第10話

 僕たちは、駅の事務所から出てきた。

「明日香さん、サングラスで一つ思い出したことがあるんですけど」

 と、僕は切り出した。

「ええ。私も、たぶん明宏君と同じことを考えているわ」

 と、明日香さんは頷いた。

「例の、明日菜ちゃんが言っていた、探偵事務所を見上げていたサングラスの男って――」

「そうね。ちょっと、確認してみましょう」


「えっと、忘れ物の預かり所は――あっちですね」

 僕は案内板で確認すると、明日香さんと一緒に向かった。


「明日香さん、さっきの女性駅員がいますよ」

「すみません、ちょっとよろしいでしょうか?」

 と、明日香さんが女性駅員に話し掛けた。

「はい。忘れ物のお引き取りでしょうか?」

「先ほど佐々木駅長とお話しされていた、サングラスのことなんですけど」

「もしかして、あのサングラスの落とし主の方でしょうか? 申し訳ございません。私の不注意で、紛失してしまいまして」

 女性駅員は、慌てて明日香さんに謝った。

「いえいえ、そうじゃありません。私は、探偵の桜井と申します」

「探偵さん? あっ、もしかして一昨日の――」

「そうです。実は一昨日の件にも関連して、サングラスのことをお聞きしたいのですが」

「分かりました。私で、よろしければ」


「サングラスがなくなったのは、いつのことですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「いつなくなったのか、正確には分からないんですけど。気がついたのは、一昨日の午前中です。例の痴漢騒ぎの後、2時間くらい経ってからです。ちょうどそのとき、メガネを引き取りに来られた方がいらっしゃったんです。そこで、たまたま気がついたんです。一昨日の朝、私が出勤してきたときには、間違いなくあったんですけど」

「でも、よく気がつきましたね。一つくらいなくなっても、僕だったら全然気がつかないかもしれません」

 と、僕は言った。

「実は、私のお付き合いしていた人が、同じようなサングラスを持っていたので。あっ、同じのだと、ずっと思っていたんです」

「ちなみに、何時頃出勤されたんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「7時くらいです」

「ということは、出勤されてから数時間の間に、サングラスが消えたわけですか。ちなみにですけど、一般の方が勝手に入って、サングラスを持ち出すことって可能でしょうか?」

「それは、無理だと思いますけど。必ず、誰かがいますから」

「それでは、担当以外の駅員の方が出入りすることは?」

「それは、可能ですけど。でも、わざわざ用事もないのに、来ないと思いますけど」

「一昨日は、誰か担当以外の駅員さんが、こちらに来ませんでしたか?」

「そういえば、来ましたけど」

「誰ですか?」

「新田さんです」

 明日香さんと僕は、顔を見合わせた。

「新田さんは、いつ頃どういったご用件でこちらに?」

 と、明日香さんは、質問を続けた。

「確か、痴漢騒ぎの後で1時間も経っていなかったもしれません。正確には、覚えていないんですけど。用件は、友達の忘れ物が届いていないか、確認をしたいと言っていました」

「それで、その友達の忘れ物というのは、あったんですか?」

「分かりませんけど、たぶんなかったんだと思います」

「分からないというのは?」

「いつの間にか、いなくなっていたので。たぶん、私がお客様の対応をしている間に、出ていったんだと思います。もしもあったのなら、私じゃなくても、誰かに声を掛けていくはずです」


「明日香さん、やっぱり探偵事務所を見上げていたのは、新田さんで決まりでしょうか?」

 と、僕は小声で聞いた。

「その可能性が高いと思うけど、明日菜に確認してみたいわね」

「すみません、新田さんの写真って、お持ちじゃないですか?」

 と、僕は聞いた。

 まあ、いくら同僚だからって、都合よく写真なんか持っていないとは思うけど。

「ありますけど」

「あるんですか?」

「はい。少々お待ちください」


 数分後、女性駅員は写真を持って戻ってきた。

「先月の、飲み会での写真です」

「ありがとうございます」

 明日香さんは、写真を受け取った。

 飲み会の開始前の写真だろうか、テーブルの上には料理もお酒も並んでいない。

「この写真、お借りしてもよろしいでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「ええ、いいですけど――新田さんが、どうかしたんですか? まさか、新田さんがサングラスを持っていったんでしょうか? 新田さんが休んでいることと、何か関係があるんですか?」

「それは、まだ分かりませんけど。それを確かめるためにも、お願いします」

「分かりました」


 僕たちは、忘れ物の預かり所を後にした。

「明日香さん、これからどうしますか?」

「ちょっと、明日菜に連絡してみるわ」

 明日香さんは、携帯電話を取り出した。


「午前中なら、時間が取れるみたいよ。探偵事務所に寄るって。私たちも、探偵事務所に戻りましょうか」

 僕たちはバスに乗って、探偵事務所に戻った。


 探偵事務所に戻ってすぐに、明日香さんの携帯電話が鳴った。

「もしもし、鞘師警部。おはようございます」

「明日香ちゃん、君に頼まれた件を、あれからすぐに調べてみたんだが、面白いことが分かった。明日香ちゃんの推察通り、鈴木陽子さんと東野純次さんは面識があるようだ。彼女の高校時代の同級生から、話が聞けた。二人とも、同じ高校の同級生だったよ」

「そうでしたか。二人は、特別な関係だったんでしょうか?」

「いや、そういう話は聞いたことがないそうだ。もちろん、高校卒業後にそういう関係になった可能性は、否定できないがな。それと鈴木陽子さんだが、どうやら、一昨日から帰宅していないみたいなんだ。引き続き、調べてみるよ」

