第8話
5年前の秋――
暑かった夏も終わり、東京もだんだんと寒くなってきた。
きっと、あっという間に冬になり、今年も過ぎ去っていくのだろう。
私の名前は、桜井明日香。探偵だ。
大学を卒業してから本格的に探偵業を始めて何年か経つけれど、探偵事務所の経営は、正直あまりいいとはお世辞にも言えない。
父親が家賃を安くしてくれなかったら、とっくに探偵事務所を閉鎖しなければならなかっただろう。
まあ、父親は『家賃なんかいらない』と、言うだろうけど。
しかし、私も社会人だ。そういうわけには、いかない。
それでも、最近は少しずつではあるけれど、依頼も増えてきた。
自画自賛ではないけれど、私が地道にやってきたからだろう。
それと、警察官に知り合いがいるのも大きい。鞘師警部の紹介で受けた依頼も、少なくない。
将来的には、優秀な助手を何人か雇えるくらいには、なりたいものだ。
私の年の離れた高校生の妹は、『お姉ちゃん、私を助手にしてよ。私が、難事件を解決してあげるから。美少女JK探偵なんて、きっと人気が出るよ』なんて言ってくるけど、私が欲しいのは、あくまでも優秀な助手なのだ。
妹の明日菜は、お世辞にも優秀とは言いがたい。
妹は、最近モデルのようなことを始めたみたいだけど、絶対そっちの方が明日菜には合っているだろう。
私も身長は高い方だけど、明日菜は私よりも更に高い。スタイルもいいし、姉の私が言うのもなんだけど、結構かわいい(本人の前では、絶対に言わないけど)。きっと、すごいモデルになるだろう。
今日は、仕事の都合で朝帰りになってしまった。
私は朝の満員電車を下りて、駅の改札に向かって歩いていた。
少し、眠たいな。バスの中で、眠ってしまいそうだ。早く帰って、シャワーを浴びて、少し仮眠を取ろう。
うん? なんだろう?
何か、ホームの方が騒がしいわね。何か、あったのかしら?
駅の中で、何か事件でも起こったのだろうか、『待てっ!』という怒鳴り声が、後ろの方から聞こえてきた。
やはり、何かあったようだ。
私は、眠気が一気に吹っ飛んだ。
探偵として、気になることは確かめないとね。よし、行ってみよう。
私が、振り向こうとした瞬間――私の体が、吹っ飛んだ。
その瞬間、若い男性の顔がチラッと見えた。
吹っ飛んだというのは、少し大袈裟な表現だったけれど、気がついたら私は床に倒れていた。
「痛い……」
どうやら、走ってきた男性が、私にぶつかったようだ。
「す、すみません。大丈夫ですか?」
「は、はい……。なんとか――」
その男性が、私の手を取って立たせてくれた。
「すみませんでした。前を、よく見ていなかったもので」
と、男性が頭を下げた。
よく見れば、20歳くらいの若い男性で、スーツ姿だった。出勤途中のサラリーマンだろうか?
若い男性は、何か焦っているように見えた。
そんなに暑くないのに汗をかいて、息も切れている。会社に、遅刻でもしそうなのだろうか?
「どうかされましたか? 何か、困ったことでも?」
と、私は聞いた。
遅刻しそうな人を引き止めるのは、どうかと思ったけれど、ついつい聞いてしまった。
「い、いえ……、別に」
「私、こういう者です」
と、私は名刺を渡した。
「桜井明日香――探偵?」
「はい。何か困ったことがあれば、いつでも相談に乗りますよ」
「あ、あの――」
と、男性が何か言いかけたときだった――
「おいっ! いたぞっ!」
突然、叫び声が聞こえて、数人の男性が私の方に向かって走ってきた――いや、私じゃない、男性の方に向かって走ってきたのだ。
男性は名刺をポケットに入れると、慌てて走り出した。
しかし男性は、数メートル走ったところで足がもつれ、転んでしまった。
倒れている男性の上に、追いかけてきた男性たちが、次々と覆い被さっていった。
この駅の駅員や、若い男性と同じスーツ姿のサラリーマンらしき人もいる。
なんだろう、テレビ番組の撮影でもやっているのだろうか?
