第7話
翌日――
結局、昨日は鈴木陽子さんが帰った後は、明日香さんと明日菜ちゃんと一緒に昼ご飯を食べに行った(本当に、明日香さんが代金を支払ってくれた)。
その後は特に調査の依頼もなく、明日香さんは、夕方まで事務所でずっと何か考え込んでいるようだったけど。
それにしても、昨日の午前中は本当に疲れた。あんなに大変な思いをしたのは、たぶん僕が探偵助手になってから初めてかもしれない。
本当に、冤罪で人生が終わったかと思った。
「明日香さん、おはようございます。今日は、早いですね」
僕は、今日は何事もなく、いつも通りの時間に探偵事務所に出勤することができた。
今日は、明日香さんもすでに出勤してきていた。まあ、明日香さんは階段を少し下りるだけで出勤できるのだけど。
「明宏君、おはよう。今日は、無事にたどり着いたようね」
と、明日香さんが言った。
「はい。なんとか」
まあ、昨日がすごく特別だっただけで、何もなく無事にたどり着くのが当たり前なのだけど。
「今日は、何となくいつもの車両に乗るのが嫌で(昨日のことを見ていた人も、いるだろうから)、前の方の車両に乗っちゃいました。ちょうど下りる駅の改札に一番近い車両だったので、電車から降りて猛ダッシュですぐに駅から出てきました」
「明宏君、さすがに気にしすぎよ。みんな昨日のことなんて、もう覚えていないわよ」
いや、さすがに昨日の今日だ。覚えている人は、たくさんいるだろう。
きっと、『あっ! 昨日の変態痴漢野郎だ! どうして、警察に逮捕されていないんだ?』って、思っている人がたくさんいるに違いない。
改札から出るときに、チラッと佐々木駅長の姿が見えた。
僕もこの駅を利用するようになって、もう2年くらい経つけど、あの人が駅長だったなんて知らなかった。
昨日のことがなければ、おそらく知らないままだったかもしれない。まあ、そんなこと知らなくても、何も問題はないけど。
ちなみに、新田さんの姿は見かけなかった。他の場所にいたのか、もしくは休みだったのかもしれない。見かけたら、一応声を掛けてみるつもりだったけど。
午前中は何もなく、僕は明日香さんと昼食を済ませて(今日は、自分の分は自分で支払った)、探偵事務所に戻ってきた。
僕が何となくテレビをつけると、殺人事件を報じるニュースをやっていた。ちょうど、そのニュースが終わるタイミングだったのだけど、テレビ画面に映された被害者男性の写真に、僕と明日香さんは衝撃を受けた。
「あ、明日香さん! い、今の写真、見ましたか?」
僕は、驚きのあまり、テレビのリモコンを落としそうになった。
「ええ、見たわよ」
明日香さんは、いつでも冷静だ。
「ほ、他のチャンネルは――」
僕は、他のチャンネルに変えてみたけど、他の番組ではやっていなかった。もうやってしまったのか、それともこれからやるのか。そもそも、やらないのかもしれないが。
「明日香さん、どうしますか? 今の写真って、たぶん坂本でしたよね? 鈴木陽子さんのストーカーの」
「そうね。名前は見なかったけど、そうだと思うわ」
「でも、どうして坂本が? もう少し早く、テレビをつけていれば――」
「ちょっと、鞘師警部に電話を掛けてみるわ」
明日香さんは探偵事務所の電話から、鞘師警部の携帯電話に掛けた。
「――出ないわね。この事件の捜査で、忙しいのかもしれないわね」
「まさか、昨日の痴漢騒ぎが関係しているなんてことは、ありませんよね?」
って、そんなわけないか。
そのとき、探偵事務所の電話が鳴り響いた。
「鞘師警部からだわ。もしもし、桜井です」
「やあ、明日香ちゃん。さっきは、出れなくてすまなかったね。捜査で忙しくて、出れなかったんだ」
「殺人事件の捜査ですね? さっき、テレビでちょっとだけ見ました」
「ああ、そうだ」
「お忙しいところ、すみません」
「いや、大丈夫だ。
鞘師警部の上司の真田課長は、明日香さんのことを、とても気に入っているのだ。
「そうですか。真田さんに、よろしくお伝えください」
「ああ、課長も喜ぶよ。それで、用件は? もしかして、この殺人事件について、何か知っていることでもあるのかい?」
「ええ。私たち、昨日の午前中に、その殺害された男性に会っているんです」
