第二話

 大銀杏は樹齢百年近くあるのではと思わせるほどにたくましい幹と枝を広げてその広場に鎮座している。


「……ああ、本当に良順ですね」


 少し離れた場所で鬼を確認すると、青雲はぽつりと小さく呟いた。

 その声はもしかしたら香雪に聞かせるつもりはなかったのかもしれない。

「わかるんですか?」

 鬼は相変わらず生前の姿をとどめていない。人と同じような形としても、それは二足歩行していて頭が一つある、というだけの話だ。

 良順は、すべて青黒い靄のようなものに包まれていた。比較的人に近いとはいえ、顔は判別できないし、良順を中心に広がる靄のせいで体格さえわからない。

「ええ、腰のあたりに、俺が贈った帯飾りがあります」

 良順はいつも身につけていたので、と青雲は答えた。

 その横顔を見上げてみるけれど、青雲の顔からは感情が伺えなかった。それが余計に、香雪にはすべてを受け入れて覚悟を決めたかのように見える。

 香雪は灯りをおいた。何も言わずに持ってきていた精油を取り出す。

「精油を変えるんですか?」

「……はい」

 いつも灯りには茴香ういきょうの精油を使っている。青雲が鬼を狩るときも、いちいち香りを変えたりはしない。

 これはただの、香雪の自己満足だ。

 効果があるわけではないのだろうけれど、せめてもの手向けになればいい。

「ああ、銀木犀ぎんもくせいですね。うちの邸にもたくさん植わっているんです」

 匂いだけでわかるほど親しみがあるらしい。青雲にとって馴染みのある花ならば、きっと良順にとってもそうなのだろう。

 よかった、と香雪は小さく微笑む。

 手向けには花を。

 叶うことなら、故人の好きだった花を。

 思い出がある花ならなおいい。幸福だった日々を思い出してあたたかさに包まれて、穏やかに終わることができたらいい。




 鬼となった良順は、一見大人しくしていた。

 暴れるわけでもなく、誰かに襲いかかるわけでもなく、人で言うのなら項垂れているような体勢で静かに唸り声をあげている。

 それが香雪には、まるで処刑を待っているかのように見えた。


「もしかして、なんて言わなくても、おまえの心残りはきっと俺のことだったんだろうな」


 青雲は剣を抜いて良順に歩み寄る。背後から見守る香雪から青雲の顔は見えない。

 低い唸り声が響いてくる。

 青黒い靄がますます広がり、広場そのものを飲み込んでしまいそうに見えた。

 理性などないはずだが、もしかしたら鬼となってもなお良順は誰も傷つけまいと耐えているのだろうか。そんな憶測が浮かぶと、唸り声も暴れようとする鬼の本能に抗う良順の悲鳴に聞こえてくる。

 青雲が剣を振るうと、ぴくりとも動かなかった良順は腕を振るいあげ抵抗した。身の危険に対して反射で動くような動作だが、その腕に殴られれば生身の人間は大怪我をしているかもしれない。

 後悔したところで現実は変わらない。香雪は唇を噛み締めてただ見届けなければと瞬きすら惜しんだ。

 靄に引き寄せられるように邪気が濃くなってくる。

 振り回される腕を避けながら青雲は機会を伺っているようだった。

 ――このままじゃきっと彼だって動きにくいはず。邪気だけでもどうにかしないと。

 香雪は息苦しさを感じ始め、荷物の中から小瓶を取り出す。先程使った銀木犀の精油だ。灯りに使っている程度では足りない。もっと天花の香りを広げないと、濃くなる邪気は払えない。

