第三話

 青雲は燕雀について、何も知らない。

 出会った時の印象も薄く、ここ数日は百花園にやってきていたものの、燕雀はたいてい玄鳥とともにいて、自己主張がほとんどない男だった。

 少なくとも、こんなことをしでかす男だとは思えなかった。女性を殴るような人ではないと思っていた。

 彼から危険らしい危険を感じることなど一度たりとてなく、香雪にも真摯に仕えているように見えた。

 そう見えていただけなのだろうか。

 冬家や城から増援を呼んでいる暇はない。香雪の身に危険が迫っている可能性が高い。

 ……もしかしたら、既に手遅れということだってありえる。武官としての経験則からそんな嫌な考えが浮かんで、青雲は奥歯を噛み締めた。


 ――助ける。必ず、助ける。


 何度も自分に言い聞かせ、手綱を握る。

 青雲は春家の邸に着いてすぐ、門の内側で倒れている玄鳥を見つけた。

 ひやりと額から汗が流れる。馬から降りると倒れる玄鳥へ駆け寄った。

「玄鳥殿!」

 玄鳥は頭から血を流していた。花梨は腹を殴られたと聞いたが、この状況からして玄鳥は後ろから殴られたのだろう。

「だ、大丈夫……です」

 玄鳥は目を開けると、痛みに顔を歪めながらも口を開く。

 意識が戻ったことにほっと息を吐きつつ、懐から手巾を取り出して応急処置をする。

「傷口を押さえてください。既に随分血を流している。……それで、香雪さんは……?」

「燕雀さんに、連れて行かれて……邸の外か中かも、わからないんです」

 申し訳ありません、と玄鳥は小さく呟いた。謝ることではない、香雪の身を案じているのは玄鳥も同じだ。

 香雪は。

 香雪はどこに。

 冷静に考えようとすればするほど、不安とともに焦りも大きくなる。

「香蘭さんの姿を見たりしてませんか? もしかしたら、何か――」

 知っているかもしれない、と続けようとして、青雲は言葉を飲み込んだ。

 邸の雰囲気が違う。いや、変わったのか。

 日が暮れていく。空は真っ赤に染まっていて、それがまるで空に血が広がっているように見えた。

 いつもと変わらない光景が、不吉なものに見える。空の赤はみるみるうちに夜闇に飲み込まれ、夜が迫ってきていた。

 幽霊と鬼は纏う雰囲気が違う、と香雪は言っていた。

 その時、青雲にははっきりとわからなかったが、今この瞬間、わかったような気がする。

「……香蘭さん?」

 春香蘭はたおやかでうつくしい、まさに花のような人だった。

 しかし青雲の目に映ったものは、もはや『春香蘭』などではなく。

 毒々しい赤や紫のたくさんの花が全身に咲いている。

 は徐々に人の形をなくしながら、悲鳴のような声をあげていた。



 香雪は、理解できなかった。

 どうしてこんなことになっているのか。どうして燕雀がこんなことを言い出したのか。

 この男は、こんな顔をする人だったのだろうか。

「……何を言っているんですか」 

 国を滅ぼす?

 なんのために?

 香雪には何ひとつ理解できない。なぜ燕雀は香雪に同意を求めてくるのかさえ、わからなかった。

「色持ちかどうかなんてことで帝を決めるから、あんな愚かな男が帝になる。こんな国は壊して、もともとの四国に戻った方がいいんです」

 そんな遥か昔にあった国を取り戻したところで、どうしようと言うのか。

 色持ちかどうかなんてことで。

 その気持ちはわからないでもない。香雪だって、好きで金の髪を持って生まれたわけじゃないし、翡翠の瞳で生まれたいと願ったわけでもない。

 生まれた時に将来が定められる。しかしそれは、色持ちという伝統を捨てたところで変わらない。帝の子は帝に。花守の子は花守に。おそらくそうして形を変えて受け継がれていくだろう。