「よし、捕まえたぞ! 誰か、警察に電話をしろ!」
と、誰かが叫んだ。
どうやら、テレビ番組の撮影などではないようだ。
「放せ! 俺は、何もやっていない!」
若い男性は、必死に叫んでいる。
私はその様子を、呆気にとられながら見つめていた。
周囲には野次馬が集まってきて、携帯電話で撮影している者までいる。私も一緒に、写ってしまったかもしれない。
「すみません。あなたが、この男を捕まえてくれたんですね? ありがとうございます」
と、駅員が私に話し掛けてきた。
「あ、いえ、私は――」
「ご協力、感謝します」
と、駅員は頭を下げると、若い男性を連れて、駅の奥へと消えていった。
その間も、若い男性は、「何もやっていない!」と、叫び続けていた――
「結局、その若い男性は、どうして捕まったんですか?」
と、僕は聞いた。
「私も、そのときは何が何だか分からなかったわ。騒ぎが治まったら、あっという間に誰もいなくなったし。翌日の新聞で、その男性が痴漢で捕まったと知ったのよ」
「あれ? でも、鞘師警部は痴漢冤罪だって――」
「ええ。私が後に警察に聞いた話だと、男性はずっと無実を訴えていたそうよ。そして、事件から数ヶ月後だったかしら。とある男女が、逮捕されたのよ。その男女が、痴漢をでっち上げていたらしいの。かなりの、常習犯だったみたいね。痴漢をでっち上げては、示談金を奪っていたそうよ。私にぶつかった男性は、断固として痴漢を認めなかったそうね。それと、男性には同い年くらいの恋人がいたそうなの。その恋人と男性の弟が、彼が痴漢なんてするはずがないって、かなりの勢いで警察に食って掛かっていたそうよ。恋人の方が警察官を叩いて、捕まったという話も聞いたわ。すぐに釈放されたそうだけど」
「その男性は、明日香さんに相談をしてきたんですか?」
「いいえ。来なかったわ」
「ちなみに、その男性の名前は?」
「分からないわ。逮捕されたときに、新聞に名前は載らなかったの。たぶん、未成年だったのかもね。警察に、後日話を聞かれたときも、名前は教えてくれなかったわ。私が男性にぶつかったときの状況だけ聞いて、すぐに帰ってしまったから。男性の無実が証明されたときも、それらしい新聞記事は見たけど、名前は書いてなかったわ」
「5年前に、そんなことがあったんですね」
「明宏君、ちょっと鈴木さんに電話を掛けてみるわ」
明日香さんは探偵事務所の電話で、鈴木陽子さんに教えてもらった番号に電話を掛けた。
「出ないわね」
明日香さんは、電話を切った。
「仕事中なんでしょうか?」
時刻は、午後5時を過ぎている。
「明日香さん、もしかしてその電話番号が、嘘なんていう可能性は――」
「それは、分からないわね」
もしも電話番号が嘘なら、一緒に教えてもらった住所も嘘の可能性が高い。
そして、嘘を教えたということならば、鈴木陽子さんには、本当の電話番号や住所を教えられない理由があるということか。
「明宏君、今日はもう帰っていいわよ。明日、明宏君がいつも乗っている電車に乗ってみましょう。もしかしたら、そこで鈴木さんに会えるかもしれないわ」
「乗ってみましょうって、明日香さんも一緒に乗るんですか?」
「ええ、そうよ。明宏君一人に任せるのも不安だし」
「でも、朝早いですよ。それよりも早い時間に、一度こっちに来るんですか?」
「そうね――確かに、大変だし面倒ね」
明日香さんは、少し考えていたが――
「それじゃあ、私も泊まろうかしら」
「と、泊まる!?」
こ、これは、もしかして――ぼ、僕の部屋に泊まるということか!!!!
あ、あ、明日香さんが――僕の部屋に、泊まる!!!!
僕は、だんだん興奮してきた。
「明宏君、どうしたの?」
「そ、それじゃあ、行きましょうか」
僕は、興奮を抑えながら言った――つもりだったのだが。
「行く?」
明日香さんは、きょとんとしている。
「布団なら、以前、妹の
「――バ、バカなことを言わないでよ。ど、どうして私が明宏君の部屋に泊まるのよ? 私が泊まるっていうのは、どこか近くの安いホテルにでも泊まろうと思っただけよ!」
と、明日香さんが顔を真っ赤にしながら言った。
「そ、そうですよね。も、もちろん分かっていましたよ(布団の話を持ち出しておいて、分かっていましたも何もないが)」
し、しまった……。勘違いで、明日香さんを怒らせてしまった。
明日香さんは、顔が真っ赤だ。これは、かなり怒っているぞ……。
「あ、あの……。お疲れ様でした。明日、駅で待っています」
僕は、逃げるように探偵事務所を飛び出したのだった……。
午後11時――
少し早いけど、もう寝ようか。明日は、絶対に遅刻ができないからな。
トイレから出た僕が、部屋の電気を消そうとしたときだった――
静かな部屋の中に、チャイムの音が鳴り響いた。
うわっ! びっくりした。
こんな遅い時間に鳴るなんて思わないから、めちゃくちゃ驚いた。いったい、こんな時間に誰だろうか?
