第4話 不安と、心臓の音と、

「あいつ……なんか機嫌悪くないか?」

 サトルが去って。シノブが食べ終わるとテーブルに頬杖をつきながら言った。

「へ?そうだった?」

 食器を下げて戻ったマコトはシノブの問いに首を少し捻った。

「誰にだって機嫌悪い時くらいあるよー、マッちゃんただでさえ気ぃ遣いなのに。カンちゃんそういうの気にもしないで周囲に喚き散らすし。誰だって疲れるよ」

「なんだそりゃ、俺のせいだって言うのかよ」

「別に深い意味じゃないけどさ~、マッちゃんにも一つや二つ悩みくらいあるかもだしね」

「何を悩むんだよ」

「知らないよ、もう……俺に当たんないでよ!カンちゃん!」

「別に当たってねえ!」

「トレパン着ちゃって変なの!」

「てめえのだっつうの!!」

 マコトとシノブの言い合いが食堂内に響く。外は視界が煙る程の雨が止むことなく降り続いていた。奥崎は黙ったまま席を立ってゆっくりと窓際へ移動した。少し目を細めて外へと目を向けるも雨は降り止む様子もなく、徐々に窓を曇らせる。

「……俺も出かけるわ」

 奥崎はそう言うと二人へと振り向きもせず、歩いて食堂を出て行く。

「え!おい!オック!」

 シノブの声も虚しく奥崎は食堂から遠ざかった。

 残された二人は少し気まずいムードの中黙って外を見て。

「……二人とも風邪ひいちゃうんじゃない?こんな雨だよ」

「さぁな、知らねえ。なんか、マツって壁感じるんだよなぁ……」

「壁?」

「そ。たまーにあるんだよ、近づくな、みたいな」

「そうなんだ。でも仲良く出来たら嬉しいよねぇ」

「まぁな。そりゃそうだ」

「……トレパン短くてごめんね?」

「……別に始めから怒ってねえよ」

「うん、ごめん」

「……わかったよ、うるせえ」

 不機嫌な顔を少し赤く染めるシノブの態度にマコトは少し笑った。シノブはそれを見るとすぐに顔を横に背けて知らない振りをした。また、マコトが笑う。

「あ、ジュース奢ってあげる!」

「別にいいっつうの」

「いいって!」

 マコトは嬉しそうに笑顔で食堂からすぐに出ようと走った。と、出てすぐになにかに思い切りぶつかって後ろへと倒れ込んだ。

「おい!チビ!」

 シノブの声が耳に届いて、痛そうな顔をしながらゆっくりぶつかった何かを確認しようとマコトは顔を上げる。

「……ったぁ……俺も厄日なのかなぁ……」

 言いながら見上げた先、自分を見下す鋭い目つきに思い切り睨まれていた。

「あっ、ああ……渡辺君!」

 マコトは驚いたような声を上げてすぐに立ち上がり、頭を何度も下げる。

「ごめん!別に君にぶつかろうと思ったわけじゃなくて……!怪我とかしてない?ごめんね?」

 ぶつかられたことにも、マコトの必死の弁解にも謝罪にも動じず、渡辺カズキは全く表情を変えることなくじっとマコトの目を見たまま。短い沈黙があってから。


「……は?」


 ドスの効いた一言が発せられ。渡辺はそのまま逆の方向へと機嫌悪そうに去っていった。


 取り残された気まずさ。

 マコトはその場にしゃがみこんだ。


「お……おい、マコト?大丈夫か?」

 珍しく心配そうに話しかけるシノブの声に反応してゆっくりとシノブへと顔を向け。

「……明後日、委員会で渡辺君と二時間一緒なんだよね」

「あ、何か聞いたわ」

「……ホントもう無理~……」

 頭を抱えながらマコトは深くため息をついた。

 雨はまだ降り止まない。

 厄日だったのはどうやらシノブだけではなかったらしい。



  ――傘はあまり好きじゃない。

 サトルは玄関まで来ると傘立てにある数本の傘を見つめてから、外の雨へと目を向けるとゆっくりとそのまま外へと歩き出した。見た目よりも優しく降る雨に少し安心と開放感を感じながらサトルは寮の外へと完全に出た。それから右へ曲がって駅の方向へと歩き出す。普段は汚れて見えるコンクリートも濡れたせいか、気にせず歩ける。

 朝にせっかくセットした髪も台無しだな、とサトルは少し笑った。


 久しぶりのひとり。

 そう、こんな。ひとり、何も無く、平凡。

 大嫌いだけど、ここが自分の居場所だと感じるこんな日々。

 高校に入ってから遠く感じていた。

 髪を直されても、

 服を買い与えられても、

 自分が全てをダメにしてる。

 そんな気がしていた。


 マンホールの上を歩き、ふと横の電信柱へと目を向け。『憩いの美術館』の言葉に足を止めた。行ったことのない場所、そこへ行ってみることにした。


 寮からは歩いてだいたい四十分。

 それでも雨は小降りで降り続け、いつの間にか上から下までずぶ濡れ状態になった。

 履いている靴が気持ち悪い。

 そう思ったが今の自分にはお似合いだと思い、ゆっくりと白いゲートを抜けた。

 周囲は深い緑。

 白いいくつかの、石か何かのモニュメント。

 赤い花々。

 そして、真新しい四角い白の建物が目の前にある。

 歩道沿いには夜に点燈するライトが設けられており、大きく表示された針時計は11時を指した。人の気配はあまりなく、目に見えている人数は2、3人程。

 サトルはゆっくりと入り口へと向かった。


 入り口と表記された自動ドアを抜けると鼻をつくペンキの匂いがした。


「こんにちは、よかったらお使い下さい」


 手渡された真新しいタオルを少し笑みを浮かべて受け取り、濡れてしまった髪をがしがしと拭いた。


 天井は小さいライトがいくつも設けられており、床も汚れ一つない白で統一されている。サトルは周囲を見渡しながら順路と書かれた矢印の方向へと進むことにした。奥へ進むにつれ、徐々に人の気配が消えていく。自分の足音が異様に響くことが少し気になったが、すぐに壁にかけられている美術品へと目を留めた。


 極彩色の色使いの中に描かれている景色や人、自然、動物。印象的に残った青い瞳の深さに足を止めて、見つめる。

 絵、とはわかっていても本物以上に輝きのある瞳。

 サトルは瞬きを少し忘れた。

 奥へ奥へ進むにつれ、その絵は神を描いたり、十字架を描いたり。人の死を描いていたり。

 サトルは小さく咳払いした。神や死や文明や感情や、みんなそういうことをこうやって表現して。そのためにもたくさん考えて。自分には経験もないだろう思いをきっとたくさん思って思って、作られた、かつて生きた人の、遺作たち。


