第9話

「うーん……」

 僕は、目を覚ました。どうやら、いつの間にか眠ってしまったみたいだ。

 ――あれっ? 部屋が、明るいな……。もう、昼間なのか?

 いや、部屋の電気がついている。

 僕は布団に入ったまま、携帯電話の時間を見た。まだ、午前6時前だ。

 あれっ? 明日香さんが、いない。明日香さんが寝ていた布団は、すでに畳まれていた。

 まさか、一人で行ってしまったのだろうか? いや、それにしては時間が早すぎる。

 ま、まさか……。

 僕が寝ぼけて、明日香さんに何かしてしまったのだろうか?

 それで、明日香さんは怒って出ていった――

 いやいや、僕がそんなことをするわけがない。この僕に、そんな度胸はない。

 うん? 何か、いい匂いがするような。

 僕は、だんだん頭がすっきりしてきた。

「明宏君、おはよう。起こしちゃった?」

 僕は、ゆっくりと体を起こした。

 そこには、笑顔の明日香さんが立っていた。

「明日香さん? お、おはようございます」

「明宏君、冷蔵庫にほとんど何も入っていないじゃない。しかも、お米はどこにもないし。何の為の炊飯器よ」

「す、すみません。米は、切らしてて」

「とりあえず、冷蔵庫にあった玉子で、目玉焼きは作ったんだけど」

 と、明日香さんは言った。

 そうか、分かったぞ! これは、毎度おなじみの夢っていうやつだな。

 明日香さんが、僕の部屋で目玉焼きなんか作るわけがない。

 僕は、納得した。

 それにしても、夢にしてはリアルだな。まるで、本物の目玉焼きみたいだ。

 しかし、これが夢ということは、この笑顔の明日香さんも、実在の明日香さんではないということだ。

 夢なんだったら、目玉焼きよりも明日香さんの方が――

 僕は、夢の中の明日香さんに向かって、手を伸ばした。

「ちょっと、明宏君? 何よ。この、変態!」


「はっ!」

 僕は、目を覚ました。やっぱり夢か……。それにしては、左の頬が痛いが……。

「明宏君、大丈夫? また、強く叩きすぎたかしら?」

「あ、明日香さん? 夢じゃなかったんだ」

 僕は、頬の痛みで、完全に目が覚めた。

「明日香さん、わざわざ朝食を?」

「朝食といっても、目玉焼きだけよ」

「アパートの前のコンビニで、おにぎりを買ってきます! 3分で、戻ります」

 僕は急いで飛び起きると、明日香さんの目の前で着替えるわけにもいかないので(また、殴られてしまう)、洗面所で着替えて顔を洗い、財布を持ってアパートを飛び出した。


 数分後――


 僕は、コンビニでおにぎりを買って、部屋に戻ってきた。

 さすがに、3分では戻れなかったが。

 食卓には、目玉焼きとカップの味噌汁が並んでいた。


「明日香さん……。ありがとうございます。僕なんかの為に、こんなことまで。めちゃくちゃ美味しいです」

 僕は、涙が溢れそうになった。

「何よ、大袈裟ね。ただの目玉焼きよ。まあ、そう言ってくれるなら嬉しいけど」

 僕が今まで食べてきた目玉焼きよりも、はるかに美味しい。

「味噌汁も、最高です」

「それは、お味噌汁の会社の人に言ってあげて」

「明日香さんがお湯を沸かすと、味噌汁の味も全然違いますね」

「そこまで言われると、逆に嘘くさいわね」

「おにぎりも――」

 あっ、これは明日香さんじゃないか。


「さあ、行きましょうか」

「明日香さん、その荷物はどうするんですか?」

「そうね――邪魔になるし、置かせておいて。後で、取りに来るわ」

「分かりました」

 ということは、明日香さんは、僕の部屋にもう一度来るということだ。

「それじゃあ、行きましょう」


 僕たちは歩いて駅まで向かうと、僕が毎日乗る電車に乗った。

「鈴木陽子さんは、乗っていないようね」

 と、明日香さんが車内を見ながら言った。

 電車内は混んでいるが、動けないほどではない。

「ちょっと、他の車両を見てくるわ」

 と、明日香さんは言うと、人の間を掻き分けながら進んでいった。


 明日香さんが行ってしまって、僕は一人でつり革に掴まって立っていたのだけど、近くに立っている二人組のOLらしき若い女性が、僕の方を見ながら、ひそひそと何か話している。

 ま、まさか、この人たちは、一昨日の痴漢騒ぎを見ていて、僕のことに気づいているのでは?

 明日香さん、早く戻ってきてください!