 香りを広めて浄化するにも、道具がなかった。

 香雪は迷いなく瓶を振り上げると、地面に叩きつける。割れた小瓶の中から精油が溢れて、瞬く間に濃い香りが広がった。


「――願わくば、天の花となりて地上を満たす癒しとならん」


 手を合わせてただ祈る。

 香雪の言葉には特別な意味があるわけではないし、力が増すわけでもない。ただ、花仙公主が残したという文言を借りただけだ。

 どうか、この花の香りが癒しとなりますように。

 広がる銀木犀の香りに、良順の動きがわずかに鈍くなる。

 青雲は剣を振り上げ、その首を切り落とした。




 良順は灰となって消えていく。

 残るのは銀木犀の香りだけで、それも朝日が昇る前には薄れて消えてしまうだろう。

「……すみません、もたもたしていたせいで、貴重な精油を使わせてしまいましたね」

 精油を作るには大量の花が必要になる。百花園で育てている天花にも限りがあるので、精油を一度に大量に使うことは今までなかった。

「百花園にいけばまだ保管している分がありますから気にしないでください。それに、周辺の邪気が濃くなっていたので、どのみち使ったでしょうし」

 香雪が持ち歩いているのは本当に小さな瓶に入れた精油だ。灯りに使うのはほんの数滴でいいので、必要以上に大きな瓶など重い荷物になるだけだ。

「それでも、すみません」

 苦笑いとともに落ちてきた謝罪の言葉に、香雪はぐっと奥歯を噛んだ。

「……あなたが謝る必要なんてないでしょう。むしろ……」

 謝らなければならないのは香雪のほうだ。

 もっと早く対処していれば、青雲は良順を斬ることはなかったのに。

 報告書を読んだ時からじわじわと自己嫌悪が増している。そのたびに香雪は自分に唾を吐きかける。おまえには嘆く資格なんてない、と。

「でも良順が幽霊として彷徨っていた原因は、俺でしょうから。鬼となった原因も、元を辿れば俺だということになります」

「それはさすがに被害妄想が強すぎるでしょう!?」

 香雪は思わず声をあげる。

 青雲の卑屈さはもう嫌というほど知っているが、これだけは否定する。青雲のためにも、良順のためにも、否定しなければならない。

「人間、誰だって心残りくらいあるんですよ! 仕方ないでしょう、そりゃ死にたくて死ぬわけじゃないんですから! それはそれ、あなたが悪いなんてことにはならないし、彼が鬼となったのはわたしの対処が遅かったのと邪気が増して鬼になるまでの猶予が通常より短かったからです!」

 噛みつく勢いで青雲に怒鳴り散らすと、予想外だったのかそれとも香雪の勢いに押されたのか、青雲はぽかんと口を開けていた。

「反論があるならどうぞ」

「……ありません」

「よろしい!」

 青雲が降参するように両手をあげる。

「……改めて、すみませんでした。わたしがもっと早く対処していれば、あなたは良順さんを斬らずにすんだのに」

「俺が悪くないなら、あなたも悪いことにはならないんじゃないですか。結局、全部もしもこうしていたらって話でしょう?」

「わたしの場合は役目の話であって」

「それじゃあ、今日はこれで終わりにしましょうか。……さすがに疲れましたし、あなたの顔色も悪いですし」

 いつもならそうはいかない、と言うところだが、今日だけは少しくらい青雲を甘やかしてもいいのかもしれない。肉体的にも、精神的にも疲れたはずだ。

「……そうですね」

「帰りがてら、昔話に付き合ってくれますか?」


 ――灰混じり、という皮肉は青雲が小さな頃から使われていた。

 青雲には兄がある。うつくしい銀の髪に青い瞳の、冬家として正しい色を持った自慢の兄だ。

 本来色を持つ者が生まれたあとは数十年、色持ちは生まれてこない。しかし青雲は中途半端な色を持って生まれてきた。

 銀というには輝く要素のない、鈍い灰色の髪。澄んだ青にはほど遠い、青灰色の瞳。

 それらは冬家の色だというにはあまりにも半端で、しかし黒髪黒目にはどうみても見えない。なぜまた色持ちが生まれたのか、と騒ぎにもなった。

「幸い、親や兄姉は俺を疎んじるようなことはありませんでした。身体の弱い兄はむしろ喜んでくれました」


 ――きっと僕の代わりに務めを果たすためにおまえは色を持ってきたんじゃないかな。


 小さな頃から兄はそう言っていたし、今もそう思っているようだった。だから今も青雲が当主代理なんてことをしている。

「でも子どもってのは異物に対して敏感です。正しい色を持っていたのならきっと俺のことも敬ってくれたんでしょうけど、従兄弟連中にとって俺はなりそこないだったんですよ」

