つながる扉

真乃晴花

つながる扉

 ふと、気になった扉があった。隠れるように、だが、異様な雰囲気を醸している扉だった。そこから出入りする人間を見たことが無い。私は、その扉に近づいた。扉の材質は木で、黒く塗られている。ドアノブは真鍮で、その形は円柱。今では、古い公衆便所でしか見なくなったノブだ。全体的に古い。その扉がある建物は、コンクリート造の五階建てのビルで、やはり古ぼけている。サッシの形も古い。扉は、そのビルの一階部分の狭い路地に面したところに作ってあった。裏口というやつだろう。だが、表通りから見える位置にある。いや、かつては、見えなかったのだろう。隣にあったビルが取り壊されたからだ。その土地はフェンスで囲まれたものの、扉をすべて隠すには至らなかった。扉のあるビルにも、もはやテナントは入っていない。廃ビルだった。

 ちょっとした好奇心だった。私は、一人になれる空間が欲しかったというのもある。タダで、雨風が凌げるのならば、それだけで良かった。後で、安い椅子やテーブルを買ってくれば良いのだ。そこで雑誌や何かを読んだり、適当に飲み食いしたり、寝たり、そういうことが数時間できれば良い。無論、鍵が掛かっていたら意味はないのだが。ものは試しである。多少、周りの視線が気になったが、そしらぬフリをして、私はその扉へ近づき、ノブを回そうとした。

 だが、その前に、扉に釘か何かで引っかいたような文字があった。

『ノックを二回し、その数秒後に扉を開けよ』

 数秒後とは、曖昧なことである。

 私は、扉を二回ノックし、多少せっかちなのもあって、三秒後に扉を開いた。



 そこは、一見普通の料理屋の厨房だった。コック帽をかぶったふくよかな男が手を動かし、料理をしている。その男が、私に気がついて、手を止めた。

「おいおい、みすぼらしい格好をして、どうしたんだ」

 私は、自分がそんなにみすぼらしい格好をしているのかと、服を見やったが、別段変わった様子はない。いつもの、見慣れた服である。どこもほつれてはいないし、ボタンが取れていたり、なんてこともない。

 そこで、ふと気がついた。

 ここは、廃ビルのはずである。

「あの、ここは……」

「なんだ、迷子なのか? どこへ行きたいんだ」

「あ、いえ」

 私は、どうも失礼しましたと言って、出て行こうとした。

 入ってきたのと同じ扉のノブに手をかけて、押し開く。

 しかし、開けたとたんに冷たい風が顔を撫で、私は目を細めた。

 そして、目を開くと、そこには、一面の雪が敷きつめられた庭があった。

 私は、目を瞬かせた。

 おかしい。

 この扉を開けたなら、まず緑のフェンスが映るはずだ。

 それだけではない。

 雪など、降ってはいなかった。まだ、冬になる前の、秋だった。

「おい、いつまでも開けられちゃあ、寒いだろう!」

「ああ、すみません」

 私は、慌てて扉を閉めた。そして、今度こそここが何処であるのかを聞こうとした。だが、「あの」と口からでた音は、男の声に飲み込まれた。

「まったく。それで、どこへ行きたいんだ。まあいい、忙しいんだ。ちょっと手伝ってくれ」

 男も、私と同様に、せっかちなようで、こちらの話など聞かずにどんどんしゃべる。

「この皿を、大広間に出しといてくれ」

 そして、また私は気がついた。この男は、日本人ではなかった。金髪に、青い瞳をしている。流暢な日本語だったので、私は気がつくのが遅れたのだ。

 男が指差した皿は、両手を使わなくては持てないほどの大皿で、同じ形をした繊細で小さな料理がいくつも乗っているものだった。

「大広間、分かるか? ここを出てだな、ずーっとまっすぐ行ってよう、兵隊さんが立ってるドアの、ひとつ手前のドアから入れ。そこが、大広間の端だからよう。まあ、誰かしら気づいて、中央まで運んでくれるさ」

 兵隊という言葉に違和感を感じた。だが、私はまだ、警備会社の人間のことだろうと、思っていたのだ。

 男が急かすので、私はその皿を持って、料理所から出て、まっすぐ進んだ。

 少し進むと、確かに、人が立っているのが見えた。

 そして、私はまた気がつくのである。

 やけに長い廊下だった。突き当たりが見えないのだ。

 あの廃ビルが、これほど巨大な空間を持っていたはずが無い。いくら安い土地とはいえ、都市から離れた郊外の街に、これほどの土地を確保する意味はない。

 不思議に思いながらも、私は進んで行った。

 立っていた人間は、確かに兵隊のようだった。小脇にライフルを携えている。ちょっとレトロな、祭典や儀式なんかで見るような軍服だった。

 近づくにつれ、クラッシックのような音楽が聞こえてくる。私は、一体どんな催し物が開催されているのだろうかと思いながら、コックに言われたとおり、兵隊の立っている扉より手前の扉を開いた。

 音楽が大きくなる。私は、驚いた。

 そこにいた人間は、まるで中世のヨーロッパで着ていたようなドレスを着ていて、手にはまた派手な扇が握られ、その指には下品なほどの大きな宝石のついた指輪があった。そして、やはり、日本人らしい人物は見当たらなかった。

