第五章 一花の開くを見て天下の春を知る
第一話
それは、
「……
「兄が体調を崩したので、代理が必要らしいんです。すぐに終わるとは思いますが……」
ここしばらくすっかり慣れた顔で
思えば邪気が増えてからというもの、冬家に関することは後回しになってばかりいたんじゃないだろうか。
「行ってきてもかまいませんよ? 今は
冥王花が咲くのは夜だ。夕方までに戻ってきてもらえれば問題ないだろう。
冥王が
「ですが、俺は今あなたの護衛ですし……」
「今の今まで何もなかったじゃないですか。一人でいるわけじゃないですし、
青雲はかなり警戒していたが、香雪を狙うような輩は一切現れていない。珀凰の手腕なのか、冥王についての情報も流出した気配はなく、このままうまくいけば秘密裏に穏便に片付くのではないだろうか。
「今日は花梨か玄鳥と必ず一緒にいるようにしますから、行ってきてください。日が暮れる前には戻ってきてくれれば大丈夫ですよ」
青雲の性格上、ここで兄からの呼び出しを蹴ってもあとから後悔するだろう。妥協案として香雪が言っていることも、決して油断などから出てくるものではない妥当なものだ。
大丈夫だと何度も言い聞かせると、ようやく青雲は諦めたように頷いた。
「……何かあれば連絡ください。すぐ戻ります。早めに帰ってきますから」
「本番は夜ですから気にしないでください」
真剣な顔でそう言う青雲に、香雪は半ば呆れながら答える。青雲は少し過保護すぎる。
朝一番に冥王花の状態は確認してある。蕾は大きく膨らんでいたので、今夜咲くのは間違いないだろう。
絶対に一人にならないでくださいよ、と何度も念を押して青雲は冬家に帰った。
「心配性にもほどがあるわ」
まったく、とため息を吐きながら香雪は久々に花に水をやっていた。青雲との約束とおり、すぐ傍には玄鳥がいる。
「おまえが相手ならそれくらいでいいかもな」
「どういう意味よ」
同意してくれない玄鳥を香雪はじとりと睨む。玄鳥は黙々と水遣りをしていて香雪のほうはちらりとも見なかった。
「おまえは、自分のことが二の次だから」
表情もなく、玄鳥はさらりと言い切る。
たとえ自分の身に何かあっても、最悪冥王花さえあればいい。
そう考えていることを見透かされているようだ。
香雪が死んだら
しかし他家に嫁いだ人間がいないわけではないし、もしかしたらどこかにひょっこりと金と翡翠の色を持つ者が生まれてもおかしくはない。
死にたいと願ったことは何度かある。
母が死んだ時、自分の出生についての噂を聞いた時。死んでしまえたらと何度も思った。
今はそれほど、死にたいとは思わないけど、ころっと何かの事故で死んだとしてもまぁ仕方ないかと思うだけだろう。おそらく幽霊となったまま地上を彷徨うなんてことはない。まっすぐに冥界へ行く。
――香雪は自分の生に、たいして執着はない。
水遣りが終わると花梨が
そのあとは春に咲く花の種を撒き、落ち葉を集めておく。城から戻ってきたすっかり萎れてしまった
幽鬼狩りや冥王の一件のせいで多少作業が遅れていたものの、ここ数日は青雲だけではなく玄鳥たちが毎日来ていたおかげで遅れを挽回するどころか、すぐにやることがなくなってしまった。
「……ねぇ玄鳥。ちょっと頼みがあるんだけど」
手持ち無沙汰になってしまった昼過ぎ、香雪が玄鳥に声をかける。
「なんだ改まって」
「
一人で行動しないと青雲と約束してしまったので、それを破るわけにはいかない。
「……ついに?」
玄鳥が、香雪の目を見る。
まるで香雪の覚悟がどれほどのものかと探っているようだった。
「ううん、それはまだ……わからないけど」
香蘭を浄化すると宣言してから、思えばだいぶ経つような気がする。あの時は決まったと思っていた覚悟は、今では揺らいでいた。
きちんと覚悟を決めて話をしてから見送ってください、と青雲に言われてからずっと考えている。
「……とにかく、一度行ってみようかなと思って」
きちんと香蘭と向き合うべきなのだと思う。それができるかどうか正直まだ自信がないが、随分と足を運んでいないので、一度邸の様子を見ておくのも悪くない。
「わかった。
「うん」
春家の門は普段施錠されている。その管理は燕雀に任せていた。
花梨は留守番として百花園に残り、玄鳥と燕雀と共に春家の邸へ向かう。
邸は香雪の記憶にあるときのままだった。荒れたような様子はまったくないので、燕雀がきちんと管理していてくれたのだろう。
一瞬、脳裏に血の海が蘇って背筋に寒気がはしる。
「……大丈夫か?」
玄鳥が気遣わしげに香雪を見る。
「……平気」
細く息を吐き出して、門扉を睨む。香雪の目には立ちはだかる大きな壁に見えた。
「無理なさらなくてもいいんですよ」
燕雀までも声をかけてくるので、香雪の顔色はあまり良くないのだろう。
「大丈夫ですよ」
笑顔を作って答えると、燕雀は静かに眉を寄せる。
「……香蘭様を浄化するんですか?」
燕雀の問いかけに、香雪は凛とした表情で応えた。これは娘としてではなく、花守として答えなければならない問いだった。
「いずれは、やらなくてはいけないことです」
それが今かどうか、確かめに来たのだ。
「困るんです」
「――え?」
低く小さな声に振り返った香雪の目に、大きな石を振りかざす燕雀の姿が見えた。その石は玄鳥の頭部に叩きつけられる。
「玄鳥!」
避けてとも逃げてとも言う暇はなかった。悲鳴とともに名を叫ぶ。
玄鳥に駆け寄ろうとした香雪の腕を、燕雀が掴む。
「……香蘭様は、まだ我々にとって必要な方なんですよ」
「燕雀さん、何を――!」
玄鳥は呻きながら地面に伏していた。頭から血が流れている。それが七年前に見た母親の最期の姿と重なって、香雪はたまらなく恐ろしかった。
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