第四話

 馬車は帝を乗せているなど誰にも教えることなく静かに春家に向かって進んでいく。

 数分の沈黙のあと、そういえばと珀凰は口を開いた。先程までの暗い話題など忘れたのような、いいつもどおりの声音だった。

 青雲は、珀凰ほど上手に切り替えはできない。

 けれどもしかしたら、珀凰には香雪の気持ちが多少なりとも理解できるのかもしれない。瑞月の言っていたとおり、二人が背負うものの重みはとてもよく似ている。

 おそらく、一番理解してあげられないのは青雲だろう。

「香雪の父親は先帝なんじゃ、なんていう噂もあるね」

「え?」

 青雲にとっては唐突すぎる話題に、呆けた声が出る。

「もっと前に手は出していたけど、花守の役目もあるから後宮に入れられなかったんじゃないかってね」

 後先考えずに手を出して花守を身籠らせてしまったが、公にするわけにもいかずに父であるとは明かさなかったのではないだろうか。あるいは、春香蘭欲しさにさっさと後継を生ませて後宮に招くつもりだったんじゃないだろうか。

 可能性としては大いにあった。そもそも常識のある帝なら花守を後宮に、などと言い出すこと自体ありえないのだから。

「……初耳です」

「そんな下世話な噂をする者が周りにいなかったってことだ。誇るといいよ」

 無責任な噂を流すような者はただ面白がっているだけだ。誠実な人間ならただの憶測や可能性は口にしないで自分の胸に留めておくだろう。それが死者にまつわることなら、なおさら。

「春香蘭は未婚だったからそんな憶測も飛び交ったんだろう。真実を知る者はもうこの世にはいないわけだし」

 誰も否定できないから、面白おかしく噂する者は一向に消えない。

 香雪が帝という存在が嫌いなのも、おそらくは七年前のことが大きな原因なのだと思う。男嫌いに拍車がかかったのもそうだろう。

「……彼女も、自分の父親は誰なのか知らないんですか?」

 無責任な噂をそのままにしておくということは、香雪自身も真実を知らないということだろうか。

「さて、どうだろう。その手の話はいつもはぐらかされるからなぁ。試しに聞いてみるかい?」

 珀凰がそう言って笑うと同時に、目的地に到着する。

 ……はぐらかされる?

 ……聞いてみる?