 サトルは途中にあった黒い長椅子へと座って少し呆然とした。


 いつの間にか髪は乾いたようだ。

 服は未だに生乾きだが、別にどうでも良かった。


 寮内にいるよりマシ。

 ひとりでこうやってじっとしてる方が自分らしい。

 楽だ。

 誰かに気を遣う必要もなければ、苦しくなることもない。

 鼓動を気にしなくてもいい。

 鼓動を気にしていい。

 サトルは目を閉じて、力強く安定して鳴り続ける心臓の音に集中した。


 人も、虎も、小さな子猫も。この世に生まれた生物たちはその生涯で脈打つ回数はほぼ同じ。


 死に向かって鼓動を鳴らしていくとしたら。

 死に向かって鼓動を鳴らしているんだとしたら。


 サトルはそう思うとゆっくり瞳を開いた。


「……よう」

 急な声にサトルはすぐに自分が歩いてきた方向へと顔を向けた。

 そこにはダルそうに立った奥崎がいた。

 濃い青のジーンズの裾はびしょ濡れの様だ。

「オクさん」

 気まずそうな声が漏れる。

 奥崎はゆっくりとした足取りでサトルの横へと来るとすぐに座って。

「俺もたまにここに来る。結構いいところだろ」

「……まぁね」

 食堂で感じた安堵感をもう体は忘れてしまった、サトルは正面を向いたまま返事を返した。

 ――偶然、なわけがない。

 奥崎は別に普段と変わらない様子で黙って正面の絵を見ている。

 赤いバックに枝が立体的に描かれた木枯らし。多分、油絵だろう。燃えているようにも、そして寂しい情景にも映る絵。


 奥崎が小さく息を漏らした。


「随分濡れたみたいだな」

「あ、……まぁ」

「傘も差さないで来るなんてお前も変わった奴だ」

 やっぱり後をつけられていたんだ、サトルは苦笑いを浮かべてそうかも、と小さく呟いた。さっきまで気にもなっていなかった生乾きの服が気持ち悪い。サトルは少し寒気がした。

「風邪、ひいたんじゃないのか」

「いや、そんなすぐには流石にひかないって。……なんで……付いて来たの?」

 後半につれ、声が上手く出せなかった気がした。

 サトルは二度、咳払いをして正面の絵から目を逸らさぬまま奥崎へと聞く。


 少しの沈黙。


 それから奥崎がサトルが手にしていたタオルを取り上げるとサトルの頭をガシガシと拭き始め。

「別に。暇だったから」

「……ふぅん」

「と、でも言えばお前は気が楽か」

 回りくどい言い方だな、とサトルはタオル越しに奥崎を見るも、いつもと変わらない無表情で。何となく話す言葉を失った。何かを見透かされてる気がする、サトルは下唇を少し噛んだ。

「心配だから付いて来た。邪魔か?」

「……そうやって聞かれて、邪魔ですってはっきり言える人いないんじゃねえかな」

「別に言われても構わないがな」

「人を傷つけるような言葉、吐きたくないって思うのが普通じゃねえの」

「普通ってなんだ、別に自然に思ったことだろ。気を遣えとか最初から思ってねえ」

「気を遣うのは当然なんだよ、普通の中じゃな」


 苛々する。

 普通ってなんだ?

 知らない、そんなの。


 サトルは口を閉じて真っ白な床へと視線を落とした。


 別に喧嘩をしたいわけじゃない。

 言い争いは嫌いだ。

 サトルは深く深呼吸をした。


 小さな笑い声が耳に入った。


 見ると、奥崎が目を細めて少し笑いながら髪を拭いていたタオルをサトルの手へと返した。


「……なんかおかしい?」

「いや」

「……じゃあなんで笑うんだよ」

「お前って案外短気なんだな」

「……短気?俺が?」

「ああ、そんなに短気じゃ神崎といる時随分我慢してるんだろうなと思ってな」

「……誰だってそれなりには」

「じゃあ俺には気を遣うなよ」

「……無理言うなよ」

「お前がどうかは別として、俺はお前に気を遣ってない。というか、多分、遣った事がない」


 だろうな。

 頭の中で勝手に言葉が出る。

 バカにしようとする気持ちなのだろうか。


「だから俺に対して壁を作るなよ」


 ドクン、と強く心臓が打つ。

 サトルは自分の心臓の音が疎ましく思った。

 右手で左胸を圧すように当てる。

 五月蝿い。

 速くなっていく鼓動が。


「どうした?」


 静かで低い奥崎の声。


「……心臓の音が嫌いなんだ」


 酷くかすれたサトルの声が無様に空間に響いた。





  出口から外へと出るといつの間にか雲は去り、真っ青な空が高く感じた。

「よかったな、雨男」

 目を細めて笑む奥崎の顔。

 嫌味な笑みじゃない、シノブの笑みより綺麗だと思った。

「そろそろ夏が来るんだろうな」

「……あぁ」

 奥崎の言葉にサトルは空を見上げながら応えた。


 入学して、学校の授業、周囲。

 いろんな事に目が慣れ始めてきて。

 梅雨が始まって。

 雨が降って。

 もうすぐ夏が来る。


 少し強く、眩しい太陽にサトルは目を細めて見上げたまま薄く残っている雲を見つめた。


 風が吹けば形を変える雲のように。

 自分もいつかは変われるだろうか。

 自分もいつかは変わってしまうのだろうか。

 この場所から開放されたい。

 この場所から離れたくない。


 サトルはゆっくり目を閉じてどうにもならない自分の生き様を少し自嘲する。急にぐい、と腕を引っ張られる感覚にサトルは夢から目が覚めたような錯覚に陥った。自分の腕を掴んでいる奥崎の手。美術館から出て、入ってきた方向へと引っ張って歩かされる。勝手な奥崎の行動にサトルは少し戸惑った。