「なんだって!? それは、本当かい?」
「はい。その坂本という男性は――」
「ちょっと待ってくれ、明日香ちゃん。今、男性のことを坂本って言ったかい?」
「えっ? はい、言いましたけど……」
「被害者の名前は、坂本っていう名前ではないぞ」
「違うんですか?」
「ああ。被害者の名前は、
「東野純次? 間違いありませんか?」
「ああ、それは間違いない」
「純次ですか――」
と、明日香さんは呟いた。
「被害者が持っていた免許証の写真も、間違いなく本人の顔だ。会社の同僚や、上司の確認も取れている。明日香ちゃん、その坂本というのは――」
「鞘師警部。さっきニュースで流れた写真は、間違いなく私たちが知っている坂本という男性の写真だと思います」
「――そうか、分かった。明日香ちゃんが、そう言い切るからには、そうかもしれない。よし、分かった。後で私が、明日香ちゃんの事務所に行くよ。そこで、詳しい話を聞かせてくれ」
「分かりました。お待ちしています」
午後3時過ぎ――
「やあ、明日香ちゃん。待たせたね」
鞘師警部が、探偵事務所にやって来た。
「いえ、お忙しいところ、わざわざすみません鞘師警部」
「いや、構わないよ。真田課長も、ぜひ行ってこいと。あの様子じゃ、明日香ちゃんの名前を出せば、なんでもやらせてくれそうな勢いだよ」
「何か、すみません」
「いや、いいんだ。実際に、明日香ちゃんのおかげで解決した事件もあるからね」
と、鞘師警部は微笑んだ。
僕のおかげで解決した事件は――あるわけないか……。
「鞘師警部、温かいコーヒーをどうぞ」
と、僕は鞘師警部に、コーヒーを差し出した。
「ありがとう。そういえば、明宏君――」
えっ?
僕のおかげで解決した事件もあるって?
いやぁ、参ったな。
僕が、ウキウキで聞いていると、「昨日、痴漢で捕まったらしいね。坂本という男性は、その件と関係があるのかい?」
と、鞘師警部が言った。
「さ、鞘師警部。どうして、そのことを――」
ま、まさか、誰かが警察に通報していたのか? そして、鞘師警部は、僕を逮捕しに来たのか……。
僕は、全身から変な汗が吹き出してきた。僕はポケットからハンカチを取り出して、額の汗を拭った。
「ぼ、僕は、痴漢なんて――」
「昨日の夕方頃、明日菜ちゃんが楽しそうに電話をくれたんだよ」
「あ、明日菜ちゃんが。なんだ、そういうことか」
「しかし、今の明宏君の様子を見ると、本当はやったんじゃないかと思えてきたよ」
と、鞘師警部は真面目な顔で言った。
「私も、そういう気がしてきたわ。私は、犯罪者を助けてしまったのかしら?」
「あ、明日香さんまで、そんな……」
僕は、さらに汗が吹き出してきた。
「まあ、そんな冗談はさておき。これが、被害者の東野純次さんの写真だ」
と、鞘師警部が数枚の写真を取り出した。
「明宏君、間違いないわね」
「はい、間違いありません」
「そうか。それじゃあ、昨日のことを聞かせてくれるかい?」
僕たちは、鞘師警部に昨日の出来事を話した。
「そうか。明宏君、大変だったな」
「はい。本当に、参りました。明日香さんがいてくれて、本当に助かりました。そうじゃなければ、今頃は――」
「しかし妙だな。東野純次さんと、その坂本という男性が同一人物だとすると、偽名を名乗ったことになる。いったい、どうして偽名を名乗ったのか――」
「昨日の痴漢騒動を、もう一度調べてみる必要があるかもしれないわね」
と、明日香さんが言った。
「それでは、鞘師警部。坂本さん――いえ、東野純次さんが殺害されたときの状況を、私たちにも聞かせていただいても、よろしいでしょうか?」
と、明日香さんが言った。
「ああ、真田課長からも、言われているからね。まずは東野純次さんが殺害された時刻だが、昨夜の7時から9時くらいの間だ。殺害場所は、とある神社だ。結構高い階段があるんだが、その階段から転落をして頭を強打したようだな」
「鞘師警部。それは、単なる転落事故という可能性はないんでしょうか?」
と、僕は聞いた。
