第三話
香雪と青雲が百花園に戻ると、蒼家の面々が揃っていた。
「……燕雀さんまでいるのは珍しいですね」
ぽつりと香雪が呟く。
「国の一大事なれば当然のことかと。なにより、資料が多かったので」
玄鳥だけで運ぶのは大変そうだったので手伝ったのだろう。香雪も細かな指示をする暇はなかったのでしかたない。
「ありがとうございます。邸のほうは?」
「変わりなく」
「……そうですか」
安堵するわけでもなく、かといって特別な感情を滲ませるわけでもなく、香雪は答える。その翡翠の瞳に宿るのは平坦な色で、青雲はなんとなく心苦しかった。
香蘭は、娘である香雪を案じていたのに。
「……時期を見て、母さんも浄化しなければいけませんね」
静かに静かに、告げられた言葉はまるで決意の現れのようでもあった。
玄鳥は何も言わなかった。花梨はそっと目を閉じた。青雲はその言葉を反芻して意図を考えていた。
――燕雀は、目を見開いていた。
「……なぜでしょう? 自然に旅立つまで現状のままでも……なぜ今になって」
本来、蒼家の人間が花守に意見することは許されない。それをわかっていながらも燕雀は問わずにはいられなかった。香雪もそのことを咎める様子はない。
「邪気が増している以上、放置しておくのは危険です。いくら春家の邸とはいえ、まったく影響がないとも言えませんから」
香雪は淡々と理由を語った。
「先に冥王について調べるほうが先ですけどね。燕雀さんは引き続き邸の様子を見ていてくださいね。異変があればすぐに知らせてください」
「……はい」
穏やかだが有無を言わせぬ口調だった。燕雀にはただ頷くしかできず、暗い表情で百花園をあとにする。
その背を見送りながら青雲が口を開いた。
「燕雀殿は平気なんですね」
香雪は男性を嫌っているし、父親ほどの年齢とはいえ燕雀もその範囲に含まれるはずだ。
百花園に立ち入ることを許可しているのだから信用はしているのだろうけれど、顔を合わせないでいることが多いようだったので苦手なのかと思っていた。
「平気ですよ。あの人はわたしを女とは思っていないから」
香雪が嫌うのは、簡単に言ってしまえば『香雪を女性と見ている』、『性的な対象と見ている』男性だ。悟りを開いたような高齢の男性や、まだ幼い子どもはその範囲に含まれていない。皓月のように肉体をなくした人も同様に。
「あの人は先代しか目に映らないんだろうな。香雪が母親似だったら洒落にならなかったかもしれないが」
本当に洒落にならない話なのでやめてほしい、と香雪は眉を寄せる。
燕雀が今もこうして春家に仕えているのは香蘭の願いを汲んだからだ。多少は、母親を亡くした香雪を憐れんでいたからかもしれないが。
「そんなに似てないですか?」
青雲が首を傾げる。香雪も香蘭も綺麗な人だと思うのだが。
玄鳥は何を言っているんだと青雲を見る。
「さっぱり似てないでしょう。香蘭様は、柳のようにたおやかでうつくしい方だった」
「香雪さんも綺麗だと思いますけど……」
香雪からは香蘭のようなたおやかさは確かに感じないかもしれない。しかし我が強いところや花守としての姿勢はとてもよく似ていると思う。
「これは気が強いのがはっきり顔に出てるでしょう」
「これって言い方はどうなの」
しかし香雪自身も気が強いということは否定しないらしい。
「玄鳥はもっと香雪様を敬うべきよ」
「子どもの頃から知っている糞餓鬼を敬えと言われても」
じとりと睨みつけてくる花梨に対して、玄鳥は呆れたように言い返している。香雪も何か言う様子はないので、玄鳥の態度も別段気にしていないのだろう。
「……ところで、玄鳥殿も平気なのはなぜですか?」
年齢としてはまさに香雪が一番警戒すべき年頃だ。今のやりとりからしても、玄鳥が香雪を主として敬意を払っているというわけでもないし、命じられたところで従わないこともありえそうなのだが。
「玄鳥? それこそわたしのことを女と思ってないでしょう」
「大金積まれたっておまえを口説いたり押し倒したりしないから安心しろ」
香雪がきょとんとした顔で答えるのとすぐに玄鳥も嫌そうな顔で告げる。
なるほど、玄鳥が香雪には下心を抱くことはありえないと知っているから平気な人となっているらしい。
「ほらね。それに、最近はあなたにも慣れてきたんですよ」
それは、青雲自身も感じていた。
出会ったばかりの頃のような警戒心もないし、近づいたところで猫のように毛を逆立てることもなくなった。不意打ちで触れても、きっと手を振り払われることはないだろう。
けれど。
「……俺は別にあなたを嫌ってないし、女性と思っていないわけじゃありませんけど」
ただ慣れただけで香雪の警戒が解ける理由にはならない。
むしろ香雪が青雲のことを男だと思っていないのではないだろうか。
「だってあなた、女の人を強引に押し倒すとかできなさそうなんだもの」
くすくすと笑いながら香雪が言う。
それが嘲笑ではないということは、やわらかな表情からすぐに理解できた。男と思っていないわけでもないらしい。
……そんな度胸はないだろう、と笑われているとはいえ、多少なりとも信頼されていると言えなくもない。
「それは……」
「できます?」
口を開いた青雲を見上げて、香雪が首を傾げる。子どもめいた仕草は愛らしく、こちらが牙を持っているだなんて微塵も思っていないようだった。
「できるできないではなく、しません」
はぁ、というため息と共に青雲が答える。
そもそも無理やりとか強引にとか、やっていいことじゃないだろう。
逆らえない姉のいる青雲は『女性にはやさしく』ときつく言い聞かせられている。言い聞かせた本人が大の大人の男相手でも軽く投げ飛ばせるほどの女性であっても、だ。
「だから大丈夫なんですよ」
ふわりと笑う香雪に目を奪われていると、青雲は遠くから花梨に呼ばれた。いつの間にか花梨は作業に戻っていたらしい。
花梨の作業を手伝い始めた青雲を見送り、それならと香雪は資料の山に目を向けた。ここから冥王に関する情報を探さねばならない。
「それにしても……ついに、か」
積み重ねられた資料からおよそ百年前あたりのものを選別しながら、玄鳥がぽつりと呟いた。
なんのことか香雪にはすぐにわかって、苦笑いを零す。
――母のことだ。
「ついにって、そんなに大袈裟なことじゃないわよ」
「大袈裟だろ。今まで目を逸らし続けてきたのに。邪気云々は言い訳にすぎないんじゃないのか」
さすがに香雪のことを生まれた時から知っている相手にはわかってしまうらしい。
ずっと目を逸らしてきた。
向き合うのが怖かったから。
夢に見たように、母から「おまえのせいだ」と言われるんじゃないかと怯えていた。
せめて母にも誇れる花守であるように。そう思いながら務めを果たしてきたけれど。
「……己の感情を噛み殺して、使命を全うする姿を見せつけられては、わたしも逃げてばかりはいられないじゃない」
――あなたの力でどうにかできないんですか、と問うてきた青雲に、香雪は何もできなかった。
きっともっと、別の形で別れることができたのに青雲は香雪を責めることさえなかった。
ただ己に課せられた役目を全うした。青雲が何を感じたか、何を思ったか香雪にはわからないけれど。
自分の弱さから目を逸らしてはならないのだと、言われたような気がした。
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