「おい」

「なんだ?」

「離せって。オクさん」

「そう、そうやって気を遣わないで思ったことはちゃんと俺に言えるようになればいいさ」

「だから今言ってるだろ」

「あぁそうだな」


 腕は掴まれたまま奥崎は歩くのを止め、サトルへと振り向いた。


 いつもと同じ口調。

 いつもと同じ、動じない表情。

 真っ黒の瞳に反射して映る自分の怯えたような顔。

 顔、顔、顔。


 長い奥崎の指先がサトルの下唇をなぞって。

 それから。

 ふと掠める唇の感触。

 自分の瞳を覗き込むようにしてから離れていく奥崎の笑った顔。

 サトルはあまりの驚きに全身が固まった。


「……っ!!」

「怒りたかったら怒れ、マツ」


 いつもより優しく、嬉しそうに笑う奥崎の顔。


 それから。それから、どうやって奥崎に連れられてスタジオに行ったのか。道順さえサトルは覚えられなかった。

 ただ、目に焼きついてしまった奥崎の笑みが離れなかった。




「これに着替えればいい」

 乱暴に自分の顔へと投げつけられた見るからに大きいトレーナー。サトルは渋々それを手にとってちょうど陰になりそうなロッカーの横へと向かった。


 美術館から奥崎に引っ張られて三十分。

 雑居ビルの並ぶ街並みを少し抜けてから、一方通行を歩いて。古いビルの地下へと着いた。

 錆び付いたドアノブを回すとギィ、と音を鳴らして開かれた。壁には自主で作られたのかたくさんの音楽関係、バンド関係のチラシがあちこちに張られている。

 テーブルには灰皿、ペットボトル、散らかった煙草の灰。罅割れた床には男性ファッション雑誌から音楽雑誌。

 破れたソファには緑のタオルケット、黒い枕。

 壁には五人用の古ぼけたロッカー。

 あちこちにシールが貼られている。

 それから、ギターが数本。

 多分、奥崎のバンドの場所なんだろうとサトルは思った。

 決して綺麗とは言えない部屋。


 サトルがトレーナーを片手に周囲をゆっくりと見渡していると、ソファへと深く座っていつの間にか煙草を吸っている奥崎が目に入る。正直、似合う空間なんだな、と思った。せっかくもらった新しい服は生乾きの肌に張り付く。気持ち悪い、と小さく呟いてからサトルはそれを脱いですぐさまトレーナーを着込んだ。思ったより身体が冷えていたのか、トレーナーが心地よく感じた。

「少しでかかったか」

「そりゃ……俺とオクさんじゃサイズ合うわけないからな」

「まぁな」

 そう言って奥崎は口からゆっくりと白く濁った煙を吐き出した。銀のピアスをひとつ外して、奥崎はそれをテーブルへと置くと脱いだ服を持ったまま、ただ立っている状態のサトルへと目を向けた。

「横、座れば?」

 素っ気無い奥崎の言葉にサトルの目がうろたえる。

「……あぁ」

「それから服、貸せ」

 奥崎はサトルから服を取り上げると自分のロッカーからハンガーを出して手馴れた手つきで服をかけるとそれをドア縁へと引っ掛ける。

「帰る頃までには乾くだろ」

「……ありがと」

「いいや…………さて」

 奥崎は開けっ放しのロッカーの中から一つ小さな紙袋を手にしてまたソファへと戻った。サトルは散らかったテーブルへと目を向けたまま、ただ目で部屋の周囲を何度も見回した。

「ここはオクさんよく使ってる場所なのか……?」

「あぁバンド連中の溜まり場。俺の叔父が所有してるビルでここを使ってもいいっつうんで、使ってるだけだ」

「叔父さんって……なんか凄いな」

「別に。俺の金じゃない」

「……そう」

 淡々と事務的な会話をしながら奥崎は紙袋の中身をテーブルの上に出した。

 見るとそれはピアスだった。

 奥崎がつけているのよりは小さめだが黒い石が特徴的だった。

「……大きくはないけどなんかカッコいいな、それ。オクさんの趣味がなんとなくわかってきた気がする」

「そうか、ならよかった」

 奥崎はそう言うとサトルの腕を強く掴んでゆっくりと笑って見せた。


 生唾を飲む音が全身に響いた気がした。


「……俺ピアスは」

「大丈夫だ、始めは痛いだろうがちゃんとケアもしてやる」

「いいってマジで」

「ちゃんと綺麗に開けてやる」

「だからいらないって!」

「怖いのか?」

「怖いとかそういうんじゃなくて興味がない」

「できるだけ痛くならないようにしてやるよ」

「マジで勘弁してよ」

「言っただろ、仲良くならないと一緒には行動できないって、お前が。だから俺なりに考えて仲良くしようとしてる」

「オクさんのやり方は無茶苦茶だと思う!」

「やり方にこだわってどうする。要は結果だろ」


 そう言って奥崎は笑った。

 シノブに似た嫌味のような、笑顔。

 サトルの顔が引きつった。


「マジ!マジで無理だってば!!!」

「お前少し人の事信じてみたらどうだ?」

 そう言うと急に奥崎はサトルの腕から手を離し座り直して、ポケットから一本長めの畳針を出した。散乱したテーブルの上にあった汚れたライターに火を灯して畳針の先を炙る。じっとその事の成り行きをを隣でサトルは凝視した。それから不思議そうに、眉間に皺を寄せながらサトルはゆっくりと奥崎の横顔を見つめる。

