第二話
思った以上に家で引き止められてしまい、青雲が百花園に戻ってきたのは間もなく日が暮れるという刻限だった。
急いで百花園に戻るために青雲は馬を走らせる。
今夜は勝負の時だ。それに遅れることなど許されない。
しかし百花園に着いて早々、青雲の目に飛び込んで来たのは地面に倒れる花梨の姿だった。
「花梨さん!?」
青雲は慌てて駆け寄って花梨を抱き起こす。見える範囲に怪我はないようだが、明らかに異常だった。百花園には他に人がいないようで、静けさがやけに際立っている。
「せ……うん、さま?」
何度か名を呼びかけると花梨が目を覚ました。青雲はほっと安堵しながら起き上がる花梨の背を支える。
「いったい何があったんですか」
問いかける声が自然と低くなる。
「燕雀さんが……お腹を殴ってきて、それで、意識が……」
「燕雀殿が……?」
けほ、と小さく咳をして花梨は頷く。
予想すらしていない人物の名に、青雲は驚いた。
「昼間、香雪様が邸に行くとおっしゃって、燕雀さんと玄鳥と一緒に出かけたんです」
花梨は徐々に意識がはっきりしてきたのだろう。まだ痛む腹を撫でながら青雲がいない間のことを語り始めた。
「……春家の邸に?」
どうして、という疑問と、何が起きているのかという焦りが胸のうちに渦巻く。
香雪は、香蘭に会いに行ったんだろうか。彼女を冥界へ送るために?
「……それから少ししたら燕雀さんだけが戻ってきて、それで……」
花梨は突然殴られたのだという。
太陽はそろそろ西の空に沈む。
この時刻になってもまだ百花園に戻ってこないというのは明らかにおかしい。玄鳥はまだしも、香雪は今夜がどれだけ重要な日かわかっているはずだ。
「香雪様は? いないんですよね……!? どうしよう、何かあったんですきっと……!」
燕雀の行動といい、青雲が不在のうちに香雪の身になにか起きているのは間違いない。
やはり、傍を離れるべきじゃなかった。
「落ち着いてください。俺が春家の邸に行ってみます」
興奮する花梨を落ち着かせると、青雲は乗ってきた再び馬に跨る。ともかく急いで香雪を見つけなければ。
「香雪様を、お願いします……!」
今にも泣き出しそうな花梨の声を背に、青雲は日が暮れ始めた街を駆け抜けた。
*
香雪は手首を縛られ、邸の一室に閉じ込められていた。
隠し部屋というのだろうか。陽の光の届かない、半地下の部屋だ。好意的に考えれば万が一の時に身を隠すための部屋。考えたくないが、そうでない場合はあまり良い用途には使われない部屋だろう。
燕雀はこの部屋に香雪を放り込むとしばしどこかへ行っていたようだが、つい先程戻ってきた。
灯りとなるのは頼りなさげな蝋燭だけ。窓もないせいで時間の経過がわかりにくい。燕雀が不在の間、どうにか脱出できないものかといろいろ試したが、そもそも内側からは開かないようになっているらしい。
「……どういうつもりですか、燕雀さん」
香雪は燕雀を睨みつける。
「それはこちらの台詞ですよ、香雪様。なぜ娘のあなたが、香蘭様を殺そうとなさるのですか」
「……殺すだなんて……母さんはもう死んでいます」
死者を殺すことなんてできるはずがない。燕雀の言い回しに香雪は顔を顰めた。
「ええ、そうですね。しかしあなたがなさろうとしているのは、殺すことと同義です。香蘭様はまだ地上にいるのに、二度目の死を与えようとしている」
「鬼に成り果てるよりずっといいでしょう!?」
たとえそれが永久の別れになったとしても。
本来、命の灯火が消えたときに別れを迎えているはずなのだ。幽霊として彷徨う姿が目に映る、会話ができてしまう、だから相手がまだこの世に存在していると思ってしまうだけで、本来はもう地上にいるべき者ではない。
死した時に、世界は隔てられた。見鬼の才を持つものは、それをきちんと理解しなければならない。
「鬼であろうと、あの方であるならかまいません」
「……正気ですか」
姿形が変わってしまって、自我を失ってもいいというのか。そんな状態でも燕雀にとっては香蘭であると言えるのだろうか。
ここは春家の邸内だ。
なぜ香蘭は姿を見せないのだろう、と香雪は唇を噛む。
香雪の言葉は燕雀に届かない。彼にとっての唯一無二である、香蘭の言葉でなければ。
邸に来てからずっと蘭の香りがしている。これは、香蘭の気配なのだろう。澄み渡る凛とした空気と、常人には感じられぬ香。それが香雪には母の存在を示すすべてだ。
「……そろそろ日暮れですね」
ぎくり、と香雪は身体を震わせる。
日暮れ。夜になってしまう。
冥王花が咲いてしまったら、冥王が現れる。そのときに花を捧げなければ冥王が消えることはない。こんなところに閉じ込められている場合ではないのだ。
「せっかくですから、一緒に鑑賞しましょうか」
燕雀はそう言いながら、ひとつの鉢植えを部屋の中に持ち込んできた。
それは――
「……なんでそれを……!」
冥王花だった。
それは、百花園の温室にあるはずのものだ。
「『新月、あるいは満月の夜に咲く。色は白、花弁は大きく広がる。葉は大きい。その花の名は冥王花』」
「どこでそれを……」
「おかしなことをおっしゃる。あなたが読んだ記録は私が運んだものですよ。記録の一部は抜き取っておきましたけどね」
花の記録がしっかりと残っていたのに、色や形についての記述がなかったのはそのせいだ。
燕雀にとっての花守は、春香蘭のみ。
しかし、香雪は彼を信用していた。燕雀は香雪を害したりしないはずだ、裏切るようなことはないはずだ、と。
冥王花がゆっくり、ゆっくりと蕾を綻ばせる。
大きく広がる白い花弁が、暗がりに光を与えるようだった。
咲く。
咲いてしまう。
息を飲み、香雪が冥王花に注目していたときだった。
――香りが変わる。
凛とした、芳しい蘭の香りが掻き消える。幽霊としての気配が薄れていき、それは――
「あなた、何をしたの!?」
春家の邸から、鬼の気配がした。
ありえない。
天花がある春家の敷地内で、こんな急激に変化するはずがない。それなのに。
「春家の加護を壊しただけですよ」
「どうして……!」
「冥王とは、最も気高く最も強い鬼が溜まった邪気を吸い上げて変貌するものらしいです」
燕雀は、香雪の記憶にはない資料を持ち上げて見せてくる。意図的に、香雪の目に触れないようにしていたのだろう。
「花守が鬼となったら、それはそれは強い鬼になると思いませんか? だから邸の中に咲く天花を抜いて焼き払い、不自然のない程度にあちこちの壁も壊しました」
香雪は信じられないというように首を振る。
部屋に閉じ込められている香雪にすら、邪気が濃くなってくるのがわかった。
「どうして、冥王にだなんて……」
鬼になるどころではない。
災禍の象徴。蓬陽のみならず志葵国そのものを滅ぼすものだ。そんなものになったとして、なんの救いがあるというのだろう。
「香雪様」
仄暗い瞳が、香雪を見下ろした。
「こんな国、一度滅んでしまったほうがいいと思いませんか?」
それは、子どもに問いかけるような声だった。
「香蘭様はその手で、最も憎い夏家を、この国を、終わらせるんです」
蕩けるような微笑みと共に、燕雀は告げる。
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