第五話

 鼻腔をくすぐる甘い香りに、青雲は瞼をふるわせた。薄く目を開くとやわらかな朝日が飛び込んでくる。

 青灰色の瞳に、光を纏った金糸のような髪が写った。花を抱えながら、青雲を気遣って音をたてないよう静かに動く様はまるで地上に降り立った天女のようだ。

 ぱちぱち、と何度か瞬きをする。夢か幻かと思うほどうつくしい光景だった。


 碧蓮城に届けるための花を摘んでいた香雪は、まだ寝惚けている青雲と目があって目を覚ましたことに気づく。

 青雲は長椅子の上で毛布にくるまったままぼんやりとしている。目があったのになんの反応もないから、今目が覚めたところなのだろう。

 ……起こしちゃったかな、音をたてないようにしていたんだけど、と香雪は苦笑する。

「おはようございます」

「……おはよう、ございます」

 香雪に声をかけられたことで、徐々に青雲も頭がはっきりしてきた。

 ここは百花園の温室で、青雲は香雪の護衛としてここで夜を明かそうとしていて――

「……自分でも驚くほど熟睡してました……」

 平時でも緊急で呼び出された時のために深く眠ることはあまりないのだが、寝惚けるほどぐっすり寝ていたらしい。

 起きて早々に落ち込む青雲に、香雪は首を傾げた。

「しっかり眠れたなら良かったじゃないですか」

 とても熟睡できるほど上等な環境ではないので、眠りが浅かったと言われると思っていたから驚きだ。

「いや護衛としてそれはちょっと……」

 これは護衛としては猛省すべきところだ。

 悲鳴が聞こえて目覚めても、覚醒までのほんの数秒が護衛対象の命に関わる。まして香雪が温室に入ってきたことさえ気づかなかっただなんて武官としては大恥だ。

「なにもなかったんだからいいじゃないですか」

 香雪はいつ目覚めたのだろう。すっかり身支度を終えて仕事をしている。

 青雲は温室の硝子越しに空を見る。朝特有の、まだ霞がかったような薄青の秋空が見えた。太陽の位置はまだ低く、日が昇ってからまだ間もないのだろう。

 青雲が立ち上がりながら凝り固まった筋肉を伸ばす。長椅子の寝心地は思ったよりも悪くはなかったが、邸の寝台に比べれば当然固い。

「それは碧蓮城に届ける花ですか?」

 香雪は左腕に花を抱えながら、温室に咲く花もいくつか切っている。持ちますよ、と切った花を受け取りながら青雲が問いかけた。

「ええ、起きてすぐに切っておかないと、そろそろ花梨が来ちゃいますから」

「これだけなんですか?」

 碧蓮城に天花の加護をもたらすための花だ。片手で抱えられる程度となると少ないように思える。

「毎日届けるから一束くらいでいいんですよ。菊は切り花にしても長持ちするし、これでも多いくらいです」

 今日届ける花のほとんどは菊の花だった。とはいえ形も色も様々なので、青雲にはまったく違う花のようにも見える。

「ひとまず、すぐにやらなきゃいけないのはこれくらいなので、朝御飯にしますか?」

 様子を見て青雲は朝市で何か買ってくるつもりだったのだが、ご馳走になっていいのか、と思いながら頷こうとした時だった。


「こ、こ、こ、香雪様ああああああああぁぁぁ!?」


 空高く響く悲鳴のような声を聞くのはこれで二度目である。

 起きて間もない朝一番に、この声は頭にも響く。キンとくる甲高さに、香雪も青雲も眉間に皺を寄せた。

「香雪様!? どういうことですか!? なんで青雲様がいらっしゃるんですか!? まさか二人とも愛を深めちゃったり確かめちゃったりしちゃったんですか!? だだだ駄目ですよまだ婚前なんですから順序は守らないと――」

「花梨、うるさい」

 香雪はやや不機嫌な声で言いながら花束を花梨の顔に押し付ける。うぷ、と花を顔面で受けて花梨の声は途切れた。

 帝に献上する花をそんな風に扱っていいんだろうか、と思いながらも青雲は見なかったことにする。言わなければわからないし。

「だ、だって今朝御飯とかおっしゃってましたよね!? それってつまり青雲様は今来たわけじゃないですよね!? いつももっと来るの遅いし朝御飯は済ませてますもんね!? そこはかとなくたった今目覚めたばかりの男の色気のようなものが漂っているような気がしないわけでもないですしいえ私も未婚ですからそんなの知らないんですけど妄想なんですけど」