「……何してるんだ?」

「あ?消毒」

「消……ちょっ……!無理!無理!ホント無理!」

 サトルはすぐに立ち上がろうとするもまた、腕を掴まれると今度は逃げられないようにソファへと身を深く沈めるほどに押し倒された。

「マジマジマジ無理!!絶対痛いだろ!」

「悪いようにはしない、前に言った言葉だ。少しは人の事信用したらどうだ」

「そんな見たこと無い様な針出されてどう信じろって言うんだよ!!」

「はいはい、少し五月蝿いから黙れよ松崎」

 ソファで横に押し付けられながらも声を振り絞って反論したが、言われなれない自分の苗字を口にされてサトルは思わず息を飲んだ。

「ホント…、マジ情けないかもだけど怖ぇよ…」

 できるだけ声が震えないようにじっと奥崎を見つめたままサトルは顔を強張らせた。それを宥めるかのように奥崎は小さく笑うと汗びっしょりになったサトルの額を掌で拭い。

「できるだけ優しくする。だからそんなに気負うな」

 低く落ち着いた声。だが、奥崎はそう言うとソファにあったタオルケットを引っ張るとサトルと自分を覆うように被せ周囲の視界を遮った。

 ――もう逃げられない。

 サトルは恐怖のあまりまた抵抗し出した。

「なんでこんなの被せる必要があるんだよ!逆に怖いだろ!!」

「そうか?これならもう逃げようがないと理解できるだろうが、お前がな」

「充分解るよ!そんなこと!!」

「じゃあいい加減観念するんだな」

 奥崎の指先がサトルの右耳に触れる。

「ちょっ!やっぱムリだって!!」

 タオルケットのせいで声が篭って聞こえる。自分の前には楽しげに、意地悪そうに笑う奥崎の顔。サトルは怖さのあまり目をきつく瞑った。


 バタン、とドアが乱暴に開く音が急に耳に届いた。


 と思ったら奥崎がタオルケットを下ろし、サトルは顔に涼しい空気を感じた。横に顔を向けるとそこにはダンボールを小脇に抱えて不思議そうに自分らを見つめる仙崎レンの姿。

「あれ?邪魔した感じ?」

 冗談交じりに笑いながら話しかけてくるレン。

 サトルは縋る思いでレンへと視線を向けた。

 レンは黒の帽子に白のタンクトップ、ダメージジーンズ。腕にはごつい時計がしてあった。

 寮の食堂で見た時とは随分雰囲気が違ってサトルの目には見えた。

「……仙崎先輩……」

 小さな声で助けを求めるかのように声を出すサトル。奥崎は体勢を変えるわけでもなくただお疲れ、と一言挨拶を交わした。

「びっくりしたー、部屋入ったら二人でタオルケットに隠れてよ」

 はは、と甲高くレンは笑ってテーブルへとダンボールを置いた。

「買ってきたのか?氷」

「あぁ、やっぱコンビニで買うよりスーパーの方が物は安いね、ほら」

「どうも」

 レンは奥崎へとロック用の氷の入った袋を投げると奥崎はそれを手にしてすぐさまサトルの右耳へとタオルケットの端を当てるとその上から氷袋を押し当てた。

「!!」

「今から開けるんで」

 サトルの驚きを無視して奥崎はレンへと顔を向けたまま氷を押し当てた。

 じわじわと顔の右側が冷たくなっていく、サトルは押し倒された体勢のまま動けずにただレンへと顔を向けている奥崎の横顔を見つめた。

「外雨上がったと思ったらすごい暑さだぜ。疲れたー」

「もう夏だからな。あ、消毒液は?」

「ある。つうかマツ君なんか可哀想に見えるぞ?怯えた猫みたいになってんじゃねえか」

 そういうとレンはまた笑った。バカにされてる、サトルはそう思うと腹立たしい気持ちになって氷を当ててくる奥崎の腕を掴んだ。

「一体こんなことしてきてなんなんだよ?俺、そろそろ帰るから」

「感覚は?」

「……は?」

 ――自分の言葉が聞こえてないのか?

 サトルは眉間に深く皺を寄せながらも指先で顔の右側を辿る。感触があまりないと思い、首を横へと怪訝そうに振った。

「……多分、あんまり感じないけど」

「よし、じゃあいいな。レン」

「おー、じゃあそろそろやるか」

 ソファへと近づいてくるレンの顔がやけに楽しそうに見える。奥崎もサトルから氷を離すとすぐさま右耳に触れ少し笑った。

「痛くないようにこっちも気をつけてやるから、怖かったら目ぇ瞑ってろ」

「……え、ちょっと待って」

「暴れないように俺がちゃんとお前のこと抑えててやるから、な?」

 レンはそう言うとサトルの頭を両手でソファへと一層押さえつけた。

「え!?もう開けるの!」

「あぁ、穴開けてやるからあまり緊張するな。すぐ終わらせるようにする」

 奥崎の声にサトルは急に変な汗をかいた。

 着ているトレーナーが暑い。

「だから帰るって俺!離せよ!」

「ちょっと血が出るだろうがゆっくり息吐けよ。マツ」

 聞こえてくる奥崎の低い声。

「なんか……さっきからオクの喋ってんの卑猥に聞こえんだよなぁ。穴開けてやるとかちょっと血が出るとか。変態っぽくね?」

「そうか?別にそういう意味じゃないんだがな」

「変なこと言ってないでやめろよ!ヤダ!ヤダ!ヤダ!」

 緊張が徐々に高まっていく。

 触れられている場所が怖い。


 サトルはまた、きつく目を瞑った。


「マツ」


 自分を呼ぶ奥崎の声。

 サトルは少しだけ目を開けた。


 ぐっと右耳朶に熱い感触が込み上げた。

 と、思ったら鈍く痛みが背中に走る。

 サトルは歯を一瞬食いしばった。


「いっっ!!!」

「はい、もう終わり。お疲れさん」


 レンの手がサトルの頭を解放した。奥崎も自分から離れてテーブル奥の赤い椅子へと座るのが見える。サトルは未だに熱い感触が残る耳朶が少し重く感じながらも上体を起こした。なにがどうなってるのか知るのが怖い。多分、今自分の耳にはあの針が刺さってるに違いない。


 恐る恐る指先で右耳を辿ろうと動かす。

 が、怖くて触ることができない。


「安心しろ」

 奥崎は言いながら煙草へと火をつけた。

 サトルは戸惑いながら奥崎を見つめた。

「市販のピアッサーで開けた。畳針じゃねえ」

 奥崎はそう言うと畳針を手にして少し笑った。

「あぁ、そうな。よかったな、マツ君、単なるオクの脅しだ」

 状況を察して楽しそうに笑うレンの声がサトルはだんだん気に入らなくなっていた。少しレンを睨みつけながらソファへと座り直す。サトルは背中に掻いた汗が気持ち悪く感じた。すると、廊下に人影が見えて顔を少し上へと上げる。誰が今度は来るのか、過敏になった神経に触る気がして不安になった。

 ドアノブが回されて開かれるとそこには肩まである長い髪を横でひとつに纏めている、どこかで見た顔が優しげに笑みながら入ってくるのが見えた。

 今日、食堂で会ったレンとは別の生徒会副会長、佐田タキだ。長く纏めた髪は色素が薄く茶色で、マコトと兄弟だというのもなんとなく解る。目元が似ているんだな、とサトルは思った。マコトに比べれば長身で線が細く、もっと儚げに見える。

「お疲れ。もう終わったの?」

 タキは周囲を優しげに見回してレンへと手を小さく振った。レンは特別それに応えるわけでもなくサトルを指差した。

「消毒してやってくれよ、多分血は出てねえとは思うがな」

 急に、レンの声のトーンが低く感じたがタキは気に留めた様子もなくソファに座っているサトルへと駆け寄った。

「大丈夫だった?」

「……えぇ、まぁ」

「二、三日は寝る時とか風呂入る時とか痛みあるかもしれないけどその内痛くなくなるから。あとちゃんと自分でも消毒しなよ」

 優しげだけど、声はちゃんとした男性なんだな。サトルはタキの笑顔から目を逸らしたまま礼に頭を下げた。タキはダンボールから消毒液とガーゼを取り出すとふとドアへと視線を向けた。


