第三章 籠の花、雲を慕う
第一話
百花園は香雪にとって生まれ育った場所だ。
春家の息女として生まれた香雪だけど、
香雪には父がいない。
母は未婚で身籠り、一族の反対を押し切って香雪を産んだ。生まれた子が金の髪だったから、翡翠の瞳だったから、殺すわけにも養子に出すわけにもいかなかった。
母は香雪を連れて春家の邸を出て、百花園で暮らし始めた。だから、香雪にとっての家はここしかない。
贅沢な暮らしができなくても不満はなかった。
母と二人で花木の世話をする、それが香雪にとっての毎日だった。
それが崩れたのは、七年前のことになる。
首から血を流した母が虚ろな目で香雪を見る。青い衣は赤く染まり、元の色がわからなくなっていた。
「――おまえのせいよ」
血を吐きながら母は香雪を見ていた。
恐ろしくてたまらないのに逃げられない。足はまるで誰かに掴まれているかのようで、びくともしなかった。
「おまえのせい」
耳を塞ぎたいのに、腕が持ち上がらない。
「おまえのせい」
目を閉じたいのに、瞼が動かない。
「おまえが、生まれてきたから」
ハッと目を覚まして、香雪は息を吐く。あたりは真っ暗で、闇に慣れ始めた目は見慣れた天井を見つけた。
頭を動かせば、吊るされた花や精油を作るための器具などが並んだ小屋の中の様子が見て取れる。
――夢だ。
ただの、夢。
呼吸を整えながらも香雪はまばたきすら恐ろしくて震える。目を閉じたらまたあの光景が浮かぶんじゃないだろうか。
春家の邸で、血の海の中で倒れる母と祖父。二人とも首を切り自害していた。それは夢ではない。
十一歳の時に香雪の目のあたりにした、現実だ。
乱れた髪を結い直すと、香雪は外へ出る。すっかり日が暮れていた。
青雲はどこへ行ったのだろう。まさかとは思うが一人で幽鬼狩りに行ったのだろうか。
きょろきょろと周囲を見回しても青雲の姿はなく、香雪はなんとなく温室に足を運んだ。ほのかな灯りが見えて、なぜだかとてもほっとする。
「あ、起きましたか」
温室の扉を開けると、そこで青雲が片付けをしていた。
いつかやろうと思って片隅に溜め込んでいた修理しようと思っていた道具やまとめて処分しようと思っていたものが綺麗に片付けられている。
「虫除けが終わったあと花梨さんは帰ってしまって、手持ち無沙汰だったので勝手に修理して片付けてました、すみません」
「いや、謝られることじゃないんですけど……起こしてくれればいいじゃないですか」
月の位置からしても、日暮れから一刻は経っている。ほんの少しの仮眠のつもりだったのだがかなり寝入っていたらしい。
……だからこそあんな夢を見たのだろうけど。
「疲れているようでしたし、寝ている女性がいる部屋に無断で入るのもどうかと思って。……まだ顔色悪いですね」
「これは……ちょっと夢見が悪かっただけです」
「やっぱり今日はやめておきますか? 俺一人でもなんとか……」
「いいえ」
青雲の言葉を遮るように香雪は口を開く。
「……行きます。大丈夫です、ちゃんと眠れましたし」
夢見が悪いのは香雪にとってはいつものことだ。眠りが深ければ深いほど、七年前のあの日のことを夢に見る。そうして必ず、虚ろな目をした母が香雪を攻めるのだ。
――おまえのせいで私達は死んだのだ、と。
香雪はすたすたと迷いのない足取りで夜の蓬陽を歩く。
先程まで青い顔をしていたのに、今はもうそんなものは青雲の見間違いだとでも言いたげに気を引き締めている。
「今日はやけに足取りがはっきりしてますけど、目的地でもあるんですか?」
香雪が足早に歩いても歩幅が違うので青雲はそれほど速く歩く必要はない。
「……蒼家から報告があったので、最優先でその鬼を狩ります」
「花梨さんが持ってきた報告書ですか?」
玄鳥の代わりにと花梨が香雪に渡していたのは、確か何かの報告書だった。どうやら鬼に関しても蒼家は調査しているらしい。
「ええ」
「……読む暇なんてありました?」
「目の前で読んでいたじゃないですか」
受け取ってすぐに中身には目を通した。そのあと休めと青雲に報告書を奪われてしまったけど、内容は頭に入っている。