 そしてそれは、悪いことだけでもないはずだ。少なくとも香雪は、定められた将来を受け入れて花守としての務めに真摯に向き合っているつもりだった。

「あなたの言う帝は先帝のことでしょう、陛下は――」

 珀凰は違う。

 香雪は知っている。彼は色狂いの先帝を毛嫌いしている。食えない顔をしながら、その身を削って朝早くから夜遅くまで執務をこなしている。

 少なくとも珀凰は先帝のようにはならない。香雪はそう思っている。

「変わりませんよ、あの男の血が流れているんですから」

 しかし燕雀は、聞く耳を持たない。

 むしろ珀凰を擁護する香雪に顔を顰めている。どれほど香雪が言葉を尽くしても、燕雀には届かないのだろう。

 砂の中から小さな宝石を探そうとしているようなものだ。砂をすくっても手のひらには何も残らず、ただ無意味にさらさらと砂が流れ落ちていく。


「……ああ、うつくしい花ですね」


 燕雀がぽつりと、呟いた。

 声につられて香雪は顔をあげる。冥王花の植えられた鉢植えは、暗い部屋の中でもはっきりと見えた。

 ゆっくりと開いていた花弁が、ついに咲ききった。

 透き通るような白だった。暗がりの中で淡く光るような白。触れることを許されぬ処女雪のような、穢れなき色。

 ――それを。

「でも、香蘭様には相応しくない」

 燕雀は乱暴に冥王花を引きちぎると、その足で踏み潰した。やわらかな花弁は、一瞬にしてぼろぼろになる。

「やめて!」

 香雪の悲鳴が部屋の中に響く。

「香蘭様には、やはり蘭の花が相応しい。気高くうつくしく、芳しい。こんな陰気な花はいけませんね」

「やめて、その花がなければ――!」

 燕雀を止めようと身を乗り出すが、手は縛られたままだ。体勢を崩して香雪は倒れ込む。

「ええ、この花がなけらば冥王はこの国に災禍をもたらす」

 ぐしゃぐしゃになった冥王花を拾い上げると、燕雀は蝋燭の火にくべた。あっという間に花は灰になってしまった。


 どろりとした悪寒が迫ってくる。

 閉ざされた半地下のこの場所にさえ、肺を汚染するような邪気が舞い込んできた。


「母さん……!」

 香雪が泣きそうな声で叫んでも、母には届かない。

 幽霊だった香蘭の気配は消え失せて、鬼となったあとの気配すら、邪気を取り込んで壊れていく。その様子が、目に映らなくとも嫌というほど香雪にはわかった。

「ああ、やはり。香蘭様の憎しみが邪気を集めているんですよ。あの方は、帝も、国も、許してなどはいない……!」

 そうかもしれない。

 憎しみが消えないから、七年経ってもまだ地上に留まっていたのかもしれない。

 ――けれど。


「母さんは、たとえどんなに憎くても罪のない民を巻き込んでまで復讐しようだなんて考えたりしない……!」


 鬼となり、冥王となり、志葵国を滅ぼす。こんなやり方では、なんの関係もない民に死者が出る。

 花守は花を育て、死者を慰め、都を加護する。それが定められた務めだ。

 香蘭は花守であることを誇っていた。花守としての生き方を香雪に何度も言い聞かせてきた。

 花守としての誇りを汚されないために。

 そのために自ら死を選んだ。

 そんな彼女が、こんな形で憎しみを晴らそうなどと思うはずがない。

「ああ、やはり――」

 ぽつり、と声が落ちる。

 昏い声だった。

 その声に香雪が震えた瞬間。

「ん、ぐっ」

 大きな手が香雪の細い首にくい込んだ。握りつぶすように力を込められると、気道が狭められ息が出来ない。

 見上げた先の燕雀の黒い瞳が、闇を凝縮したもののように澱んで見えた。

「あなたにも、あの男の血が流れているから――」


 そうなんだろうか。

 やはり父親は、先帝なんだろうか。

 香雪がこの世で最も嫌いな男。

 その男の血が、この身体にも流れているんだろうか。


 息苦しさに、涙が滲む。酸素を求めて口を動かすが、肺はまったく満たされない。

 視界が掠れてきた。

 抵抗するにも、手に力が入らなくなってくる。

 こんなところで。

 こんな形で。

 香雪は、死ぬんだろうか。


「――香雪!!」


 名前を呼ぶ声とともに、大きな音が飛び込んでくる。

 もう駄目だと香雪が意識を手放しかけた時、唐突に酸素が戻ってきた。

「はっ……は、はぁ……」

 急速に身体が酸素を求める。くらくらと眩暈がして、身体がうまく動かせない。

「落ち着いて。しっかり息をして」

 背中を撫でるあたたかい手に、香雪はひどく安堵した。

「……青雲、さん」

 現実だと確かめるように名前を口にする。

 呼ばれた本人は、目が合うと香雪を安心させるように微笑んだ。


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