「よろしく、お願いします」

 明日香さんは、電話を切った。


「明日香さん、どういうことですか? 鈴木陽子さんと東野純次さんが、高校時代の同級生だったなんて。やっぱりストーカーというのは、嘘なんですね」

「ええ、嘘でしょうね」

「それじゃあ、やっぱり――」

 二人は、僕からお金を取ろうとしていたのか。

「でも、明日香さん。どうして鞘師警部に、そんな依頼をしたんですか?」

「明宏君、覚えてない? 鈴木さんが、ここに来たときのことを。彼女、明宏君からコーヒーの砂糖のことを指摘されたときに、『じゅ』って、言い掛けてから、『知り合いの人』って、訂正したわ」

「あっ、それは僕も気がつきました」

「あのとき、誰か具体的な人物の名前を言おうとして、咄嗟に『知り合いの人』って、言い直したような気がしたのよ。それで、坂本さんの本当の名前が、東野純次さんって分かったときに、もしかして、『純次さん』って、言おうとしたんじゃないかしらって思ったのよ」

「なるほど。たとえ特別な関係じゃなくても、同級生なら好みを知っていても、全然おかしくないですよね」


 午前11時頃――


「お姉ちゃん、明宏さん、おはよう!」

 いつも以上に元気よく、明日菜ちゃんが探偵事務所にやって来た。

「明日菜ちゃん、おはよう。コーヒー飲む?」

「明宏さん、ありがとう。もちろん飲むよ」

「明日菜、早速だけど、この写真を見てちょうだい」

 と、明日香さんが、新田さんの写真を手渡した。

「やっぱり、私の力が必要なんだね。お姉ちゃんも、まだまだだね」

 と、明日菜ちゃんは、嬉しそうに写真を見ている。

 なるほど、自分も調査に加わることが嬉しくて、いつも以上に元気なのか。

「余計なことは言わなくてもいいから、どうなの? 探偵事務所を見上げていたのは、この人だった?」

「うーん……。どうだったかなぁ?」

 明日菜ちゃんは写真を見ながら、考え込んでいる。

「明日菜ちゃん。はい、コーヒー」

 僕は明日菜ちゃんに、コーヒーを渡した。

「ありがとう」

 明日菜ちゃんは、コーヒーを一口飲んだ。

「明日菜ちゃん、どう?」

「うーん。あの人は、サングラスを掛けていたからなぁ。明宏さん、サングラスを掛けた写真は、ないの?」

「残念だけど、それしかないんだ」

「そうだ! 明宏さん、何か黒いペン持ってる?」

「えっ? あるけど」

 僕は、探偵事務所にあったペンを渡した。

「ありがとう、明宏さん」

「何をするの?」

 何か、メモでもするんだろうか?

 まさか、ペン回しを披露するわけでもないだろうし――と、明日菜ちゃんを見ていると、明日菜ちゃんはペンのキャップを外し、いきなり写真を塗り始めた。

「ちょっと明日菜! その写真、借り物なのよ!」

 と、明日香さんが慌てて止めたが、もう手遅れだった。

 明日菜ちゃんは、新田さんの写真の目の部分を、真っ黒に塗りつぶしていた。

「明宏君、そのペンは油性?」

「は、はい。油性です」

「もうっ! 仕方がないわね。返すときに、私が謝るわ」

 そんな明日香さんの様子を気にすることもなく、明日菜ちゃんは写真を見つめている。

「お姉ちゃん、やっぱり、この人だよ!」

「えっ?」

「探偵事務所を見上げていたのは、間違いなく、この人だよ」

「本当ね?」

「本当だよ。写真に、サングラスを掛けてみたの」

 と、明日菜ちゃんは、目の部分を黒く塗った写真を、自慢気に見せた。


「明日香さん、どうして新田さんは、そんなことをしたんでしょうね? 鈴木陽子さんのことが気になったとしても、わざわざ変装までして、ここまで来ますかね?」

 と、僕は疑問を口にした。

「そうね……。しかも、体調不良と言って、職場を抜け出して来るのは異常よね。赤の他人の為に、どうしてそこまでするのかしら?」

「そうですね。あの日に会ったばかりの客に対して、そこまでしますかね?」

 と、僕は首を傾げた。

淳之介じゅんのすけさんは、その女の人に恋しちゃったんじゃないの?」

 と、突然、明日菜ちゃんが言い出した。

「恋? そんなに簡単に、恋をするものかな?」

 と、明日香さんに、簡単に恋した僕が言った。

「する人は、するんじゃないの? 私は、しないけど」

 と、明日菜ちゃんは笑った。

「明日菜、淳之介さんって、誰よ?」

 と、明日香さんが聞いた。

 そういえば、誰のことだ? 聞いたことが、ないぞ。

「誰って――この写真の人じゃないの?」

「そういえば、新田さんの下の名前は聞いていなかったわね。でも、どうして明日菜に、新田さんの名前が分かるのよ?」

「写真の裏に、名前が書いてあるもん。新田淳之介って」

 と、明日菜ちゃんは言うと、写真を裏返してみせた。

 そこには、新田淳之介と小さく書いてあった。

「明日香さん、本当ですね。書いてありますよ」

 と、僕は言った。

「――明日香さん?」

 明日香さんは写真の裏の、新田淳之介の文字を見ながら、何か考え込んでいる。自分よりも先に、明日菜ちゃんに見つけられたことが、ショックだったのだろうか?

「明宏君――『』よ」

 と、明日香さんは呟いた。

「じゅ?」

「そうよ! 新田さんの名前も、『じゅ』で始まるのよ」

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