こんな時間じゃなくても、僕の部屋に訪ねて来る人なんて、ほとんどいないのだが。
「どなたですか?」
僕は、ドア越しに声を掛けた。
そんなに、分厚いドアではない。開けなくても、声は聞こえるだろう。
以前、何も考えずにドアを開けたら、酔っぱらった他の住人が部屋を間違えて入ってきて、大変なことになった。それ以来、すぐにドアを開けるのはやめたのだ。
まあ、今回も酔っぱらった他の住人だろう。
そう思った僕だったけど、ドアの外から聞こえてきたのは、意外な人物の声だった。
「明宏君、私よ」
私? どちらの、私さんだ?
――うん? 待てよ。
僕のことを明宏君と呼ぶのは、鞘師警部と明日香さんくらいしか思い当たらないけど――
「明宏君? 聞こえてる?」
また、ドアの外から女性の声が聞こえた。
――女性の声!? まさか!
僕は、慌てて鍵を開けて、ドアを開けた。
「あ、明日香さん!」
「うるさいわね、ご近所迷惑でしょ。入るわよ」
と、明日香さんは言うと、遠慮することなく部屋に上がり込んだ。
「意外に、片付いてるわね」
と、明日香さんは、部屋の中を見回しながら言った。
これは、夢か? 僕の部屋に、明日香さんがいるなんて。
僕は、ドアを閉めると、鍵を掛けた。
「あ、明日香さん。こんな時間に、どうしたんですか? しかも、濡れているじゃないですか?」
「どこか近くの安いホテルに泊まろうと思ったんだけど、どこも満室で泊まれなかったのよ。それで仕方なく、ここに来ようと思って歩いていたら、急に雨が降ってきたのよ。すぐに、やんじゃったけど」
「明日香さん、ずいぶん大きいカバンを持ってますね」
明日香さんは、少し大きめなカバンを持っていた。
「明日、着る服よ。そんなことよりも、今日は泊めてちょうだい。布団は、あるんでしょ?」
「あ、はい。ありますけど――」
って、明日香さんが泊まる!?
「明宏君、タオル貸してくれる? 頭だけでも、拭きたいわ」
「明日香さん、いっそのことシャワーを浴びたらどうですか? 風邪をひきますよ」
僕は、決して何か下心があって、そう言ったわけではない。
明日香さんが風邪をひいたら、大変だと思って言っているのだ――
大事なことなので、もう一度言うけど、決して何か下心があって――以下略。
「お風呂に入ってから出てきたから、下着は持ってきていないから」
と、明日香さんは言った。
うん、それは当然だ。
「あ、そういえば」
僕は、あることを思い出すと、タンスの中をあさった。
「ありました」
僕は得意そうに、タンスから女物の下着を取り出してみせた。
「この、変態!」
という明日香さんの言葉が聞こえた後、一瞬、目の前が真っ暗になった。
あれ、停電かな?
「ち、違います。明日香さん、誤解です」
僕は、左の頬をさすりながら、必死で弁解した。
「何が、どう違うのよ? 本当は、痴漢もやったんじゃないの!」
「これは、明美が使わずに置いていったものです」
「本当に?」
「本当です! 明美に、電話をしてもらっても構いません!」
明日香さん、僕の目を見てください!
嘘をついている人の目じゃ、ないでしょう?
「そう。分かったわ。時間も遅いから、電話はやめておくわ」
「それと、パジャマも未使用じゃないけど、あります。サイズが、合わないかもしれませんけど」
なんだかんだで、午前0時――
「明宏君、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
なんとかパジャマも着れたみたいで、明日香さんは布団に入って、すぐに眠ってしまったみたいだった。
明日香さんは僕の方に背を向けて、横向きに寝ている。
「明日香さんは、寝るときは真っ暗にする派ですか? 豆電球派ですか?」
と、僕は聞いてみた。
「…………」
返事はない。やっぱり、眠っているようだ。
僕も、もう寝よう。
僕は電気を消して、真っ暗にして布団に入った。
豆電球をつけていたら、明日香さんの姿が気になって、きっと眠れないだろう。
おやすみなさい。僕は、目を閉じた。
――って、この状況で眠れるわけがない!
だって、同じ部屋に明日香さんが寝てるんですよ!
いくら、部屋の端と端で離れているとはいっても、そんなに広い部屋じゃない。明日香さんの、寝息が聞こえるくらい狭い部屋だ。
好きな人が同じ部屋に寝ているのに、どうやったら眠れるんだ?
明日香さんは、熟睡しているみたいだ。やっぱり明日香さんは、僕のことなんて意識していないのだろう……。
僕は、携帯電話で時間を確認した。
もう、2時か。本当に寝ないと、明日が大変だ。
携帯電話の明かりで、部屋の中の様子がうっすらと見えたけど、明日香さんは熟睡しているようだ。
布団に入ったときのまま、僕に背を向けている。
本当に、寝相がいいな。まったく動いていないみたいだ。
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