 大人しくなるかと思っただが、花梨は花を受け取ってもなお興奮しているようだった。香雪が眉をぴくぴくと震わせている。ここは青雲が説明したほうが良さそうだと口を開く。

「護衛としていただけですし、俺は温室で寝たので期待しているようなことは何もありませんよ」

 ――そもそも期待されても困るが。

 妙に落ち着いて対応している青雲がむしろなにかあったと言っているような誤解を与えていると本人は気づいていない。花梨のなかではめまぐるしく妄想が捗っていた。

「き、期待しているわけじゃないですよ、香雪様の旦那様となれば私だって厳しい目で審査しなくちゃいけないんですから順序は守ってくださいね順序は!」

「だから、何もないって言っているでしょう……」

 香雪が重々しくため息を吐き出す。残念ながら花梨には聞こえていないらしい。

「今日も花を届けたらすぐに戻りますね! 香雪様は調べものがあるんでしょう?」

「ええ、ごめんね」

「志葵国のため、ひいてはまだ見ぬ私の未来の旦那様のためですから!」

 ぐっと握り拳を見せて花梨は元気に花を抱えて百花園を出ていった。

 朝から嵐のような人である。

「……花梨さん、いい人なのにお相手がいないんですか?」

 最初に会ったときも旦那様がどうのと言っていたような気がする。花梨に決まった相手でもいれば少しはおしとやかに……なるんじゃないだろうか。

 香雪はそっと目を伏せた。

「……なんとなく理由はわかるでしょう?」

「……ええ、まぁ」

 あれが毎日家にいると思うと、申し訳ないがちょっと遠慮したい気持ちになると思う。




 朝御飯も終えて香雪は黙々と資料を読み始める。手持ち無沙汰の青雲はとりあえず花に水をやることにした。そのあとは雑草抜きでもすればいいだろう、とこのあたりは慣れたものである。


「……冬家の方が水やりしているんですか」


 半分ほどに水をやった頃に、玄鳥と燕雀がやって来た。香雪が花の世話をしなくてもいいように彼らも手伝いに来たらしい。

「護衛とはいえ、やることがないと暇なので」

 ついでにいえば水やりはなかなか体力も筋肉も使うのでいい運動になる。

「俺がやりますよ」

「いえ、このままやらせてください。俺は専門的な手伝いはできませんし」

 幽鬼や冥王のせいで冬のための準備はあまり進んでいない。玄鳥たちならば香雪の代わりができるだろう。

「……それじゃあ、お願いしますね」

 若干抵抗があるのかもしれないが、玄鳥は頷いた。燕雀にもなにか言われるかと一瞥したが、目が合うと微笑むだけでなにも言わなかった。年長者に弱いのは青雲の性質だ。

「この雑草抜きをするつもりですけど、そのあとは何か手伝えることはありますか?」

 いつもなら香雪に指示してもらっていたが、今日は玄鳥に聞いたほうがいいだろう。香雪は集中すると周りの声が聞こえなくなる。

「その頃には花梨が戻るでしょうから、彼女の手伝いをしてやってください」

 朝の一件を思い出して青雲は一瞬固まったが、玄鳥は気づかずに燕雀と二人で種まきなどの相談を始めていた。


 宣言通り、碧蓮城に花を届けると急いで戻ってきた花梨とともに作業をしていた。ついでに目についた雑草を抜く。毎日抜いても抜いてもどこからか生えてくるのだから困ったものだ。

「そういえば、冬前なのに種まきとかするんですね」

 先程の玄鳥たちの会話を思い出して青雲は花梨に問いかけた。彼らにはとても聞けるような雰囲気ではなかったのだ。

「春に咲く花なんかは今のうちに種まきしますね。あとは落ち葉を集めて腐葉土を作ったり、寒さ対策をしたり。冬越しの準備以外にもやることは多いんですよ」

「……なるほど」

 花梨に説明されながら、青雲は花を抜いてた。もちろん雑草ではなく、天花のひとつである。

 咲かなくなり、一年で終わってしまう花はこうして抜いてしまうのだという。そのあとには次に植える花のために肥料をいれる。

「なのでこのあとは防寒対策に腐葉土と藁を敷きます」

「はい」

 腐葉土などは女性の腕力では運ぶのも一苦労だ。こういうときに活躍するのが青雲である。

 花梨は玄鳥と違って遠慮なく青雲を使った。青雲としても気を遣う必要がないので気が楽だ。

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