報告書といっても書かれていることは鬼が目撃された場所などが書かれているだけだ。すぐに目を通すことができるし、覚えるのも容易い。
……ただ、今回の報告書に書かれていたのはそれだけではなかった。
夢見が悪いのはいつものこととはいえ、今日のそれは香雪の中で膨れた罪悪感が要因かもしれない。
あるいは、自己嫌悪か。
「向かっているのは北の方……ですよね」
「ええ、あなたのほうが詳しいでしょうね。冬家の邸の近くにある
大銀杏は冬家の近くの広場に植えられている。まだその葉は緑色で色づいてはいないが、あと半月ほどすれば鮮やかな黄色に染まるだろう。
「大銀杏、の……」
青雲は何かを思い出すように呟いた。
隠していてもすぐにわかることだ。香雪は唇を引き結び、振り返る。
香雪が足を止めれば、それに従うように青雲も止まる。まるで忠実な従者のようだと香雪は苦笑して、一瞬だけ現実から目をそらした。
「今日狩らねばならない鬼は、生前の名前が判明しています。……ほんの数日前までは幽霊として目撃されていました」
幽霊が鬼に成り果てるまでの時間は人それぞれだ。
ただ心残りがあって地上を彷徨うものもいれば、誰かを呪いたいほどに憎んで死んで地上に縛り付けられる者もいる。この場合、後者のほうが鬼になるまでの時間は圧倒的に短い。
負の感情が邪気を呼び寄せてしまうのだろうと言われている。
大銀杏の傍らにいる幽霊は、穏やかそうに佇んでいたのだという。だから香雪はその幽霊を成仏させるのを後回しにしてしまった。まだ猶予はあるはずだと油断して。
「……生前の名は、
だから成仏させることをためらってしまった、というのは言い訳にすぎない。
邸のすぐそばにあるというのに青雲がその広場へ近寄らないという理由を邪推して、香雪は一人でこっそりと対処しに行くつもりだった。そして子どもの幽霊の時と同じように、なにか伝言をあずかってこようと。
「……良順、が」
大銀杏と言われたあたりで青雲にも予想がついていたのだろう。ぽつりと、名前を呟いたきり何も言わない。
黒良順は冬家に仕える黒家の生まれで、蒼家が調査した話では青雲にとっては幼い頃から共にいた、幼馴染みのようなものなのだという。香雪にとっての玄鳥や花梨のようなものだ。
冬家に仕える一族だ。当然、良順も武芸に秀でた青年だった。亡くなったのは一年ほど前。報告書には事故死とあったが、その場には青雲もいたらしいということだけ付け加えられていた。玄鳥は本当に細やかな仕事をする。いっそ嫌味なくらいに。
「……あの子どものときのように、あなたの力でどうにかできないんですか」
沈黙のあと、青雲がそう問いかけてきた。
香雪は待ち構えていた問いに、ゆっくりと首を横に振った。
「わたしは鬼となってしまったものをどうすることもできません。鬼は、あなたの剣で斬る他には救われる術がないんです」
――こんなに早く変貌するはずがなかった。
でもそれはあくまで予測でしかない。邪気が増えている今、香雪が今まで培ってきたおおよその勘はあてにしてはいけなかったのだ。
青雲のためになんて思いながら躊躇った。本当に彼のためを思うのなら、一日でも早く香雪は良順のもとへ行って成仏させてやるべきだった。
「……そう、ですか。わかりました」
青雲は香雪を責めるわけでもなく、やけにさっぱりとした声で答えた。
「……え」
香雪が呆けた声を出しても、青雲は北のほうを真っ直ぐに見据えていた。まるでその視線の先に良順がいるかのように。
「行きましょう。あいつが鬼となったのなら、油断はできません。人を襲ったりする前に止めないと」
生前は武芸に秀でた人間だ。それが理性のない鬼になってしまったのなら、その力はただの鬼よりも脅威になる。
大丈夫ですか、とも。
いいんですか、とも。
問うことを香雪は許されない。
だから小さく頷いて、青雲と共に急ぐしかなかった。
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