツ君と話をしてみたかったし、ね。そういうきっかけだよ」
優しげに笑みながらコウジはゆっくりと指先で小説を閉じた。レンの片眉が一層引きつった。
「は・な・し?首絞めることがコウジ先輩の会話手段なわけだ。怖いっつうの!」
声を荒げてレンがついにはその場に立ち上がるもコウジは平然とそれを見つめて笑んだ。
「きっかけは別にそれだけではないよ、レン。落ち着きなさい」
「めちゃくちゃ落ち着いてるっつうの!じゃあ他にきっかけってなんですか?!」
「面白そうだったから、かな。俺、マツ君みたいな変わった感覚持った子、何だか得意なんだよね」
「――……なんだそりゃ……」
「……まぁきっかけ、と言われればきっかけ、ですかね」
タキがレンの側まで来てそっと下から上へと背中を擦った。レンはどっと疲れて生徒会室全体に聞かせるように大きなため息を吐いた。
休日が来るまで、サトルにとってはあっという間だった。
心とは裏腹な晴天なり。
シノブが元気よさ気にカーテンを全開にしてサトルへと笑いかけた。
「起きろ!マツ!今日だろ?そろそろ体起こして飯食いに行くぞ!飯は」
「その日一日の栄養の源なんだろ……はいはい」
「よくわかってるじゃねえか、俺といて少しは賢くなったんじゃねえの?」
「だろうね」
サトルは重い体を起こして洗面台へと向かってダルそうに歩いた。
コウジに会ってから。
いつも通りに行くスタジオの道は奥崎と一緒で。
別に会話を交わしたわけではない。
ただいつもより話しかけにくかったのは事実だった。
何を話しかければいいのかわからなくて。
ただ黙ってスタジオに行って。
練習して。
帰って、飯食って、寝て。
「……ホントムリだ……具合悪い……」
正直顔を合わせるのも苦に感じたサトルは洗った自分の顔を見て深くため息をついた。と、部屋にノック音が鳴り響いてシノブがすぐさまドアへと向かったのが鏡越しに見えた。歯を磨きながら水を出しっぱなしでただ呆然と鏡を見つめたまま。サトルはまだ完全に開き切れてない目を見た。
「マツ、オックだぞ」
シノブの声にサトルは一気に目を見開いて口に歯ブラシを咥えたまま顔だけ入り口へと出した。
「マツ、はよ」
奥崎がサングラス越しにサトルを見て少し笑ったように見えた。
「……おはよ」
「出かけるぞ、服着ろ」
奥崎の急な言葉にサトルは眉間に皺を寄せてすぐさま洗面台で歯を磨き終わるとテーブルへと急いだ。
「オクさんっていつも急過ぎるんだけど」
「はぁ?いいから早くしろよ」
サトルは迷惑そうに顔を歪ませて、整理したばかりの衣装ダンスから先日奥崎からもらった服を数枚取り出した。
「お前らもう出かけるのかよ、チェッ!また俺一人かよ!」
シノブが不貞腐れながら奥崎を一瞬睨む。それを奥崎はスルーしてテーブルの側へと胡坐をかいた。
「あれ、神崎、今日生徒会は?」
「今日は流石にねえよ、仕方ねえからもう一度寝直すかな。お前らライブ前に一旦帰ってくるんだろ?」
「そのつもりだ」
ようやくまともに答えた奥崎をシノブは軽蔑するような眼差しで見つめるもふと横で着替えているサトルの上半身を見て目を細めた。
「……ん?おい、マツ……?」
「え?」
「なんだこりゃ……痒くねえか?」
シノブはサトルの首筋に見つけた赤い跡に指先を差そうとするとその手を奥崎が蝿叩きの様に上から叩き払った。
思わぬ行動に唖然とするシノブとサトルは不思議そうに奥崎を見るも、奥崎はいつもと変わらず無表情のまま。
それからシノブの見つけたサトルの首筋にある赤い跡を指先で辿る。
「……あんのバカ会長が」
小さく舌打ちをして奥崎がぼそりと呟く。
「……なに?どうかしたのかよ?」
サトルは不安そうに自分の首筋へと手を当てようとするも奥崎の手が邪魔で触れない。
「オクさん、ちょっと離してよ、触れないから」
「別にこんなもの触らなくてもいいだろうが。触ったってどこについてるのかお前には解らねえよ」
「いや、でもさ」
サトルと奥崎が言い合っているとシノブはゆっくりと肩を震わせて奥崎へと掴みかかった。
「てめえ!!何様だ!急に手ぇ叩いてきやがって!痛えだろうがっ!このバカオク!」
「……あぁ、叩いたか?悪かったな」
少ししてから奥崎がシノブへと素直に謝った。
その態度、反応に一層怒りが膨大する。
「人の手叩いたのに覚えてねえってか?このボケが!脳みそが活発に動いてない証拠だ!俺がマツの体を心配してなにが悪いんだよ!しかも手を思い切り叩くか?お前ってホント不良だよな!」
「……神崎、そんなに怒るなって……」
宥めようとするサトルの声は無視され奥崎へとまた近づくシノブは平然としている奥崎の顔を睨みつけた。いたたまれなくなってサトルがシノブと奥崎の間に入るもシノブの視線の先には奥崎しか映っていないようだ。
正直、着替えるどころじゃない。
サトルは朝から疲労を感じながらも二人の間を諌めようと作り笑みを浮かべた。
「頼むから朝から喧嘩はきっと体によくないだろ?神崎もオクさんもお互い謝れって」
「なんで俺がオックに謝んなきゃならねえんだよ!!」
一層怒り出すシノブに、奥崎は眉一つ動かさず、す、と自分とシノブの間に割って入っているサトルを後ろから抱きしめる形を取った。
動揺するサトル。
奥崎はそれに気付いて小さく笑った。