「いつまでそこにいる気なの?入っておいで、キョウイチ」


 タキの声にレンと奥崎がドアへとすぐに顔を向ける。

 サトルは聞いた事のない名前に目を少し丸くした。

 開けられたままのドアの横からマコトのような服の男が都合悪そうな顔で現れた。

 ――とんでもない美形。

 一言で言い切れてしまうほどの印象をサトルは受けた。


「……久しぶり」


 キョウイチ。

 そう呼ばれた男ははにかんでレンと奥崎に笑った。


 奥崎の表情が曇ったことにサトルは何故か不安に駆られた。





 ビルの外へと出ると幾分か風が生ぬるく、そして強く感じた。吹き付ける風はどこか都会の匂いがしてサトルは目を細めた。

 違和感がある右耳を意識しながらも触れるのはやっぱり気がひけて。

 先を歩く奥崎達の後ろを無言で付いて行く。

 できたら本当にもう帰りたい、そう思いながらもタイミングを得ることができないまま。サトルは周囲の和やかな雰囲気に気圧されて、自分が一人でいる嫌な感覚に気分が優れなかった。


 ビルから十分程。

 今度は真新しい灰色のビル。

 看板には学校の校章、橘の文字。

 サトルは不思議に思いながらも人の気配がないビルの中へと入った。奥崎は慣れた足取りで進み、エレベーターに全員で乗り込む。真新しい建物とペンキの匂いが少し目に染みた気がしてサトルは目を軽く擦って階を表示する電光掲示板を眺めた。

 5F。

 エレベーターはゆっくりと開かれると白い空間が現れた。また、壁も床も白一色。さっきと違うのは遠くからはギターの音と話し声が聞こえてくる事。


「……先約あんのか」


 レンはそう言うと小さく舌打ちをして音のする部屋の方向へと歩き出した。その後ろを副会長のタキ、奥崎、キョウイチの順番で付いて行く。サトルは深くため息を吐いてから一歩みんなへと歩き出した。


 窓から見える雑居ビル群。

 晴れた青空。

 薄く敷く雲。

 サトルは奥崎の背中を見ながらようやく自分の耳に触れた。

 痛みはそんなに感じない。

 ただいつもより耳朶が熱く感じた。


「痛むのか」


 急な奥崎の声にサトルはすぐさま顔を上げて首を横へと振った。そうか、と素っ気無く応える奥崎はそう言うとまた前を向いて歩き出す。サトルは耳朶から手を離して、咳払いをした。

 レンがCと書かれた白いドアの前へと立つとドアノブを回して中へと入っていった。

 中からは突然大音響。扉は防音らしい。

 サトルは少し顔を歪ませた。

「なんだよ、やっぱりあんたらか」

 レンの声に笑って応える声。

 聞き慣れた声でサトルは少し目を大きく開いた。

「あ!マッちゃん!!」

 マコトだ。

 髪を学校にいる時よりも派手にセットして黒と赤のダメージが強いTシャツと半パンを着こなしていた。いつもと同じ無邪気な笑顔。

 サトルは心底ほっとしたような感覚に陥った。


「マコト、練習ってここでやってんだな」


 ようやく安堵の声が漏れた。

 そうだよ、と陽気に応えるマコトの手にはギターが握られていた。


「つうことはうちの生徒会長もここにいるってことだな」


 レンが軽くため息混じりに言った。

 だろうね、と優しげに応えるタキ。

 奥崎は着ていた上着を白いイスへとかけるとサトルへと手招きした。サトルは緊張した面持ちで側へと歩いていくと奥崎はすぐさまサトルの右耳を見た。

「……大丈夫みたいだな。今日寮に帰ったらちゃんと消毒してやる」

「大丈夫だ、一人でできる」

「どうせ上手くできないだろが」

「……大丈夫だよ」

 奥崎は少し笑ってサトルの肩へと手を置くと自分の上着を掛けたイスへとサトルを座らせた。

「ここに座ってろよ」

「……あぁ」

 与えられた居場所。

 サトルは正直助かった、と思った。

 周囲を見回してふと、キョウイチの目線が自分へと向けられていることに気付く。サトルが少し頭を下げるとにこ、と優雅に笑って返すキョウイチ。本当に人形みたいだな、とサトルは思った。


「やっとここまで連れてこれたんだ」


 低く擦れた威圧感のある声。

 サトルはそちらへと顔を向けた。

 生徒会長、大塚コウジ。

 長めの黒髪を後ろへと束ねて目を細めてサトルへと笑いかける。

 サトルはまた、頭を下げた。

「どうも、大塚です。コウジでいいよ。えっと松崎サトル君、だね」

「あ……初めまして」

 思ったより小さな自分の声にサトルは困ったように首を傾げた。気が小さくなってるのが解る。どう思われたか少し不安になった。

「キョウイチ、お前辞めたんじゃなかったの」

 コウジの威圧的な声は窓越しに凭れかかって優雅に笑むキョウイチへと向けられた。

 キョウイチは少しだけコウジへと顔を向けて。

「辞めたには辞めたけど別にみんなとの縁は切ったつもりはないから、俺。久しぶりにみんなの顔見に来てなんかダメ?」

「いいや、奥崎たちのバンド、新しいヴォーカルが決まったばかりだ。気まずくないのかと思ってね」

「別に。それはそれ。これはこれでしょ」

 話を聞いて、サトルは居心地が悪くなった。

 自分をスカウトしてきてる奥崎達と前に一緒にバンドをやっていたヴォーカル。しかもこんなに美形で声も優しげにも、艶やかさがあるようにも感じる。サトルは話を流すように誰もいない部屋の角へと視線を向けた。

「俺らは今日は練習しにきたわけじゃないんだ。マツ君にスタジオ見せておこうかと思ってね。会長たちは練習でしょ?」

 レンの問いにコウジとマコトは首を縦に振って応えた。

「流石に練習していかないと、っていうか俺が曲作らないと話にならないからね」

 マコトの元気な意見にコウジは心の底からの優しげな笑みを浮かべながらマコトへと歩いていく。

「マコ、そう言ってくれて嬉しいな。やっぱり大好き」

 そう言うとコウジはマコトをひょいと軽々持ち上げて自分の胸へと引き寄せて抱きしめた。サトルはそれを目の当たりにして自分の目をまず疑った。身長の高い、自分にはない派手な存在感を持った人間が少し動くだけでこんなにも格好がつくのか、サトルはすぐさま目を逸らした。