 敬う必要はない。むしろ大人だってもて余しているような悪い子だから、子どもにとってはちょうどいい獲物だった。

「小さな頃から年上ばかりの従兄弟たちにいじめられていたんですよ。……その度に、助けに来たのが良順でした」

 青雲よりひとつ年上の良順は、体格に恵まれていた。さらに年長の従兄弟たちよりも背が高く、力があった。

『青雲様は悪くないんですからね。多勢に無勢でこんなことをする男たちなど、冬家に相応しくありません。あの人たちが色を持たずに生まれてきたのも当然ですよ』

 青雲の怪我を手当しながら良順はいつもそう言ってくれた。青雲は悪くない、と。

 親兄姉には愛され、認めてくれる良順もいて、だからこそ青雲はひねくれることなく真っ直ぐに育った。

 兄が言うように、兄に代わって危険な任務をこなせるようになろう。中途半端でも冬家に相応しい人間になろう、と。

「大きくなってからは従兄弟連中は俺をうまく使ってきたんですよね。ご存知の通り冬家は武官一族ですから、警護の担当を押しつけられたりとかして」

 別にそれは構わなかった。多くの仕事をこなせばそれだけ経験になるし力もつく。

「……陛下の護衛官となってからは、それでも減っていたんですよ。俺は忙しくてそれどころじゃないですし、そもそも顔を合わせる機会が減りましたから」

 けれど一年前。

 良順が死んだ、あの日。

「――嵐の日でした。俺は非番だったんですが、運悪く従兄弟と鉢合わせて」

 今でも青雲ははっきりと思い出せる。風が強く、邸も軋んだ音をたてていた。


『ちょうどいい! 俺、今日は夜勤なんだよ。でもこの嵐だろう? 俺、この間足を捻ってさぁ……。代わってくれるよな?』


 どこも悪くなさそうなくらいに元気だったが、青雲は断るのも面倒で頷いた。

『青雲様! 今日は非番のはずでしょう! 休んでください……!』

『夜勤を代われと言われてしまったからなぁ』

 押しつけてきた従兄弟は出世もできず門番止まりの男だ。昇進しても問題を起こしては降格されている。

 きっと周りに迷惑かけているのだろう。青雲が行かなければ、さらに迷惑を重ねることになるし、冬家の恥にもなる。

『この嵐の中、危険ですよ……!』

『大丈夫だよ良順。俺ももう子どもじゃないんだから』

 いつも良順に助けられてきた青雲だけど、二十三歳になっていた。体格だけは良順とそう変わらないほど立派になったし、体力もついた。

 外は傘など意味もないほどの大雨で、雨粒が痛いと感じるほど強く肌を打ち付けてくる。

 良順と言い合いながら、そばにいてもお互いの声がとても遠くて、青雲は早く邸に戻れと言おうとした時だった。

 そばの大銀杏が、みしみしと音をたてて。

 その太い枝のひとつが、折れて良順を下敷きにしたのだった。


「……良順は頭を強く打って、助かりませんでした」


 今でも思う。

 なぜ折れた枝は青雲の上に落ちてこなかったんだろう、と。

 死ぬべきだったのは自分で、良順ではなかったはずなのに。

「面白くない話でしたよね、すみません」

「だからあなたはなんでそう簡単に謝るんですか。面白いとか面白くないなんて関係ないでしょう」

 香雪はつい強い口調になる。

 もしかしたら囚われていたのは、良順ではなく青雲だったのかもしれない。

 ――いや、結局のところ、取り戻せない過去に囚われるのは死者も生者も同じだ。

「すみませ……」

「ほらまた」

「ああほんとだ。すっかり口癖になってますね」

 困ったな、と困ってもいないだろうに青雲は笑う。

 この人はいつもこうやって笑顔で自分すら誤魔化してきたのだろう。

「……あなたはその髪と瞳を、中途半端というけど」

 そしてそれは、青雲にとって心の枷になっているのだろうけど。

「いいじゃない、中途半端でも。あなたは選べるってことだもの」

 中途半端だからこそ、選択肢がある。

 香雪にはそう見える。

「生まれた瞬間に将来が定められている。それが色持ちの運命だけど、あなたはどちらにでもなれるってことでしょう?」

 色を持たない人間として生きるか。

 色持ちとして定められた道を行くか。

 青雲はどちらでもない。どちらでもないということは、どちらにもなれるということだ。


 香雪には、それが少し羨ましい。

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