シノブはなんだそりゃ!と一層声を荒げてサトルと奥崎を離そうとした瞬間だった。
バタンと勢いよく部屋のドアが開く。
「おはよう!生徒会書記のゴリラ君!風紀委員長として君に相談が……ってどうしたの?修羅場?」
特に驚く様子もなく風紀委員長にしてH組会長ミナミがきょとんとしながら部屋の現状をまじまじと見つめた。朝から少し色素の薄い髪は綺麗に流れ、まるで人形のようだ、とサトルは思った。
「うが……ミナミ」
シノブの声が嫌そうに響く。
奥崎はすぐさまサトルから手を離して床に落ちていた紺色のタンクトップを無理やり着せた。
「もしかしてイジメかい?待って待ってよ、みんな仲良くしないとダメだよ」
うるせえよ、とシノブは聞こえるように舌打ちしてみせた。すると、ミナミは、ああ、と声を漏らしながら納得したかのように何度も首を縦に振った。
「わかった。君らがなんで揉めてたか」
「てめえになにがわかるっていうんだよ」
「詳しいことは知らないよ、でも恋愛関係でしょ?」
「はぁぁ~?」
シノブの声に奥崎とサトルもミナミへと顔を向けた。ミナミは神妙な面持ちで小さく唸ってから急に、あ、となにか思いついたかのようにまた首を縦に振った。
「風紀委員としてまず何をすべきだと思うかゴリラ君に聞きに来たんだけど、なんかわかった気がするよ」
「どんな根拠でだよ」
バカにするような口調でシノブがミナミを煽る。
ミナミはふ、と形の良い口元を上げて目を細めた。
「ホモを取り締まることにしようかな!学校というのは乱れてはいけない場所。君のようなホモを野放しにしていたら絶対に後から問題が起きるからね!ゴリラ君!」
「俺はホモじゃねえよっ!!」
「ありがとう、本当ゴリラ君のおかげだよ、参考になった!それじゃ今日も良い一日で!」
ミナミはそう言って部屋の外へとまた出て行った。
ぐい、と強く引かれる腕にサトルが驚いた。
「え?!」
「じゃあ行ってくるな、ゴリラ君」
嫌味たっぷり込めた奥崎の口調にサトルは背筋に汗を掻いた。閉まっていくドアから覗くシノブの顔が怒りに満ちていくのがスローモーションで目に焼きついてしまった。
今日も、当分寮には戻れない。
サトルは腕を引っ張っていく奥崎の香水の香りに少し咽た。
美術館の中は以前と同じく閑散としていて、いつもより暗い雰囲気を帯びていた。
ここに着くまで。やっぱり自分から何かを話しかける、そんな勇気も持てなくて目の前を流れていく風景に目を泳がせてしまった。サングラスのせいで奥崎の瞳がどこを映し出しているのかもわからず、サトルは黙ったまま。ただ掴まれた掌に汗をびっしょりと掻いてしまった。
「今日は暑くなりそうだな」
奥崎の言葉にサトルは動揺しながら何度か頷く。
言葉が、出てこない。
「……そこ座るか」
奥崎が顎で黒の長椅子を示し、サトルはそこに腰かける。正面のガラスに薄く映る自分の姿。異様に服が、いや、自分が浮いて見える。俯きがちに視線を落としていると奥崎が隣へと座った。ただ黙ってお互い何も話さず、張り詰めたような時間が流れる。何かしら喋らないと、と思うものの頭になにも浮かんでこなかった。
「……以前も言ったが、本当に悪かったな」
暗い口調で謝罪を告げてくる奥崎に、サトルは少ししてから首を横に振って否定した。
「別に大丈夫。謝らなくてもいいよ、俺はキョウイチ君とあまりぶつからないように気をつけるから」
「男と男が以前付き合ってました、とか。そんなすぐには理解できないだろ?」
「まぁ……動揺もしたけど、正直。でも事実なんだろうし、仕方ないだろ」
口をつく嘘。サトルは必死に真顔で答えるも、見透かされたように奥崎は小さく笑んでサトルの肩を数回叩いた。
「あれから数日俺なりに色々考えた」
「なにを?」
「……だから色々、な」
また続く沈黙。サトルは気まずさに白い床へと視線を落とした。微かに聞こえてくる奥崎の呼吸。サトルはそれを消し去るかのように咳払いをした。
「……できるだけ、そばにいようと思う」
「なんの?」
「お前の。その方が守れるしな」
「あ……別に俺、守ってもらわなくても大丈夫だよ、男だし。相手は中学生だろ」
気持ちが、不安定な気がした。
サトルは答えながらもだんだんと心臓が早鐘のように打ち始めたことが恥ずかしく感じた。奥崎の顔を見られない。
「……自分の事くらい自分で守るから」
「そばにいようともう決めた」
強い言葉にサトルは少し口を開けたまま固まった。きっと自分は顔が赤いだろう。勘違いを、している。サトルは横へと顔を向けたまま黙った。
「……今日は頑張ろうな」
「ん、自分なりに頑張るよ」
「期待してっから」
「……俺緊張とか嫌いだからやめてくれ」
「そうだったな」
穏やかな奥崎の声。サトルは思い上がりそうになった自分の気持ちを消そうと何度も小さく息を吐いた。
歌が、声が認められたから。
奥崎が自分を守るというのも、他の先輩達が自分へと優しいのもそれが理由だ。徐々に変わっていく世界は苦手だけれど、それでもたったひとつ認められた声の存在にサトルは少々嬉しくなった。きっとこんな世界は自分には不釣合いだ、と知ってる。それでも。
サトルは隣にいる奥崎から顔を背けて、優しげに笑みを零した。
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