放課後の化学準備室と焦燥
例えばもしも、今とは違う出会い方をしていたなら。
この関係は、どんなふうに変わる事が出来ただろうか。
ガタガタンッと狭い室内で音が立つ。
力を込めた爪先は、ゴムスリッパがきゅっ、と床に擦れた。
中途半端にカーテンが閉められた放課後の化学準備室。
空気の入れ換えのためにほんの少しだけ開けられた窓からは、グラウンドで熱心に練習する野球部の音が響いてきた。
ふわりと舞い込んだ少し強い風に、小さめの机の上に置かれていた答案用紙が微かに浮いた。
「ふ…ん、ふぁ、ん あ」
その薄い身体を押し付ける度に、後ろに並んだ硝子棚が揺れる。
自分より少しだけ背の低い彼のために、無理に腰を折って唇の高さを合わせる。
重ねた顔にかかる眼鏡が邪魔だったから、指紋がつく事も気にせず、鷲掴みにして外してしまった。
どうせ伊達眼鏡なのは知っている。
手の中に握り込む。
半袖シャツから伸びる白い腕は、7月の気温と湿度と、あと多分、俺とのキスで興奮して、うっすらと湿っていた。
「……裕紀さん、」
「こら…せんせ、って、呼んで…ぁ、っ」
半ば無理矢理のキスでどろどろに溶けきった表情になっても、彼はやっぱり「先生」で、自分はやっぱり「生徒」だった。
「なぁ、拓也…ここ、薬品が危ないから……」
「なら余計、じっとしてて」
「っ、……」
スラックス越しに脚を、内股を撫で上げる。
息を乱してくれる事に安堵して、太股を揉む指に強弱をつける。
綺麗にアイロン掛けされた白いシャツを、本当はぐちゃぐちゃに皺が寄るまで乱したかった。
ネクタイに手を掛けたところで、いつもその白い指に止められてしまう。
「駄目だよ、これ以上は」
唾液の糸が途切れないうちにまたその口を塞いでも、それ以上先を許して貰う事はなかった。
「学校だから……」
「外では会ってくれない癖に」
「ごめんな」
焦燥感に駆られて、いつもみたいにすぐに身体を離す事が出来ない。
ネクタイの結び目から手が離せない。
もう一度キスがしたい。
出来ればもっと先までしたい。
「あんまり長居すると、怪しまれるよ……」
「誰にだよ」
啄むようにでも軽く触れると、少なからず吸い返してくれるから、どうしても期待してしまう。
「彼女が、待ってるんじゃ」
「誰も待ってないよ。彼女なんか居ない」
「君がひとりで居る事自体が不自然だ……」
「裕紀さん」
「先生って……ぁ、」
「明日から会えなくなる」
明日は、終業式。
「ばかだな、明日は会えるよ」
「でも触れない」
「夏休みが終わったら、また会えるだろ」
「先生に会えないなら、夏休みなんか要らない」
「子供みたいな事言って」
こっちの気なんか知りもしないで、クス、と小さく笑った彼は、腕を伸ばして俺の髪を撫でた。
そうされると仕方がないから、俺は持ってた眼鏡を傍の机に置いて、風が通る程度に身体を離した。
「補習で学校来るんだろ」
彼はさりげなく俺の身体を避けて、舞いそうになっている紙の束の上に、横に置いてたビーカーを乗せた。
「でも化学は補習ないんだろ」
「学校には居るよ。顔は見れる」
「耐えられないよ。好きなのに」
「うん。ごめんな。でも僕はまだ、君に好きだって、言ってあげられない」
面と向かって改めて言われるとやっぱり悲しくなる。
そんな事は分かってるけど、どうしようもないのに。
「あと一年半、かぁ」
「卒業したら、」
「君の制服姿、見られなくなっちゃうな」
「絶対、」
「寂しくなるなぁ」
「ずっと一緒に居て、先生」
「……ちゃんと待ってるから。大丈夫」
やっぱり離れてるのが寂しくて、もう一度彼を腕の中に引き寄せた。
学校に居る間は、ずっと「先生」と「生徒」で。
俺は越えてしまいたいけど、彼には越える訳にはいかない壁で。
「いっぱい触るからな」
「良いよ」
「嫌だって言っても、絶対止めないからな」
「卒業したら、な」
「遠いよ」
「大丈夫だよ。転勤したらごめん」
「その時は追い掛けて転校してやる」
「出来ない癖に」
くすくすと笑うその柔らかい表情を、明日から独り占め出来ない。
夏休みなんか要らない。
毎日休まず通うから、短縮して早く卒業させてくれ。
早く独り占めしたいんだ。
当たり前のように隣に居たいだけなんだ。
「補習、ちゃんと受けるんだよ」
「毎日職員室に顔出すぞ」
「はは、迷惑だなぁ」
「先生」
「なに」
「裕紀さん」
「……なに、拓也」
「好きだ」
「うん。知ってるよ」
暑苦しいくらいぴったりと引っ付いて、それでも足りない。
でも今はこれ以上埋められない。
「もっかいキスしたい」
「コーヒー飲んで帰る?」
「熱いから要らない。……ああ、口移ししてくれるなら要る」
「何言ってるんだか」
「けち」
「違うだろ。僕が君にコーヒーを煎れてあげるんだから、君が僕に口移ししてくれないと」
「……そういうとこ狡いよな」
「夏休みの予定は?」
「毎日補習」
「はは」
熱いコーヒー飲んだら、また汗出るだろ。
でもまだ職員室には帰したくないから。
飲んだら諦めて帰るから、もうちょっとだけ、俺のもので居て。
換気、と言って窓を大きく開けると、夕方の少しだけ乾燥した空気が部屋に入ってきて、重いカーテンを派手に押し上げた。
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