第四話
やわらかな光も消えて、もとの夜の闇が戻ると香雪は灯りに備えつけていた香りを変える。
最初に使ったものと同じ、
「……あの子どもは冥界へ行けたんですか?」
子どもがいたあたりを見て、青雲が問いかけてくる。もうそこにはなんの名残も残っていない。
「ええ、無事に」
これであの子が地上を彷徨い続け、鬼になることもない。そのことが何より救いだ。
「……約束、安請け合いして良かったんですか?」
聞こえていたのか、と香雪は苦笑する。
安請け合いと言われれば確かにそうなのだろう。香雪はあの子どもの名前さえ聞かなかった。
もしかしたら青雲は、香雪が口だけでもともと約束を守るつもりはないのだと思ったのかもしれない。
香雪は大丈夫ですよ、と答えた。
「わたし、守れない約束はしない主義なので」
その後、話していたとおりもう一体の鬼を狩ると香雪と青雲は帰路につく。
「送りますよ」
「結構です」
青雲は律儀にそう申し出たが、香雪はきっぱりと断った。
「いや、だって夜更けですし。春家の
春家の邸は蓬陽の東にある。香雪と青雲がいる現在地はその反対の場所だ。徒歩で帰るとなればそこそこ時間がかかるだろう。
「春家には行きませんよ。百花園に戻ります」
「え? まだ何かやることがあるんですか?」
「いいえ? 今日はもう寝るだけですけど」
花守としての仕事があるから百花園に戻るということかと思ったが、どうやら違うらしいと青雲は悟る。
しかも香雪の口ぶりからすると、まるで百花園に住んでいるように聞こえてくるのだが。
「……百花園に寝泊まりできるような場所ありました?」
「何言ってるんですか。あなたも入ったじゃないですか」
百花園にあって、青雲が足を踏み入れた建物などひとつしかない。
「あれは作業小屋ですよね……!?」
「人の家を小屋とか言わないでくださいよ。まぁ……控えめに言うと小屋ですけど」
やっぱり小屋じゃないか、と青雲は頭を抱えたくなる。
「春家の邸は!?」
春家は蓬陽の東に、冬家なら北に、四季家にはそれぞれ都の一角に大きな邸を構えている。あんな小屋に住むような生まれではない。
香雪は「んー……」と言葉を選ぶようにしばし考えた。
「邸は長いこと使ってませんね。……あそこは、人が住めるような状態じゃないですよ」
どれだけ放置しているんだろう、と青雲は青ざめつつ、結局その後も数分言い合った末に香雪が折れて、青雲はきっちりと百花園まで香雪を送り届けたのだった。
*
それから五日ほど、特に大きな問題もなく青雲は香雪と過ごしていた。昼間は花の世話、夜には幽鬼狩りとほぼ一日一緒に過ごしているので、香雪も嫌でも青雲に慣れてくる。
「水遣り終わりましたよ」
香雪が花を摘んでいると、作業を終えた青雲がやってくる。
百花園という名をつけられているものの、満開の花々が咲き誇っていることはない。ほとんどの花は咲き切る前に手折られることの方が多く、残されているのは来年に向けて種をとるためにそのままにしてある花だけだ。
「え、もうですか? 早いですね、ありがとうございます。……じゃあ向こうの温室もお願いしようかな」
最初は花の世話に慣れぬ様子だった青雲も、五日もすれば作業にも慣れて香雪が想定しているよりも早く終わらせてくるようになった。もしかすると鬼狩りよりも手際が良くなってきたかもしれない。
「温室?」
「
百花園の敷地は広く、香雪の案内で銀木犀の並ぶ庭を抜けた先にそれはあった。
透明な硝子の向こうには生き生きとした緑が見える。多くの葉が紅く色づき始める秋には珍しい濃い緑色に青雲は目を丸くした。
「へぇ……あたたか……いや、暑い?」
温室の中に一歩足を踏み入れ、青雲は驚いた。
「そうなんです。だから寒さに弱い花なんかはここで育てます」
「すごいですね」
香雪も珀凰がやったことの中で、これだけは素直に評価したい。気候の変動によって影響を受けやすい花も、温室の中なら安全に育てることができる。
今回の邪気の件も、ここの中の花には影響がない。
「最初は変なものを作ったものだと思ったんですけど、なかなか便利なんですよ。それに、少し肌寒くなってきたらこの中でお昼寝するとすごくよく眠れ……あ」
香雪がしまった、という顔をするものだから青雲はおかしくなる。
口を滑らせてしまったようだが、青雲は仕事の合間のうたた寝くらいで目くじらをたてるほど生真面目ではない。
「告げ口したりしませんから安心してください。年相応でちょっと微笑ましいくらいですよ」
くすくすと青雲が笑うと、香雪は照れ隠しなのかむすっとしながら目をそらす。落ち着いた雰囲気のある香雪だが、こういう顔もするのか、と青雲は思う。
「子ども扱いしないでください」
水遣り任せましたからね! と言って香雪は温室から出て行った。
拗ねた顔はむしろ少し幼いくらいだ。作りものめいたうつくしい顔立ちが大人びて見せるだけで、香雪自身はわりと子供っぽいのかもしれない。
