第六話
「すみません、遅くなりました」
百花園に向かう途中で馬車から降りて、青雲は賄賂の甘味片手に香雪に謝った。
蓬陽でも名店と有名な店の袋に、香雪は素直に受け取る。香雪自身は買い物に行くことがないので嬉しい。
「別に遅いとは思ってませんけど……思ったより長かったんですね」
報告を聞いてくるだけにしては時間がかかったように思う。香雪の言葉に、青雲はピキッと表情を凍りつかせる。
「……実は、春家の邸に行ってました」
嘘がつけないし、隠し事も得意ではない自覚があるので青雲は素直に白状した。
なんと言われるんだろうかと、身体は強ばる。勝手に人のことを探ってと香雪が不愉快に感じてもしかたない。
――しかし。
「……ああ、会ったんですか」
香雪は、お土産の甘味の中身を見下ろしながら。ぽつりとそれだけ呟いた。
誰に、と言われずとも、香蘭のことだとわかった。
「……はい。……綺麗な方ですね」
「まさに傾国の美女でしょう? 実際に国を傾けかけたんですけどね」
ふふ、と香雪は笑った。冗談話にするにしてももう少しまともな話題があるだろうに。
「……笑えませんよ」
「笑ってもいいんですよ?」
笑えと言われても、青雲の顔は曇るばかりだ。
「……休憩にしますね。買ってきてくださったお饅頭、食べましょうか」
香雪は慣れた様子でお湯を沸かし、茶の準備をした。花茶だ。ふわりと香る花の香りに、青雲は緊張が和らいだ。随分と緊張していたらしいと、今更気づいた。
青雲はひとまずと朱家からの報告を香雪に伝えた。それだけで香雪は「だから春家に行ったんですね」と呟いた。
「香蘭さんから、情報は得られませんでしたけど」
「そりゃそうですよ。母さんは花守であることを誇りに思っていますから」
――母さんは。
それはまるで、香雪は違うと言っているように聞こえた。
香雪はいつもと変わらぬ顔で饅頭を頬張る。いやむしろ甘味のおかげで少し機嫌がいいようだ。
甘いものを食べているときは、香雪の顔がふんわりと和んでいる。本人には自覚がないのかもしれないが、そんな時の顔は愛らしくて微笑ましい。
「蒼燕雀という方にお会いしましたよ」
茶を一口含んで、青雲は会話を続ける。
香雪は二個目の饅頭に手を伸ばしながら「でしょうね」と答える。彼に邸の管理を任せているのは香雪なのだからすぐにわかることだ。
「あの人は母さんの婚約者だったんですよ」
「え」
実のところ、春家と蒼家は何度も婚姻関係にある。色持ちを――花守を絶やすわけにはいかない春家が、花守の婿に相応しい者を見つけられなかった場合の保険が、常に蒼家に用意されていた。
蒼燕雀もその一人だった。
「きっと、どこの馬の骨ともわからぬ子どもは生まれたらさっさと養子にでも出して、何食わぬ顔で結婚させるつもりだったんでしょうね」
「……そんな言い方」
「だって事実でしょう?」
しれっとした顔で香雪は言う。
「でもその子どもは色持ちで。母さんも、手放そうとはしなかった。……結局婚約は破棄されました」
申し訳ない、と春家から破棄を申し出た。
燕雀はそれでもいい――誰の子ともわからぬ子どもがいてもいいから――と何度も食い下がったと香雪は聞いているが、香蘭は決して首を縦に振らなかった。
「……父が誰かなんて、正直興味ないんです。わたしにとってはもともといないものですし」
父親が生きているのか死んでいるのかさえ、香雪にはどうでもいいことだ。
「わたしにとって重要なのは『春香蘭』の子であることですから」
母の子でなければ。
花守でなければ。
香雪はなんのために生かされたのか、わからなくなってしまう。
「……だから噂も否定しないんですか?」
「帝の子どもなんじゃないかってやつですか? だって、ありえない話でもありませんし。あなただって言っていたじゃないですか。わたしと陛下が似ているって」
確かに半分でも血が繋がっているのなら、似ていても不思議ではない。
「あれは……!」
青雲は声を荒らげる。
碧蓮城で幽霊探しをしていたときだ。似ていますよね、と青雲は何気なく言っただけで、他意はなかった。
「……あれは、そういう意味で言ったんじゃありませんよ」
「わかってますよ」