 しばらく、ぼうっとしていると、いわゆるメイド姿の女性が近づいてきて言った。

「あなた、変わった格好をしているのね? チャイニーズ? まあ、いいわ。ありがとう、それ、預かるわ」

 そう言って、女は私の手から料理を持っていった。

 私は、しばらくそこで突っ立ったまま、この変な催し物を眺めていた。

 すると、先ほどのメイドがまた近づいてきた。

「あなた、まだここにいたの」

「ああ、ええ、あの、これは一体、何なのですか?」

「え? なんなのって? あなた、一体どこから迷い込んできたのよ」

「ええと、あの厨房にあるドアから」

「? どういうこと? あなた、もしかして庶民? えー、でもチャイニーズよね? 貿易会社の人でしょ?」

「いえ、庶民です。日本人です」

「? ニホンジン?」

 彼女は首を傾げる。そして、目線だけで、私の全身を下から上まで見ると納得したように言った。

「そうよねえ、お客人が、料理を運んでくるなんてこと、ないものねぇ」

 そう言って、笑った。

「いやあねえ、人の良さそうな顔をしてるから、なんか庶民って聞いてもピンとこないわ」

 私の顔は、美形でもなんでもなく、しかし、醜いわけではない。だが、精彩に欠けるこの顔が、ここでは人の良さそうな顔に見えるということだろう。

「もしかして、おなか空いてる?」

「ええ、少しは」

「いらっしゃい、こっちにくれば、残り物だけど、食べられるわよ」

 彼女は、そう言って、私の手を引いた。そして、彼女らの控えの間に連れて行かれたのだ。

 その部屋に入ったとたんに、私は人気者になったようで、あれこれと質問されては、食べたり飲んだりを繰り返した。

 ここの人間は、誰もが私を歓迎してくれた。庶民だと言っても、とても気安かった。食べるのに困りはしなかった。ずっと、飲んで、食べて、おしゃべりをして、たまに雑用を手伝った。人と関わるのが苦手だったというのに、私はすっかりここの人間慣れて、打ち解けていた。これまでの人生で、一番楽しい時を、私は何百時間と過ごした。

 そういえば、家族はどうしているだろうか、と思った。何の連絡もしていない。流石に、行方不明で警察に届けられているのではないかと、考えた。

 だが、戻りたいとは、思わなかった。まだ、この時は。



 やがて、ここに来てからというもの、私は、外に一度も出ることなく、一年が過ぎようとしていた。流石に私は、あの扉のことが気になって、料理所に入り浸るようになった。なにかにつけて、扉を開け閉めするのだ。いつか、緑のフェンスが見えるかもしれないと。しかし、そんなことはなかった。

 私は、ある仮説を立ててみた。

 あの扉に書かれていた『ノックを二回し、その数秒後に扉を開けよ』というのは、今私がいる世界か、また別の世界かの誰かが、そのノックの音を聞いて、扉を開けるためなのではないかと。そうすることで、あちらの世界とこちらの世界が繋がり、人間が入れ替わるのではないか。

 ならば、またあちら側に戻るには、あの廃ビルの扉を開く人間がいないことには、帰れないということになる。

 そう思ったとたん、私はあの薄汚れた空気の、錆びついた街が恋しくなった。

 私は、ノックを二回し、数秒後に扉を開いてみた。

 だが、そこには、手入れされた芝生の庭があるのみ。

 やはり、あちら側から開かれないと、行き来はできないようだ。仮説ではあるものの、私は、そうであると、確信していた。

 嫌な考えが、頭を過ぎる。

 もし、あちら側の扉が壊されたら、どうなるのだろうか。

 隣のビルはすでに壊され、あの扉のあった廃ビルも、いつか取り壊されるだろう。

 もし、そうなったら、私は二度と、あちら側には帰れないのではないか。

 私は、扉がノックされる日を待ち続けた。

 しかし、私は結局、あちら側から叩かれるノックの音を聞くことはなかった。

 私は、帰ることが、出来なかったのである。これからも、帰ることはないだろう。

 こちら側での私の人生が、どんなものであったかはご想像にゆだねることにする。

 なにか言えるとしたら、こちらの住人は、ほんの少しおかしいということだ。色々と質問をよこすくせに、私の話はまるで聞かないのである。どうでも良いと、言わんばかりに。楽しければ、それで良いのだと、彼らは一年中、自身を着飾ったり、歌って踊り、美味しいものを食べたり、飲んだり、好きなことを自由にするのである。誰も政治の話はしないし、妙なことに、誰も死なないのである。気づかないうちに誰かがいなくなっていたとしても、彼らは気がつきもしないし、話題にもしない。どこか、現実味がないのである。明らかに、毎日陽が昇り、季節は廻ってくるのだが、毎日が、同じ日々なのである。そこは、飽きるほどに、自由と幸福によって支配されていた。

 そして、不思議なことに、私は自分の意思でもっても、外に出ることは叶わなかった。不自然なほど自然に、何かによって阻まれるのである。こちらの住人も同じだろう。また、誰かが増えることもない。訪れることもない。だというのに、食べるものは尽きないのである。

 私は、これから、もうひとつの可能性を試みようとしている。

 尽きることのない赤い飲み物と、無限にある食糧の出所を調べるのである。

 もしかしたら、帰れるかもしれない。

 しかし、それはまた別の世界かもしれない。今度は、慎重に、扉のノブからは手を離さないほうが良いだろう。


      おわり

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つながる扉 真乃晴花 @10nenmanoriko

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