「バカ、やめろよコウジ」

 いつになく素っ気無いマコトの言葉。

 それでもコウジは微笑んだままマコトを両腕で抱きしめたまま。

「おい、練習かよ、それとも単なるホモごっこか?」

 レンが呆れたように話す。

「お前と一緒にされたくないね、仙崎。お前は本物だろ」

 マコトを抱きしめたままコウジはレンを見下ろして笑った。レンはチッと大きく舌打ちをしてポケットから煙草を出した。


 サトルは徐々に膨れ上がっていく疑問で頭がいっぱいになりそうだった。思わず顔を歪ませて無意識に首を捻る。


「松崎さん、初めまして」


 優しげなキョウイチの声が側に聞こえて。

 サトルは顔を上げた。

 目の前には少し屈んで自分へと笑いかけるキョウイチの顔がある。つられてサトルも場をあわせるかのように笑い返した。

「ホント、みんなの話ってきついよねー、もうヤダヤダ」

「……まぁ……冗談きついかな」

 キョウイチの目がサトルを覗き込むように見つめる。

「冗談?先輩たちは冗談嫌いだよ?」

「……あ、そうなんだ」

 より一層関わりたくないな、サトルはそう思った。

「そんなことも知らないでここまで来ちゃったんだな」

 サトルは下を見たまま少し固まった。

 そう言ってクスクス笑うキョウイチ。

「あ……まぁ……」

 困ったような声しか出ない。

 サトルはキョウイチが苦手なような気がした。

「仙崎先輩とタキ先輩、デキてんだよ。肉体関係もあるらしいけど。マジで知らないの?」

「……初、耳だな」

「ふぅん」

 嬉しそうに笑うキョウイチ。

「俺とね、奥崎先輩も前は色々あったんだ」

 サトルは強張っていく顔をなんとか笑うように意識した。

「まぁ……頑張ってね、松崎さん」

 ポン、と小さく肩を叩かれた。

 サトルは耳の熱さのせいなのか、心臓の音に軽く目を伏せた。

「おい」

 心臓の音を打開する様な奥崎の声。

 キョウイチはすぐ奥崎へと向かって歩いていったのが俯いたサトルの視界で確認できた。

「奥崎先輩」

 一層嬉しそうに聞こえるキョウイチの声。

「……今日は別に練習するわけでもない。お前そろそろ帰れよ」

「解ってるよ、相変わらず冷たい反応。変わってないね、奥崎先輩」

 強引に奥崎の腕へと自分の腕を絡ませるキョウイチ。

「じゃあ送って行ってよ。俺まだ中学生だし、危ないじゃん?」

「……ビルの外までな」

「うん、じゃ俺帰るよ」

 サトルは少し顔を上げて満面の笑みで奥崎にくっついたまま手を振ってくるキョウイチへと笑って応えた。いつもと変わらない無表情の奥崎の横顔。サトルはゆっくりと息を吐いた。


 バタンと閉まるドア。


 レンは部屋の中にある大きな鏡で自分の髪をいじっている。マコトはいつの間にかコウジと離れて手にカップに入ったコーヒーを手にして笑顔でサトルへと駆け寄ってきた。

「マッちゃん本当にヴォーカルやるんだね!なんか嬉しいなぁ」

「……いや、まだ正式には」

「え?そうなの?」

 きょとんとした顔のままマコトは鏡越しにレンへと話しかける。

「ん~……あともう一押しだな、と俺は思ってたんだけどな。……タキ、なんでキョウイチ連れてきたんだよ」

「え?なんか悪かった?」

「……今日で正式にサトル君に承諾してもらおうと思ってたんだよ。なのにお前が余計なことを」

「?そう?」

「……ったく。多分奥崎の気分最悪だぜ?」

「そんな事より聞いてみたいけどね、俺としては」

 コウジの興味の目がサトルへと向けられる。

 こんなとこで?

 サトルは苦笑いを浮かべながら首を小さく横に振った。

「でも俺も聞きたいよ~マッちゃんの歌!」

「ね?マコト」

 マコトへと優しげに笑うコウジ。サトルはゆっくりと首を傾げながらどうにかこの話を逸らせないかとレンを横目で見つめた。それに気付いたレンは困ったように笑っている。


 と。


 ドアが乱暴に開いたかと思ったら出てきたのは奥崎ではなくて見たこともない派手な男だった。金髪の髪をふざけた二つ結い、赤いリボンが飾られている。

「やだーー!!本当に来てくれたのね!マツくーん!!」

「うわっ!!!」

 急に抱きしめられサトルは完全に怯えたような顔で固まった。咽返るほどの香水の香り。声は全然男なのに女口調なのがまたサトルの頭で混乱を招いた。

「だ……だれ?」

 声を少し震わせながらサトルが声を漏らした。

「そいつは俺らのバンドでドラム担当、加藤ヒサシ。コウジと同級生だから俺らの二つ上の先輩だ」

 いつの間にか戻ってきていた奥崎の声にサトルは縋る思いで奥崎へと視線を向けた。それに気付いたのか奥崎はサトルに抱きつくヒサシの肩を無理やり引っ張った。

「あらら、拒否されちゃったわ」

「すいません、こいつ極度の人間嫌いでして」

 ――人間嫌いって俺のことか?