香雪は苦笑した。すっかり萎れる青雲を見て、少し意地悪だったなと思う。
母親に関することは、どうやっても楽しい話題にならない。
青雲に話すにはちょうどいい機会だ。
……なぜ青雲に話そうと思ったのか、よくわからないけれど。
「母さんが未婚で子どもを生んだと周囲にも知れ渡ったあと……そのあとの周りの反応、想像できますか?」
「……いえ」
青雲は首を横に振ったものの、少しならどうなるかは予想できる。しかし香雪が話すのはおそらく、青雲が予想できるような範囲のことではないのだろう。
そもそも名家の娘が未婚で子を生むなど醜聞も醜聞だ。ましてそれが花守だったのだから、情報は瞬く間に蓬陽に広まった。
「わたし、小さい頃に母さんに連れられて碧蓮城に行ったことがあるんですよ」
七歳ほどのときだ。
この子が次代の花守です、と色持ちとして帝との初の顔合わせだった。大きくなるまで子は無事に成長できるかわからないから、たいていの色持ちは七歳前後で初めてお披露目される。
「そのとき城内で会った緑だの紫だのの衣を着たおじさんたちが、母さんになんて話しかけたと思います? いくら払えば夜伽をしてくれるんだ? って。……そういう類のことですよ」
青雲はあからさまに顔を歪ませた。
どんなに手を伸ばしても手に入らぬはずの高嶺の花が、地に落ちた。落ちた花ならば、と香蘭を下卑た目で見る男は少なくなかった。
「母さんは笑って聞き流していたし、その頃はわたしもなんのことかわかりませんでした。……意味がわかるようになって、死ぬほど腹が立ったし気持ち悪くて仕方なかった」
母親に向けられる、まとわりつくような男たちの目線を香雪は隣でひしひしと感じていた。言葉の意味はわからなくても、女としての本能で気持ち悪い、と素直に思った。
緑や紫の衣。それは、高官であることを示している。彼らにとって花守は娼婦と変わらぬものという認識になっていた。
「だからわたしは男は嫌いです。大嫌いです」
香雪自身、成長してから似たような言葉をかけられたことが何度もある。その度に香雪はきつく睨みつけていたので近頃は減ったものの、投げかけられる視線には好色なものが混じっていた。
――そんな男ばかりではない、と。
青雲が口にするのは簡単だ。
しかし説得力が伴わないただの言葉は、この場でなんの意味もない。
「……ならせめて、あなたが碧蓮城へ行く時は俺を呼んでください」
男が嫌いだという話をしていたのに、なぜそんなことを言い出すんだろう。
青雲も香雪の嫌いな男の一人だ。もちろん青雲に対しては多少の信用しているし、香雪が嫌いな類の男ではないと思うけれど、完全に信頼したわけではない。
「……どうして?」
問いかける声が幼くなる。だって単純に、理由がわからなかった。
「隣に俺がいたら、さすがに無礼な男は近づかないでしょう?」
「あなたまで妙な噂をたてられますよ」
「それは今更ですし慣れてますから」
青雲はしれっとした顔をしている。
灰混じり、と呼ばれて影でこそこそと言われるのは青雲にとっていつものことだ。そこにさらに何かを付け加えられようとどうでもいい。
「……それに、本来の仕事に戻ったらそんな暇もないでしょう」
「その時はあなたが城に着いたら迎えに行きますよ」
ほんの少し持ち場を離れるくらい、珀凰も許可するはずだ。それが香雪のためのことなら、帝とて無下にはしない。
「……そこまでする理由なんて、ないじゃないですか」
香雪が困り果てて小さく呟く。
青雲にこんなことを言わせるために話したわけじゃない。
ただなんとなく、ああ話してもいいかな、と。
そう思っただけで。
「知り合いが困っているのに手を差し伸べないわけないでしょう」
きっぱりと青雲が言い切る。
――ああそうだ、この人はこういう人だろう。
短い付き合いの香雪も、そう納得してしまう。きっと青雲は、自分が損をしても知人を助けようとするだろう。
「……好きにしたらいいですよ」
言い返す気力すらなくして、香雪は饅頭をかじる。
気のせいだろうか、饅頭は先程より甘く感じた。
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