第五話
香雪に母とはどんな人間かと問えば、「天真爛漫な人だ」という答えが返ってくる。
その純粋さ、無邪気さが、幼子のようにきよらかなものであるとは限らないけれど。
「それで、私になにか御用かしら?」
こてんと首を傾げる香蘭は、子どもがいるとは思えないほど愛らしい。幽霊なのだから年はとらないとして、享年は何歳だっただろうかと青雲は現実逃避する。
珀凰は迷いなく香蘭に問いかける。その態度は生きている人間に対するものと変わらなかった。
「近頃、蓬陽に邪気が増え続けているんだけど何か知らないかな?」
「邪気が? ……ああ」
香蘭には心当たりがあるようだった。細い指を顎に添えて、一人だけ納得したような顔をしている。しかし一向に口を開こうとはしない。
「知っているなら教えてほしいんだけど?」
「まぁ、それはできない相談ですわ」
うふふ、と香蘭は笑った。
「花守の知識は花守のみに伝えるもの。香雪が聞きに来たのならいざ知らず、あなた方に教えるわけには参りませんわ」
香雪がこの邸に来ることはないとわかっていながら、香蘭は意地の悪いことを言う。
普段は飄々としている珀凰でさえ、一瞬眉を寄せて不快感を示した。
「それに、香雪にはもう教えてありますよ。いつ気づくかはあの子次第です」
「命じてもダメなのかな?」
珀凰がその琥珀の瞳に剣呑な色を宿しながらも、微笑みながら問いかける。
「あら、私にとっての帝はあなたの父上です。死人には今の帝が誰だろうと関係のないことですね」
香蘭は儚げな容姿に似合わず、珀凰に怯える様子もなくきっぱりと言い切った。
花守の首をはねるというのならどうぞご自由に、と言っていたときの香雪と姿が重なる。やはり母子なんだなと青雲は実感していた。
「手遅れになったらどうするんだい?」
「その時はその時。すべては触れてはならぬ花に手を伸ばした帝の落ち度ではございませんこと?」
香蘭が今も生きていれば、すぐに原因は判明したし対策もできた。言外にそう告げられて、珀凰は苦笑する。
「……香雪さんは、どうしてここに来ないんですか?」
おずおずと青雲が口を開く。香雪が、香蘭がこうして幽霊として彷徨っていることを知らずにいるとは思えない。知っていてなお、会いに来ないというにはなにか理由があるのだろう。
香蘭の翡翠色の瞳が青雲を見る。
「香雪は百花園で育ったから、あの子にとっての家はあそこなのよ」
「けど、まったく近寄らないのは変ですよね。ここには資料だって保管されているのに……」
必要なものは玄鳥や燕雀に取ってきてもらって、香雪は決して春家の邸に近づかない。
――まるで怯えているように。
「……私の死体を見つけたのはね、香雪と燕雀なのよ」
香蘭の細く白い指先が、自身の首元に触れる。
「首を切って死んだの。私の父も、同じように死んだ。私たちが倒れた血の海を、十一歳のあの子は見たの」
青雲は言葉が出なかった。
足元に首から血を流した女が倒れている。そんな幻さえ見えてしまいそうな気がする。
「……あの子の目にはきっと、私が死んだ時のままの姿で見えるんでしょうね」
たった一度、香雪がここを訪ねて来たことがある。香蘭が死んで一年経ったかどうかという頃だ。
香蘭とて香雪に花守としての知識をすべて授けたわけではない。香雪が花守としてやってこれたのは、一重に彼女の努力の賜物だ。
その時も資料を取りに来たようだった。元気そうな我が子にほっとして、つい話しかけようと思ってしまった。死んでも香雪には香蘭が見えるのだから、今までと変わらずわからないことは教えてやればいいのだと。
振り返った香雪の顔は真っ青だった。
手に抱えていた書物をばたばたと落として、香雪はその場にしゃがみこんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい母さん、ごめんなさい」