 珀凰の言葉に首を傾げる青雲だが、質問する機会はすっかり逃してしまった。


 春家の邸の前に、ゆっくりと馬車が止まる。

 その門前には一人の男が立っていた。

「お待ちしておりました」

 珀凰が馬車から降りると、深々と頭を下げる。顔の皺に苦労が滲み出ている男性だ。年頃は四十歳前後といったところだろうか。

「急にすまないね」

「いいえ」

 急も急だ。珀凰が思い至ってからすぐに連絡が入ったとしても、出迎えるための準備をしている時間などなかっただろう。

 珀凰と青雲を待っていたということは、彼は蒼家の人間なのだろう。

 なんとなく玄鳥がいるのではと思っていた青雲は予想が外れて目を丸くする。

「彼はそう燕雀えんじゃく。春家の邸を管理している男だよ。百花園で会ったことはない?」

 ぽかんという間抜けた顔をしている青雲に、珀凰が男性を紹介する。物覚えはいいほうじゃないが、さすがに会ったことがあれば顔を覚えているはずだ。

「ありません……許可されているもう一人はあなたでしたか」

 香雪が話していた、百花園に立ち入る許可がされている三人。玄鳥と、花梨、そして最後の一人がこの燕雀だ。

「ええ、私は主にこちらの管理に注力しておりますので」

 春家の門扉は何年も人が住んでいないとは思えないほど立派で、きちんと手入れされている傷んでもいない。

 燕雀がもともとの状態を保ち続けているのだろう。

 だからこそ青雲も最初は香雪が春家の邸で暮らしていると当然のように思っていたのだ。おそらく志葵国の人間で花守が百花園に住んでいるなんて考える者のほうが稀だ。

「……一緒に来るかい?」

 門の中へと足を踏み入れた珀凰が振り返って燕雀に問いかける。てっきり燕雀も共に邸に入って案内してくれるものだと思ったのだが、彼は門の外から一歩も動いていない。

「いいえ、私がいると、姿を見せないでしょうから。ここでお待ちしております」

 ゆっくりと頭を下げた燕雀を、青雲は不思議そうに見る。珀凰と燕雀にはわかるが、青雲にはさっぱり通じない何かがあるようだった。


「……陛下は来たことがあるんですね?」

 あるんですか? という問いではなく確認のようになったのは、珀凰が邸の中を迷いなく進んでいたからだ。おそらく行こうとしている部屋も決まっているのだろう。

「即位前に数回、かな」

 やはり、と青雲は納得する。

 即位前といっても珀凰の立場を考えればそれは異例だ。記憶にある限り、冬家の邸に帝が来たことなんてない。

「目的の人というのは、もう待っているんですか?」

「さぁどうだろう。会いに来るとはいつも言わずにくるから待ってはいないんじゃないかな」

「え? 突然来ていいんですか?」

 同時に、青雲の頭に疑問が浮かぶ。

 会いに来るとは伝えていないのに、春家の邸にいる人物、ということだろうか。

 変ではないか? 春家の邸には、誰もいないはずなのに。

「平気だよ。彼女はここから出ることができなから」

 青雲の疑問を見透かしたように珀凰が笑って、ひとつの部屋に入った。おそらく当主のための部屋なのだろう。優美でありながら機能的な家具、書棚にはいくつもの書物が並んでいた。


「ああ、やっぱり私のお客様だったのね?」


 背後からふわりと華やぐ声がして、青雲と珀凰は振り返った。

 長くたゆたうような金色の髪、穏やかな光を宿す翡翠の瞳。

 少女のように無垢でありながら、ぞっとするほどの妖艶さも垣間見える、呼吸を忘れてしまいそうになるほどうつくしい女性だった

「お久しぶりね。珀凰様。お会いするのはいつぶりかしら。ごめんなさいね、死んでからというもの年月の流れには疎くなってしまって」

 うふふ、と女性は楽しげに微笑むが。


「ゆ、幽霊じゃないですか!?」


 と悲鳴に近い声で青雲は叫ぶ。

「見ればわかるだろう?」

「そうよぉ、死んでるもの」

 珀凰と女性は何を言っているんだというように青雲を見ている。

「彼女が先代の花守、春香蘭だよ」

 香蘭はじぃっと青雲を見てくる。

 幽霊らしくその身体は透けていて、ただでさえ儚げな雰囲気なのによりいっそう一瞬で消えてしまいそうな危うさがあった。

「彼は冬青雲。……うーんと、香雪の婿候補かな」

 珀凰が香蘭に青雲を紹介するものの、後半は明らかに事実と異なっている。

「あらあらまぁまぁ!」

「はい!? なんの話ですか!?」

 香蘭に慣れようと青雲が気持ちを落ち着かせているうちに、珀凰がとんでもない嘘を言った気がする。そのせいか香蘭がきらきらした目で青雲を見てくる。

「香雪よりは少し年上かしら? あの子、年齢より落ち着いているから年上のほうがぴったりよね。冬家ってことは体力に自信がおあり? うちの仕事ってけっこう体力がいるから大歓迎だわ」

 ずずいっと近寄ってきた香蘭が誤解をとく暇もなく話しかけてくる。

「確かに体力使いますよね……ってそういう話ではなく、婿じゃありません! ちょっと最近親しくさせてもらっていますが……いや親しいのかどうか微妙ですけどとにかく婿じゃありませんから!」

「そうよね、婿候補よね?」

 婿ではなく婿候補だものね、まだ違うわよね、と香蘭がわかった顔をするがわかっていない。

「候補でもありません初耳ですなんですかその話……!」

 青雲が必死の形相で珀凰を見る。言い出した本人は蚊帳の外になっているのはおかしい。

「うん? 個人的にそうなったら面白いなと思っているよ」

 青雲と香蘭のやり取りを楽しそうに見守っていた珀凰が答える。

「あら? 珀凰様の思いつきのお話なの? 残念だわ」

 興奮していた香蘭がけろりと態度を変え、青雲から離れた。なんだろう、突然いろいろ頭に詰め込まれたせいで幽霊が怖いなんて思っている暇がなくなってしまった。


「改めて、春香蘭と申します。ご覧の通り、しっかり死んでおります」


 帝からの後宮入りの話を拒んで自害した悲劇の花守……のはずなのだが、なぜだろうか、青雲の目にはとてもそんな悲壮さは感じなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る