「確かに、それだけ聞けば、その可能性もあるんだろうが。実は、目撃者がいるんだ。その目撃者の話では、階段の上の方から激しく言い争う声が聞こえてきたそうだ。その直後、東野さんが階段から転げ落ちてきた。そして、階段の上から誰かが途中まで下りてきたようなんだが、目撃者の姿に気づいて、階段の上の方へ走って逃げたようだ」
「言い争いですか――言い争っていたのは、男ですか? それとも、女でしょうか?」
と、明日香さんが聞いた。
「それが、目撃者にもよく分からないらしい。今の時期は、もう暗くなっている時間帯だし、階段の上には街灯がなくてね。東野さんが転落してきた、階段の下にはあったんだが」
「しかし、鞘師警部。先ほど死亡推定時刻が、午後7時から9時くらいの間とおっしゃいましたけど。目撃者が転落してくるところを見ていて、すぐに110番通報をしていたのならば、もっとピンポイントで時間が分かるんじゃないでしょうか?」
明日香さんの指摘は、もっとものような気がする。
「確かに、明日香ちゃんの言う通りなんだが。実は、目撃者が110番通報をしてきたのは、東野さんが転落した直後ではないようなんだ」
「どういうことでしょうか?」
「目撃者の男性は、かなり酔っぱらっていてね。記憶が、曖昧なんだ。実は、110番通報をしてきたのは、目撃者の奥さんなんだ」
「鞘師警部、ますます意味が分からないんですけど」
と、明日香さんは、困惑の表情をうかべた。
「目撃者が言うには、自分の見た光景が、現実なのか幻なのか分からなかったそうだ。それで、そのまま帰宅して眠ってしまい、かなり時間が経って深夜に目を覚ましたそうだ。そこで奥さんにそのことを話して、二人で神社に行ってみたそうだ。そこで倒れたままの東野さんを発見した奥さんが、110番通報をしてきたんだ。その為、ピンポイントでは死亡推定時刻は分からないが、午後7時から9時くらいだろうという結論だ。ちなみに、東野さんは、ほぼ即死のようだ」
「それでも、目撃者の帰宅した時間から分からないんでしょうか?」
「それが、さっきも言ったが、目撃者の記憶が曖昧でね。何時頃に家に着いたか、覚えていないそうだ。奥さんも出掛けていて、奥さんが帰ってきた11時頃には、もう寝ていたそうだ」
「鞘師警部、もしかしたらなんですけど。その目撃者が実は犯人で、嘘をついているという可能性は――」
と、僕は、思いつきで聞いてみた。
「もちろん、我々もその可能性は調べてみた。しかし間違いなく、現場から少し離れた居酒屋で、午後5時くらいから会社の同僚数人と飲んでいた。店内の防犯カメラにも、目撃者がすごいペースで酒を飲んで酔っぱらっているところが映っていた。途中で何度かトイレに入ったが、すぐに出てきている。そして、居酒屋を出た時間から考えて、歩いて7時くらいに神社にたどり着くことは可能だ。しかし、かなり酔っぱらっていたから、7時に着いたかは分からないがな。そして、酔っぱらっていたあの状態で、神社の階段を上がって東野さんを突き落としたとは考えにくい」
「そうですか」
「まあ、目撃者と東野さんの間に、何か接点でも見つかれば、また詳しく取り調べるが。現時点で分かっていることは、これくらいだな」
そのとき、鞘師警部の携帯電話が鳴った。
「真田課長からだ。もしもし、鞘師です――はい、まだ明日香ちゃんの事務所です。分かりました。すぐに、戻ります」
鞘師警部は、電話を切った。
「明日香ちゃん、すまないが、署の方に戻らないといけなくなった。これで、失礼するよ。また何か分かったら、いつでも連絡をしてくれ。私の方でも進展があったら、教えられる範囲で連絡をするよ」
「はい、分かりました。鞘師警部、ありがとうございました」
鞘師警部が探偵事務所を出ようとしたとき、何かを思い出したのか、立ち止まって振り返った。
「そういえば――あの駅で痴漢冤罪といえば、5年くらい前にもあったな。明日香ちゃんも、少しかかわってしまった事件が」
と、鞘師警部が言った。
「ああ、そういえば、そんなこともありましたね。すっかり、忘れていました」
と、明日香さんが言った。
「それじゃあ、私は行くよ」
鞘師警部は、探偵事務所を出ていった――
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