 サトルは意外な顔をしながら相手へそう説明する奥崎の横顔を見つめた。


 そういえば。

 さっきのキョウイチの言葉。

 奥崎と色々あったって。

 サトルはそれがなんなのか、気になった。


「オクさん」

「ん?」

 いつもと変わらない奥崎。

「あのさ」

「どうした?」

「……やっぱいい」

 人に深く関わるなんて。

 サトルは小さく笑って席を立った。

「そろそろ俺帰る。今日はちょっとびっくりだったけどピアス開けてくれてありがとな」

 嬉しかったわけでは決してなかったが一応の礼儀だろ。サトルはそう思って奥崎へと頭を下げた。


「お前」


 奥崎の声。


「ん?」

「ここまで来てこのまま帰れると普通に思ってんのか」

「……は?」

「今日はお前にヴォーカルをやる事を承認してもらうために連れてきたんだ。だからそれが達成されないと全員帰れない」

「??なんでそんなことになるんだよ?」

「実は次のライブまで時間があまりねえんだよなぁ」

 レンが申し訳なさそうに話す。

「だからマツ君にはどうにかOK出して欲しいなぁ~……みたいな?」

 ヒサシがオカマ口調で言いながらサトルを上目遣いで見つめた。

「ヴォーカルなしじゃあ今までの練習も水の泡、要は松崎君、君にかかってるってわけだ」

 コウジが淡々と事務的口調で話しながら手馴れた手つきで煙草へと火をつけた。

「一回やってみればいいんじゃないかなぁ?ね?マッちゃん」

 宥めるようなマコトの意見。

「マコ、それはいい意見かもね。サトル君、一回やってみて嫌だったら次からもうやらなきゃいい。それからでもいいんじゃない?大事なこと決めるんだからさ」

 タキも弟の意見を頷きながら納得した様子だ。

「ちょ……」

 サトルは苦笑いを浮かべながらゆっくりと都合悪そうに奥崎へと目を向ける。奥崎は意地悪そうな笑みを少し浮かべながら手をサトルへと差し出して。

「俺らを助けるも見捨てるもお前次第で、俺らの努力が水の泡になるのか達成できるのかが決まる。お前の好きにしろ」

「お、おま……」

「普通、こういう時って人はどう答えるのが正しいんだ?マツ」

「オクさん!性格悪いぞ?!」

 サトルは悪夢の中にいるような、そんな錯覚に陥った。眩暈が、止まらない。




「それで耳にピアスまで開けられたっつうのかよ!!お前も厄日だな!」

 シノブの甲高い声が浴場に響き渡る。

 第一寮内に設置されている大浴場。

 三十人までは一緒に入れるほどの広さで天井は異様に高かった。別に他に人がいるわけでもないから構わないと思ったが正直五月蝿いとサトルは湯船に身を浸けながら思った。湯気の向こうで前を隠すわけでもなくシノブは体を洗い終わるといつもながらの嫌味な笑みを浮かべながらサトルの隣へと移動した。

「……もう少し小さい声で話してくれよ、神崎」

「ああ、悪かったよ。しかし、お前もオックに随分と気に入られたもんだな」

「知らない。でも脅しだろ?あんな理由急に言われて……マコトもなんかオクさん側についてたし……」

「あいつら根っからバンドマンだからな。そりゃお前の歌声に興味があるんだろうさ~」

 人事のように話すシノブが少し邪魔に感じたサトルは湯を掌で掬うと顔を軽く洗った。


 結局。

 あの場所では答えは出さずにすんだ。


 でも、夜に奥崎が自分へと答えを聞きに行く、と言っていたから。なんか気が重かった。歌なんて。中学校のクラス対抗合唱大会でも口パクで済ましていたのに。人前でマイク持って歌え、なんて。


「で?一応、歌ってきたのか?スタジオで。つうかあそこのスタジオ良かっただろ?学校で金かけてる感じだもんな」

「学校で建てたんだ、やっぱり」

 入り口に書いていた校章、橘の文字。

 入学した先を間違えた、サトルは小さく舌打ちをした。

「歌は……一応一曲だけ」

「みんなどうだった?」

「……さぁ」

「さぁって、お前さ。他人から自分への評価だぜ?さぁってねえだろ?」

「……喜んでたよ」

 答えは今じゃなくてもいい。

 変わりに歌をひとつ歌っていけなんて横暴。

 でも飲み込むしかなかったサトルは言われるがままに歌を歌った。

 緊張と恥ずかしさであまり覚えていない。

 ただ覚えてるのは。

 興奮して満面の笑みで近づいてきたマコトと静かに笑う生徒会長。

 奥崎も、レンも、タキもみんな笑顔で喜ぶ顔。

 ズキ、と右耳が痛んだ。

「そりゃ喜ぶだろうよ。お前の声、素人の俺から聞いてもマジいいもん。多分、オックたちのバンド、以前より良くなるぜ?まぁ、俺の勘だけどな」

 自信たっぷりに話すシノブ。


 サトルはそんなシノブの態度より、奥崎達の以前のバンドがどうだったのか、気になった。

 以前のバンドにはキョウイチがいた。

 キョウイチ。話によればまだ中学生。でも、奥崎と並んだその姿は他を圧倒するものがあったとサトルは思った。自信に満ちて、整えられた綺麗な容姿。自分がその後を引き受けるなんて。尋常の精神力じゃできない、サトルは気分が悪くなった。


「神崎」

「んあ?」

 シノブは手にしたタオルを頭の上へと乗せて軽く目を伏せていた。

「オクさんの前のバンドのヴォーカルの子に会ったよ」

「……なんで?」

 シノブの声が一変してトーンが下がった。

「……なんかマコトのお兄さんの副会長さんと一緒に来てさ。……なんで来たかは知らないけど。いいんじゃねえかな?以前は仲間だったわけだし」

 シノブは黙って聞いているまま。

 こちらに顔も向けない。

「……キョウイチ君だっけ、綺麗な子だったよ」

「顔だけ、だろ?単なる糞ガキだ。俺は正直好きじゃない」

 再度ため息を付いて髪全体をシノブは後方へと指で流した。

「……多分、お前の噂でも聞いて来たんだろうさ、キョウイチは」

 はぁ、と深く吐いたシノブのため息が浴場に響く。

「……そう」

 それなら効果覿面だ、とサトルは小さく笑った。

「だからお前を応援してるってわけじゃねえぞ、俺は」

 シノブは湯船から上がるとタオルを腰へと巻いてさっさと出口へと歩いていった。耳の痛みのせいか、サトルは少し困ったように首を傾げた。キョウイチの顔がやけに鮮明にサトルの目に残った。


 談話室でひとり、目の前のテレビを眺めながら。

 考えるのは奥崎の言葉。

 それからキョウイチの顔。


 サトルは軽く目を閉じた。


「こんなところで寝るな」


 後ろのドアが開いたと思ったら奥崎の呆れたような声にサトルはすぐに振り向いた。風呂上り状態の奥崎は肩にタオルを垂れて、ソファへと深く座るサトルの隣へと自分も座った。

