②
委員長にこき使われてすっかり広大な学園の隅から隅まで走り回った気になっていたが、それでも入ったことのない場所というのはまだいくらでもあるし、他学科の校舎ともなるとなおさらだ。
福居さんの持ち込んできたCD二枚を携えて僕が訪れたのは情報科の校舎で、生徒会室のある旧校舎が敷地の北の端に位置するのに対して情報科は南の端の第六校舎を根城にしていて、ものすごく簡単に言うと大層遠い。
ちょっとした田舎町程度の生徒数を抱えている中高一貫校のわが学園はすべてがいちいち大スケールで、それだけの人数がひしめき合える敷地も学生の数に比してばかみたいな面積を擁している。
無駄に自然とアップダウンの豊かな学園内は放課後のあてのない散歩にはうってつけであるのか、主に寮生と思われるが、途中暇そうな生徒たちがそぞろ歩きをしているのに何度も出くわした。
木立の陰で愛を語らっている男女二人組も目撃したが、別に学則は男女恋愛を禁じてもいないし風紀委員としても僕個人としても馬に蹴られて死にたくはないので見なかったことにし、黙々と歩いてたどり着いた第六校舎は実に近代的かつスタイリッシュな建物であった。
普段出入りしている朽ちかけた旧校舎とは比べるべくもなく、荷車と最新型プリウスくらいの差があるだろう。
帰宅する生徒はすでに去り、部活動に勤しむ生徒はすでに散ったあとという微妙な時間のためか、校舎は実に閑散としていた。
真新しいリノリウムの階段で二階へ上がり、情報科教員室を訪ねる。
「……失礼します。情報科の大桑先生、いらっしゃいますか」
彼女は僕をここへ遣るにあたりアポイントすら取ってくれなかったため、これから会うべき人物がいるのかどうかすらわからなかったが、果たしてそれは杞憂に終わった。
教員室はがらんとしていて、数名の教員が机に向かって何か作業をしているだけだったが、僕の問いかけに扉から一番近いデスクで書類の整理に勤しんでいた教師がすっと立ち上がった。
「ええと、普通科の生徒さんかな。こんなところまで珍しいね、どうしたの」
当然ながら生徒数の多い学園はそれに比例して教師の数も多い。
加えて、学園には普通科のほか、情報科、工業科、理数科など中学・高校にしてはめずらしくいくつもの学科があり、基本的に教諭は自分の学科の担任を受け持っているし、授業も専門に行っている。
よって僕は奈落に「情報科の大桑教諭を訪ねるように」と言われて来たはいいものの、肝心の大桑先生の顔も名前も知らなかったのだ。
情報科の教諭というだけで、僕はビル=ゲイツのごときゴリゴリのITインテリ男を勝手に想像していたものの、実物の大桑先生は全く逆で、快活なOL風のお姉さんだった。
女性の年の頃を計るのは得意ではないが三十手前と言ったところだろうか。
おろしたての半紙みたいに白いブラウスと、紺色のタイトスカートといういかにも女教師っぽい装いの似合う人だ。
情報科というとシリコンバレイを夢見て一日中パソコンをいじっている人達の集まりだと思っていたが、どうにもこのお姉さんが教壇に立っているところを思い描くことはできなかった。
大桑先生は僕のブレザーの普通科高等部を示す襟章を一瞥して小首を傾げた。
「普通科高等部一年C組の花崎といいます。今日は先生にお願いがあって来ました」
「お願い? あたしにできることかしら」
後ろ手に入口の扉を閉めて先生のデスクへと歩み寄りながら声をひそめてそう告げると、彼女はわずかに怪訝そうな顔をする。
初対面かつ他学科の生徒にいきなりこんなことを言われれば当然の反応か。
「ええ、ぜひ折り入って。それがですね、僕、実は風紀委員なんですけど……」
何と説明したものやら、僕が喉元につっかえる言葉を食んでいると、そのワードを出した途端に先生の目の色が変わった。
「風紀委員? あなた風紀委員なの?」
「は、はい。そうですけど……」
「もしかしてあなた、奈落ちゃんの彼氏?」
「え」
僕の頭の先から靴のかかとまで一分の隙もない値踏み視線でもってじっくり射貫いてから、大桑教諭は取調中のベテラン刑事のような口調で訊ねた。
突然何を言い出すんだこの人。
「え、じゃなくて。どうなの? あの子とどういう関係?」
教員室にいる他数人の教師たちがちらちらとこちらを窺っている。
入室して一分も経たないうちに猛烈な居心地の悪さを感じ、僕は思わず半歩のけぞった。
「彼氏だなんて、違いますよ。先輩後輩というか、上司部下というか、そんな感じです」
「付き合っているわけじゃないのね?」
「違いますけど……」
なんだろう、そこが重要なのだろうか。
「先生こそ奈落、……姫宮先輩とどういう――」
「従姉妹よ。もう、焦らせないでちょうだい。てっきりお付き合いの挨拶に来たものだとばっかり」
「だから違いますってば」
「いまは違うかもしれないけどね、将来そういうふうになることがあったら真っ先にあたしに報告なさい。わかったわね」
従姉妹ねえ。そう言われてみると、その繊細な顔立ちや聡明そうな瞳の形にどことなく面影があるように見えなくもないが、それよりもいつの間にか他人の家の庭を侵食するツタのようなこの喋り口調に奈落との共通点を感じると同時に、僕は彼女があれだけ大桑教諭の介入をいやがった理由を少しずつ解りかけていた。
「それで、本題なんですけど……」
「ああ、本題ね。どうせ奈落ちゃんに紹介されてあなたがここへ来たっていうよりは、あたしに用があるのは奈落ちゃんで、あなたは代わりに来ただけなんでしょう?」
「そうですけど、よくわかりましたね」
「当然よ。まったく奈落ちゃんったら照れちゃって……、直接あたしに会うのが恥ずかしいのかしら」
ぜったい違うと思う。
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