 しばらくすると、明日香さんが戻ってきた。

「明日香さん、鈴木陽子さんは、いましたか?」

「さすがに、前の方まで行くのは諦めたわ」

 と、明日香さんは、首を横に振った。

 だんだん人が増えてきて、諦めて戻ってきたみたいだ。

「たぶん、いないんじゃないですか? 一昨日も、出勤の為に乗っていたわけじゃないようでしたし」

「そうね」

 と、明日香さんは頷いた。


「ねえねえ、ちょっと聞いてみようよ」

「ちょっと、やめなさいよ」

「いいじゃない。今度は、一緒にいる綺麗な人を狙ってるのかも」

 僕たちの近くから、そんな話し声が聞こえてきた。

 ま、まさか――やっぱり、さっきのOL二人組だ。

「あの、すみません」

 二人組の内の一人が、僕に話し掛けてきた。

「な、何ですか?」

「あの、間違っていたら申し訳ないんですけど。一昨日の痴漢騒ぎの――」

 やっぱりそうだ……。

「あ、あの。あんまり大きな声で、痴漢とか言わないでください」

 と、僕は懇願した。

 何も知らない人に聞かれたら、また誤解されてしまう。

「あ、ごめんなさい」

 と、OLは自分の口を手で押さえた。

「僕は痴漢なんて、やっていないんです。だから、今ここにいれるんです」

「そうですよね」

「あの女性に、ちょっとした事情があって、ああいうことになっただけですから」

「あの女の人、あの後で警察に捕まったんですか?」

「えっ? 別に、誰も捕まったりしてないですよ。納得のいく理由でしたから」

「そうなんですか?」

 と、話し掛けてきたOLは、何か腑に落ちないような様子だ。

「だから言ったでしょう。あなたの、考えすぎだって」

 と、もう一人のOLが言った。

「でも、そうだと思ったんだけどな」

 いったい、この二人は、何を言っているんだ?

「ねえ、あなたたち。どうして、あの女性が逮捕されたと思ったの?」

 と、明日香さんが聞いた。

「それは、あの女の人って、わざと痴漢をでっち上げて、お金を取ろうとしていたのかと思ったんです」

「どうして?」

「あの女の人、何日か前にも見たんです、この車両で。たぶん、あなたのことを見ていたんだと思います」

 と、OLたちは、僕を指差した。

「えっ? 僕を?」

「そうなの明宏君?」

「いや、僕は一昨日が初対面ですし、いたら分かると思いますけど」

 僕の記憶の中には、まったくないのだが。

「気づかなかっただけだと思いますよ。そのときは、一昨日とは全然違うメイクと服装でしたから。かなり地味な」

「そんなこと、言われても――あっ!」

 僕は、思い出した。

「そういえば、何日か前に、女の子が僕の方を見ていたような気が――」

「それですよ。私たち、そのときは、あの女の人が、あなたに気があって見ていたのかなって思ったんです。二人で、変わった趣味だねなんて話していたんですけど」

 うん? 変わった趣味? どういう意味だ?

「そうしたら、一昨日は全然違うメイクと服装で現れて、あの騒ぎでしたから。何日か前に見たときは、お金を取る相手を物色していたのかなって」

「でも、本当に同一人物ですか? 全然イメージが違うんですけど」

 と、僕は半信半疑で聞いた。

「間違いないですよ。私たち、化粧品の会社で働いているんですけど、女の人って、メイクや服装で全然違う雰囲気になりますから」

 そういえば明日菜ちゃんも、モデルのステージと普段のときと、ちょっと印象が違うときがあるな。

「まあ、明宏君には、そういうところは分からないわよね。二人とも、ありがとう。とても貴重なお話だったわ」


 僕たちは、いつもの駅で電車を下りた。

「明日香さん、さっきの話が事実だとすると――」

「そうね。鈴木さんの話は、真っ赤な嘘だったということね。数日前から、明宏君を狙っていたのね」

「ということは、鈴木陽子さんは、お金を取れそうな人として、僕に目を付けていたんですね」

 あれだけの人がいて、どうして僕だったんだろうか?

 他の人たちよりも気が弱そうで、お金を出しそうだと思われたんだろうか?

 まあ、気が弱いのは確かだけど。

「坂本さん――いえ、東野さんは、本当にストーカーだったのかしら?」

「そうか! 東野さんは目撃者役で、二人で僕からお金を取ろうとしていたんですね。それが、あんなことになったので、ストーカーだなんて嘘をついて、無関係を装ったんですね」

「その可能性も、あるわね」

 と、明日香さんは頷いた。

 その可能性もというか、その可能性しかないだろう。鈴木陽子さんに会って、問い詰めなければ。

「明日香さん、これからどうしますか?」

「ちょっと新田さんにも、話を聞いてみたいわね」

「新田さんにですか?」

 僕は辺りを見渡してみたが、新田さんの姿は見当たらない。

「見当たりませんね。事務所の方に、行ってみますか?」

「そうしましょうか」


 僕たちは、駅の事務所にやってきた。

 すると、佐々木駅長が僕たちに気づいて、こちらにやってきた。

「これは探偵さん、おはようございます。一昨日はご迷惑をおかけして、大変失礼いたしました。そういえば、テレビのニュースで見たんですが、あの殺された方って――」

「佐々木駅長、おはようございます。ええ、坂本と名乗っていた目撃者です」

「やっぱり、そうでしたか。いや、顔を見てそっくりだったので、びっくりしました。それで、今日は、どういったご用件でしょうか?」

「今日は新田さんは、いらっしゃいますか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「新田君ですか。実は、あれから体調不良で休んでいましてね」

「体調不良ですか?」

「ええ。あの日、皆さんが帰られた直後に、急に体調が悪いと早退しましてね。昨日も、休んでいます。今日は、まだ連絡がないのですが、もしかしたら昼から出て来るかもしれません。新田君に、何か?」

「いえ、特に何かあるわけじゃないんですけど、お話をお聞きしたくて」

「もし、新田君が出勤してきたら、ご連絡いたしましょうか?」

「よろしく、お願いします」


 僕たちが事務所を出ようとしたとき、一人の女性駅員が佐々木駅長に声をかけた。

「駅長、やっぱり見つからないです」

「そうですか。もしも見つかる前に落とし主がいらっしゃったら、私に連絡してください。私が説明して、弁償しますから」

「分かりました。それでは、失礼します」

 女性駅員は、佐々木駅長に頭を下げると、僕たちに会釈をして事務所から出ていった。

「佐々木駅長、どうかされたんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「ああ、実は落とし物が一つ、一昨日から行方不明でしてね」

「何の、落とし物ですか?」

「サングラスです」

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