「耳、見せろ。消毒してやる」

 スウェットのポケットから消毒液を出すと自分の使っていたタオルをサトルの耳元へと押し当て手際よく消毒し出した。

 サトルは無言のまま、表情一つ変えられずにただ熱い耳朶が嫌な感覚だった。

 うまく、頭が動かない。

 サトルはゆっくりと指先で自分の下唇をなぞった。

「……どうした」

「……ううん。なんか最近色々あったような気がして……少し疲れた。消毒ありがと」

「あと二日は我慢しろ。その内痛くなくなる」

「わかった」


 多分違う。

 したい会話はこれじゃない。

 サトルは奥崎へと上体を向けて顔を見上げた。


「……あのさ」

「キョウイチのことか」

「………………」


 ダメだ。


 なんか、ダメだ。


 よくわからない。


 サトルは自分の急な変な焦りに困ったように首を傾げた。


「……違うよ、違う」

「……そうか」

「キョウイチ君がなんかした?」

「いや、……話はなんだ?」

「なんか……わからなくなったからいい。ここの学校って俺が思ってるより変わってるんだな、最近わかってきた。バンドとか芸術とかそういうことにすごい力いれてるって俺わかんないで入学しちまったし……ホント抜けてるよな」

「……んなことねえだろ」

「あるさ。俺はみんなと違って普通なんだから。つうか劣ってる側の人間だからな」

「はぁ……?なんだそりゃ」

 奥崎が嫌そうな顔をしてサトルを横目で見つめる。

「つりあわないってことだよ、俺は。奥崎達とね」


 ドク、と嫌な鼓動が打ち始めた。


「だってそう思わないか?俺は」

「マツ」

 急に饒舌に早口で捲くし立て始めるサトルの様子に、奥崎が声を少々荒げた。

「なに?なんかした?」

「……少し落ち着け。どうかしたか……?」

「別に、いつも通りだよ。いつもと一緒。俺は変わらないよ」

「だから落ち着け」

 肩からぐい、と引き寄せられて顔が奥崎の胸元へと押し付けられた。

「顔、真っ青だな、お前」

「……あ、ごめ……」


 嫌なくらい耳をつく自分の心臓の音なのに。奥崎の胸元で打つ心臓の音が少しサトルの耳に届いた。

 自分の鼓動を追いかけるように強く鳴る奥崎の心臓。


 サトルは深く深呼吸した。


 キョウイチの顔。

 話された言葉。

 耳に残る声。


 何故か泣きたくなりそうになる自分の瞳。

 全てが消えればいい、そう思って目を伏せた。


「心臓の音、嫌いだって言ってたな」


 奥崎の言葉にサトルは少しだけ目を開けた。


「……あぁ」

「昔からか」

「……分からない。気付いてからずっとかな」

「何に?」

「自分の心臓の音に。好きじゃないんだ」

「……五月蝿いのか」

「小動物でも大きなライオンでも俺とか、オクさんとか、みんな生まれて死ぬまでほぼ同じ数の鼓動を鳴らすんだって昔なにかの本で読んだんだ。それから……?なんかダメでさ」

「……俺、バカだからわからねえな」

「……何言ってんだよ」

 奥崎の言葉にサトルは少し笑った。

「だから……緊張とかそういうのが嫌い、なんだろうな俺……こんなクソでもまだ生きてなきゃならない」

 穏やかに、静かにサトルは息を吐いて、

「俺は……なんかダメなんだよ」

 静かに落ち着いた声で少し笑った。

 奥崎の心臓の音を聞きながらサトルは目を伏せた。


 いつの間にかテレビは消されていて、しんと静まり返った談話室で抱き合って。


「なんか、変な事言ってごめん……ちょっと疲れてるんだと思う」

 らしくない。

 他人に甘えきってる、そんな感じの自分に嫌気がさしてサトルは奥崎から少し体を離した。奥崎はサトルの顔を真っ直ぐに見据えて目を細めて静かに口を開いた。

「悪いな」

「オクさんのせいじゃないよ」

 ゆっくりと小さく笑みを浮かべてサトルが首を横に振る。それに奥崎は少し怪訝そうな顔をしてサトルを見据えるように声を低く出した。

「俺のせいだとは思ってねえよ、なんで俺のせいになるんだ?」

 意外な反応にサトルは一瞬表情が固まるも少し悩みながら奥崎を見つめ返す。

「……じゃあなにが悪いって事だよ」

 サトルの問いに奥崎は一旦、目を伏せてから深くため息をついて、それからゆっくりとまた目を開けた。

「お前の答えを聞こうと思ったが……止めるわ」


 ――止める。


 奥崎の言葉にようやくバンドの件を納得してくれた、とサトルは少し気持ちが楽になるような気がした。

「お前がどうあれ、お前にはヴォーカルやってもらう」

「……ちょ……なんでだよ……」

 思いもよらない決定事項にサトルは躊躇して奥崎へと少し声を荒げた。が、奥崎もいつもと変わらず、無表情のままサトルを見据えた。

「……多分お前の望んでるものだと思ったからだ」

「俺が望むもの?待てよ。さっきの話聞いてたか?俺は緊張とか」

「劣等感とかか?ああ聞いた、苦手だとな」

 サトルの言葉を遮って奥崎が声を大にして口を挟む。サトルの顔が歪むもつかの間。ぎゅ、とさっきよりも奥崎へと引き寄せられる。

 サトルは戸惑いながら奥崎の首筋へと目を向けた。

 いつもより確かに鼓動は速い筈なのに。

 サトルは不思議な感覚に少し恥ずかしくなった。

「お……オクさん!」

 両手で奥崎の胸元を押し離そうとするもびくりとも動かない。

「離してよ、意味わかんねぇ」

「わかんなくていいんじゃねえの?何か今解らなきゃいけねえ事でもあんのか」

 奥崎はそう言うと片手でサトルの顎を捉えて自分へと顔を向けさせ、動揺するサトルを目の前にして奥崎は小さく笑った。


「引き剥がしてやるよ、お前が苦手だと思うその感情を。劣等感もなにもかもぶっとばすだけの場所にな」


 強い口調で伝えられる奥崎の言葉。

 サトルは動揺したまま、目を逸らすこともできずただ奥崎の瞳を不安そうに見つめた。


 心臓が

 心臓が五月蝿い。


 サトルは少しだけ、視線を奥崎から逸らすと強引に唇を奪われた。

「っん!!」

 顔を固定され逃げることもままならないまま、奥崎の舌がなぞるようにサトルの下唇をゆっくりと舐める。背筋に走る電流のような熱いものにサトルは背中を反ると全身の力で奥崎の手から逃げた。それを無表情のまま見つめる奥崎。


 談話室に響くサトルの荒い息。


「その心臓の音諸共、お前を俺が連れて行ってやる」


 サトルは強い眩暈に自分の立っている場所がわからなくなった。

 ただ目の前に奥崎の存在が、ある。

 荒く呼吸し続ける息。

 サトルは感触の残る唇を指先でなぞった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る