広い庭園に比べて温室の水遣りなどあっという間だ。さてこの後は雑草抜きだろうか、と思いながら青雲は戻る。
「灰はその袋の分だけよ。もしかして足りない?」
香雪の声がして、青雲はあれ? と首を傾げる。百花園には香雪と青雲しかいなかったのだが、どうやら香雪は誰かと話しているようだ。
「いつもなら足りるが、今は幽鬼が多いしなぁ……」
香雪と話をしているのは細身の青年だった。香雪よりも二、三歳年上といったところだろうか。志葵国ではごくごく普通の黒髪に黒い瞳だ。
「ああ、あとこれ、この間頼まれていたやつ」
「ありがとう
その青年と話す香雪はとても自然体だった。五日経っても青雲は男嫌いな香雪を気遣って一定距離を保つようにしているのに、青年にはそんな様子はない。
なくても許される関係、というやつなのだろうか。
「えーっと……?」
これはもしやお邪魔なのでは、と青雲はぐるぐる考え始めるが、二十二歳になっても浮いた話などひとつもないものだからどうすればいいのかもわからない。
「あ、温室も終わりました? ありがとうございます」
「あ、はい」
声をかけていいものかと悩んで突っ立ている青雲に、香雪が気がつく。
青年の黒い瞳がじぃっと青雲を見る。いたたまれなさに青雲はとりあえず笑ってみたが、青年は真顔だ。
「……冬家の方ですね」
「ええ、はい、まぁ……」
青年は青雲を見て断言する。
花守ほどではないにせよ、冬家の特徴は志葵国の民には知れ渡っている。銀に青。それが冬家の色だ。
それがたとえ濁っていようが、曇っていようが、『色』持ちであることには変わりない。
「
蒼家といえば、春家の分家であっただろうか。なるほど、それなら香雪と親しげなのも頷ける。
「冬青雲です」
名乗ったあと、何か話題はあるだろうかと青雲は悩むが何も思いつかない。共通の話題などないし、間に入るべき香雪はいつの間にやら小屋に入っていってしまったらしい。
いい天気ですね、とでも言えばいいのかと青雲が冷や汗を流していると、香雪がひょっこりと小屋から顔を出した。
「ねぇ玄鳥、乾燥花ならあるけど持って行く?」
「冬の備えにまで手を出さなくていい。間に合うようにどうにか調整する」
香雪の提案にきっぱりと玄鳥は答えた。乾燥させた花が冬に使われるのだということも彼はとっくに知っているらしい。
香雪は「えっとじゃあ……」と何か他に使えそうなものがないかと、もう一度小屋の中に戻る。
「だからどうにかするって……ったく。それじゃあ失礼します」
「あ、はい」
青雲には丁寧に挨拶して、玄鳥は荷物を抱えて百花園を出て行く。
すぐに香雪が小屋から出てきたが、既に玄鳥の後ろ姿さえ見えなくなっている。
「あれ? 玄鳥帰りました?」
「ええ、先ほど。引き止めたほうが良かったですか?」
「いいえ。いつものことですし、どうせ数日後にはまた来ますから」
見ると、小屋の入り口には食料や日用品の入った箱がある。玄鳥が運んできたものなのだろう。
百花園からほとんど出ることのない香雪がどうやって生活しているのかと思ったが、蒼家がこうして必要なものを届けているらしい。
「蒼家の方もここの作業を手伝っているんですか?」
「いえ、蒼家のほとんどは蓬陽の花の加護を保つために動いてもらっています。ここにくるのは玄鳥の他には……二人くらいですね」
「二人」
百花園での作業を考えると随分と少ない気がする。
「一人は玄鳥の従妹です。碧蓮城に毎日生花を届けてもらっています。もう一人は……あまり来ませんけど。百花園に立ち入る許可をしているのはその三人だけです」
つまりそれは、香雪の補助にあたっているのは実質玄鳥とその従妹のたった二人ということだろう。
「本来、陛下のもとへ生花を届けるのも春家の人間の仕事です。でも春家の血筋は、もうわたししかいないので」
蒼家の手を借りるしかない、と香雪は笑う。
春家は四季家のなかでも特殊だ。花守という重要な役目を担いながら、今まで一度も政治に口出したことはない。それは花守が女性であるからという理由もあるのだろう。
秋家や冬家と違い、権力闘争に巻き込まれることもなく、ただ淡々と血を繋いできた。結果的に春家は四季家のなかでも直系の人数は少なく、どんどんと数を減らし、七年前ついに香雪一人となってしまった。
「ああそうだ、今日はちょっと用事があるので、鬼狩りの前に出かけてきます。現地集合でもいいですか?」
「かまいませんけど」
「ありがとうございます」
用事? と青雲は首を傾げる。
香雪の一日は花の世話で始まり花の世話で終わる。いや、今は幽鬼狩りがあるが、大半が花のことで埋め尽くされていて、青雲はこの五日の間、香雪が個人的な用件を口に出すことなど見たことがなかった。
彼女は買い物すらしない。日用品は届けられるから、その必要もない。
――そんな香雪が、用事?
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