涙混じりの声で何度も何度もそう呟いて、香雪は震えていた。
物音を聞いて駆けつけてきた燕雀と玄鳥が、香雪を邸の外へ連れ出して行った。
――何を謝るのだろう。
香蘭は、母は、香雪を恨むことなどひとつもないのに。
一人にしてごめんねと、謝るべきはこちらなのに。
「……会いには行かないんですか?」
青雲の問いかけに、香蘭は悲しげに眉を下げる。
「それは無理よ。私はこの邸に縛りつけられたようなものだから」
それに、と香蘭は続ける。
「ここは春家の邸だから邪気にはそうそう触れることはないの。少しだけど、天花が植わっているからね。そうでなければとっくに私も自我をなくして鬼となっているでしょう」
七年も幽霊として彷徨っている。それが長いか短いか青雲にはわからないが、蓬陽にそれほど長く留まった幽霊はいないだろう。
香蘭は娘を恨んだりはしないけれど、けれど、恨みがまったくないわけではないのだ。
誇りのために死を選んだ。それは後悔しない。何度であろうと香蘭は同じ選択をするだろう。
花守は後宮の花にあらず。
金の髪、翡翠の瞳。志葵国では唯一の色を持つ花なれど、帝が手折ること能わず。
寵愛を受ける存在にはならない。愛でられるだけの花ではない。
たとえどんなに軽んじられようと、その存在の必要性を疑われようと、花を育て国を護る。それが花守の誇りだ。
「……そろそろ戻らないと、瑞月が困るね」
しばらく青雲と香蘭と話していると、珀凰が口を開いた。
「あら残念だわ。久々のお客様だったのに」
誰かが訪ねてきても、香蘭の姿が見える人はほとんどいない。
「燕雀殿がよく来ているのでは?」
「……ええ、毎日のように通って手入れをしてくれているわね」
燕雀の名が青雲の口から出てくると、香蘭はわずかに目を伏せ、困惑交じりに微笑んだ。
「彼とは会わないようにしているの。……生者が死者に囚われるのは、あまり良いことではないから」
私がいると、姿を見せないでしょうから。
邸に入る時、燕雀がそう言っていたのを思い出す。
何か事情があるのだろう。それをここで不躾に問うほど青雲は愚かではなかった。
「……百花園に寄って帰ろうか。青雲はこの後行くつもりだったんだろう?」
「え、はい、そうですけど」
春家までやって来たことで、予想していたより時間がかかってしまった。午前のうちには百花園に顔を出せると思ったのだが、もう昼近い。
昼食を何か買ってから行こうか、と青雲は考える。ついでに甘味も買って、香雪に食べさせよう。
「あなた、百花園によく行くのよね?」
香雪と同じ翡翠の瞳が、まっすぐに青雲を見ていた。
「ええ、まぁ最近は」
よく、というか。
今は毎日通っているのだが。
「百花園の南に植えられている樹は元気かしら? 私の好きな花なんだけど」
「南の……? すみません、まだあまり詳しくはなくて」
「落葉樹だからきっと今頃は紅く葉が色づいているわね」
落葉樹、と思い出そうとしても、まだまだ細かな花の区別がつかない青雲には難しい。
わからないという顔をしたままの青雲を見て微笑みながら、香蘭は口を開く。
「……香雪のこと、よろしくね。頑固な子だけど仲良くしてあげて」
「……はい、もちろん」
母の顔をした香蘭は、とても綺麗だった。
穏やかな春の木漏れ日のようなあたたかさと、やわらかな色の花のようなやさしさを感じる。
それではと部屋から出る。門の外には燕雀がいるので、香蘭は近づかないようだった。
「咲かない花のことを香雪に尋ねてご覧なさい」
部屋を出て戸を閉める前に、香蘭の声がする。
青雲が慌てて振り返ると、香蘭は人差し指を唇に押し当てて微笑んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。